法制審議会民法(債権関係)部会第3分科会           第2回会議議事録 第1 日 時  平成24年2月21日(火)自 午後1時00分                      至 午後6時16分 第2 場 所  法務省第1会議室 第3 議 題  民法(債権関係)の改正について 第4 議 事 (次のとおり)           議        事 ○松本分科会長 それでは,予定した時刻になりましたので,法制審議会民法(債権関係)部会の第3分科会第2回会合会議を開会いたします。   本日は御多忙の中,御出席をいただきまして,誠にありがとうございました。   なお,本日は第3分科会の固定メンバーのほかに,岡本雅弘委員,中井康之委員が出席されておられます。   それでは,本日の会議の配布資料の確認をさせていただきます。事務局からお願いいたします。 ○筒井幹事 本日は,委員等提供資料として,沖野眞巳幹事の「選択債権について」と題する書面と,潮見佳男幹事の「第三分科会提出メモ」と題する書面が提出されましたので,それぞれ机上に配布させていただいております。 ○松本分科会長 ありがとうございました。   本日は,部会資料31から34掲載の論点のうち,分科会で審議されることとされたものについて御審議を頂く予定です。具体的には,まず,部会資料32の「第2 債務不履行による損害賠償」の「2 「債務者の責めに帰すべき事由」について(民法第415条後段)」,それから,「(2)債務不履行による損害賠償一般の免責要件の規定の在り方」までをまず御審議を頂き,適宜,休憩を入れることを予定しております。休憩後,部会資料34,「第1 債務不履行による損害賠償」,「1 損害賠償の範囲(民法第416条)」の「(4)損害額の算定基準時の原則規定及び損害額の算定ルールについて」以降について御審議を頂きたいと思います。   先ほど31を飛ばしておりましたようですが,まず,部会資料31の「第2 債権の目的」のうちの「6 選択債権」について御審議を頂きたいと思います。まず,事務当局から御説明願います。 ○新井関係官 それでは,御説明いたします。当該論点につきましては,部会資料31の59ページに掲載されております。第36回会議におきまして,当該論点について審議をされておりますが,本文の各提案について部会の議論の中ではおおむね異論がなかったと思われます。そこで,本文の各提案につき,問題点の有無等を更に掘り下げて検討するために,分科会で補充的に検討することとなったものです。よろしくお願いいたします。 ○松本分科会長 それでは,選択債権の部分につきまして,どうぞ,御意見をお出しください。 ○筒井幹事 沖野眞巳幹事が本日,遅参されるため,選択債権の部分についてあらかじめ発言メモを御提出いただいております。本日の会議メンバーには事前に電子メールなどでお届けしておりますので,この場で全文を読み上げることは省略いたしまして,御意見の要旨のみをかいつまんで説明させていただきます。   まず,1として,第三者による選択の意思表示は債権者及び債務者の承諾を得なければ撤回することができない旨の規定を設けることの当否という論点につきまして,法律関係の明確化という点から規定を設けることが適切であるという御意見をお寄せいただいております。   次に,2の選択の遡及効の制限を定める民法第411条ただし書の削除の当否という論点につきましては,適用場面がないと言い切って大丈夫であるか,なお一抹の不安を覚えますという御意見をお寄せいただいております。   このほか,部会資料には掲げられていない論点について,3のその他として,幾つか言及していただいております。このうち(1)411条に関するものと(3)406条に関するものにつきましては,条文化する際の緻密な留意事項を御指摘いただいたもので,中間試案で独立の論点として取り上げるという性格のものではないと受け止めておりますが,沖野幹事の書面の2ページ,3の(2)では,新たな御提案を頂いております。   ここでは,一ないし複数の給付が不能である場合の処理に関して,現在の民法410条の規定を改めて,この書面の3ページの下のほうですが,一部の給付が不能となった場合に,それについて選択権を有する側に過失があったときは,選択権が相手方に移転するという規律に改めることなどの御提案を頂いております。これは新規の御提案ですので,後ほど御議論いただきまして,サポートする御意見などがありましたら,部会のほうにフィードバックし,中間試案に盛り込む論点の一つとなり得るかどうかを御議論いただく必要があろうかと思います。   さらに,沖野幹事の書面では,3の(4)として,任意債権という項目が挙げられております。これは,パブリックコメントに寄せられた意見の一つであり,部会資料33の2の中に要約して掲載されている意見であります。西村あさひ法律事務所の有志から寄せられた意見です。沖野先生は,この意見にスポットを当てて,中間試案で取り上げるかどうかは別として,一度,議論はしておく必要があるのではないかという問題提起を頂いております。   簡略ですけれども,以上のように御紹介させていただきます。 ○松本分科会長 それでは,沖野幹事の御意見等も踏まえまして,どうぞ,御自由に御発言ください。 ○内田委員 直ちに賛成とか,反対とか,なかなか言いにくいところがあるのですが,沖野幹事が遅れて来られるということですので,いま特に意見がなかったという場合に,これはこういう趣旨であるというようなことを説明していただく機会があるかどうか,その点について御確認をしたいと思います。 ○松本分科会長 別にこの順にやる必要はないわけで,沖野幹事を含めてやったほうがいいのであれば,沖野幹事が来られた時点で,後半のほうでやるということで特に問題はないと思いますので,そのようにいたしましょうか。   それでは,選択債権につきましては後のほうに回すといたしまして,次に,部会資料32の「第1 履行請求権等」のうちの「3 履行請求権の限界」について御審議いただきたいと思います。事務当局から御説明をお願いいたします。 ○新井関係官 それでは,御説明いたします。当該論点につきましては,部会資料32の5ページに掲載されております。この論点につきましては第37回会議で審議がなされました。議論の概況でございますが,契約に基づく債権につきましては,契約の趣旨を踏まえて履行請求権の限界を画するという基本的な考え方につきまして,おおむね異論がなかったのではないかと思われます。そして,そのように画した履行請求権の限界を部会資料の甲案に記載しているような不能というような概念で包摂することも可能ではないかという御指摘もあったところです。   もっとも,契約の趣旨を強調する考え方に対しては,契約の趣旨が明確でない場合や契約後に想定外の事情が生じるような場合もあり得,そのような場合には契約外の基準を参照すべき場合があるといった御指摘,あるいは実務において契約の趣旨を言う場合にはまず契約書の記載などが重視され,その場合には公序良俗あるいは不当条項の規制では賄い切れないような問題が生じるのではないかといった懸念,そして,契約の趣旨に対して社会通念を制約原理として位置付けるべきであるといった御指摘がありました。   それで,部会におきまして,一つの提案として,「契約その他債務の発生原因及びその後に生じた事情に照らして,社会通念により債務の履行が不可能となったときは,その債務の履行を請求できない。」という提案がございました。この提案につきましては,「契約の趣旨」と「社会通念」とを並べたときに,何を基準に判断されるのかが不明確になるとの指摘があったほか,社会通念という漠然とした基準によって不能の判断がなされることへの危惧感も示されました。その一方で,「契約の趣旨」という言葉の意味も必ずしも明確でないといった指摘もございました。   なお,検討委員会試案におきましては,「契約の趣旨に照らして」という用語の意義につき,「明示的に契約内容とされているもののほか,契約の目的,性質,対象,当事者の属性,当事者が契約に至った事情その他両当事者を取り巻く諸事情を考慮に入れて判断する」としているのを御紹介させていただきます。そして,部会におきましても,契約締結後の事情も「契約の趣旨」による判断の要素に含まれるという指摘がございました。   そして,乙案に対しましては,期待の主体や合理的の意味の明確化を図る必要があるとの指摘があり,「合理的」という言葉を用いることに疑問を呈する指摘もございました。さらに,費用の過分性や法令による禁止などについては,不能とは別カテゴリーとして規定すべきではないかといった指摘がある一方,これに対しては個別列挙のような形で,これらを条文上挙げるのは困難ではないかといった御指摘がございました。そして,代替取引が容易にできるような場合を履行請求権の限界に取り込んでいくような場合には,填補賠償請求権の発生要件とはずれが生じるとの指摘があった一方,これに対しては,このような問題意識を条文に反映させるのは困難ではないかといった御指摘がございました。そして,民法第410条の不能概念についても,この論点との平仄で見直しを検討すべきであるとの意見がございました。 ○松本分科会長 それでは,ただいま,御説明がありました部分につきまして,どうぞ,御意見をお伺いしたいと思います。御発言ください。 ○筒井幹事 本日,急きょ御欠席されました潮見幹事から発言メモが届いております。本日の会議メンバーに事前に読んでいただく時間がありませんでしたので,読み上げて御紹介しようと思うのですが,実はその構成が,まず1として,債務不履行を理由とする損害賠償の免責事由についての御意見が書かれており,後半の「2 履行請求権の限界事由について」のところでは,前に1で述べた意見を引用する形で御意見が書かれております。そこで,大変恐縮ですが,ただ今から全文を読み上げて,後に損害賠償について議論する際には読み上げを省略するという形にさせていただこうと思います。   1,債務不履行を理由とする損害賠償の免責事由について。   [A案]債務者がその債務の履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし,契約その他債務の発生原因に照らし,債務の不履行が債務者の負担とされるべき事由によるものでないときは,この限りでない。   [B案]債務者がその債務の履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし,契約その他債務の発生原因に照らし,その他取引の諸事情を考慮して,債務の不履行が債務者の負担とされるべき事由によるものでないときは,この限りでない   説明。   (ⅰ)従前の実務及び最近の学説が契約上の債務について「債務不履行があった」にもかかわらず「債権者の免責」を認める際の要点としているのは,①当該債務を発生させた契約のもとで考慮をしたときに,②当該債務不履行を生じさせた原因が,③債務者の負担とされるべきではないと評価されるか否かである。①は免責評価の基準,②は免責評価の対象,③は帰属主体にかかわる。上記A案もB案も,この理解を前提としたものである(平成23年12月13日の部会に提出した潮見意見書)。   (ⅱ)上記理解を忠実に表現しているのは,A案である。しかしながら,A案に対しては,そこに言う「契約に照らし」という文言表現の持つ意味として,当事者の主観的意思を指すものであるとか,契約書に書かれた事項を指すものであるとか,契約関係ないし取引を取り巻く諸事情という客観的要素を排除するものであるといったような趣旨の理解が示されることが予想される(いずれも個人的所見によれば,誤解によるものであるように思われる)。   (ⅲ)B案は,「その他取引の諸事情を考慮して」という文言を付加することにより,上記(ⅰ)の懸念に対応するものである(山野目幹事の部会発言参照)。契約内容の確定段階でこの種の事情が考慮されるという立場からは,あえて書く必要のない文言であるし,契約内容確定法理を理論面からとらえたときには不自然な表現となろうが,今回のルールで示そうとする免責の枠組みについて,できるだけ多くの人に共通理解が得られるようにするためには,あり得る手法の一つと考えられる。   (ⅳ)B案の「その他取引の諸事情を考慮して」に対応する文言表現として,「社会通念」という文言表現を提案するものがある(部会における中井委員発言,深山幹事の分科会意見書)。しかし,「社会通念」という概念自体が法的概念としての成熟性を欠いていることに重ね,評価の余地が極めて大きな概念であること,契約解釈法理を語る従前の学説でも,当該文脈においてこの概念が用いられていないこと,社会通念を強調すると,契約規範は何により正当化されるのかという契約理論の核心をも覆してしまいかねないことを考慮したとき,条文文言として採用するのは避けるべきであり,むしろ,この見解が主張する含意は,上記B案のような文言表現で十分カバーできるものと考える。   (ⅴ)なお,A案をとるか,B案をとるか(さらに,社会通念という表現を用いるか)は,部会において提出された松本委員の意見書に言う「債務不履行一元論」をとるか否かと直結するものではない(ちなみに,A案をとるからといって,必ず「当初契約意思」論をとらなければならないものでもない)。   以上を踏まえまして,「2 履行請求権の限界事由について」の御意見が寄せられていますので,続けて読み上げます。   上記1で述べた基本的考え方は,履行請求権の限界事由をどのように定めるのかについても,同様に妥当する。なお,この問題に関しては,次の二つをいかに組み合わせるかという観点から規定文言を検討すべきである。   一つは,「履行不能」(又は「履行をすることができないこと」)に一本化するか,それとも「履行不能」とともに「期待不可能」(又は「履行をすることが期待できないこと」)を併記するか,それとも「期待不可能」に一本化するかである。   もう一つは,不能ないし期待不可能の評価の規準につき,「契約その他債務の発生原因に照らし」とするか,「契約その他債務の発生原因に照らし,その他取引の諸事情を考慮して」とするかである。なお,後者については,上記1と平仄を合わせるのが適当と考える。 ○松本分科会長 それでは,潮見幹事のただいまの意見書も含めて,どうぞ,御意見をお出しください。債務不履行の帰責の部分は後ほど議論するとして,履行請求権の限界の部分に限って,潮見幹事の御意見を考慮していただければと思います。 ○高須幹事 履行請求権の限界の部分においては,甲案のように社会通念というような言葉で表現されるようなものを使うことも,考慮されていいのではないかと考えております。今の潮見先生の御意見によれば,そこは債務不履行の免責事由と平仄を合わせるというのが本来であろうと,こういう御趣旨ではありますし,そういう考え方もあるとは思いますけれども,潮見先生の意見書そのものの中に既に入っておりますように,社会通念という言葉が成熟性を欠いているとか,従来の学説でも余り概念が用いられていなかったというようなところを仮に強調されるとするのであれば,社会通念によって履行不能になるというのは,実はそこの場面に関しては,つまり,履行請求の限界の場面に関しては,我々,実務家だけなのかもしれませんけれども,比較的,社会通念によって不能概念は決まるんだよと,物理的な不能だけではないんだよということは親しまれてきたように思っておりますので,ここでは甲案ということも,検討されてもよいのではないかと,このように考えます。 ○山野目幹事 高須幹事の御意見を伺って感じたことを二点,申し上げさせていただきたいと考えます。   一点目は,御指摘のとおり,事,ここで論じている問題に関する限りは,研究者が著した文献においても,例えば社会通念上の不能というような概念がしばしば用いられているではないかという事実に関する御指摘は,そのとおりであると私も感じます。しかしながら,強調を申し上げたいこととして,講学上の概念として,そのような概念が用いられているからといって,それを法文に用いることの適切性あるいは弊害等については,慎重な見極めが必要であると感じます。   それから,もう一点は,ここの論点に関する限り,社会通念上の不能というような概念が用いられてきたかもしれませんが,やはり,あるべき立法の姿としては履行請求権の限界事由という,ここで論じている問題と,本日,この後,議論される債務不履行を理由とする損害賠償の免責事由に関する規律は,平仄を合わせる仕方で文言上の表現が行われるべきであるということも感ずるものでございますから,その点について潮見幹事からお出しいただいている意見に同調するものでございます。 ○松本分科会長 論点としては,二つの別の局面について同じ概念で処理するのかという論点と,それぞれ別の概念で切り分ける場合にどういう文言を使うのが適切かという論点がありますから,これをクロスすると4通りのパターンが出てくると思います。それぞれの概念は別々なんだ。だから,言葉は違ってもいいんだという整理の仕方もあるだろうし,一つにすべきだということで,その場合に使える言葉として何通りかあるということです。議論の立て方としては,先に一つにするかしないかをやると恐らく大変だから,履行請求権の限界のほうに限定をして,取りあえず,この局面だけで考えるとすれば,どういう言葉が適切かというところをまず考えることにいたしましょう。 ○深山幹事 結論的な考え方を申し上げると,「債権者は,債務者に対し,その債務の履行を請求することができる。ただし,契約その他債務の発生原因に照らし,社会通念上,債務の履行が不可能となったと認められるときは,この限りではない。」と考えております。部会資料の甲案,乙案との比較でいうと,それらを足したような表現ぶりになっており,すなわち,契約その他債務の発生原因に照らしという観点と,社会通念上という観点が併記してあるという規律になっております。この点については部会の議論でも幾つか発言があったように,必ずしも甲案,乙案のどちらかという二者択一の問題ではなくて,裁判実務においては両方が加味されているという感覚を実務家としては持っております。と言いますのも,判例上,社会通念という言葉は,あるいは取引観念という言葉もそうですが,頻繁に出てまいりますし,そういう意味で,実務家に非常になじみのある概念として受け止められており,社会通念という概念が成熟しているかどうかはともかく,なじんでいる規律であると感じております。   その意味合いを更に考えてみますと,履行不能による履行請求権の限界の場面で考えるとすれば,一定の場合に履行が強制されるのか,履行しなくてもいいのかという限界について,契約当事者があらかじめ契約時に,この場合には履行をしなくてもいいとか,こういうことになっても履行しなければいけないということを意識して意思表示をする,あるいは契約書にそういうことを規定するということであれば,恐らくそこをめぐる紛争はあまり起きないと考えられます。余り意識をしていない,あるいは全く想定していないような事態が起きたときに,果たしてその場合でも債務を履行しなければならないのかどうかということが争われると思われ,債権者のほうはその場合でも履行すべきだと言い,債務者のほうは履行する必要はなくなったんだという争いが実務的には起こるわけです。   そういうときに,もちろん,契約の全体の趣旨に照らして履行すべき契約だったのか,そうでない契約だったのかということを中心に議論されることになるのでしょうが,当事者の合理的意思を推測するといっても,やはり,どこかに限界があって,そこを補う,言わば補充的な規律として,社会通念という言葉がいいかどうかはともかく,やや当事者の意思を離れた,その種の契約一般に照らした客観性のある規律に照らして履行が強制されるのかどうかということを加味して,ぎりぎりのところを判断するということが実務的に行われているのではないかと思います。   当然,裁判の中では当事者は自分の主観的認識を主張するわけでしょうけれども,どちらかの主観的な認識によるというよりも,それを踏まえるにしても,もう少し客観的な観点から,履行すべき契約だったのかどうかということを裁判所が判断をする,そういう中で,判文上,社会通念,取引観念という言葉が用いられて決着を付けるというところに落ち着いたのではないかという気がします。そういう意味で,契約上の債権である以上,主たる規律が契約の趣旨であることは大前提なんですけれども,更にそれを補充する規律として,社会通念という実務上用いられてきた概念を明文化するということも,あってよいのではないかと考えている次第であります。 ○山野目幹事 いささか論議の進め方について心配なことがございます。それは,どうしてもここの議論をする際にも契約の趣旨という文言を用いるか,社会通念という文言を用いるか,不能の判断でどのような思考枠組みをとるかというところについて,議論が熱くなってしまいがちですけれども,恐らく主戦場は,今日,後ろのほうに予定されている損害賠償の免責要件のところの議論ではないかと考えます。   その観点が今,議論している場面において重要でないとは申し上げませんけれども,やはり,ここで今,議論しておかなければいけないことは,社会通念で考えるにせよ,契約の趣旨で考えるにせよ,例えば売買目的物である不動産が物理的に壊れてしまったというタイプと,二重譲渡などが行われて,法的にそれについての財産権移転請求をすることがどう考えても常識に照らして難しくなったというような場面と,どちらも不能という言葉で括って規律するか,それとも,物理的不能とそうでない何らかの評価的な思考判断を経た上で不能に類似するものとして扱うものと書き分けるか,それとも,むしろ,定性的評価的な判断で履行を期待することができないという局面の把握に一本化してしまって,物理的に不能であると考えられる場合はその一例であると位置付けるか,これらの想定される幾つかの考え方のうちのどれを基盤として,規律表現を考えていくのかということは,ここでしか議論することができないことであり,社会通念,契約の趣旨で熱くなるのは,後ろのほうで幾らでも熱くなることができますから,ここで熱くなっていただいても構いませんが,そのことにばかり議論がいってしまうことは困るという危惧を抱きます。 ○内田委員 議論の進め方については,山野目幹事のただいまの御発言に私も全く賛成ですけれども,ただ,社会通念という言葉が今,出てきてしまっていて,それについて,高須幹事,深山幹事から御発言があり,多分,中井委員からも同じような趣旨の御発言があるだろうと予想されます。社会通念という言葉については,潮見幹事から非常に強い懸念が表明されましたが,その潮見幹事は今日,おられなくて,私はその御意見を代弁することはとてもできませんが,私の個人的な印象として,社会通念について感じているところを一言だけ申し上げたいと思います。   民法は社会通念という言葉を使っていません。ほかの法律で使っているものがあるかというと,ある程度ありますが,身近なところでいうと労働契約法に規定があります。15条,16条でしたか,懲戒とか解雇のところに社会通念という言葉が出てきます。つまり解雇権濫用,懲戒権濫用の場面で社会通念という言葉が使われていて,それほど違和感はないと思います。   ただ,面白いことに,日本の法令は現在,英訳されているわけですが,労働契約法の英訳を見ますと,社会通念の訳に,general societal termsという言葉が当てられています。私は英語が得意ではありませんけれども,しかし,長年,英語を読み,また,英語圏で暮らしたこともありますけれども,余り聞かない表現です。英語圏の人たちが聞いて直ちに理解できるような英訳では必ずしもないような印象を私自身は受けます。そのほか,社会通念ではなく通念だけだと,一般の和英辞典などでは,common senseのような訳をすることもあります。ということで,社会通念というのはなかなか英語になりにくい,非常に茫漠とした概念であるというのがまず印象としてあるということです。   そして,我々法律家にとっては,社会通念という言葉は,正に深山幹事が言われたように判決などでも頻繁に出てきて,なじみがありますし,違和感がないという点で,深山幹事の御発言に私も全く同感です。ただ,以前,部会でも同様の発言を少ししましたけれども,今日の日本社会で使うときには余り違和感はありませんけれども,例えば1930年代,日本では共同体とか公共性というものが過度に強調された時代があります。そのような時代に社会通念が多用されて,たとえ当事者が合意していても,我が国の社会通念上は不能であるとか,あるいは社会通念上,損害賠償の責任はないのだということを言われると,本当にそれで日本の法律家は納得するだろうかという疑念を抱きます。同時にまた,契約ルールというのは日本社会でだけ使われればいいというものではありませんで,将来的に,もう少しグローバルに広い領域でも適用可能な普遍性のあるルールを目指すということを考えると,日本の社会通念ではこうだと言って契約内容に介入されることに,外国の法律家は納得できるだろうかという疑問も感じます。   やはり,契約というのは自由な社会の中で,当事者が自由に法律関係を形成できるというのが大前提ですので,その自由な法律関係の形成の中でどこまで履行の義務があるかということを判断する最終的なよりどころは,やはり,契約ではないか。それは,もちろん,契約書という意味ではなくて,様々な周辺の事情を考慮した非常に広い意味での契約の趣旨ということですが,そのような意味での契約ではないだろうか。そこに社会通念を入れてしまうと,合意内容とは異質な社会の常識と称するものが出てきて,今の日本の裁判官には心配ありませんけれども,しかし,時代により,あるいは国によっては,特定の裁判官が自らの社会通念を振りかざすというおそれは常にあるわけです。   学者が社会通念という概念に非常に警戒感を持つのは,日本にとっても過去においてそのような濫用の記憶があるためでもありますし,また,グローバルな場面でこのルールが適用されうるということを想定したときに,ほかの国でその国の特異な社会通念を振りかざした判決が出たときに,日本の法律家は納得できるかということも考えて,懸念を抱いているからではないかと思います。そういう意味では,契約という言葉が実務界で非常に狭く解されて契約書を連想させる概念として使われがちであるということには,十分,留意する必要がありますけれども,他方で,余りリスクのある表現を条文の中に盛り込むことは賢明ではないように思います。 ○深山幹事 総論的な意味では,今の内田先生の御意見,御発言に全く異論はないんですが,論理的に,契約の趣旨か社会通念かというのを対立させて議論していくと,今,内田先生の発言にもあったように,当事者が合意しているにもかかわらず,社会通念を振りかざした判決が出たらまずいでしょうということにもなり,私もそれは全くまずいと思いますが,先ほども私が発言したように実務的にはそういうことはないだろうと思います。それは裁判官を信ずるか否かという問題ではなくて,当事者間の合意が事実認定できるのであれば,よほど公序良俗にでも反する合意でない限り,それは尊重されて事実認定されて判決が下されるわけで,実際に問題になるのは債権者と債務者の認識がずれる事案か,契約当時のはっきりとした認識がストレートには認定できないような事案であろうと思います。   そういう意味でいうと,社会通念だけが独り歩きをして,当事者の合意ないし意思に反して,あるいはそれを無視してまで前に出てくるということはあってはならないし,ないだろうと思っているんです。ですから,飽くまで当事者の意思解釈の延長線上と言いますか,その中で考慮される補充的ファクターとでも言いますか,そのようなものとして社会通念というものを補充的に考慮しているのだろうという実務的な感覚に照らして,明文に入れておいてもいいのではないかと思っています。社会通念が独り歩きする懸念と,契約の文言が独り歩きする懸念と,両極ですけれども,両方あり得るんでしょうけれども,実際に裁判で争われる場面を想定すると,やはり,当事者の合意がストレートに認識しにくい,事実認定しにくい場面で問題になるような気がするので,先ほどのような発言をした次第であります。 ○松本分科会長 ほかに御意見はございませんか。 ○中井委員 ほぼ深山さん,高須さんから言っていただいているので,繰り返しになるのかもしれません。裁判例を幾つか拝見しているんですけれども,例えば平成9年2月25日最高裁判決の中で,これは転貸借に関するものですけれども,BのAに対する債務は社会通念及び取引観念に照らして履行不能となる,というのが判文に出ています。これも都市計画に関する問題ですけれども,工事ができないことについて社会通念上,明らかである,当初から社会通念上,実現不可能な内容を目的とするもので無効であるうんぬんと,これは深山さんも繰り返しおっしゃっていましたけれども,現実に履行不能に関する限りにおいては,相当程度,社会通念なり,取引観念なりという言葉が使われて,そこから履行不能と導かれている例は少なからずあるということが一点です。   仮にこれを契約若しくは契約の趣旨から履行不能を考えるとした場合,履行不能の多くは後発的不能だと思いますけれども,後発的不能の原因となる事態が契約締結時に予測できていたものばかりかというと,決してそうではないだろうし,だから,そういう予想できない事態に備えて,契約で合意されていない場面というのは少なからずある,契約若しくは契約の趣旨から解決できない事態というのを無視できないのではないかと思うわけです。そうだとしたら,第一次的には契約の趣旨に基づいて判断するのが原則で,それでほとんどは解決するであろうけれども,それで解決できない場面,補充しなければならない場面というのは否定できなくて,そのときに社会通念という言葉が適切かどうか,潮見幹事等の御批判も承らなければいけないんですけれども,これまで裁判でも使われている社会通念なり,取引観念なり,そういう概念でもって補充していくというのは十分考えられるだろうと思うわけです。   また,内田委員がおっしゃられた社会通念の独り歩きについては,当然,我々はそれでよしとすることはない。第一次的規準はやはり契約の趣旨ということを申し上げているわけで,第二次的規準と言いますか,補充的規準と言いますか,それを補うものとしての社会通念と理解をすれば,社会通念が契約の趣旨を超えるといいますか,打ち負かすことはないだろうと思う訳です。その限りにおいては,御指摘の懸念というのは社会通念という言葉を入れたから生じるものではないと思うわけです。ただ,社会通念より,より適切な言葉,すなわち,今,申し上げているようなこと,契約若しくは契約の趣旨だけでは補えない,もう少し外部的な判断基準,規範を適切に取り込める表現があるのなら,社会通念という言葉自体に強くこだわるということはないと申し上げていいと思いますので,更にそこは考えたいと思います。 ○松本分科会長 いかがですか。 ○鎌田委員 距離を置いて考えてみると,社会通念は私も必ず働くんだと思うんですが,働き場所が様々であって,ここの議論との関係で言えば,部会資料32の第1の3でいうと,甲案,乙案を通じて,物理的に履行が不可能となった場合,これはもう履行不能ですというのは完全に一致しているんですけれども,でも,物理的に不能とは具体的にどういう場合を想定するのかというと,例えば目的物が完全に燃えて何もなくなったときは物理的に不可能ですけれども,少しでも残っていたら不可能ではないのかどうかという,そういう場合にどの線で履行不可能と判断するかというところでは,やはり社会通念みたいなものが一方で働くのと同時に,この契約だったら少しでも残っていればなお履行可能だけれども,この契約だったら不能と判断したほうがいいと,そういう意味では契約の趣旨も働くので,ここで社会通念か,あるいは契約の趣旨か,というのも一つの選択ではあるけれども,契約の趣旨を選択したとしても,どこまでいっても最後は社会通念を持ち込まなければいけない部分は残るんだと思うんです。そういう意味で,社会通念というのはどこにでも働くと思うんですけれども,他方で,甲案が物理的不能と並べて社会通念上の不能といっているときには,これは物理的な不能ではなくて,例えば二重譲渡ケースのように違うタイプの不能概念を持ち込むために社会通念という言葉が使われてきているわけで,社会通念の役割を論ずるときに両方をごちゃまぜにすると,議論が混乱する。つまり,社会通念概念の有用性を語るときには前者のほうで語ったほうが語りやすいですが,他方のようなタイプを何によって表現しようかというときには,また,違う議論も出てきそうなので,そこは山野目さんが指摘したこととも共通するんだろうとも思うんですけれども,少し分けて考えたほうがいいかなという気がするんですね。   それで,中井先生のメモも大変興味深く拝見しました。一部,山野目さんや潮見さんもそれに準じた形になっているんですけれども,他方で,これを卒然と読んだときに,「契約その他債務の発生原因に照らし」とはどんなことを意味しているか,普通にはちょっと理解しがたい。「契約に照らし」というのはまだ意味が分かるんですけれども,契約だけではなくて,債権総論だから,不当利得やその他にも全部適用される。「不当利得に照らし」と言われて,一体,何をどう照らすのか,全くコミュニケート可能性がなさそうに思うのです。  ここでは要するに不能かどうかの判断というのは,常にかなり規範的な要素を含んでくる。その判断をするときの要素として,何と何がどういう形で絡むのかということをもうちょっと整理しないと,ここで議論が複雑になったものをそのまま文章にすると,ほかの人が読むとよく分からないというふうなことになりそうな気がします。逆に言えば,不能の場合には履行請求権の限界とするとした上で,この不能とはどういうものかというのを別立てして,こういう場合とこういう場合は不能であると決める,あるいは不能であるかどうか,判断するときにはこういう要素とこういう要素を考えるというふうに,一度,条文型ではなくて内容を明確にするために,何を考えているかをはっきりさせてみるという,そういう思考過程をたどったほうが議論の整理がしやすいかなと思います。ちょっと雑駁な意見で申し訳ありません。 ○松本分科会長 では,私も若干,意見を述べさせていただきます。潮見幹事のこれを読んでいると,社会通念というのは評価の余地が極めて大きい概念であるという批判をされているわけですが,「契約の趣旨」というのも私は部会のときに何回も言っていますけれども,その内容がよく分からないんです。潮見幹事の言っている「契約の趣旨」とほかの人の言っている契約の趣旨は,明らかに範囲が違うんですね。潮見幹事のものは一番広いです,契約締結後の様々な事情も全部入ると彼ははっきりと言いましたから。   しかし,そうでなく,当事者が契約に込めた意思と限定的に解釈されている人もいるわけで,そういう極めて意味の曖昧な概念というのは,ここで潮見幹事が正に書いている評価の余地が極めて大きい概念になってしまうのではないかと。「契約の趣旨に照らして」と言えば,結局,解釈する人,裁判官が何とでも言えるということになりかねないので,それを避けるためには契約の趣旨とは何ぞやという点を明確化した上で,それで合意できるのであれば契約の趣旨という言葉でもいいかもしれないけれども,できないのであれば使うべきではないのではないかと思います。   かなり多くの人が考えているであろう当初の契約の中に込められた当事者の意思,それは一義的には契約書の中でどう書かれているか,あるいは紙に書いていないけれども,当事者の協議の中でこういう趣旨だということが大体了解できていたものというのは,当然,入るだろうし,それを手掛かりにして推定的に考えられるものも入ってくるでしょうが,更にそれを超えて,そもそも何々契約というものはかく在るべしというものも契約の趣旨の中に入れると,これは恐らく社会通念というものと極めて近くなってくる。客観的な相場,すなわちこの社会における何々契約で,こういう場合はこうなんだという,かなりの人が考えているようなものということが入ってくると,それは社会通念だろうと思うのです。契約趣旨のほうはスコープというか,スパンをまず明確にする必要があるだろうし,狭い意味で使うのであれば,何人かの実務家の方が話されているように二段重ねということは十分あり得るし,普通,そのようにして処理をしているのではないかと思います。契約の趣旨という文言は,他のところでも一杯出てきますから,これは共通の議論としてやらなければならないと思います。それが第一点です。   もう一つは,事情変更の原則の話とどう絡んでくるのだろうか,あるいは不可抗力という話とどう絡んでくるのだろうかというところが気になっております。事情変更の原則には幾つかタイプがある,確か三つタイプがあるんだと部会では整理されていたと思うんですが,その中の価格のバランスが崩れる場合というんですか,例えば石油の売買契約を一定の価格でしていたんだけれども,原油の輸入価格がすごく急騰したので,当初の価格で販売すると原価割れどころか,すごい出血大サービスになるというような場合に,事情変更の原則が適用される可能性がある一つのタイプとして上がっておりました。それはこことの関係でいくとどうなるのだろうかと,つまり,履行は物理的には可能なんですね。お金さえ掛けて高い原油を輸入すれば,当初の安い価格での引渡しは十分に可能なわけです。その場合には履行請求ができるという話であれば,事情変更の原則なんていう議論は起こってこないんだけれども,事情変更の原則という話が出てくるのは,そこで当初どおりの履行を求めるというのは,やはり何かおかしいのではないかということがあるからだと思うんです。   そうすると,今のような場合は履行請求権の限界の一つの例になって,そのとおりの履行請求は求められない,では,どうなるんですかというときに,事情変更の原則の効果としての契約内容の改定や解除権の話などが出てくるという構造になるのではないかなと。履行不能,危険負担の議論とそこをストレートにつないでしまえば,解除しなくても契約は消滅しているという議論もあり得るかもしれないけれども,普通の物理的不能とは区別して,恐らく話し合った上で解除とか,契約改定ということになるのだろうと思いますが。 ○中井委員 今の原油のことにも絡むのかもしれませんけれども,先ほど鎌田委員がおっしゃられた,もう少し抽象的言葉ではなくて具体的に考えたときに,先ほどの例は物理的不能,一部不能の事案だったのかもしれませんけれども,そういうときでも評価は恐らく分かれるであろうと。法律的不能の場面でも,その不能の中身は,建築規制を考えてみれば様々な規制がありますので,容積率が1,000%と思っていたところがその後の規制で800%になっていた,高さ規制が変わったりしていて,不能の程度も様々です。経済的不能,それが原油の例かもしれませんけれども,経済的不能の程度もどこかで一線を区切って,そこから先は不能になるかもしれない。   主観的不能となると,これは契約の趣旨で判断するしかないのかもしれませんけれども,それ以外の物理的不能にしても,法律的な不能にしても,経済的な不能にしても,本当に契約の趣旨一本で答えは出るのですかと,いうのが質問になるわけです。それに対して,契約の趣旨で解決するんだと仮に断言されたとしても,結局,そこにはそれこそ,鎌田委員もおっしゃられた社会的な常識なり,取引観念なり,いわゆる社会通念を持ち込んで,その契約の趣旨を理解せざるを得ないんだろうと思うのです。   恐らくそのことは否定されないと思うので,契約の趣旨を条文に書くという見解からも,その両者が一致する限りにおいて条文化できないかということに尽きるのかと思うのです。今,私が申し上げた,そこで一致しますね,というところについて一致しているという理解でいいのか,一致した上で,表現が契約の趣旨という言葉になっているのか,潮見幹事は全てを放り込んだ契約の趣旨かもしれませんし,内田委員は違うのか,その辺りについて教えていただければと思うのです。一致している部分と一致していない部分を確認したいという意味です。 ○内田委員 私は実質において中井委員がおっしゃっていることに全然異論はないのです。ですから,問題は,例えば英語にしたときに訳しづらい,場合によっては社会の常識みたいな言葉になってしまう,そうすると何でも入れられていってしまって,契約の趣旨がないがしろにされるのではないかという懸念を持つ人がいる。だから,なるべくそういう懸念のないような言葉で,今,おっしゃったような趣旨を表現できればいいのではないかと思います。   ですから,中身の対立は,今,挙げられた物理的不能とか,法律的不能とかに関してはないのではないかと思います。山野目幹事がおっしゃった二重譲渡のような事案をうまくカバーできる,それを一つの言葉でカバーするのか,別の言葉でカバーするのかは工夫を要しますが,そういう場面もカバーできるように言葉を選べばいいのではないかと思うのです。中身について異論が生じ得るのは,松本分科会長のおっしゃった経済的不能,これをどこまで入れるかによって,確かに事情変更との境界が微妙になってきて,私も部会でそのことを申し上げたように思います。それに対して,そう微妙な問題にはならないという御意見もあったと思いますが,本当にそうなのかというところは検討する必要があると思います。   ただ,今まで議論されているのは経済的不能というよりは,物理的不能と法律的不能だと思います。二重譲渡というのも経済的不能ではないですね。それらと経済的不能との線引きをどうするかというのは,少し詰める必要があると思います。 ○松本分科会長 恐らく二重譲渡より,他人物売買の場合のほうが,分かりやすくて,他人物売買は有効だというのが民法のスタート点ですよね。原始的不能で無効ではない,有効なんだ,所有権を取得して移転する義務があるんだと。しかし,どこかの段階で不能になるということで我々は議論しているはずです。それはどういう段階なのかというと,恐らく本来の所有者と交渉したけれども,本来の所有者がうんと言ってくれなくて,どこかでこれ以上,交渉しても駄目だと考えざるを得ないときということだろうと思うんです。恐らくそれは二重譲渡の場合にも似たような感じで,先の登記をこっちに移してくださいという交渉をしても駄目だということが確定したときということでしょうから,そこは恐らく契約の趣旨ではなくて,契約の趣旨は権利を移転してくださいというだけですから,やはり社会的に見て,ここで交渉は挫折したんだと評価せざるを得ないときというしかないのではないですか。 ○鎌田委員 それも,あえて言えば,他人物売買に不能の概念を持ち込むかどうかは,普通は催告,遅滞,解除というルートで処理できてしまうんだと思うんですけれども,二重売買のときには,一般的には第二買主に登記を移した時点で第一売買は不能と判断しています。抽象的には取り戻してまだ履行する可能性というのは残っているので100%の不能ではないという意味で,法的にというか,社会通念上の不能としているんですけれども,この契約ではなおもう一度,取り戻して買い戻してきて履行することまで追及しなければいけないという契約もあり得るだろう。そうだとすると,それぞれの契約がどういう契約であったかによって,一律にそういう場面でも不能と判断されることはないという意味で,契約の趣旨といいますか,当該契約は何を目的にしているのかということが配慮されなければいけない。   これは多分,社会通念説でいっても,社会通念を考えるときに,どういう契約なのかを考慮しない社会通念はあり得ないと言っているのだろうし,契約の趣旨を考えている説でも,契約だけから何でも答えが出てくるわけではなくて,やはり取引通念とか,当事者を取り巻く状況とか,みんな,入れておかなければいけないというので,多分,判断がそれほど極端には分かれないんだろうと思うんです。それをしかし,どう正確に書けば誤解がなく,一番肝心なことが伝わるかという考慮が必要なんだろうと思うので,そういう意味で社会通念といったときに,どういう場面のどういう社会通念を想定しているのかをある程度,整理しながら議論しないと,全体の議論が混乱するのではないかなというのが先ほど申し上げたことです。 ○松本分科会長 恐らく全て契約で合意をしていれば,それで判断すればいいわけで,そうでないタイプの紛争が裁判所にやってくるわけです。通常の取引であれば多くはこうだが,しかし,この契約はそうではない特約があるということであれば,その特約が優先するのは当たり前なので,契約上の合意がはっきりしていればそれでいけばいいし,推定できればそれでいく。推定もできない場合にどうするかという話になってくるという点では,一致しているのではないですか。 ○鎌田委員 そういう意味では正に契約の全趣旨で,契約を取り巻く様々な事情も組み込んで,この状況の下で,この契約の本来の狙いを生かすにはどうしたらいいかという判断しなければいけないという意味では,少なくともここでは僕は潮見さんが言うみたいに,かなり幅広い概念として契約の趣旨というのを理解しなければいけないと思っています。 ○松本分科会長 そうすると,評価の余地が極めて大きいという話になってくるわけですね。履行請求を許すべきでない場合だというだけの話になってしまう。契約の趣旨の定義がはっきりすればいいんだけれども,そうでない場合は,結局,マジックワードとして裁判官が履行請求を認めるべきでない場合は契約の趣旨から不能になったと言い,認めるべき場合は契約の趣旨から履行可能だと言うというだけの話になってしまいかねない。   となると,履行請求権の限界を判断する場合の判断ファクター,考え方の順序を条文の上でも挙げるのか,それとも,それは教科書のほうに任せるのかという話になってくるわけで,多分,そういう意味では,皆さん,中身は一致しているんです。全てが契約の解釈で決まるのであれば,民法の条文は要らないわけだけれども,そうではないということで,民法に条文を置いておこうということでしょうから,そうすると,実質的な点では,皆さんは一致しているんだと思います。あとは条文に落とし込むときにはどういう文言を使えばいいのかということと,条文上の文言と教科書レベルで説明するときはどうなのかを分けるのか,分けないのかということかと思いますが。 ○山野目幹事 分科会長がおっしゃるとおり,中身というか,内包に関する具体的な判断は恐らく一致していると感じますけれども,中身が一致しているから,この議題は終わりということで,あとは事務当局で何か作文してくださいということになってしまうことについては,私はまだちょっと心配が残っていて……。 ○松本分科会長 そんなことは言っておりません,中身……。 ○山野目幹事 そんなことをおっしゃったとは言っていませんが,なお,私が心配であることは履行が不能ないし著しく困難であるために,履行請求権の限界にあると認めなければいけない場面をどのように概念を整理して理解するのかということは,ここで議論しておかないと最終的に法文に表していくという作業にも困難が生ずると思うのです。   それで,どのような概念で呼ぶかということは,いろいろな名付け方があると思いますが,仮に物理的に物が滅失してしまったような物理的不能の事例と,法律制度的な要因その他のことから,評価を経て不能になるという事例を評価的不能と呼ばせていただきますと,物理的不能と評価的不能とかなり異質なものが,お皿が2枚ありますね,と整理するのか,それとも物理的不能という1枚のものを考えていて,のりしろみたいに評価的不能をそれに似たものとして,くっついてくるようなものも若干ありますねと,張り出しを付けるような仕方で描くのか,それとも,評価的不能という大きなお皿が1枚あって,その中に物理的不能というものが一つの形態としてありますね,と受け止めるのかというのは,単なるお皿の大きい,小さい,大きいものの上に小さいものを乗せる,何枚乗せるといったような整理の問題だけであるかもしれませんし,その中に入るものは同じかもしれませんけれども,やはり,そこの概念の整理をここでしておいた上で,この後の中間試案,更にその後の法文起草の作業にいっていただくことによってこそ,国民から見て分かりやすい概念整理を伴った法文を提示していけるのではないかと感ずるものですから,一言,させていただきます。 ○松本分科会長 ただ,先ほどの議論だと物理的不能かどうかも,どうもかなり評価的要素があるのではないかと。完全にこの世の中から特定物として滅失してなくなってしまったということであれば,誰が見ても物理的不能なのでしょうが,建築請負で完成したけれども,火事で焼けてしまったとか,地震で壊れたという場合に,建て直して,もう一度,引き渡すということは十分可能だから,それは不能ではないという評価もあり得るわけですね。お金さえ掛ければ何とでもなるものは,果たして物理的な意味では不能とは呼ばないのか,呼ぶのか,そこも恐らく契約の趣旨というか,当該取引の社会通念というか,そういうところで評価せざるを得ないということになってくるのではないでしょうか。 ○鎌田委員 その場合,契約の趣旨説というのをとことん貫くと,乙案のうちの何とかの場合のほかという部分を削除するほうがいいと思うんです。 ○山野目幹事 鎌田委員が明快に整理をしていただきましたから,先ほどから私はここが議論として大事であるということのみを申し上げて,自分の所見を申し上げておりませんでしたけれども,理論的に一番すっきり整理するという見地を貫くのなら,乙案の,これは法文ではありませんけれども,考え方を示すための法文イメージの文章であると受け止めて議論すれば,乙案から,最初の何々のほか,というのを削った考え方がきれいであろうと感じます。そのような意味では,先ほどの私の例え話で言いますと,評価的不能という名前の大きなお皿を1枚準備しておけば十分であると考えます。   ただし,その上で更に申し添えるといたしますと,そうはいっても,大きなお皿1枚の法文を出された法文の読み手にとっては,一体,その内包が何であるのかということは,幾ら社会通念とか契約の趣旨とかいう言葉を添えてもらっても,なお分からないわけでありまして,ここで議論しているスペシャリストの間ではある程度の了解があるとしても,それはコミュニケーション能力のある規律表現にはならないと感じますから,結果として最後に私が申し上げたいことは,乙案の今,書いてある文章のように,何々のほか,というようなものを一つないし二つ,あるいはもう少し箇条書きになるという考えもあるのかもしれませんが,添えていって,大きなお皿1枚の内包を少し示唆して,コミュニケーションの度合いを上げるというような法文が良いと考えます。もとより,そこになってくると,それは法文を作成する作業の段階で御苦労をお願いしなければいけないのですが,そのようなものが適切なのではないかと感じているところでございます。 ○鎌田委員 山野目さんのおっしゃることはそのとおりで,その場合は多分,「のほか」よりも「その他」と例示的にしたほうがいい,「のほか」というと並列的になるので。 ○山野目幹事 おっしゃるとおりであると考えます。 ○高須幹事 今の議論に基本的には同じ意見を持つものでございます。いわゆる履行不能概念は実務においても,この後,岡崎幹事からもしかしたら御説明があるかもしれませんが,恐らく実務の世界においては,この不能概念は評価的な規範だという前提の下に,裁判実務は運用しているのだろうと思いますので,そういう意味では,基本的にそこにベースを据えた上で,例示的なものとして幾つかを列挙するというような形のほうが,従来の裁判実務との折合いの関係でも分かりやすいのではないかと思います。 ○内田委員 大体,議論の方向が出たように思いますが,私も必要な例示をして,何が入るかということを分かるようにしたほうがいいと思います。非常に抽象度の高い概念から演繹しろというのは,不親切なルールだと思いますので例示したほうがいいと思うのですが,そのときに使う言葉について,社会通念という言葉に対する問題も指摘された,契約の趣旨ということについても問題が指摘された。それは十分留意する必要があると思うのですが,潮見さんのような立場の方が契約の趣旨に非常にこだわるというのは,契約の解釈をぎりぎりまで詰めて,それでも分からないということで,社会通念的な判断をする際にも,なぜ,第三者が契約当事者の権利義務関係に介入できるのか,ということについての正当化の理念的な根拠がやはり,元々契約は,こういう趣旨だったでしょうというところにあるはずだ。その契約との繋がりを最後までつなぎ止めたいということなのだろうと思います。   そこに社会というものが入ってくると,当事者が合意で形成した関係の外にある社会の規範が入るということに対して,非常に警戒感を持つ人たちがいる。そのことに留意しながら言葉を選ぶ必要があるだろうと思います。最終的にどういう言葉がいいかは,今後,検討すればいいことで,その際の判断の枠組みということも,今,具体的に既に出ているように思います。   もう一つ,最後のところで判断が分かれ得るのではないかと私が先ほど申し上げた経済的不能なのですが,履行すると莫大な損失が生じてしまうというような場合,これを不能に入れるかというと,私個人としてはなるべく入れないほうがいいのではないかと思います。不能の典型は物理的不能とか法律的不能であって,経済的に極めて困難であるということが,履行債務を免れる場面に簡単に入ってくるというのはおかしいし,それが入ってくると,事情変更の原則との境界が非常に曖昧になってしまいます。そういう立場からすると,言葉を選ぶ場合にも,経済的不能がすっと入ってき得るような言葉は避けたほうがいいのではないかと思います。 ○岡崎幹事 ここで議論されている対象は二つあるのではないかと思います。一つは社会通念ですとか契約の趣旨といった,履行不能を議論するときの規準についてです。もう一つはどのような観点からみて不可能ということになるのかということで,物理的不可能なのか,法律的不可能なのか,あるいは経済的不可能なのかという問題です。後者の論点に関しては,今,議論が収束しているように,一定の例示を設けた上で抽象的に契約の履行が不可能になるという書き方でよろしいのではないかと思います。しかし,前者,つまり,契約の趣旨あるいは社会通念といった規準とするものについての問題に関しては,今日の御議論を伺っていても,なかなか一つの方向に収束するのが難しいのではないかと思っております。そうしますと,議論をひっくり返すようなことを申し上げるのも何なのですが,どうしても規準とするものについて文言で入れなければいけないのかどうか,部会での議論でそういう発言をしておられる方はおりませんでしたが,規準とするものについては明示しない,ブランクにするということがおよそおかしいのかどうか,委員幹事の方に教えていただければと思います。 ○松本分科会長 現在の民法にはこの規定はないですが,それで動いているわけだから,なくても運用はできているというレベルの話だと思うんです。一般的に履行不能であれば,履行は強制できないというレベルではコンセンサスはできているわけで,それで,個別のところでどうなんですかという争いが起こって判決が出て,裁判所としてはそれなりのリーズニングをしているという状況だから,そういう状況を今後も続けてもらいましょうという選択は十分あり得るわけです。今までいろいろ難しい論点が出てきたところで,例えば時効の効果のところで,山野目幹事が正に現状の曖昧なままを固定するような第3案を出されたというのもありますから,そういうあえてえいやと決めないという選択肢もあり得ると思います。 ○岡本委員 特に銀行の関係で賛成,反対の意見というのがあるわけではないので,私の意見ということですけれども,まず,不能概念についてですけれども,先ほどから物理的不能とそれ以外の不能を分けるのか,あるいは評価的な不能という一つのお皿の中の種類にすぎないと考えるのか,その点については評価的不能の一種,要するに物理的不能と言われるものについても評価的なものが入って不能かどうかが決まるという考え方,これは私はそのとおりなのかなと思っております。   それから,社会通念を入れるか,入れないかというほうなんですけれども,契約の趣旨というのを強調される考え方の場合であっても,社会通念という言葉が悪ければ,社会通念という言葉によって指そうと思っているものということかもしれないですけれども,それを契約の趣旨の解釈の中では取り込んで,契約というのを解釈していくんだろうと思っておりまして,そういう考え方からすると,社会通念というのを契約の趣旨の解釈の中に入れていくのか,あるいは外出しにするのか,そこら辺のニュアンスの差なのかなと思っているところがあります。   では,どちらがいいのかということになりますと,先ほど内田委員がおっしゃられたように,契約の問題なのだから基本的にはその契約の中で処理されてしかるべきで,外から持ち込まれるのはおかしいという,そういう理論的な正当化根拠みたいなもの,それは確かに分からないところではないところでございまして,整理の仕方としても,そういう考え方は非常にすっきりしていて,いいところがあるのかなと思うものですから,そういう意味では,社会通念というのは契約の解釈のほうで判断していくということにして,外出しの要件のような形にする必要は必ずしもないのかなと私自身は思っております。 ○山野目幹事 本来は415条関連の論点で申し上げるべきことですから,余り長く申し上げませんが,岡崎幹事から問題提起というか,お尋ねを頂いたところですから,簡単に私が感ずるところを申し上げるとすれば,書かないで沈黙するということは法文起草でうまく工夫することができるかどうか分かりませんが,あり得るお考えであるだろうとは感じます。   ただし,それと同時に,岡崎幹事から妥協不可能な議論になっているというお話がありましたが,そこはそうでしょうか。私はそこについてこの分科会もそうですし,部会の論議の様子を見ていて少し違う感じ方をしておりまして,一つは中井委員が今日の複数回の御発言の中で,社会通念なり,取引観念なりという文言を入れてくだされば,ということを繰り返しおっしゃいました。私の感ずるところでは社会通念と取引観念は全く同じではないのでありまして,そこについては議論したいことがあります。   それから,潮見幹事の今日,お出しいただいているペーパーも,本来,潮見幹事の考えからいえば契約の趣旨一本で御主張なさるはずでし,そのようにも主位的な案は書いておられますけれども,それに付随する要素を文言として追加するということは,一定の考慮の下にあり得るとお話になっておられるわけですから,こういう議論を更に粘り強く積み上げていくならば,それほど絶望なさる必要はないのではないかと感じます。 ○筒井幹事 本日の御議論で,次の中間試案のたたき台でどのようなイメージのものを提示すればよいのかについて,手掛かりがつかめかけているような気はしております。部会資料では,一見すると,社会通念に照らして判断するという甲案と,契約の趣旨に照らして判断するという乙案とを相互対立的なものとして提示しているかのように見えますけれども,補足説明で触れましたように,元々これらは相互排斥的な考え方ではないということが,既に部会の議論の早い段階から指摘されてきたところでした。ただ,そうは言っても,最終的な条文化の作業をにらんだときに,どちらの考え方がベースとなり,それに他の考え方をどのような形で組み合わせるのかを決めていかないと,条文を書く段階になって困難を来すのではないかといった御指摘も頂いたところです。そこで,これらの御指摘を踏まえて,今回の部会資料では甲案と乙案とを掲げた上で,どちらをベースに考えていくのかという問題提起をさせていただいたつもりでした。   本日の議論ではいろいろな御意見がありましたけれども,一つのポイントとして,物理的不能という概念もまた,規範的な評価が必要となり得るものであるから,それも一つの例示のような形で書き表してはどうかといった御議論がありました。そして判断の枠組みとして,契約の趣旨に照らして判断することを基本に置くべきであるという御意見のほうが多かったような印象を持ちましたけれども,それと社会通念あるいは取引通念といった観点を適切に組み合わせて,表現ぶりを詰めていくといった御議論がかなり有力に示唆されていたのではないかと思います。それを我々なりにもう少し整理した上で,もう一度,部会に提示して,更に御批判を頂きながら中間試案を目指したいと現時点では考えました。   それとの関係で,岡崎幹事から御指摘がありましたように,条文化しないという選択肢も,もちろん,最終的な選択として当然にあり得ると思います。ただ,履行請求権の限界に関しては,現在は規定がないにもかかわらず,プロの法律家の間では,概ね共有されている判断の枠組みがあって,結論が全く異なるということはほとんどないのではないかと思います。ですので,この部会としては,それを何とか文言化して提示するという努力を最後まで続けるべきであると思います。それをした上で,部会から提示できた案に対して,そのような規定なら有害で,無いほうがましであるという評価になるのであれば,条文化を見送るという選択もあり得るかもしれませんけれども,しかし,そういった条文化の努力は,是非,この部会としては続けていきたいと私は考えております。 ○鎌田委員 一点,追加させてもらえると,これは債権総論の規定として維持するのかどうかということが前の部会でも議論されたことなのですが,契約上の請求権だけではなくて,それ以外の不法行為,不法利得,現状では物権的請求権の場合だってこの考え方は使われているんだとすると,そこをどう表現するかというのも,もう一点,考えなければいけないと思います。 ○中井委員 取りまとめをされているにもかかわらずということで申し訳ありませんが,例示案というのが本日,出てきたわけです。表現はともかくとして,物理的不能は一つの例示,もう一つは法律的な不能も例示として掲げた上でという考え方,例示することについて,できることなら,それはあったほうが分かりやすい民法ということで異存はありません。その後,問題になっている経済的不能について,仮に,内田委員のお考えだったら,それは書かないということのようですけれども,そうすると,そこには一定の態度決定をしているように思えますが,果たして,それでいいのか。そこについてなお議論が残るとすれば,果たして例示するのがいいのかどうかに戻るのだろうと思いますので,そこはなお留保していただきたい。   それから,もう一つは,認識として一致していることが契約の趣旨を基本としても,その中に社会通念なり,取引観念なり,ここの意味合いも少し違うのは御指摘のとおりかと思いますけれども,これらを含んで理解すべきだというところは一致しているとすれば,少なくとも,契約の趣旨一本説のみで条文化を考えることについては,十分,御留意いただいて,今,申し上げているような要素を酌み取った形で,社会通念という言葉の英文化がそもそも困難であるとすれば,もっと適切な言葉というのを考えて,それが判断材料の一つになるのだということを明示する方向を,常に追求していただきたいと思っております。 ○松本分科会長 私も最初のほうで言った,契約の趣旨という文言を使うと,事情変更の原則との切り分けができるのかという疑念が払えないんです。というのは,事情変更の原則を別の条文として立てるのは,恐らく契約の趣旨では読み切れない分について,別途,そういう一種の強行法的な権利,契約改定権なり,解除権なりを与えるという話だと思うので,それは契約の趣旨の恐らく外側の問題だと思うんです。もし契約の趣旨で全て読めるのであれば事情変更の原則は要らないわけです。契約の趣旨から,こういう場合には改定に応ずるべき義務があるんだと言えばいいだけの話で,あるいは解除できると言えばいい,あるいは履行を拒んでも損害賠償の責任は問われないと契約の趣旨から解釈すればいいんだということになります。   契約の趣旨って何とでも読めるんです,そういう点では。事情変更の原則は要らないということであれば。それはそれですっきりします。全て契約の趣旨で処理をすれば,民法のルールの大部分は要らないということになってくるんだけれども,そういう一条だけあれば世の中が全て動くのかと。そうではないから個別の任意規定が一杯置かれているんだと思うんです。ここに規定を置いたとしても,これは任意規定なので,つまり,合意のほうが当然,優先するわけだから,どんな場合でも絶対に履行します,どれだけお金が掛かっても全て履行しますという特約があればそれで構わない。世界中,探して調達しますという特約でも構わないわけなのです。任意規定として置くのであれば,どういう規定がいいのかという話で,その任意規定の解釈として責任を問われない履行拒否の場合というはどういう場合なのか。つまり,履行請求権の限界という債権者側から見ているんだけれども,逆に履行請求される側から見て,それを拒否することが許されるのかどうかという観点からも見る必要があるのではないか。 ○山野目幹事 今の分科会長の御発言は取りまとめなのでしょうか。この議事がどう進んでいくのか心配ですが。 ○松本分科会長 取りまとめではなく,私の意見です。 ○山野目幹事 それで,私の感ずるところを申し上げますと,中井委員は経済的不能の問題について,今後とも留意していただきたいとおっしゃっているのであって,ここで議論を最後までせよ,とおっしゃっているものではないと聞こえました。それで,私が心配であることは,潮見幹事は契約成立後の事柄も全部,契約の趣旨に入るとおっしゃったと分科会長がおっしゃっいましたが,私は潮見幹事が言っていることをもう少し精査する必要があって,事情変更の原則に言う事情のようなものも,あまねく契約の趣旨に含めるという意味でおっしゃっているのかどうかということは,潮見幹事御本人,それから,部会で山本敬三幹事が御発言になったようなことをもう一回,精査した上で議論したほうがよろしいと感じます。ここで,そのような議論をしていることで何か生産的なものになるという予感が余りいたしませんから,申し添えさせていただきます。 ○松本分科会長 別に誰かの特定の発言がどうこうではなくて,事情変更の原則の話とここで言う履行請求権の限界というのは,一体,どういう関係にあるんだろうかという純理論的な観点から申し上げているわけです。契約の趣旨という概念が非常に曖昧である,だから,それをクリアにしてほしいということは一般論としてありますが,それと少し別の観点からの質問です。とりわけ契約の趣旨ということを強調すると,将来の事情の変更についても契約の趣旨,つまり,契約締結時点における契約の趣旨はどうだったのかということで読めないんですかと。読めないから事情変更という別の原則が考えられているのだとすると,契約の趣旨の射程というのは当然,限定されているわけではないですかということです。 ○内田委員 事情変更との関係というのはおっしゃるとおり,残る問題ですので,ここで決着を付けるのは難しいと思いますけれども,事情変更の原則を仮に明文化するとしたときに,どういう要件立てにするのかということともかかわりますし,内容的には次の損害賠償の話とかなりオーバーラップした議論になっているので,そちらも議論してはどうかと思います。 ○松本分科会長 分かりました。では,これは決着が付かなかったということで,共通の部分もかなりあるけれども,条文レベルに落とす場合の考え方についてはいろいろ分かれているという感じだろうと思います。教科書で書くとすれば恐らく一致するけれども,そういう感じでまとめさせていただきます。 ○高須幹事 今のところは全くそれで結構ですが,全然,違うことをここで一言だけ発言させていただきます。実は部会で山川先生から立証責任のことについても言及がございました。具体的にこうだという御指摘ではなくて,検討の必要があるという御指摘だったと思いますので,中間試案を作っていただくときの多分,イメージにつながっていくと思うんですが,今,分科会長からも御指摘があったように,履行請求の限界というのは請求された側からすれば,それを免れるかどうかという側面だと思います。履行不能を理由に拒絶するということが正当化されるかどうかという問題だと思いますので,少なくとも履行請求がされた場合についての履行不能であるという言い方は抗弁になるのかなと,一応,思っております。今日,ここで議論することでもないと思うんですが,そんなことも山川先生の御発言を受けて,議事録に残しておきたいと思っております。 ○岡本委員 細かい点なんですけれども,先ほど不能について例示をするという案が出ていたんですけれども,例示の仕方も実際に考えるときには注意する必要があるのかなと思っておりまして,例えば履行が物理的に不可能となった場合その他の履行をすることが契約の趣旨に照らして債務者に合理的に期待できない場合を履行請求権の限界事由とするみたいな例示の仕方をしてしまうと,履行が物理的に不可能となった場合というのが必ず後者で包括的,一般的に記載されている場合に含まれるような意味合いになってしまって,物理的不能かどうかも契約の趣旨に照らして評価的に決まるのだということが見えにくくなってしまうものですから,そこら辺の例示の仕方は,もうちょっと気にする必要があるのかなということだけ申し上げたいと思うんです。 ○松本分科会長 ほかに,この履行請求権の限界について御意見はございますでしょうか。   それでは,次の論点のほうに移らせていただきます。部会資料32の「第2 債務不履行による損害賠償」,「1 「債務の本旨に従った履行をしないとき」の具体化・明確化」のうち,「(1)履行不能による填補賠償における不履行態様の要件」について,御審議いただきたいと思います。事務当局から御説明をお願いします。 ○新井関係官 それでは,御説明いたします。当該論点につきましては,部会資料32の13ページに掲載がございます。この論点につきましては,第37回会議において審議がなされたところでございますが,議論といたしましては,履行請求権の限界と平仄を合わせるという形で填補賠償請求権の発生原因を規定することについては,おおむね異論がなかったのではないかと思われます。   その上で若干の御指摘がございました。「過分の費用」を仮に履行請求権の限界事由として設けた場合には,過分の費用の回収を填補賠償として認めてしまうと,過分の費用というのを履行請求権の限界事由とした趣旨が没却されるのではないかというような御指摘がございました。また,ドイツ民法第281条などを参考に,一部が履行不能になった場合についても履行の全部について填補賠償を認めるという規律の在り方について検討すべきではないかという御指摘がございました。もっとも,この点につきましては,契約の全部解除の可否の問題という形で処理する対応が可能ではないかという御指摘がありました。そして,代替取引が容易であるような場合について,履行請求権の限界と填補賠償請求権の発生事由とが同一となるのかどうかについては,慎重な検討が必要ではないかというような御指摘があったところです。 ○松本分科会長 それでは,ただいまの論点について御意見をお出しください。これは正に先ほどまで議論していた話のちょうど裏側ですね。 ○山野目幹事 分科会長が示唆されたように,この論点は一つ前の論点と,表裏と呼ぶか,どう呼ぶか,分かりませんが,密接に関連し合ったものでありまして,新井関係官からおっしゃっていただいたように,基本的には同じような規律を設けるという方向でよろしいと感じますとともに,新井関係官が同時に幾つかお挙げになった附随的な問題といいますか,履行請求権の限界の問題と填補賠償の要件としての履行不能の問題とを全く単純に,同じに扱うことから生ずるかもしれない問題を注意して検討しておくということが肝要であると感じます。その上で,新井関係官のほうから整理しておっしゃっていただきましたが,そのうちの2番目については,私は,少し自信がありませんが,過分の費用を要するということを履行請求権が限界を画される事由として受け止めたときに,それはあって良い考え方であると思いますが,その過分の費用を填補賠償で取ることができるということになったのでは意味がないというか,規律が没却されるという指摘はそのとおりであると感じますとともに,何か,それは賠償すべき損害の範囲の問題として,恐らく上手に処理することができるのではないかと感じますが,そのような見通しでよいかどうか,といったようなことを教えていただければありがたいと感じます。 ○松本分科会長 先ほどの過分の費用の話は経済的不能の話なのか,そうであれば,ここから排除したほうがいいというのが例えば内田委員の御意見だったわけですが,過分の費用と経済的不能はどう関係するんですか。 ○内田委員 これは必ずしも経済的不能の問題ではなくて,いわゆる社会通念上の不能というものも過分の費用の問題に入ると思います。よく挙げられるのは湖に落とした指輪を探して持ってくるとかというのは,もちろん,可能だけれども,莫大な費用が掛かるので,そこまでは義務を負わないというような,そういう例かと思いますが。 ○松本分科会長 そういうものと経済的不能というのは明確に区別されているんですか。先ほどの石油の価格が上がったという価格変動のようなものだけを経済的不能とおっしゃっているんですか。 ○内田委員 経済的不能は典型的にはそうだと思います。市場の価格変動によって本来,想定していたものの何倍もの費用が掛かるというような場合が典型だろうと思います。 ○松本分科会長 それ以外の経済的コストが掛かるからやりたくないというものは,経済的不能ではなくて別のジャンルである,したがって,ここで議論すべきだという御議論ですか。 ○内田委員 湖に指輪を落としたというような場合は経済的不能としてではなくて,いわゆる不能が社会通念によって判断される例として議論されていたと思いますので,これは過分の費用の例なのではないかと思います。 ○中井委員 過分の費用が掛かる場合,ある場面で履行不能になるという考え方については,そのとおりだと思います。それが填補賠償に代わる場合についてどう考えるかという新井関係官の意見については,山野目幹事がおっしゃった理解でいいのではないか,損害論の問題でほとんど解決するのではないかと考えます。   ほかの二点は何でしたか,新井さん,すみません。 ○新井関係官 一部が履行不能になったときに,これは数量的に可分な履行請求権だと思うのですが,その一部が履行不能になったときに,履行の全部に代える填補賠償を請求することができると,そういう規律の明文化の要否を検討すべきではないかという御指摘が,確か潮見幹事からあったと記憶しています。これは部会資料32の比較法資料にもございますが,ドイツ民法の第281条を御紹介された上で御指摘されておりまして……。 ○内田委員 補足ですけれども,一部しか給付できないという場合に,その一部をもらったのでは意味がない,目的を達成できないという場合,解除できるわけですけれども,解除しなくてもそのような場合に全部の填補賠償が請求できるという趣旨の規定がドイツにあって,それと同じような規律は必要ないかという,そういう議論だと思います。 ○新井関係官 もちろん,全部の履行に代わる損害賠償を得たければ,解除の要件が整う限りにおいて,解除した上で填補賠償を求めればよいという考え方もあり得るということを,先ほど申し上げました。 ○中井委員 事前に何も考えていませんでしたし,ドイツの考え方がどうかは分かりませんけれども,一部履行不能の場合に契約の目的が達成しない等の理由があったら,全部解除できるだろうと。そのときに填補賠償請求できることは当然で,ただ,解除するわけですから,既に一部履行を受けた部分については返すということが伴うだろうと思うわけです。それに対して一部履行不能があって,同じように契約の目的を達成しないそれなりの理由があって残りだけでは意味がない。そのとき解除しないで填補賠償請求できるとなったときに受け取っている部分が一部にせよ,その処理が残りますね。そこが残ったままでいいのかという点にについて,ドイツではどのように解決しているのか。あえて解除しないまま,全部についての履行利益,填補賠償を求めることができるのはなぜかと,素朴に疑問に思いますが。 ○新井関係官 ドイツでは解除を経ないで全部についての填補賠償を求める際には,自己が履行で受け取ったものは返すという規律があるようです。 ○松本分科会長 解除しないんだけれども,返すということのロジックは何ですか。金銭面で損益相殺というのなら理解できるんですが,物を返還するという義務は,一体,どこから出てくるのか。つまり,一部不能の場合には解除しようがしまいが,実は余り変わらないという話なのか,それとも,解除するか,解除しないかでがらっと変わるのか,変わるのであれば返還しなければならないというのはなぜなのか。 ○鎌田委員 あえて言えば賠償者代位。全額,支払ったんだから給付分の所有権は戻ってくる,あるいは取得するという形になるのではないですか。 ○松本分科会長 それは第三者が支払った場合でしょう。 ○鎌田委員 第三者でなくても。 ○松本分科会長 債務不履行した債務者が賠償した場合の賠償者代位ですか。 ○鎌田委員 当然,給付分についても填補賠償の形で支払うわけですから,債権者は二重に利得する根拠はないわけで,支払った分についての財産は支払った人に帰属させるという判断はあっても悪くはない。 ○松本分科会長 それはなかったらおかしいですが,それをどう理屈付けるかという話で。 ○鎌田委員 創設的な規定だから合理的に作ればいいとも言えるんですけれども,そこまで面倒を見てやらなければいけないかどうか。 ○松本分科会長 解除するのに何の手間もかからないわけだから,解除した上で担保賠償の請求をすればいいので,一部履行不能の場合に解除しないでなお全部について填補賠償請求するメリットがあるんだということでない限り,ややこしい制度は認める必要はないのではないかと思うんですが。 ○鎌田委員 全く履行されていないときに,そういうときに全部の履行請求権は消滅しますという規定も同時に置かないと,バランスが取れなくなるのかもしれないし,そこまで細かい配慮はしなくていいのではないですか。 ○松本分科会長 そもそも解除ができるんだけれども,解除しないで填補賠償請求を認めるということのメリットは,本来の履行請求は飽くまでやれるという話でしたか。ちょっと私は記憶が曖昧になりましたけれども。 ○鎌田委員 履行義務のほうがそのまま残るということではないですか,反対給付の。 ○松本分科会長 解除しないのは反対給付の義務を残したいから。 ○鎌田委員 だから,交換の例が挙がっていたのではなかったでしょうか。 ○松本分科会長 本当にどこまでメリットがある話なのか,一部履行不能について交換契約で何かメリットがあるんですか。 ○鎌田委員 それは一部ではないときですよね。一部もカバーするのですか。 ○山野目幹事 ですから,一部履行不能の場合には大体,御意見の分布は独立の論点として認知する必要はないと私も感じますし,皆さん,そのような御意見ではないでしょうか。 ○松本分科会長 では,特に必要だという御意見がなければ,分科会としては余り必要はないのではないかという意見だったとまとめます。あと,代替取引が容易な場合というのが中田委員が指摘されたケースですが。 ○山野目幹事 よく理解していないところから教えていただきたいのですが,中田委員の御発言で,留意されたし,という御発言があったようなことの記憶は私もありますが,具体的にどのような御心配を指摘なさろうとしているものでしょうか。 ○松本分科会長 確か部会の議論の最後のほうで提起されたから,この点自体はその後,議論していなかったと思うんです。留意事項として最後に発言された感じなので,真意がちょっと分からないところがあります。代替取引が容易であるということは履行可能ということで,当該債務者以外の者に履行させることが可能だということは履行請求権の限界ではないというか,履行不能ないし期待不可能ではないということになるのではないでしょうか。 ○新井関係官 学説に関する私なりの理解を踏まえての説明になりますが,代替取引が可能かつ容易な場合をどう考えるかというのは,整理すると,受け止める場所が2か所あり得ると思われます。まず一つ目は,履行請求権の限界の論点で,代替性の高い商品の売買契約の場合に,仮にある売主が債務を履行しなくても,他の売主から容易に入手できるのであれば,そのような場合に,代替取引をせず特定の売主に対する履行請求権に固執し続けるのを認めるのが相当なのか,代替取引の容易性等を履行請求権の限界付けに当たっても考慮すべきであるという学説の議論があったと思います。その場面と,更にもう一つの場面として,そういう代替取引が可能かつ容易である場合に,損害賠償の在り方をどのように考えていくかという問題があります。それは損害賠償額の算定の在り方という問題にもなろうかと思います。そういう議論があることを踏まえて,代替取引が可能かつ容易である場合,そのことを履行請求権の限界なり,填補賠償の問題としてとして織り込んで全体として整合的に条文上の要件設定をすることの要否につき,問題提起があったものと理解しております。 ○中井委員 全く誤解しているのかもしれませんが,代替取引が可能ということは特定物ではなくて種類物だから調達できるわけですね。そもそも履行不能ですか。だから,そこで終わってしまえば次の議論もないということになりますが,中田先生は,その場合でも履行不能,つまり他から調達が可能であるにもかかわらず,不能だとお考えだということなんでしょうか。 ○松本分科会長 恐らく不能の話ではなくて履行請求の限界という,不能であろうが,不能でなかろうが,他から調達できるのであれば,当初の債務者に履行を迫らなくてもいいではないか,そんな権利行使は認める必要はないのではないかという御趣旨だと私は感じたんですが,それは損害賠償のところで考慮される可能性は必ず出てくると思うんです。早い段階で契約を解除して別から調達していれば,これだけの損害で済んだのに,飽くまで本来の債務者からの履行を要求していたばかりに他からの調達価格が上昇したので,損害賠償額が高くなったというような場合に,損害回避義務違反だとかいうロジックをかませることによって,賠償額を実際に掛かった費用よりは下げるという操作は行われると思いますから,そういう御趣旨の指摘かなと感じます。 ○高須幹事 恐らく,今,分科会長がおまとめになったようなことなんだろうと思っております。特定物売買か,いわゆる種類売買かという問題と,売買の話に限って恐縮ですけれども,売買の対象物が代替性がある物かどうかは厳密には異なるわけですので,当事者間では特定物売買をしてしまっていれば履行不能ということは,場合によってはあり得る。ただし,それが世の中には代替性があって,他の人から買ってくださいというケースが出てくる場合があって,そのときは損害論のところで調整するということは十分可能なのではないかと思いますから,最終的にはここで今やっている議論のところに条文をそのことについて何か盛り込むという必要は,恐らくないのではないかなと,十分,検討していないのですけれども,他のところで処理できるのではないかなと思います。 ○中井委員 確認ですけれども,自ら調達できるから履行不能ではないということで解決できないんですか。どちらにしろ,相手方も調達できる,自分も調達できる,いずれにしろ,履行不能ではない,履行請求権が本来,行使できる場面ではないんですか。 ○高須幹事 一応,合意によってというか,新たなそういう形で契約内容を改定することはできると思うんですけれども,元々特定物で売ってしまって買ってしまっていれば,理屈だけいえばそうなると,こんなことを普通はやりませんよねというのは,先生のおっしゃるとおりだと思うんだけれども,理屈だけいえば,特定物売買で,それは不能になってしまいましたと言えば限界の事例にはなってしまう。そのときに,よそに委ねるか,もう一回,私が調達できて新たに売りますよというかは確かにあり得ると思いますけれども,理論的には中田先生の疑問というのはあり得るのかなと思った次第でございます。 ○松本分科会長 代替性のある特定物ではないのではないですか。普通の種類物を念頭においておられると思うんです。 ○高須幹事 そうだとすると,今,私も中井先生と同じような疑問が出てしまうのですが。 ○松本分科会長 履行不能だから履行請求権に限界があるという説明ではなくて,もっと別の履行請求権の限界の話だと思います。先ほど議論していたのは履行不能あるいはその周辺の法律的に不能とか,評価的に不能,過分の費用で不能といった話だけれども,そうではなくて,全く別の,他から容易に調達できるのだから,当初の債務者だけに請求しなくてもいいでしょうという話だと思うんです。 ○高須幹事 すみません,時間を取ってしまって申し訳ないんですが,今,先生がおっしゃった点は私なりに理解していたつもりで,私の言い方はそういうものも含めて履行不能という概念で一本で説明したというつもりで,今,申し上げましたので,物理的不能ではなくてという部分のことを考えているという意味では,私もそうだと思っているんですが,種類売買だとしたら,もし,そうだとすると,それは義務なのではないかなとは思うんですが,そのときに過分の費用が掛かるから,渡さなくていいということにはならないような思いをいたしておるんですが,いかがでしょうか。 ○松本分科会長 だから,私もここで履行請求権を行使できないというのは,やはりおかしいのではないかと思うんですが,損害賠償請求権に転化した場合に先ほど言った,飽くまで履行請求をひたすらやって,いわゆるカバーする取引をしないまま,損害賠償額が高くなってしまったような場合に,填補賠償として全額の賠償を認めていいのかという問題とつないでいくんだと思うので,履行請求そのものを認めるべきでないという話ではないのではないかと思うんですが。 ○高須幹事 とすれば,なおさら,ここで議論しなくてもいいのではないかと,変な言い方で申し訳ありませんが,思った次第でございます。 ○松本分科会長 中田委員がいらっしゃらないから,勝手に推測して議論しても余りよくないですが。 ○筒井幹事 申し訳ありません,事務当局で事前に取材をしておけばよかったと反省しておりますが,後ほど改めて中田委員から意見の御趣旨をお伺いし,必要がありましたら,また後日の機会にこの分科会にお諮りしたいと思います。 ○内田委員 中田さんの御意見は,趣旨は御本人に聞かないと分かりませんが,中田さんがおっしゃったような履行請求権の限界と填補賠償の限界事由が同じなのか,違うのかという問題は,填補賠償ではなくて履行利益の賠償と置き換えれば,そういう議論を私自身もしていまして,中田さんもあるいはそのことをおっしゃったのかもしれないと思います。種類物で代替取引が容易な場合には,履行請求権そのものが発生しないと考えるべきだと,そういう説を私は論文で書いたことがあります。でも,それは履行不能の場合ではありませんので,もし,そういう議論を中田さんが意識しておられたのであれば,むしろ,松本さんがおっしゃったように損害賠償の範囲のところで議論したほうがいいだろうと思います。 ○松本分科会長 英米法で言うところのレミディは損害賠償が原則で,履行請求という特定履行の請求は認めないというのが原則だから,そういう英米法の考え方でいけば,全て損害賠償の問題としてはね返るんだけれども,日本の場合は特定履行の請求ができるのが原則なので,その限界をやはり考えなければならないということす。それで,不能の場合はというところから限界の話が進んでいったわけですが,そうでない別の限界も示すべきかどうかということですが,それは……。 ○内田委員 御本人の意向を確認してからでいいのではないですかね。 ○鎌田委員 強制執行が不能な場合の填補賠償というのは,理論構成として解除は挟んでいないですよね。それと同じように,ここでも履行請求権を別に消滅させなくていいけれども,填補賠償の請求を許すという考え方も,日本法の下で導入しようと思えば,考え方としてはあり得るのかもしれないですね。ずっと直接強制の道を探るよりも,よそから調達してしまって填補賠償を求める。しかし,対価の清算みたいなものを契約関係化しておいて当初の約定価格だけを支払うという,そういう処理の道を作ってあげようというのは,発想としてはないわけではないだろうと思いますけれども,提案者御自身の御提案を詰めた形で出していただかないと,議論の対象とすることは難しいのではないかと思います。 ○松本分科会長 解除すれば話は分かりやすいわけですが,解除しないで本来の債権債務を残しておいて他から調達をして,それで,調達コストについては損害賠償。 ○鎌田委員 本来の給付に代わる賠償を請求する。価格が上昇基調にあるときには,解除して清算するのとどっちがいいのか分かりませんけれども,一つのやり方としてはある。 ○山野目幹事 今のは,次の(2)の論点を議論した上で,議論していただくとよろしいと感じます。 ○松本分科会長 履行不能の場合の損害賠償は解除しようがしまいが,基本的には同じ額になるというのが従来の整理だったと思うんです。 ○内田委員 ただ,中田委員の御発言は代替取引の話が出ておりますので,もう少し真意を確認してから議論したほうがいいと思います。 ○松本分科会長 では,部会でやっていただきましょう。   ほかに限界のところで御意見はございますか。結局,先ほどの問題の裏側のような話だから,この問題を解決するとすれば,一緒に解決するということになりますか。すなわち,履行請求権の限界というのは,履行請求される側から見れば履行請求を拒んでも,損害賠償の責任を負わなくていい場合なんだと考えれば裏表なんだけれども,その間には履行請求は拒めるけれども,損害賠償はしなければならないという場合が恐らくあるでしょう。すなわち,履行不能の原因を作ったのが誰かという,伝統的概念であれば債務者に責めに帰すべき事由があれば履行請求は拒めるというか,できないんだけれども,しかし,損害賠償はしなければならないということで,必ずしも裏表にはならない場合があるけれども,それは帰責事由ないし免責事由の話として,別のところで行えばいいんだという話になるのかもしれないです。よろしいでしょうか。   それでは,続きまして,「1 「債務の本旨に従った履行をしないとき」の具体化・明確化」の「(2)前記(1)以外の債務不履行における填補賠償の手続的要件」につきまして御審議いただきたいと思います。事務当局から御説明をお願いいたします。 ○新井関係官 それでは,御説明いたします。当該論点につきましては部会資料32の14ページに掲載がございます。この論点につきましても第37回会議において審議がなされました。本文の提案につきましては,填補賠償を請求しながらも履行請求権を残しておくということに実務的なメリットがあるということで,提案を支持する意見が示されております。その一方で,そのような規律を設ける場合,填補賠償請求権と履行請求権とが併存することになり,その場合の規律については検討すべきであるという御意見がございました。取り分け,催告後,相当期間経過後に債務者が本来の債務を履行する利益をどのように考えるかということの問題であるということの御指摘がございました。なお,民法545条第3項の削除の要否については,特段,意見はありませんでした。 ○松本分科会長 それでは,ただいまの論点について,どうぞ,御意見をお出しください。解除をしないで填補賠償の請求ができるということは,本来の履行の請求もできる状態が残っている,債務者の側から見れば本来の債務の履行をできる状態が残っているということなので,その二つの権利の関係,損害賠償請求と履行請求の関係をどう調整するのかという話になるかと思います。結局,二つの権利はいつまでも併存しているのか,どちらかを行使すれば,どちらかは消えてしまうというものなのか,今日はこっちを請求して,明日はこっちというようなことが許されるタイプのものなのか,一種の選択債権のような感じで,権利行使の側がどちらかを決めれば,それで確定してしまうというものなのか,履行請求はいつでもできるが,賠償のほうに代えた場合はもう履行請求できなくなるというものなのか。 ○内田委員 記憶が正確かどうか,定かではないのですが,アのほうは異論がないんですよね,解除されたときを明記するという。それに加えて,相当期間の催告をして解除せずに損害賠償請求することを選ぶと,まだ解除していないから,場合によっては履行請求に切り替える余地もある。それを認めるかどうかということで,その選択を認めるのは実務的には望ましいという意見が部会では割合あったと思います。   そうすると両者の関係をどうするのか。それについて詰める必要があるというので分科会に託されたのだと思います。填補賠償の請求をしながら履行請求に切り替えて,相手がそれに応ずれば,それで余り問題ないのかもしれませんが,問題は填補賠償の請求をしているのに対して債務者側が履行しますという場合です。催告期間は経過していますので解除可能な状態になっているわけですけれども,填補賠償の請求を選択したのに対して履行しますといったときに,それが認められるか。これは追完権の問題に関わってくると思います。   ウイーン売買条約のように,追完権は損害賠償に対しては行使できるけれども,解除に対しては負けるというような規律を仮に採るとすると,填補賠償の請求をしている限りは,債務者にはまだ履行する余地が認められる。そういう意味では,損害賠償請求を打ち消して履行する権利が債務者の側にある。ところが,その追完権の行使に対して債権者が解除することができるならば,解除のほうが優先するという話なのかなと思います。ただ,損害賠償の請求を一旦選択しておきながら,催告期間が経過しているから,やはり自分は解除すると言えるのかどうかは,信義則などの一般条項の問題なのかもしれませんが,問題として残るかもしれません。問題状況は今のような話かなと思います。 ○山野目幹事 今,内田委員に整理していただいたように,部会での審議の経過は(2)アの論点については恐らく異論のないところであって,それはここで異論があれば別ですが,確認すればよい話ではないかと感じます。(2)イのほうについて,内田委員もおっしゃったように強い異論はありませんでしたが,本当に履行請求権と損害賠償請求権が併存するという帰結を単純に認めて,問題は何もないかということが語られて,少し心配であるということで分科会に検討が託されているものであると,大づかみに考えると私は理解していました。それで,そういうことであるとするならば,ここでの検討でそれほど深刻な問題はないということになれば,イのほうも肯定の考え方が見通しとして得られるということになるかもしれません。   それで,部会資料で御指摘いただいているように,解除をしないで填補賠償をするということを認める必要というのは継続的契約とか,交換契約の場合などについて意義が認められる,というふうなお話もごもっともであると感じますから,そのような方向でよいのではないかと一般論としては考えますが,少し,イの論点を肯定した場合の帰結の確認として,これは何も手当てをしないと,つぎのようなことになるのでしょうか。先ほど内田委員がおっしゃったことは,追完権の規律を設けるかどうかというところについての結論が決まった上で,追完権を設けるとすれば,おっしゃったようになると思いますが,そのことを考えなければ,ここで提案されていること自体は,履行請求権も行使しているし,その状態で填補賠償の請求権も行使する,という状態があり得るということをお書きになっていると受け止めましたし,極端な事態を言えば,二つ,認容判決が出るという結果になると思うのですけれども,そのようになるものとして受け止めてよいのですよね。念のため,確認です。 ○中井委員 部会のとき,弁護士会もイについて反対しないで,併存しておいて選択して使うほうが使い勝手はいいと。一旦,損害賠償を請求しておきながら,その後,また債権者が履行請求したとき,債務者側が履行の準備を放棄していた場合に迷惑は掛けるけれども,そういう場合は信義則等で調整できるからいいかと,肯定的評価をしたと思います。しかし,山野目幹事がおっしゃった,本当に併存説を徹底すれば,両請求を立てることができて両請求とも認容判決になってしまう,それは果たしていいのだろうか。   両請求ができるとしておいて,衝突する事態はあるかもしれない。損害賠償請求後,履行請求できると債務者側の地位が極めて不安定になります。損害賠償を請求しているところに債務者側から履行の申出があり,債権者側としては解除しなかったのが悪いかもしれませんけれども,他から調達していた場合には,錯綜した事態が生じるかもしれない。にもかかわらず,併存させるだけのより高いメリットがあるのか,改めて異論も出ています。通常は,履行請求したうえ,履行しなかったら解除するぞ,解除するぞと言いながら,履行をできるだけ確保しようとする,それでも履行しなければ解除して填補賠償に切り替える。   実務はどこかで割り切って処理しているのではないか,という意見が出てきました。本当に併存説でいいのかについて,もう少し検討しよう,しかし,検討しようというところで止まっていまして,いい解決方法についてまだ,答えはありません。そういう議論のひとつとして,山野目幹事がおっしゃった判決の問題が出てきたところです。その判決が認容されたときは,どっちかを履行すれば,他方は消滅する,そういう関係になるだろうと思いますが。 ○松本分科会長 メリット論に戻ってしまうと思うんですが,継続的契約の場合は継続的契約の基本契約自体の解除の話と,その上に乗っかって行った個別発注の解除の話を分ければそれほど問題はなくて,これは考えなくてもいいと思うんですね。交換の場合は言われたけれども,よく分からないので余り考えていません。一般的なルールとして規定するのであれば,単純な売買契約でもそうなんだという話なので,そこで考えれば一番分かりやすくて,今,中井委員のおっしゃったような点からいって,単純並存を認めないと不都合があるのか,認めたことによる少々の混乱より,認めるほうのメリットのほうがはるかに大きいのかというようなあたりを少し詰めたほうがいいかと思います。   交換の場合は私は分からないですけれども,どうしても交換の場合に必要なんだということであれば,交換のところにだけ,特別の規定を置いて手当てをするということはあり得ると思うので,債務不履行の一般原則のところにそもそも置くべきほどのものなのか,それだけのメリットがデメリットより大きいのかというところをまず議論する必要があるかと思います。 ○山野目幹事 中井委員に引き続き少し教えていただきたいのですが,履行請求権と損害賠償請求権は訴訟物が別であって,実体上も別の給付請求権ですから,おっしゃったとおり,二つ,認容判決が確定する可能性があって,どちらかが執行される事態も当然ありますが,そのときにもう一方を執行することができなくなる理由は何ですか。損害賠償を命ずる判決の執行が終わった後でも,履行請求権を債務名義にして履行請求しますよ,ということは,そんな非常識なことが通るはずはない,というような仰せは分かりますが,理論的にはなぜですか。何か,まだ,私はそこがしっくりこなくて,そこが明快に説明できないとすると,併存させるということは,危ういということになりそうな気がしますけれども,いかがでしょうか。 ○金関係官 損害賠償の請求権である填補賠償請求権については,本来の履行がされることによって損害が無くなる,少なくとも目的物の時価分の損害が無くなるので,填補賠償請求権も無くなるという説明が成り立つのではないかと思いました。他方,逆の場合については,填補賠償請求権は本来の履行請求権と同一性を有するといった説明がされることがあると思いますが,その説明を前提とすると,填補賠償債務を弁済すれば元の履行債務も弁済したものと扱われるという説明が一応成り立つのではないかと思いました。   ただし,填補賠償のところの損害が無くなるという説明については,例えば本来の履行がされた時点では既にほかの者から調達をしていたという場合には,たとえ本来の履行がされたとしても損害は無くならないでしょうから,本来の履行がされたとしてもなお無くならない損害もあるとは思いますが,そのような損害についての填補賠償請求権は,そもそも本来の履行がされたとしてもなお存続してよいものではないかと思います。 ○山野目幹事 金関係官が正に二つに場合をお分けになったような思考操作をしなければいけないと私も感じていました。履行請求権のほうが実現したときに,填補賠償の請求をすることができなくなるというほうは,若干,工夫が要るにしても,基本線はおっしゃったとおりであり,そうであろうと思いますが,填補賠償請求権のほうが実現して賠償を取っておいたけれども,履行請求のほうが更にできるではないか,といって攻めてきたときに,それができなくなる理由のほうが苦しいであろうと感じ,私自身,そこが少し難しいと思ったことから中井委員にお尋ねしたし,今の金関係官の御説明を伺っていても,それはあり得る論理だとは思いますが,填補賠償の実現というものが,一種の追完権の行使の対応であるという思考が間に挟まれて初めて滑らかに成立する話であって,そうすると,イの論点のところを肯定するというのは,解決としてあってもいいのかもしれませんが,規律表現は,今のようなことについて理論的に,一般の理解を得る上で誤解がないように,何か,丁寧に調える必要があるであろうということは,依然として感じます。 ○鎌田委員 十分には考えていないですが,個人的には,何月何日までに本来の給付をせよ,それができないときには填補賠償せよと言っておいて,その期日が過ぎてもなお,どっちでも請求できるんだなんていうことはあり得ないと思います。やはり,所定の期日から填補賠償請求権に変わったんだというのでないとおかしいと思います。そのとき,それを一遍に給付請求してきたときは,何々を給付せよ,何日までに給付できないときには損害賠償を支払えという判決を書くと,二つ,認めているんですよね。前者の本来の給付請求は有効期限が書いてあるわけではないよね,その判決には。僕は教科書的にしか知らないんですけれども,強制執行が功を奏しないときに備えて填補賠償を認めることができる。これは一つの訴訟でやっていいと言われているんですけれども,そのときの判決はどう書くんですか。 ○岡崎幹事 今の代償請求の礼は単純併合だと理論的に言われていると思います。二つの訴訟物が両立し,いずれも認容してよいということだと思います。それから,債務名義が二本できることについて,今の局面と少し違いますが,例えば共同不法行為者2名に対して損害賠償請求するときに,それぞれについて満額,各自支払えという請求をし,各自,満額を支払えという債務名義が出て,一方が満額を払ったときには,他方についての債務名義はある意味効力を喪失し,その債務名義を使って執行しようとした場合には,先ほどの金関係官の整理でも同じだと思いますけれども,請求異議によって決着が付くと思います。   ただ,一方で,感覚的には,今,鎌田委員がおっしゃったところに全く私も賛成で,履行請求をある意味諦めて,いついつからは填補賠償だと,一旦言っているのに,その日が来た後も履行請求をすることまで認める必要はないのではないかという印象を持ちます。また,部会資料の参考資料としてのドイツ民法の281条の4項の文言だけを卒然と読むと,債権者が履行に代えて損害賠償を請求したときは,履行請求権は排除されるというような文言と思われますので,鎌田委員のおっしゃったようなことなのではないかと思われます。 ○深山幹事 今の御議論の中で,今,岡崎さんなり,鎌田先生が言われた執行不能の場合には賠償せよというのは,いわゆる代償請求という問題で,それは正に執行不能ということが一種の条件のような形になっているので,今,ここで議論している併存を認めるのとはちょっと違うんだと思うんですね。   御議論されているように,仮に併存を認めると,別の訴訟物として両方に認容判決が確定する可能性があって,調整するとしたら,執行段階で請求異議事由として,片方が履行された後は,もう片方はできないというところで行うしかないんでしょうけれども,果たして,それがいいのかというのは確かに問題です。部会のときは私も先ほどの中井先生の話ではないですけれども,債権者に選択肢を与えて,言わば救済手段を増やしてもいいのではないかというような趣旨の発言をした記憶があるんですが,しかし,そうなったときに,正に山野目先生がおっしゃったようにいろいろな懸念があって,その懸念の問題をクリアしてまで,それを超えたメリットを制度として認めるかというと,確かに問題が多いなという気が今はしております。   先ほどの追完権の話なども視野に入れて考えると,やはり遅延に伴う賠償の問題は別に考え,いわゆる履行に代わる填補賠償というものについては,文字どおり,代わるものであって,代えた以上,また,元に戻るというのはおかしいし,両方可能というのは取り過ぎになる問題があって,それを別のところでルールを作って調整しなければならないんだとしたら,そもそも,行ったり来たりするような形にならないように,どこかで切り替えるということにして,併存は認めないという規律のほうが制度としてはすっきりしているのかなと今は考えている次第であります。 ○松本分科会長 今の深山幹事の御意見は,解除しなくても填補賠償は認めるが,填補賠償を請求した場合には履行請求は認めないという形で一元化すればいいという御意見ですか,それとも,解除しないのに填補賠償は認めるべきでないという御意見ですか。 ○深山幹事 後者のほうです。 ○岡本委員 よく分からないので教えてほしいんですけれども,選択債権の場合に債権者が両方を行使したときというは,どうなるのかなというところが分からなかったものですから,そこを参考までに教えていただきたいなと思いまして。 ○松本分科会長 選択しないで両方の訴訟を起こしたら,感覚的には,訴訟自体,失当で却下されるのではないですか。 ○鎌田委員 債権者に選択権があったら,最初の訴訟で選択をしたものとされてしまうのではないんでしょうか。 ○岡本委員 本件についても,そのような選択債権と同じような規律と考えるのも,一つの考え方かなという気もするのですけれども。 ○松本分科会長 すなわち,解除しなくても履行請求権と填補賠償の請求権の二つがあると。それで,先に選択したほうで決まると。それで履行請求を選択した場合に,相手方が履行請求に応じない場合はどうするんですか。解除するんですか,それとも,選択したんだけれども,相手方が応じてくれないから,もう一つの方の損害賠償請求権が復活するという話ですか。 ○岡本委員 いずれもあるのかもしれないですけれども,その場合は解除でいいのかなと思いますけれども。 ○松本分科会長 ということは今の民法の現状ですね。催告をしたけれども,履行がないと,解除しなければならないわけではなくて,引き続き履行を求めていってもいいし,それでも駄目なら解除するということでも構わないと。それと別に填補賠償のルートが開かれるということ。 ○岡本委員 解除しないでも填補賠償の請求はできると。 ○中井委員 先ほどの深山幹事の意見の確認ですけれども,本来,債務者の給付を求める,判決をとる,その給付の執行をしたけれども,執行が実現しない,そのときに民事執行法で代償請求ができる。これは制度として,もちろん,存在を認める。これは,当然,解除が要件になっていない。給付請求をして,給付の判決を受けて,執行不能だったら代償請求権ができる。だから,それとは別に,ここではまず解除して填補賠償はできる。解除せずに填補賠償することもできる。しかし,そのときに解除せずに填補賠償を選択したときは,もはや履行請求はできないという規律をそこに入れる。それが一番すっきりするのではないか。そういう理解をしているのです。深山幹事は,今の私の理解とは違うのか,同じなのかと,確認したかったんですが。 ○深山幹事 そもそも,判例上認められているといっても,そう頻繁にある話ではない代償請求というものが,実体法レベルでどういう理解をしているのか,よく分からないのです。代償請求と,今ここで議論しているものとの関係を整理しなければいけないんでしょうけれども,そこはよく分からないので,どなたか,研究者の方に教えてもらえればと思っているところなんです。   解除をした後は,填補賠償に切り替わること,これは異論がないところで,どの段階で債権者が断念をするかという問題だと思うんですね。それで,解除しない段階で交渉としていろいろな交渉の仕方をすることは実務的にあると思うんですが,訴訟ということになったときには,やはり最終的な決断を迫られるのかなと思います。本来の履行請求で給付訴訟を求めるのか,訴訟の直前に解除するのか,訴状によって解除するのかはともかくとして,そこで填補賠償を求めるのか否かの選択を求められる,決断を求められるのかなという趣旨で,先ほどは申し上げたということです。 ○山野目幹事 現在,二つの提案といいますか,見解が唱えられているように私には聞こえました。一つは必ず解除をしないと填補賠償を請求することができない,という深山幹事のおっしゃっている見解と,その一方で,解除をすることは求められないが,填補賠償を請求するという権利行使の挙に出た後は履行請求をすることができなくなるという,岡本委員と中井委員がおっしゃっているのは,その見解であると思いますが,この二つの見解が存在し得るということを確認しただけでも,ひょっとしたらいいのかもしれませんけれども,なお論評させていただくならば,岡本委員と中井委員のおっしゃっている見解のほうが現在の大審院判例であると言われているものを参照しながら,部会資料が示唆・提案しておられるところから乖離が少ないものであり,それに対し,深山幹事の御見解のほうが,もう少し大胆な規律を導入しようとおっしゃっているということになるのでしょう。それから,私の見るところ,どちらの見解で採っても,別途に審議される追完権の帰すうや論議には,何か論理的に良い影響も悪影響も及ぼさないのではないかとも感じますが,その辺りが確認されるならば,それはそれで今日の議事としては実りがあったとも感じます。 ○松本分科会長 確認ですが,それは単純併存は採らないという意味ですね。 ○山野目幹事 そうです。 ○高須幹事 内容に入る前の話で申し訳ないんですが,部会資料で御説明いただいている大審院の大正4年6月12日と大正7年4月2日という部会資料の15ページのところですが,これは頂いた資料だと填補賠償請求権を行使するための要件として契約の解除が必要かどうか,不要とした判例と指摘されておるので,解除なくして填補賠償を求めると読めるのですが,原典を当たってみると昔の言葉なので私の理解が不正確で,ただ,お前は文語体が読めないだけだということかもしれないんですが,原則はむしろ解除しないと填補賠償は求められないということが原則というような書きぶりが二つともあったように思ったのですが,ここは私の間違いでしょうかという点を一点,確認させていただければと思います。今ではなくてもいいんです。違っていたら私が間違っていただけですから。 ○新井関係官 分かりました。後ほど原典を更に精査させていただきます。 ○高須幹事 すみません,それは私の勉強不足かどうかもありますから,その上でなんですが,代償請求の関係だけをいうと,これは民訴的な理解を前提にしているという意味なんでしょうけれども,代償請求で今,正当化されているのは現時点では履行請求は履行請求権として請求権が立つけれども,それが将来的に履行不能になった場合には,将来,履行不能になった場合に備えての将来請求として,別なものとして損害賠償請求権があると。これは判断の時点が違うから,両方単純併合なんだというような理解を民訴ではしておるやに記憶しておるんですね。   ただ,そうすると,ここでの議論とは少し側面が違うので,必ずしも代償請求が認められているということをもって,単純にここでも認められるという言い方にはならないのかなと考えています。今,山野目先生が御指摘していただいた二通りの考えがあり得て,あり得た中で,単純併合を認めるか,認めないか,あるいは認めたとしても後の処理をきちんとする,要するにするか,しないか,あるいは,そもそも単純併合を認めないで履行請求を押したら履行請求でいけ,あるいは損害賠償に切り替えたら損害賠償でいけと,こういう考え方もあり得ると思いますので,ここは代書請求とは別のものという理解で民法の中での固有の議論をすればよい。考え方は両方あるということまでは私も理解しましたので,その上で,更に検討すればいいかなと思いました。 ○中井委員 少し観点が違うのですけれども,このイの考え方には相当期間を定めて催告をして履行がないとき,契約の解除をしなくても損害賠償請求ができるという書きぶりです。つまり,解除に関する議論との関係が,どういう観点から整理されているのか,これは確認です。仮に解除権の発生について一元化的な考え方を採る立場からでも,同じ理解になるのかという疑問です。私の理解,原則催告解除論からすれば非常に親和的な説明であると思っています。催告して,その期間内に履行がないとき,原則として解除権が発生する。しかし,解除権を行使しないで填補賠償請求権を行使する。それに対して,仮に一元化論的な発想が,どう要件立てするかについては様々な議論がありますけれども,仮に重大不履行の場合に催告なくして解除できるという立論だとしたときに,これは催告もなくして填補賠償できるという理解に結び付くのか,それとも,ここではその議論は関係ないのか,この辺りについて,教えていただきたいんですけれども。 ○松本分科会長 どなたか,説明できますか。 ○新井関係官 事務当局としては,部会資料34のとおり,基本的には催告解除を残すという提案をしております。部会資料32の填補賠償の手続的要件についても,催告解除を残すことを前提に,それに手続的要件を倣う形で,解除しなくても填補賠償をすることができるという規律を設けるということについて提案したつもりです。催告解除を廃止して,重大不履行といった規範的要件に一元化していくという考え方を一元化論と言うのであれば,それと填補賠償との要件という点については,考えておりませんでした。 ○松本分科会長 現行法で無催告解除が認められる場合に,解除しないで填補賠償というのは,ロジックとしては認められるんですか。 ○中井委員 今の点ですけれども,私の立場からすれば,無催告解除は催告しても意味のない場面を想定しているわけですから,その場合には催告を求めても意味がありませんので,無催告解除ができる,催告解除制度と無催告解除制度を設けて,無催告解除ができる場面では催告なくして填補賠償請求もできる,でないと論理一貫しないと思っています。 ○松本分科会長 そうですね。 ○内田委員 中井委員の提起された問題は,催告解除について一元説というのか,何というのか,重大不履行とか,目的不到達とかというような要件を課す立場から,催告期間内に履行がないことが重大な不履行である場合には解除できるというような要件を仮に立てるとすると,ここにはそれが入っていない。催告期間が経過したということだけでもって填補賠償に結び付いているので,それが一貫しているのかという,そういう御趣旨も含まれていたかと思います。ただ,重大不履行を常に要件としてかぶせるという考え方を採った場合も,ここで想定しているのは填補賠償,つまり,契約の主たる給付,中心となる給付に代わる賠償の話ですので,売買契約なら財産権の移転という,中心的債務について履行がない。そして催告期間を置いて,それが相当な期間であって経過後も履行がないという場合に,それが解除要件を満たすというのは,多分異論はないと思いますので,その点についてはいずれの立場でも同じことになるのではないかと思います。 ○松本分科会長 整理してしまっていいのかどうか分からないんですが,私の感覚ではこのニーズがよく分からないんです。つまり,いつまでも両方を請求できるんだと,最後は両方の判決がもらえるんだというのであれば,大きなニーズかもしれないんだけれども,填補賠償の請求をすれば,本来の履行請求はできなくなるんだということであれば,言わば本来の履行請求をするということは,契約解除の意思表示をその時点でしたのと同じ評価をしているということになるので,そうであれば,実質的には解除して填補賠償を請求しているというのと非常に近い。   ただ,解除と違うのは,自分の債務は消滅させないでというところにメリットがあるんだと。それは交換契約の場合にあるんだということなんですが,具体的メリットというのが本当のところ,よく分からないんです。自分の債務を存続させて履行したいということは,自分の家を相手に押し付けたい,受領強制をしたいという意味なのか,ということです。所詮は金銭に評価した上で清算するということであれば,自分の債務の履行を強制できるから,解除しないことにメリットがあるんだということの説明がよく分からないんです。 ○内田委員 今の交換の場合には,手元に持っていたくない物を相手が引き受けるという契約をしていたような場合に,多分,メリットがあるということなのだろうと思います。そのほかに継続的契約というのが例に挙がっていて,これを松本分科会長は基本契約,プラス,スポットの契約の例でお考えのようですが,これはそうではなくて,いわゆる継続的債権関係ですね。最近は牛乳を継続的債権関係で買うというのは例はないかもしれませんが,昔,挙げられたのは牛乳とか新聞ですけれども,企業間でも,一つの契約である物品を一定量ずつ,ずっと供給する,そういう契約はあるのだろうと思います。そういう契約の下で,ある期に物が来なかったというときに,催告しても来ないので,そこで填補賠償を請求する。しかし,契約そのものは維持するということはあり得ることなので,そういうメリットがあるという趣旨だと思います。 ○松本分科会長 後半は分かりましたが,前半は手元に置いておきたくないから,相手に引き取ってほしいという履行強制ができるからということですか。それはできますか。引取義務の履行強制,民法を改正すればできるのかもしれないけれども。 ○鎌田委員 最も単純には履行が済んでしまっているというケースで考えればいい。 ○松本分科会長 引き渡しているが,相手が履行しない,こちらが先履行している。 ○筒井幹事 メリットのある場面があることが確認されれば,それでよろしいのではないでしょうか。 ○松本分科会長 交換だから相手方の引渡債務の強制執行が可能ですよね。にもかかわらず,相手方の物は要らない,自分の物だけを引き取ってくれればいいという交換。 ○山野目幹事 交換の場面について,分科会長がなお完全な得心をしていないことは分かりましたが,交換はやはり頻度として,それほどはないと思うのです。先ほど内田委員が御説明になったことですが,私の家庭では牛乳の配達も今,若干特殊な牛乳ですが,していますから,非常に実感を持って伺いましたけれども,継続的契約の場面について解除を必然的に挟まなくても,填補賠償を請求することができるという局面は,一定の説得力をもって存在するということが確認できればよいのではないでしょうか。もし,それが皆さんの感覚として共有されるならば,岡本委員,中井委員がおっしゃったように単純併存ではなく,序列を付けて併存させるという若干の修正を伴った考え方で,イの論点について見通していこうということになるでしょうし,そのような需要のところについて,ほとんどそれほど決定的なメリットはないと考えるのであれば,深山幹事がおっしゃっているように必ず解除を間に手順として挟んでもらったほうが,法律関係の整理としては明快になるということになるのでしょうし,そのことが今日の審議で分かったのではないかと感じます。 ○松本分科会長 よく分かるんですよ。非常に特殊な局面にはおいては,そういうことが必要な場合があるだろうということで,今,挙げられた自分のものを相手に受け取ってほしいけれども,相手の物は特に欲しいと思っていなかった交換においてはニーズがあると。それから,牛乳配達でもちょっと分からないけれども,ニーズがあるかもしれないと。そういうニーズのあるものについて個別の契約各論のところで規定していくというのは,妨げられないと思うんですが,それを全ての債務,全ての債権に共通のルールとして置くことによる混乱とか,それに乗じたことが起こってくるというデメリットと比べてどうなのかと。どこまで普遍化したルールとして置くべきものなのかというところなんですが,そもそも填補賠償というのはこういうものだ,メリット,デメリットは関係ないんだという議論であれば,正に債権総論のところに置くべきものなんでしょうが。 ○山野目幹事 私は別に岡本委員,中井委員の意見でもう決めるべきだと申し上げているのではありません。ただし,今,分科会長がおっしゃったことの一部について申し上げれば,内田委員がお挙げになったものが,たまたま牛乳と新聞の例というものでありましたけれども,あの種の,ベースになっている契約と支分的な契約とが区別できなくて,継続的に法律関係が何か続いていくような場面というものは,売買とか請負とか賃貸借とか,固有の契約についてしか観念することができないものではなく,通用性,通則性を持っている問題であると私には感じられます。そうであるとすると,それはここの次元で議論されてよいことではないか,と思いますから,まだ決め付ける必要はありませんけれども,今日,出た複数の意見を念頭に置いて,分科会長もおっしゃった弊害のチェックということも,引き続きされていくべきであろうと思います。なお,ただし,弊害のほうが今日の議論では明確な形では語られていないということも,一方では認識することができるように感じます。 ○松本分科会長 それでは,分科会の議論としては先ほどの単純併存説は採らないという形で,填補賠償と履行請求の両にらみだけれども,填補賠償の請求をすれば履行請求はできなくなるという形であれば,この原案1でいいのではないかという意見が多かったという感じでしょうか。   それでは,休憩をいたしたいと思います。           (休     憩) ○松本分科会長 それでは,休憩時間が終わりましたので後半に入りたいと思います。   一番大きな論点ですが,「「債務者の責めに帰すべき事由」について(民法第415条後段)」のうちの(2)ですが,「債務不履行による損害賠償一般の免責要件の規定の在り方」について御審議いただきたいと思います。事務当局から御説明をお願いします。 ○新井関係官 それでは,御説明いたします。当該論点につきましては,部会資料32の22ページ以降に掲載がございます。この論点につきましては第37回会議で審議が行われました。議論の概況等でございますけれども,債務不履行による損害賠償責任の免責要件,これについて明確化することについては,おおむね異論はなかったものと思われます。一方,甲案のような考え方に対しては,契約書が偏重されるのではないかといった懸念等から,反対する意見が示されております。   免責事由の具体的な在り方につきましては,部会におきましては潮見幹事と高須幹事から意見書を提出いただいております。また,部会の中で具体的な立法提案,条文のイメージ案が示されておりまして,「契約その他債務の発生原因及びその後に生じた事情に照らして,債務不履行又は履行不能を生じさせた原因が社会通念により,その債務者の責めに帰すべきでないときは(債務者の負担とされるべきでないときは),債権者はこれによって生じた損害の賠償を請求できない。」という提案を頂いております。社会通念ということについては,契約外在的な事情を取り込む意図だということの御説明も頂きました。   また,他の幹事の方から,実務に定着している責めに帰すべき事由という用語を尊重しつつ,近時の契約法学の成果を適切に摂取するという観点から,「契約に基づいて生じた債務の不履行については,契約の趣旨に照らし,その他取引の諸事情を考慮して,債務者の責めに帰することができない事由によると認められる場合には,損害賠償の義務を免れる。」という規定の在り方の提案を頂いております。   免責判断の具体的な在り方については,特に契約から生じる債権については契約が最も重要な要素であるものの,それ以外のプラスアルファの要素をどのように取り込んでいくかが問題であるという問題意識を示していただきました。また,第36回会議においては,この責めに帰すべき事由と関連しまして,民法第410条の過失概念についても見直しの要否を検討すべきとの指摘を頂いております。 ○松本分科会長 それでは,いよいよお待ちかねの大きな論点ですし,何人かの方からは事前にペーパーをお出しいただいておりますので,どうぞ,御自由に御発言をください。 ○山野目幹事 社会通念については,本日,別な論点で活発な論議がなされたところでございますから,誠に恐縮ではありますが,私の見るところでは,むしろ,こちらの論点のほうが本籍であると感じますので,そのことについて意見を述べさせていただきます。   新井関係官から御紹介がありましたとおり,部会の審議におきまして,社会通念に照らし債務者の責めに帰するべきでない事由という概念を用いた提案がされているところでございますが,私はこれに対し,強い危惧を抱くものでございます。今の日本社会は,これをどのように見るかということについて,人によって見方は分かれるでしょうけれども,果たして個人が互いに個人というものを尊重するという意識が十分に徹底した社会になっていると評価することができるでしょうか。   みんながそう考えるから,という感覚で,社会という言葉を振りかざして襲いかかってくるものの前に置かれる個人というものが,危うい,ということをどれほど危惧しなければならないかは,人の感覚によっても異なりますし,もっと申しますならば,その人が生きてきた中で形成されてきた見方にも左右されることでありましょうが,少なくとも私は,職場や地域の在りようを睨むとき,この問題について楽観的でいることはできません。内田委員は別な論点において1930年代の日本を想起してほしいとおっしゃったのですが,そのことに同感であるとともに今日の日本社会について見ても,そのことが露骨に問題になっていないだけの話であって,やはり同一性質の問題というものはあると感じます。   加えて申しますれば,本日の別な論点で中井委員のお話を伺っておりますと,何か,契約外在的な要素を言語上のコミュニケーションとして置いてほしいという観点から,社会通念ということを力説しておられるという問題意識を理解しましたが,その際にも繰り返し社会通念なり,取引観念なり,とおっしゃっておられたところでありまして,しかし,私の感ずるところでは,そのうち,「社会」という言葉が入った概念ないし「社会通念」という言葉のほうについては,今,申し上げた観点から非常に困るものがあるということは,また,申し上げざるを得ないと感ずるものでございます。 ○松本分科会長 恐らく,先ほどの議論と全く同じレベルの議論だろうと思いますが,いかがでしょうか。 ○高須幹事 私はどうも思考パターンが余り論理的でないのかもしれないのですが,実は損害賠償の免責事由のところにつきましては,今,山野目先生からも御指摘があったようなところは,やや思いを共通にしておるところがございます。既に前の部会で配布いただきました私の第1の意見の趣旨のところでも,そういう意味では具体的な免責要件については,幾つかのものを列挙させていただいたわけですが,そこでも社会通念というようなことは入れてはおりません。ただ,これはすごくそれに対して違いがあると思っているわけではなくて,先ほどの議論のように実質的なところは,考えているところは一緒かもしれないなというふうな理解は持っておるんですが,やはり,社会通念という言葉が持つ意味には十分注意しなければならないのだろうと。   先ほどのところと,どうして意見が違うんですかという話なわけですが,履行請求の限界のところに関しては,履行請求権がどこまで認められるべきかという論点であったことと,それについては従来,社会通念による履行不能という言葉が比較的定着しておったのかなという理解から,先ほどは,そこの場面では社会通念という言葉についての言及をさせていただいたわけですが,こちらに関しては,今,御指摘がございましたような観点を重視して考えていくということには,それなりの合理性があるかなと。平仄を合わすべきだという御意見があることも十分,承知しておりますので,今,そこをあえて違うと言っているわけではなくて,先ほどと違うのはなぜかという言い訳だけをしているわけなんですが,ここの論点に関しては,そのように思っている次第であり,一応,前回,出させていただきました意見書の趣旨のようなことを引き続き考えております。   もう一点だけ,前回,出させていただきました意見書では,2項に列挙的に,1,2,3と並列に上げるというような形を提案させていただいたわけですが,その後のほかの方々からの御意見を見ますと,余り,こういう書き方は好まれておられないような様子で,むしろ,何々,何々などのみたいな形で,一文にまとめたらどうかというような御意見のほうが有力やに思いますので,この件に関しては私もこのような書き方でなければならないということではなくて,何らかの従来,私どもが社会通念というような言葉で言わんとしてきたような事柄を盛り込んでいただければというような趣旨でございますので,そのようなものとして,今日のところは私もそのように考えておりますと御理解いただければと思います。 ○中井委員 先ほどの話を繰り返すのは意味がありませんので,山野目幹事に教えていただきたいのです。それは,先ほどから社会通念に対する危惧については理解するところですが,その上で,先ほどから取引観念という表現を使う部分については別の考え方があることを,示唆されていたように思うわけです。   裁判例の中でも,それが両方並べられている事例が最高裁の平成9年判決でもあったものですから,それを並べて申し上げたわけです。両方とも契約の趣旨からは少し離れたところにある一般社会における取引通念なり取引慣行,その取引界の一般参加者が常識的に認識できるところの状況等を判断規準としているという意味では,私としては社会通念とそれほど違わない概念といいますか,範ちゅうの評価規範と思って表現したんですけれども,山野目幹事はそこの意味の違いを積極的にお感じになられているようなので,教えていただきたいのです。また,仮に山野目幹事からの御提案では,「契約の趣旨に照らし」の後ろに,「その他取引の諸事情を考慮して」と記載されているところからすれば,そういう取引における実務,実態,在りようについてはしんしゃくするという意味が込められていると思うんですね。とすると,先ほどの第1の質問ですけれども,どの点で本質的に違うのかというところを御教授いただければ有り難いと思います。 ○山野目幹事 中井委員から貴重なお尋ねを頂きましたが,お話を伺っていると,中井委員のお話自体に既に私が答えるべきことの答えがおのずと出ているような印象を受けました。しかし,お尋ねでございますから,二点に分けてお話をさせていただきます。   一点目は,私が一つ前の発言で申し上げたことは,やはり社会という言葉が入ることに対する強い危機感を抱いている部分がございます。これは立法というものは,という言い方で釈迦に説法でございますけれども,ここにおられる弁護士の先生方とか,裁判官などの感じ方に基づいて,多分,悪用はされないだろうという感覚でお作りになったものを,しかし,使うのは我々でないのでありまして,これから50年,100年と日本社会において,その法文が運用されていくときに,それが悪用されることはあってはならないという見地に十分警戒感を払って作らなければいけない,そういう法文の起草の過程に我々はいると感じます。そうしますと,従来,判例が用いてきたから「社会通念」という言葉をここで入れましょうという議論は,そういう観点から心配になるということを再度,強調させていただきたいと感じます。   二点目ですけれども,新井関係官から御紹介がありましたとおり,私は部会で,契約に基づいて生じた債務の不履行については契約の趣旨に照らし,その他取引の諸事情を考慮して債務者の責めに帰することができない事由によると認められる場合に,免責が認められるという考え方を提案させていただきまして,この考え方を本日も意見として申し上げさせていただきたいと感ずるものでございます。もう中井委員が御明察のとおり,そこにある,その他取引の諸事情を考慮して,という考え方を入れることによって,中井委員が取引の観念あるいは取引慣行という言い方でおっしゃってきたものにも,十分,理由のあるところでありまして,それを表現したいと考えました。今,中井委員がおっしゃった具体的な免責の在り方の処理の本質といいますか,実質の部分については,全く私と齟齬はなくて感じ方も同じでございます。   その考え方をこういう仕方で表現して,実現していくのがよいのではないかと感じますとともに,本日,出ております潮見幹事の意見書を拝見しますと,その他取引の諸事情を考慮して,というのは,潮見幹事の見地から御覧になると余計なことであるかもしれないことを言っている,と理論的には感ずる側面もありますけれども,しかし,そのような文言を入れて人々の理解を獲得しようとすることも,あり得るとも仰せになっておられるところでありまして,そのことも併せて指摘させていただきたいと感じます。 ○松本分科会長 先ほども言いましたけれども,契約の趣旨ということが何かということがはっきりすれば,議論はほとんどしなくていいんだけれども,そこがはっきりしない。潮見説だと全て入る大変広い概念だけれども,他方で,そうでないように理解している人もいるという中で,当事者がこう考えていたであろうと推定できる意思以外に何が入ってくるのかということをはっきり定義して書ければ,余り違いはなくなってくるのだろうと思います。それを「社会通念」とか,「取引通念」とかいう言葉で表すのか,「契約趣旨」という言葉で表すのかということの違いであって,どちらかを採れば,その言葉が独り歩きして弊害が起こるということは,それは恐らく定義しない限りは,「社会通念」を採っても「契約の趣旨」を採っても同じ懸念はあるんだろうと思います。 ○深山幹事 今の山野目先生の議論に全く異論はございません。私自身は,「債務者がその債務の本旨に従った履行をしないときは,債権者は,これによって生じた損害の賠償を請求することができる。ただし,その不履行が,契約その他債務の発生原因に照らし,社会通念上,債務者の責めに帰すべきでない[債務者の負担とされるべきでない]と認められる事由により生じたときは,この限りではない。」と,先ほどの履行請求権の限界の規律とそろえるような形で,「社会通念上」という言葉を入れることを考えておりますけれども,ここは中井先生と同様,「社会通念」という言葉自体にこだわるという趣旨でもございません。「社会通念」という言葉からイメージするものが人によって違うんだなということを,今日,改めて感じましたので,そういう意味では,この言葉に全くこだわるものではございません。   ある種の妥協案なのかもしれませんが,潮見先生からのメモにある,「その他取引の諸事情を考慮して」というのも,それはそれで,「社会通念」という言葉とは違った一つの表現で,うまくニュアンスを取り入れていただいているのかなと思わなくもないです。ただ,先ほどもちょっと出ましたけれども,契約上の債務のほかに,それ以外の法定債権も視野に入れるかどうかということにも関連するんですが,「取引の諸事情」というと契約債権に対応する言葉なので,法定債権のことは別に規定するなど切り離してしまって,契約上の債権だけを問題にするのであれば,「取引の諸事情」という言葉でもいいのかなという気もします。もし,法定債権も視野に入れるんだったら,もう少し違った言葉にしないと,そこはしっくりこないのかなという印象を持っております。 ○松本分科会長 法定債権を考慮に入れる場合に,法定債権の大部分は金銭債権ですね。損害賠償か,不当利得か,費用償還か。ただ,不当利得の給付利得の場合は現物返還という局面が出てくるから,そこで正にどういう場合に免責されるのかということは,かなり大きな焦点になってくると思うんですが,金銭債務の場合は余り違いはないというか,固有の論点にはならないような感じがするんですが。 ○山野目幹事 これも別な論点の議論の際に,鎌田委員のほうから問題提起がありまして,契約の趣旨その他の発生原因に照らし,という文章の提案が多いけれども,その他の発生原因とは何か,という御指摘を頂いています。似たような文言での提案が今日,ペーパーで複数載っている中,私からお出ししているものはその他の発生原因というのを入れておりません。幾つかの考慮の下に,これは要らないのではないかと自分自身は感じております。一つは分科会長が御指摘になったように,給付不当利得返還請求権のときには,その発生根拠になった契約の趣旨が考慮されるということは,書かなくても契約の趣旨と書けば,その裏返しである給付不当利得返還請求権の行使の在り方について,それが考慮されることは伝達可能であると思います。他人の財貨からの利得の返還請求権のときに,発生原因となった不当利得返還請求権の趣旨を考慮し,と特に書く必要はないでしょう。不法行為のときについても同じであると感じます。   一つだけ,細かな問題として残ることとして,単独行為の公益財団法人設立行為とか,遺贈のときに発生原因となった法律行為の趣旨に照らし,というものを入れる必要性というものは,論理的には残るのかもしれませんが,ここは規定の細密度の問題でありまして,そんなことまでわざわざ書き込むのか,と考えたときに,それは要らないのではないかと自分は感じました。その上で,契約の趣旨その他取引の事情を考慮して,という文言を仮に考えるときに,その規定の配列というか,配置については引き続き何か考えるべき問題はあるように感じます。契約通則ないし債権総論に置くとしながら,とりわけ契約を発生原因とする規律を同じ規定の2項とか,通則の後ろに置くというふうな振り合いにするのか,それとも,このような規定は,かなり契約各則に近いような,その先頭のような部分に置くという振り合いにするか,といったようなことについては,自分自身ももう少し考えてみたいと思いますし,検討の必要のある問題であると感じております。 ○中井委員 山野目幹事の御趣旨については,理解をしたつもりではありますけれども,なお,取引の諸事情という言葉に全てが集約されているのかというところには,更なる検討が可能なのではないか。つまり,例えば高須幹事の案で例示があるように,不可抗力や,債権者の行為若しくは第三者の行為の中での一定の場合については,帰責事由なしの場面があるのではないか,これを契約の趣旨とその他取引の諸事情で包含されているのか。   潮見説に立てば,恐らく契約の趣旨の中に,今,申し上げたその後に発生した諸事情も,債権者の行為や第三者の行為については取込み可能な解釈をされていると思います。しかしながら,そのこと自体が必ずしも明確ではないので,取引の実情というものにプラス,そのようなものを取り込むことが可と考えるならば,取引の諸事情という言葉をもう少し膨らませる案,若しくは,例示を挙げるという案が検討されていいのではないかと思うのです。先ほど履行不能について例示案というのが出てきたものですから。私はここでは包括的な言葉を考えていたんですけれども,もう一度,例示案に戻るというのもあり得る選択かどうか,御意見をお聞かせいただければと思います。 ○山野目幹事 部会の際には,諸事情と書いておいて,それを高須幹事のアイデアのようなイメージで,例示で更に補強説明をするということはあり得る考え方であると同時に,それは文章を書いてみて,うまくいくかどうかを検討しなればなりませんから,引き続き御検討いただくと有り難いということを申し上げました。現時点での気持ちも同じでありまして,例示が必ずしもベストな方法かどうか,私は自信がありませんが,そのような案は絶対に困るというふうな考えを持っているものではございません。 ○中井委員 とすると,選択肢として例示という考え方についてなお検討するのと,その他取引の諸事情,ここが取引の諸事情に限られているんですけれども,ここを膨らます別の言葉があるとして,適切な言葉を思い付くわけではないんですが,社会通念の社会という言葉はやめておきましょうということは了解したとして,そこを膨らますということについても,その方向の検討も可と理解してよろしいでしょうか。 ○山野目幹事 結構でございます。 ○鎌田委員 今の取引の諸事情は当該取引のという意味ですか。それとも,およそ取引というものいうことまで包摂しているんですか。 ○山野目幹事 二つに読めるように書いたつもりです。それに対するお答えをきっぱり申し上げるのに,いろいろ理論的に困難な部分がありますが,別な論点でしばらく前に鎌田委員から御教授を頂いたとおり,おのずとこの種の問題を考えるときに,一般的で普遍的な,といいますか,個別事情を離れた通念の諸要素も考慮されるでしょうし,その当該の取引の諸事情も考慮されるでしょうから,そのように考えますと,どちらにも読んでいただきたいという気持ちで提案申上げました。また,もっと細密に申し上げれば,二つが重なり合う仕方での取引の諸事情という概念で読んでいただきたいと申し上げたほうが良いのかもしれません。もう少し勉強してみて,精密な御説明が差し上げられるように努力したいと考えております。 ○松本分科会長 二つとおっしゃったけれども,三つにならないですか。当該取引と当該種類の取引と,それから,およそビジネスというものはと。 ○山野目幹事 後ろの二つはまとめて申し上げたつもりですが,分節化していけば,そのように分節がいろいろと可能になるとも感じます。 ○松本分科会長 つまり,売買契約というものはとか,何々契約というリース契約というものはというレベルの話と,そもそも,取引たるものはというのは私は大分違うと思うんです。 ○山野目幹事 それを言い始めると,売買取引の中でもそもそも不動産の売買というものは,とか,そもそも宅地の売買というものは,とか,そもそも東京都の土地の売買というものは,となってくるのでありまして,その分節化は幾らでもおやりになればいいと思いますが,本質的なことは,そのように,かなり普遍性のある背景のある諸要素と,半面において,かなり個別性に富む背景をもつ諸要素とが両方,常に総合して考慮されていなければいけないのではないか。そのことについては分科会長もそのような御意見でしょうし,中井委員もそういうお立場であろうと理解しております。 ○中井委員 余りあっさりと旗を降ろしてはいかんのかもしれませんが,山野目幹事のおっしゃっている趣旨については,特に違和感といいますかはありませんし,その方向で検討を進めることについて異存はありません。 ○岡本委員 賛成とか反対とかではなくて,理解のために,これまた教えていただければということなんですけれども,契約の趣旨というのを非常に重視していく考え方が一方であって,その考え方を徹底させていくときには,どういう内容の債務かということを考えるときにも,結局,契約の趣旨に照らして考えるということになってくるのかなと思うんですけれども,仮にそうだとすると,そもそも免責事由に当たるようなケースというのは,債務の内容にそもそも含まれていなかったんだという考え方もあり得るような気がいたしまして,そうやって徹底した考え方によると,そもそも免責事由の定めなんかは要らなくて,債務不履行がありさえすれば,損害賠償義務は発生するんだというふうな考え方もあってもおかしくないような気もするんですけれども,そういう提案がないのはどうしてなのかなというのを疑問に思ったものですから,そこをもし分かれば教えていただきたいなと思ったんですが。 ○松本分科会長 債務不履行になれば免責はないという今の発言の御趣旨は,債務不履行かどうかのレベルで,今,言ったようなファクターを考慮しましょうという話ですよね。それを論理的にどの段階で考えるかというのはいろいろあり得ると思うんですが,一応,外形的に不履行かどうかを評価して,それから,免責事由か,帰責事由かという段階で評価するという構造に多分なっているからだと思うんです。それを一段階にしてしまって,責めに帰すべき事由のある場合のみを不履行というと定義すれば可能だと思うんですが,日本の民法はその辺りがやや曖昧だから,学者によっては本旨不履行といった概念を別途立てて,それが言わば外形的な意味の不履行であって,帰責性も含めて債務不履行という言葉を使いましょうという形で整理されている先生もいます。 ○鎌田委員 私なりの理解でいうと,今の岡本委員がおっしゃったようなのが,正に債務者の引き受けていなかった事由という表現に反映しているんだと思うんです。それがいろいろ批判されるので,潮見幹事なんかも表現をどんどん変えてきたことによって,かえって元々の発想から潮見さんのB案なんか,かなり遠ざかったという,一つの論理矛盾を来していないかという気はしなくもないんですけれども,引き受けなかった事由というのは,今,おっしゃったような気持ちが出ているんだという気がします。 ○内田委員 基本的に岡本委員のおっしゃった通りだと思います。引き受けていなかった事由という学者案が出たときに,契約書の中で引き受けるか,引き受けないかについて決めているという趣旨で,引き受けていないという表現を使っているかのような受け止め方をされ,そんなことを一々決めなければいけないのかという批判がありました。しかし,元々の趣旨は,契約を結んだときに,明示であれ黙示であれ,当事者のリスク分配の対象になっていなかったリスクが顕在化した場合という意味だと思います。そんなリスクについて当事者は考えていなかった,だから,債務者がそれを負担するのはおかしい,ということです。   そうすると,契約書がある場合かどうかを問わず,いわゆる結果債務の場合,契約上は形の上では債務不履行がある状態になっているのだけれども,このようなリスクが顕在化して債務不履行が生ずるということは想定していなかった。その場合についてまで,履行するという負担を債務者が引き受けていたわけではない,そういうロジックだと思います。   その意味では,免責事由として一応,書けると思いますが,ただ,論理的には,債務者の仮定的な意思を含め,全ての事象について包括的に合意しているはずだという仮定に立てば,岡本委員がおっしゃるようなロジックもあり得ると思います。いずれにせよ,債務者が引き受けていなかった事由という免責の捉え方の趣旨は,今,申し上げたようなことだと思います。 ○松本分科会長 ただ,潮見説がどうかを議論しても仕方がないんだけれども,債務不履行ということで全てをつかんだ上で,免責で落としていくという考え方ではないんですか。債務不履行の要件自体に今のリスクの引受けを入れて,そもそも債務不履行ではないんだという議論をするつもりは,潮見幹事にはないと思うんですね。だから,考え方としては何通りかあって,債務不履行の中に今のようなファクターを入れた上で,債務不履行であるか,ないかのレベルで決めてしまうというのと,債務不履行だとした上で免責するとか,あるいはもう一つ別に帰責要件がないと損害賠償まではつながらないんだとするというのと,ロジックとしては二通りあって,どっちかというと潮見幹事の意見は,外形のほうは膨らませるという考えだと私は理解しています。債務不履行一元論というのは,恐らくそっちの方向にいくんだろうと思うんですね。 ○鎌田委員 今のお話を聴いた限りの印象だから,私が誤解しているのかもしれないんですけれども,要するに債務の履行があったのか,なかったのかという次元の問題と,それによって責任が発生するかどうかという次元の問題と,みんな,それぞれに分けながら当該契約はどこまでをカバーしているのかと判断していくから,必ずしも債務不履行という単一概念で端から端まで全部,処理できるような論理構造ではないんだろうと思います。 ○松本分科会長 ただ,前の部会でも議論して,私が散々に批判された400条廃止論というのは明らかに,特定物売買で契約締結後の外在的事情による滅失損傷の場合でも,売主に債務不履行責任を負わせるという立場ですよね。幾らきちんと保管をしていましたといっても免責されないんだと。 ○山野目幹事 今の御議論は大変興味深く拝聴しましたが,岡本委員の御発言で示唆された御見解自体が何通りかの理解を可能にするようなことをおっしゃったように感じます。私が最初に伺ったときには,分科会長がおっしゃったように,免責事由が生ずるような債務は元々負っていないと考えるべきであるというように,どのような債務を負っているかの1行だけで全部,処理するということをおっしゃっているようにも聞こえたし,しかし,反面,鎌田委員と内田委員がおっしゃったような,契約において引き受けていなかった事由の発想を今になってやっと初めて,検討委員会のあの案が世の中で理解されたと思わせるような文脈でおっしゃったように感じた部分と,両方に理解することができるとは感じました。   それは,ですから,二つの理解があるということを今,三先生がおっしゃってくださったのでいいのかもしれませんが,いずれにしたところでどんな債務を負っているか,あるいは引き受けていない事由とかというように,1フレーズか,2フレーズで書いて,読み手に伝えようとすることに無理があるということが,ここまでの議論の蓄積で分かってきたことであると感じますから,岡本委員の発想は非常にアカデミックには興味のある御議論であるとは思いますが,その発想をそのまま法文とか規律で表現していくことは,恐らく直ちにそういうことにはならないものであろうとも感じますから,そのことを確認できれば,その前提の上で,更に議論をお進めいただくことがよろしいのではないかと感じます。 ○岡本委員 すみません,法文として債務不履行一本で書いたらどうだというところまでは申し上げたつもりではなくて,そのような考え方が出てきていないのはなぜなのかなということが疑問だったものですから,その点の確認という趣旨だけです。私が申し上げた趣旨としては,契約の趣旨というものを重視して考えていくときには,債務の内容の中に契約の趣旨を全て取り込んで解釈することもできるから,そうだとすれば免責要件というものを考えずに,債務の内容だけで考えるという考え方も,あってもおかしくはないのではないかという趣旨で申し上げました。 ○松本分科会長 恐らく,今,おっしゃったことが一番はっきり出てくるのは,医療過誤などの場合になると思うんです。行為債務の場合で,しかもそういう専門家の裁量の余地が広い場合は何が債務なのか,個別局面における債務は何かというところでそもそも議論されますから,債務不履行かどうかという話と,賠償責任があるかないかという話はほとんど同じことになるわけですが,結果債務,つまり,あるものを相手方に引き渡すという内容の場合は,引き渡したか,引き渡していないかのところで,はっきりと債務不履行かどうかという外形的な振り分けをして,あと,それについての損害賠償の責任を負わせるべきか,負わせるべきでないかということをもう一段,別の議論でやるという形式を従来は採っていたから,こういう構造になっているんだと思います。一元的にやれないかというと,やれなくはないんでしょう。ただ,そうすると,主張立証責任がちょっと変わってきますね。 ○高須幹事 今のおまとめいただいたとおりだと思いますが,私どもはずっとそう勉強してきたせいかもしれませんが,基本的には今のように手段債務の場合には債務の存否のところで実質的な争点になる場合があるとしても,大きな基本的な構造というか,条文の作り方としては,まず,債務不履行があるかないかを考え,その上で免責要件があるかないかを考えるという条文を持っておるということ自体は,共通ルールとしての分かりやすさという意味では長所があるのではないかと思っております。したがって,今回,議論しているような方向性というのは,一つの在り方ではないかと思います。   それから,もう一点,これは次の話なわけですけれども,潮見先生からも今日,新しいメモが出て,よりまた表現等を工夫された表現を頂いておりまして,私もみんなで知恵を出し合って,いい言葉遣いにしていけばいいと思っておるんですが,その上でですが,今日の潮見先生の御意見でも,A案,B案ともにいわゆる「責めに帰すべき事由」という言葉は載せておられませんので,私としてはそこに関しては引き続き評価の場としての「責めに帰すべき事由」という言葉自体は残した上で,ただ,その他の表現のところで従来,議論してきた内容を取り入れていくということがよろしいかなと思っております。 ○松本分科会長 大きな論点としては,一つはファクターとしてどういう事柄を列挙するか,それをどういう文言で表すかというレベルの話と,最後の今おっしゃった「責めに帰すべき事由」というような表現を残すのか,それとも「負担とされるべきでない事由」という表現を使うのかというところがもう一つ,別の論点として出てまいりましたが,いかがでしょうか。 ○岡崎幹事 この論点において,損害賠償を認める範囲について,現在の実務的な運用を変更しないという大前提に立っていいのだとすると,ここであえて文言を変えるということがかえって混乱を招くのではないかと思います。そういう観点から,私も高須幹事のような御意見に賛成です。 ○新井関係官 今の御意見について確認させていただきたいのですが,岡崎幹事の御意見は,民法第415条後段の文言を一切変えるべきでないという御趣旨ですか。 ○岡崎幹事 そうではなくて,責めに帰すべき事由の文言に関してという,先ほどの松本分科会長の二つ目の論点に限ってということです。 ○新井関係官 分かりました。 ○松本分科会長 つまり,討議資料でいうと,甲案だと「負担していなかったと評価される事由」という言い方をしているし,乙案だと「責めに帰することができない事由」という言葉を使っている。それで,潮見幹事は今回のものだと「負担とされるべき事由」ということですから,甲案の流れの表現を使っているということで,他方,深山幹事のメモは両書きであるし,高須幹事は1のところでは「責めに帰することのできない事由」という表現で,2のところでは「負担とされるべきでないとき」という言葉もお使いになっているという感じですが。 ○高須幹事 つまり,趣旨としましては甲案と乙案を対立的に捉えるのではなくて,潮見先生が指摘されたところで一つ共感するのは,「責めに帰すべき事由」という言葉が評価の場として機能してきたのではないかと,ただし,中身がないのではないかという部分に関して,中身をきちんと作らなければなりませんよということは,私も共感するところがございまして,そうすると,甲案と乙案を合わせたような表現というのが出てくるのだろうと。ただ,潮見先生のように,そこで評価の場としての言葉自体を条文から削ってしまっていいかどうかは,もう一つ,議論があっていいのではないかということで,それを残した上で甲案のような内容を盛り込むということを是とすると,先生が御指摘のように両方入っていますねになるのではないか。でも,それでいいのではないかと,こう考えておる次第でございます。 ○中井委員 意見だけ申し上げておきますと,結論的には,岡崎幹事,高須幹事がおっしゃる「責めに帰すべき事由」という言葉自体は残していただきたい。潮見幹事のおっしゃっている債務者の負担とされるべき事由というのも,表現は変えていますけれども,実質,その場を設けているという意味では同じだろうと思うんです。そうであれば,あえて,ここで変えなければならないのかという疑問がありますので,この言葉自体は残していただくほうがよろしいのではないかと思っています。   それから,もう一点,併せて申し上げておくと,契約に照らしなのか,契約その他債務の発生原因に照らしという法定債権を念頭に置いた言葉を入れるかという点について,先ほどから鎌田委員を初めとして,いかがなものかという御意見があります。私のメモもこれを入れているんですけれども,積極的意図があって入れているわけではなくて,潮見幹事からのメモの中で両方を想定するという意味で,その他債務の発生原因という言葉を提案されておりましたので,それを借用させていただいているにすぎません。   改めて今日の議論を聞いている限りにおいて,その他債務の発生原因をここに入れることによって,積極的に何か意味することがあるのかというと,ないという印象を持っておりますので,それなら,分かりやすさからすれば契約の趣旨に照らしという言葉であっても,別にここはこだわらなくてよいのではないかという印象を持っています。その上で先ほどから,これは繰り返しになりますけれども,例示列挙で外在的な要因,外部的な事情を加えるか,契約の趣旨にプラスの言葉で適切な包括的概念を用いるか,そこを更に詰めていただければと思っております。 ○松本分科会長 私の日本語の語感の印象としては,潮見幹事は契約の趣旨で全て決まるという構造を採っておられるので,契約の趣旨の中で負担分配は終わっているはずだ,だから,契約の趣旨から「債務者の負担とされるべき事由」という言葉がつながってくる,契約からおのずから明らかだという趣旨を強く込めておられるんだけれども,弁護士の実務家の方だと契約だけで割り切れない,契約だけだと答えが出ない部分があるから,それは少し契約の外側からインプットしてという発想が強くて,そうだとすると債務者の負担とされるべきというよりも,「責めに帰すべき」という言葉のほうがより外在的なニュアンスが入ってくるという,最初の言葉が何かによって後ろの言葉の落ち着きが変わってくるというレベルの話でしょう。債務者の負担とされるべき事由と表現を変えたら,帰責事由と違って全くブラックボックスでなくなるのかというと,そうではなくて,言葉の置き換えだけだという局面が多分多いんだと思います。学者は,自分の言葉にすればよくなると考えて自説を主張するわけだから,従来の曖昧な概念より,こちらのほうがいいんだという論理を持ってくるのは当たり前だけれども,必ずしもそうでなくて,言葉の置き換えだけになっているという面はあるんだろうと思います。 ○沖野幹事 言葉の置き換えをどう評価するかですけれども,帰責事由は,一方で,これまでの定着を十分に生かせる表現であり,しかしそれとともに,帰責事由イコール過失,あるいは帰責事由を要しないイコール無過失というような形でつながる表現でもあったという,両面を持った概念としてこれまで進展してきていた,それをどう評価するかということではないかと思うのです。   そうしたときに,帰責事由だけを裸で使うのではなくて,その内実が何であるのかが分かるような形,具体的には契約の趣旨に照らしということではないのかと思われますので,それとセットで帰責事由か,あるいは帰責事由自体をもう少し従来の内実もそこに盛り込めるんだけれども,他方で負の側面とされるものを切り捨てられるような表現ということで,こなれているかどうかはともかく,債務者の負担とされるべき事由ということを盛り込むということは,十分,考えられるのではないか。同じように解釈の余地のあるブラックボックスかもしれないのですけれども,それは十分考えられることではないかと思います。 ○内田委員 帰責事由についてですが,沖野さんが今,言われたようなことを考慮した上で,現在,出されている改正案というのは,具体的な中身の例示をするかどうかは別として,書き込もうとしている判断基準に,ほとんど差はなくなっていて,あとは言葉をどう選ぶかというところにきていると思います。その意味では,本当に収れんに向かっているなと思うのですが,ただ,私はこの改正について全国で弁護士会とか,いろいろなところでお話をさせていただく機会がこれまでたくさんありました。その際に,さすがに最近は減ってはきましたが,当初,実務家の方々から,そうはいっても実務は過失責任主義ですよと言われることが度々ありました。でも,判例は無過失というだけでは免責していないでしょうということを一生懸命説明をして,なるほどと,そこで初めて発想が転換したように驚かれるという場面に度々出くわしたわけです。   ですから,帰責事由はイコール過失であり,そして,日本の判例を動かしているルールは,過失責任主義であると考えておられる実務家が非常に多数おられる。しかし,実際の裁判の判断基準はそうではない。このような構図がやはり現実であると思いますので,それも考慮して言葉を選ぶ必要があるだろう。別に帰責事由を使うべきではないとまで私は考えていませんけれども,考慮要因としては,以上のような事情もあるのではないかと思います。 ○沖野幹事 二点目だけ思い出しました。よろしいですか。ちょっとずれる一つ前のその他債務の発生原因ということをどう考えるかという点です。これが入ると,正に契約の場合は契約の趣旨からというところの強調点というか,力点というか,基本的な考え方がぼけるという面があるのでないかと思います。もう一つ,いろいろなところで契約の債権のことを考えながら,しかし,法定債権についても規定が欠落するのはまずいという考慮があって,そこに十分,配慮をしておくという,その一般的な視点が重要だと思うんですけれども,そうしたときの在り方として,例えば契約に関する債権については法定債権の場合,どうするかということを考えておく必要があり,かつ,そのときには法定債権の場合にも準用するとか,契約以外の発生原因の場合についても準用するというような規定を置くことが考えられると思います。   ただ,そのときに準用型で法定債権を含め契約以外のものの場合に,準用としたときに,それで本当に大丈夫かという気になる面はあります。少し,言ってみればややぼかしてしまうかもしれないんですが,取りあえず,逐一,念頭に入れておいて,単純にこの程度であれば,全てまとめて準用のような形で最後はまとめてしまうということでもいいのではないかというのは,最後の形としてはあり得ると思うんですけれども,検討の中で契約以外の場合にどうなるかということを念頭に十分に置いておかないと,少しまずいことがあるのではないかと思う面があります。この規律だけについて言えば,契約の趣旨だけにしたほうが非常にきれいだとは思うんですけれども,より一般的な心配事項というか,そういうものがあります。   なぜ,そういうことを言うかといいますと,現行法でもそうですし,あるいは民法以外の立法でも準用で引かれているものがどう準用されていて,どこがどう読み替えられているかがよく分からないというものがそれなりにありますので,そうしたときに,元々丁寧にどのような規律になるかということを考えておけば,もっとよかったのではないかと思うことがあるものですから,取りあえず,仮定としては考慮しておくべきではないだろうかと思います。 ○高須幹事 すみません,行ったり来たりで,今,内田先生から御指摘いただいた点でございますが,議論が収れんしてきているということは私も同感でございます。帰責事由という言葉を実務家がどう捉えてしまっているかという部分に関しても,そういう議論があることも私どもも実は重々承知しておるというか,日々,そういうことと遭遇しておるわけで,そこも問題意識は共有しているのですが,解決方法に関しましては,別な考え方もありうるのではないかと思います。なぜ,そういう事態になったかということを考えれば,結局,私どももいきなり弁護士になったわけではなくて,学生時代に法律を先生方から学んで,こういうものだということで勉強してまいったということでございますから,ここは法律を変えて弁護士の意識を改革するという外科的治療よりは,やはり教育的効果というものを大事にしていただいて,多少,時間は掛かるのかもしれませんけれども,帰責事由ということについての理解を深めていく,あるいは債務不履行法理という問題の知識をより正確にしていくということを検討していくことが,何かよろしいのではないかと思います。ちょっと漠然とした言い方で恐縮ですが,そのように思っております。 ○中井委員 こんなところでまた,恥をかくことになるんだと思いますけれども,内田委員のおっしゃった,債務不履行責任も過失責任主義的な発想が弁護士の中にあるのではないかという御指摘に関連してですけれども,例えば医療過誤,安全配慮義務という手段債務の観点に限っていうならば,今の理解としては債務の内容の確定の問題がまずあって,確定された債務について不履行が起これば,当然,責任があるという限りにおいては御指摘のとおりで,そこで主観的な意味での過失というのが機能していないというのは,御指摘のとおりだと思います。ただ,弁護士があまたある訴訟事件の中で損害賠償請求に限っていうならば,債務不履行に基づく損害賠償であれ,相当数のそのような手段債務に関する訴訟実務に携わっているわけです。   その中で何が争点になるかといったら,注意義務の内容の定立の問題になるわけで,注意義務の中身の定立をするのには,いかなる医者なら医者に,使用者なら使用者に注意義務違反があったのかという過失の中身を徹底的に議論されて究明している。その中身は正に客観的な意味での過失ですから,それは債務の内容なんだと,ここで整理をされて議論が進んでいる,その立場から立てば,正に内田委員の御批判は当たるわけですけれども,通常の弁護者が通常の訴訟業務をやるときに債務不履行責任であれ,当事者の過失は一体何なんだという観点から議論をしている,その延長線上での発言だという点は,是非,理解というか,そういう流れから恐らく反応だったんだろうと思うという点を重ねて申し上げておきたいと思います,今の議論と何もかみ合うわけではないんですけれども。 ○松本分科会長 大いにかみ合っていると思うんです。帰責事由あるいは責めに帰すべき事由という言葉がよくないという根拠がブラックボックスだという,つまり,評価の要素が大きいということが言われているけれども,それはほかの概念も余り変わらないんだと。もう一点は,帰責事由イコール過失ということで,誤解をしているんだという批判があるということですが,今,おっしゃった安全配慮義務にせよ,そういうタイプの債務不履行の場合は,いわゆる注意義務違反が問題になるわけだから,不法行為における過失と非常に近い構造で議論されているという意味では,過失責任主義だといってもおかしくはない。それから,もう一点,後発的履行不能の場合は,正に400条廃止論が攻撃しているところですけれども,隣の家から火事が延焼してきて燃えたとしても,善管注意義務を尽くしていれば,責任はないんだということだったので,そこも過失責任主義なんだといってもおかしくないと思うんですね。   もっとも,結果債務の履行遅滞の場合,履行可能なのに履行しないという場合に過失の議論をすると,おかしな話になるという点は確かにそうだと思います。それから,もう一つは履行補助者の過失という言い方で我々は普通に議論しているんだけれども,これは確かに一般の「過失」という言葉と相当違う局面に「過失」という言葉を使っていることになっているのではないか,先ほど言った結果債務の履行遅滞の局面も履行補助者の「過失」という言葉で議論しているところがありますから,そういう点は確かに是正しなければならない部分があるんだろうけれども,全てが全て,「過失」という言葉に置き換えて議論すれば不都合かというと,必ずしもそうではないところもあるので,その辺りも考慮して議論する必要がある。   つまり,「過失」という言葉に全て置き換えるのは恐らく間違いだろうけれども,一部置き換えは可能であって,正しいのはドイツ民法の学説継受による理論を採るのではなくて,本来の民法が使っている責めに帰すべき事由とは何かというところに立ち返って,判断をしていくということだろうと思います。新しい言葉に代えれば,また,新しい誤解が恐らく起こってくるということは明白なので,その辺り,トレードオフの関係にはあるんだろうと思うんで,どちらを採るかということだろうと思います。 ○鎌田委員 まとまりかけた話を崩すことになるのかなと若干,懸念しているんですけれども,最も徹底した契約の趣旨説でいくと,正に契約の趣旨に照らして責任を負うべきか,負わないかということで,債務者に損害賠償責任があるかどうかの判断基準になるのは契約の趣旨,そこから導かれるものだという,これが最も徹底したものだと思うんですよね。そうすると,今,かなり共通の御提案になっている中で,二つ,疑問が出てきます。山野目さんのでいくと,その他取引の諸事情をどう考慮するのか。契約の趣旨外の客観的な事情から判断基準が生まれてくるのか,契約の趣旨は何なのかを判断するときに取引通念とか,社会的な慣行とかいうのを反映させますよとか,あるいは契約の趣旨から不可抗力は免責だとなったときに,これは不可抗力と言っていいのかどうか。ここではいろいろな取引慣行や何かは出てくるけれども,何が責任原因になるのかというところは,契約の趣旨しかないというのが多分,契約の趣旨徹底説なんだろうと思うので,山野目さんのこの表現は複線化を図っているのか,そうでないのか。   これは,潮見さんがB案でもいいやと言っているところとも重複して,そこのところの判断基準となるものは何なのか,判断要素は何なのかという,その言葉でいいかどうか分かりませんけれども,そこのところの関係が一つ。全体がまとまりかけているのを逆に不明確にしている部分ではないかなと思っていることが一つと,もう一つは,私も例示があったほうがいいと思っているんですけれども,これも契約の趣旨説を徹底していくと,不可抗力だって責任を負いますよという,こういう契約もあるわけだから,ここに例示したものはいつでも免責ですと掲げるのは,本当の契約の趣旨説とは違ってきてしまうと思うんです。そこのところも多分,これは山野目先生に聞いても責任範囲外かもしれないんだけれども,例えば山野目先生の考え方では,やはり,こういう例示はないほうがいいという考え方になるのかどうかというようなところをお伺いしてみたい。 ○山野目幹事 お尋ねいただいたことが正にこの問題を考えていくときの本質であると私も考えております。鎌田委員のお言葉の中に,その他取引の諸事情というのは,契約の外から持ってきたものも入るか,とおっしゃったところですが,潮見幹事がおられないところで忖度して述べることには限界があるとしても,恐らく潮見幹事のお考えでは,今,鎌田委員が外からと言ったものも,潮見幹事のお考えでは契約の趣旨から出てくるものをその限度でのみ考慮されるものであり,そのように彼の考えでは契約の趣旨の中から出てくるのですけれども,そのように考えない人にとっては,外から持ってきたのですね,と理解されるものであろうと私は考えておりました。   そのような理解を前提にこの文章,言葉を選んだときに潮見幹事の立場から言えば,今,鎌田委員がおっしゃったとおり,契約の趣旨に照らし,のみで論理的には尽きているのであって,その他取引の諸事情を考慮して,の部分は確認の意味で付け加えられた部分である,確認だから要らないはずであるけれども,入れることも妨げないということを今日,意見書のメモでお書きになったものと感じます。それに対して,中井委員のお立場から言えば契約の趣旨は狭く御理解になることから,正に鎌田委員がおっしゃったように外から連れてくるものを考慮してほしいし,そのことをはっきり文言に表してほしいとお考えになりますので,その他取引の諸事情を考慮して,の部分は創設的な意味合いを持つものと受け止められて,理解されることになりましょう。そのようなものとして入れるつもりで自分の意見は書きました。   そこのところについて創設的であるか,確認的であるかということについて,もちろん,更に議論を重ねるべきであるとは感じますが,私は今日,岡崎幹事が絶望的,とおっしゃったのは2時間ぐらい早くて,ここにきて仰せになるべきであることではないか,と思います。ここのところを私は絶望的であると感じていまして,潮見幹事のお考えになる契約の趣旨と,中井委員のお感じになる,あるいは弁護士の先生方がお感じになる契約の趣旨は,今までずっと部会の議論を聞いてきて,そこについて一致を見出すことは極めて困難ではないかと私個人は感じております。にもかかわらず,民法の1箇条を起草しなければならないというタスクの下で仕事をするときの考え方として,どのようなものがあるかということについて申し上げてまいりました。   それから,付随的に,一点,申し上げます。今,鎌田委員がおっしゃったところの,例示は危険ではないか,という問題については,実は私は危険であると感じておりまして,ですから,先ほど,中井委員とのやり取りの中で,例示は妨げないけれども,工夫していきましょうかね,というふうなニュアンスで申し上げました。 ○鎌田委員 場合によったら,ちょっとずれているかもしれないと思ったところなんですが,外在的なものを取り入れるというのは,必ずやるんだろうと思うんですけれども,それがどこに入ってくるのか,むしろ,そこから直接,帰責事由を導き出すのかどうかというところの差が気になります。全く論理的なものでしかないんですけれども,そこのところはどうなのか。つまり,そういうものを,契約の趣旨と,そこから導かれる判断基準,何が契約の趣旨で,帰責事由をどう判断すればいいかというところの間接的な考慮要素として考えるのか,それとも,中井委員の場合は,むしろ,社会通念から直接に帰責事由の判断基準が生まれてくるということのようで,こういう関係が,ちょっと,そこに違いがあるのかなと思います。 ○中井委員 鎌田委員がおっしゃっていただいているように,私の意見は契約の趣旨を狭く考えていますから考慮要素としてまず入る。そこに取引の諸事情を入れるのなら取引の諸事情というのは考慮要素で入る。判断基準においても第一次的には契約の趣旨で判断するかもしれませんけれども,判断できない領域は必ずあるだろう。それは取引の諸事情若しくは社会通念に基づいて判断するという,そういう二重の意味で係っているというのが私の意見です。 ○松本分科会長 先ほど,鎌田委員は416条に免責条項が列挙されたら,それは強行規定になるかのような趣旨の御質問をされたけれども,これは任意規定ですよね。 ○鎌田委員 そう,そう。だから,強行規定か……。 ○松本分科会長 そうでしょう。だから,当事者の意思のほうが当然,優先する,したがって,契約の趣旨,契約はこうなんだということであれば,そっちが当然,優先する。契約からは解明できない部分について,一種の任意規定として補充されると,そういう構造ではないですか。 ○鎌田委員 そういうと,ここからは勇み足みたいになるのかもしれないけれども,一般的に言えば,契約といっても我々が日常的に結んでいる契約の大部分は,契約条件なんか何も協議しないで結んでいる契約ですよね。それから,更に言えば,契約外の債権債務もある。そうなると,実際には具体的な契約内容の詮索ではなくて,普通に契約する人というのはこんなところでしょうということを考慮することになります。   そのときに不可抗力まで責任を負うという意識は誰も持っていないでしょう。契約の定めが仮にあったとしても,そこまでは定めていないときは,普通の人はどう考えているかで決めましょうというのだとしたら,こういうときは一般的には責めに帰すべき事由はないものとされていますというのを提示して,しかし,契約解釈によって,それとは違うものがあるときは,この限りではありませんよという留保を付けておけば,割と広くカバーできて,そして,契約の趣旨説が言っていることも本当はカバーできているのではないかなと思っています。   それが,先に契約の趣旨からいくとこうなりますと言っておいて,同時に,こういうものは定型的に帰責事由なしですよとやってしまうと,多分,判断構造が非常に見えにくくなる。契約の趣旨説を仮に採るとするとですよ。前提が違えばまた全然違うので。そういう意味で,純粋な契約趣旨説でいくと,こういう高須幹事の提案したような規定の作り方というのは,全体の構造が何を考えているのか,よく見えない形になりそうだなと,そういう意味で申し上げたので,強行規定,任意規定の点については全く松本分科会長のおっしゃるとおりです。 ○高須幹事 こういう御批判を頂くのであろうということがこの間の議論とか,ほかの先生の具体的な条項案のイメージ等で私なりには理解したつもりでございますので,2のところの1,2,3と単純に並列するのではなくて,1,2等のうんぬんというような形で,前回,バスケット条項というような表現も出たわけですけれども,そういう形に例えば工夫するということは,あり得る選択肢だろうと思っております。決して,このまま,こういう形で残してほしいと強く申し上げるものではないと思っております。 ○沖野幹事 定式の表現について屋上屋を架すようですが,不可抗力の点と,それから,契約の趣旨の捉え方の広狭について付言させてください。高須幹事御自身が提案内容については既に修正案をお考えであって,1号,2号,3号,単純列記ではなくてバスケットクローズを置く,そして,恐らく債務不履行を生じさせた原因が債務者の負担とされるべきでないときということが契約に照らして判断されるという,そういうものがバスケットクローズとして置かれて,その例示として不可抗力とかいうのが置かれるという構成だと理解しています。   不可抗力自体も非常に微妙な表現で多義的であり,しかも,民法においてもほかでも使われており,他の法律でも使われており,使われ方が多少違っているということがあるので,不可抗力という表現を端的に使っていいのかということも気にはなるのですが,仮に天災事変というようなことを考えますと,天災があっても3日でお届けしますとか,チャーター便とかを全部手配してやりますというふうなことを売りものにしていたときに,でも,できなかったという場合に,天災のためにできなかったんだから免責されるということには,やはりならないわけでしょうから,不可抗力ということによって,どこまでかということが,これ自体非常に漠とした概念だと思いますし,不可抗力を単独の事由として掲げるのはやや危ないという感じがいたします。不可抗力がまず置かれて,さらに例えば2号でコントロールが及ばない領域を示すより具体的な場合が個々に挙げられて,そして,バスケットクローズがあるという構造にしたときに,不可抗力というのもバスケットクローズに照らして該当するかどうかが判断されるのだということがきれいに説明できるような形になるのかどうかというのが,なお気に掛かります。それに当たれば,当然,そうなんだということにはならない含みを持たせられるような表現をどう工夫したらいいんだろうかということが気になる点です。   二点目が契約の趣旨ですけれども,既に明らかになっておりますように,分科会長がおっしゃったように新しい表現の出し方というか,その判断構造について新たな表現をすると,それがまた,誤解を招く可能性があるとおっしゃって,正に今回,その二つの誤解の可能性というのが出てくるのではないかと思います。契約の趣旨の捉え方自体が既に広狭あってその点で違っており,それが元々の考え方の違いを生んでいると思います。契約の趣旨自体は私自身は広いものだと考えており,各種の事情を考慮して,正に契約の趣旨が決まると,あるいは当該当事者を取り巻く類型的な考慮が当然,前提になっているんだから,それを踏まえて契約の趣旨が決まるということからすると,確認的な意味で置かれたその他の事情の考慮というのが確認的でないという誤解を生み,契約の趣旨というのはすごく狭いものだと解釈されかねない。   そのために契約の趣旨ということがほかでも使われるとしますと,ここではすごく狭い意味なんですよと,例えば契約書に書いてあると契約の趣旨は決まってしまうんだとか,それはそうではないと思うんですけれども,そういう誤解へとつながりかねないのではないかと。そうすると,他の規定の書き振りとそれへの影響も十分考えて検討する必要があると思います。  それから,契約の趣旨ということにどういうことを盛り込むかということに既に広狭両方の考え方があって,そこの理解のそごがいろいろなところで立場の違いを生んでいるということがあると思います。そうしますと,契約の趣旨というものがどういうものかというのを明らかにするより一般的な規律を置くことが考えられるのではないかと思います。当該契約における当該当事者のカスタムメードの法律関係と言いますか,それが何なのかがどのような事情を考慮して,どういう形で判断されるかということを明らかにする規律を置くと,それを基礎に考えていくということができるのではないかと思います。そういう規定を契約の解釈のところに置くことが一つの方策として考えられそういう規定を想定することで大分,解消ができるのではないかと思います。   それから,もう一つは,具体的な表現の点ですけれども,契約の趣旨に照らし,諸事情を考慮してというと,契約の趣旨と諸事情は別という感じがするので,どちらかというと,諸事情を考慮して契約の趣旨が決まるという何か順番のイメージもあるのかなと思いました。直ちに提案は持っておりませんけれども。 ○山野目幹事 三点,申し上げます。   しばらく前の鎌田委員の御発言で,私が書いた文章は外在的な要素の直接注入で書かれているのか,それとも,間接的な考慮で書いているのか,というお尋ねに関しては,両方のお立場から読んでいただきたいというつもりで書きました。それで,この際,強調を申し上げたいと私が感ずることは,この問題について議論してきましたけれども,今般,履行障害法の改革の最大の収穫物でなければならないものは,しばらく前に内田委員がおっしゃったように,単純素朴な過失責任主義で理解されてきた従来の履行障害法の考え方を放逐するということであって,そのことについては弁護士会の先生方と研究者委員との議論の積み重ねによって一致をみていると感じられます。   そこが一致をみたのだとするならば,あとは文言として,そのことが伝わるようなものを可及的に追求するために,努力を重ねなければいけない段階にきていると考え,そのような気持ちで両方から読んでいただくことを期待することができるもの,先の単純素朴は過失責任主義の放棄から後のところについて,契約の趣旨の広狭について完全な意見の一致を見なければ進まないということになったのでは,豊かな成果を得るゆえんではないのではないかと感じて,こういうことを考えてみました。   それから,二点目ですけれども,「その他の事情に照らし」というのを付け加えると,ほかの規定で文言として契約の趣旨を書いたときに,誤解を招くおそれがあるという沖野幹事の御注意はそのとおりであると感じます。誤解は払拭するための努力を重ねていくほかはなくて,その他の規定を立案するときに,1か所,1か所,それは注意していかなければならないという,そういうお答えをもし仮にこの考え方でいくときには,差し上げざるを得ないものであろうと感じます。   三点目ですけれども,少し前に,創設的か,確認的かと申し上げましたけれども,実は仮にこういうふうな規律表現をしたときに,弁護士会の先生方は確かに「責めに帰すべき事由」の伝統的解釈で教育されてきたところにこういう議論が入ってきたから,高須幹事がおっしゃったように,にわかには契約の趣旨だけでは受け入れられないよ,とおっしゃるかもしれませんが,今般,履行障害法の改革がされ,それにつて啓発がされて,法学教育等でもっとこれが敷衍されていけば,やがて,弁護士の先生方も「その他取引の諸事情に照らし」の部分というものは,結局,契約の趣旨の確認の部分がかなりの部分を占めるかもしれない,そこはもう少し考えてみよう,という御話にもなってくるのかもしれません。存外,今世紀終盤にはここがゼロ収縮している可能性だってなくはないものであろうと感じます。ただし,それは分かりません。それは今後の議論の発展に委ねるという側面もあって,そのようなことを考慮した文言が更に工夫されていってよいのではないかと感ずるものでございます。 ○松本分科会長 結局,契約の趣旨というのがクリアに定義できて,みんながコンセンサスをとれるような内容で決まれば,それを使った条文は可能だけれども,今のところ,人によって全く違うという中で,それが入ると混乱が生ずる可能性が大変多いのではないかということだと思いますので,どこかで誰かが契約の趣旨とは何ぞやというのをはっきりと定義して,それについて少し議論をしたほうがいいのではないでしょうか。そうでないと,いろいろなところで「契約の趣旨」という言葉が出てきて,その度に同じ議論を繰り返しているという印象があります。広く考えるのなら,広く考えるのだということで,そういう定義をして,そこには社会通念も入るんだという定義をすれば,それでいいんだと思うんですけれども,それができないということであれば,そういう曖昧な言葉は使うべきではないのではないかと思います。 ○内田委員 せっかくまとめられたのに申し訳ないのですが,契約の趣旨という言葉について私は使ったほうがいいと思っていました。ただ,その中身について理解が一致しないので,取引上の諸事情とかなんとか,ほかの言葉を並列であれ中に入れてであれ付けて,とにかく合意が形成できればいいかなといい加減に思っていたのです。ところが,鎌田先生の問題提起は,鎌田先生御自身がどう考えられるのか非常に興味があるのですが,ただ,部会長に意見の開陳を強いることがいいのかどうか分からないので,もし,差し支えなければ,後でお聞かせいただければと思いますが,鎌田先生の問題提起,あるいは沖野さんの御発言も聞いて,規定の仕方によっては契約の趣旨が非常に狭く解される恐れがある,ということであるとすると,私は危惧を覚えます。   鎌田先生が言われたように我々の日常の契約というのは,契約条件なんか一々合意しないで結んでいますし,我々の日常だけではなくて企業間もそうでして,書面もつくらない,取引の中心部分の合意のみで,ほかのことは何も決めていないという企業間契約は一杯あるわけですね。そのときに,もちろん,契約内容を補充しないといけないわけですが,当事者の仮定的な意思などというものは特にないというときに,社会通念とか,社会規範とか,取引規範が外から入ってきて,契約の趣旨の外で規範が形成されているのだと考えるとすれば,それは適当ではないのではないかと思います。   当事者は契約をするときに,あるものを幾らで買うという合意だけしかしていなくても,ほかの条件は当然,この業界で取引をする以上は,それなりの合理的な内容で補充されるであろうという期待の下に合意をしている。およそビジネスはそういう前提で成り立っているのだろうと思います。その補充される部分が実は全部,契約の外の規範であり,それを決めるのは裁判官であるという話になると,実際の取引をする人たち,ビジネスをする人たちの意識から離れてくるのではないか。やはり,補充される部分も含めて取引の内容であり,契約の内容だと考えられているのではないと思います。そういう理解ができなくなるような形で条文が作られるというのは危惧を覚えます。かといって,松本さんが言われるように契約の趣旨の意味を誰かが定義すべきであるということになると,学界では絶対に意見は一致しませんので定義は無理だとは思うのですが,ただ,余り狭くなるような形で条文は作らないほうがいいのではないか。   不可抗力が契約の趣旨に入るかどうか。この辺になるといろいろ立場はあり得ると思うのですが,多分,国際的にはフォースマジュールというのは,契約の外の規範と考えられている場面も多いのではないかと思います。しかし,様々な規範が補充されて契約が作られる,取引のいろいろな通念によって補充されて契約は作られる,その全体が契約であるという理解を不可能にしないような規定が望ましいように思います。 ○中井委員 今の話を聴いて,契約の趣旨と社会通念というと不適切かもしれませんが,例えば取引慣行,その業界での在るべき取引の内容について,先ほどから外在的か内在的かとおっしゃられて,私は取りあえず外だという形で申し上げたわけですけれども,今の内田委員のお話を聞いて,外にあるものを契約の中に取り込むという考え方自体に対して,それは不適切だと,それは契約の趣旨の中で形成されたか,確認されたこととして考えていくべきだ,だから,契約の趣旨は広くすべきだと,何か対立的におっしゃったんですけれども,私はそこがよく分かりません。   私は,そんな対立的な意思を持って申し上げているわけではなくて,通常の企業間の契約でも10か条もないようなものが山ほどあって,それで大変大きな取引もしている。そのときに,その契約だけを読んでも分かりません。分からない部分について一定の紛争,問題が生じる,そういうのは山ほどあり,そのときに,それをどう解決していくのか。それを契約の趣旨のみでは理解できないので,当該取引における取引慣行なり,その業界における隠れたるルールなり,当事者の隠れたる意思なりを探求していって,それでもって紛争解決についての一定のルールを発見しようと,こう考えているわけですね。それは,今の内田委員の言葉で外在的なものを契約内容に持ち込んだとして,非難されなければならないことなのでしょうか。決して,そういうことをおっしゃっているのではないですよね。同じ事情を内か外かと言い合っているようで・・。 ○内田委員 今,おっしゃった外在的なものに対する内在的な部分というのは,契約の趣旨ではなくて合意ですよね。明示的な合意で決まっていないことを取引慣行とかで補っている。その取引慣行で補われたもの全体が契約なのであって,明示的な合意部分だけが契約ではないのだと思うのですね。ところが,明示的に合意した部分だけが契約であるかのように読まざるを得ない条文になると,ちょっと,それは狭過ぎる,そういう趣旨です。 ○山野目幹事 今,中井委員がおっしゃりかけたこと,まだ御意見を確かめたいところが残っていますが,しかし,契約の趣旨ということについて中井先生がおっしゃったことは,一言で言うと,かなり柔らかいものであると感じます。そこまで柔軟におっしゃるのであれば,内田委員や沖野幹事から頂いた御注意などを踏まえて,取引をめぐる諸事情などを考慮して契約の趣旨を,というふうに,取引の諸事情のほうを前に入れてつなぐということにすれば,契約の趣旨が狭く理解されるという危惧にも応えられるし,中井委員の御話の感覚からも,それほど乖離しないものであろうと感じます。   そうであるとすると,そこから先はもう少し書いてみて,今日,幾つかお出しいただいた注意を可能な限り考慮することとして,複数の交錯する要請や注意があるとしても,それらを最大限,考慮したような文言の工夫というものは,どうなのか,ということをしてみなければいけないし,何か,それは努力をするならばいけそうである,という気分も,今の御発言を聴いて感じた部分がございます。 ○中井委員 一点だけ補足ですけれども,そういう意味で改めて皆さんのお話を聴いているときに,この資料32の23ページの下,甲案の別案の1のところに「契約の趣旨」の前に,これは極めて様々な事情ですけれども,「契約の目的,性質,対象,当事者の属性,契約締結に至った事情その他」,これこれから認められる契約の趣旨という定義の仕方をされている。契約の趣旨の中に私の思っている事情も盛り込んで,それが契約の趣旨だとしています。後段の書き方については,なお帰責事由についての評価の場を設けたいという気持ちはありますので,後段はさておき,山野目幹事がおっしゃったことにも通じるとすれば,検討の価値があることについて否定いたしません。 ○松本分科会長 外か,内かという議論をすると,例えば任意規定というのは内なのか,外なのか,つまり,当事者は合意していない,任意規定でいこうという合意もしてもいない,何も考えていないという場合はどうなのか。それから,約款があるという場合に,約款でやろうという意思を明示していないときは,約款による補充というのは外からなのか,内からなのかというような問題。あるいは,条理というのは内なのか,外なのかといった議論をしていくと,多分,どっちの説明も可能なわけです。内でくくろうと思えば内でくくれるし,外からだと言おうと思えば外からだ言えると。結局,全て内,契約の中から出てくるんだという説明は,合意というところに根拠を置いて拘束力を説明するという点では一貫しているんでしょうが,結局,あなたがそう決めたんだからということで責任を負わせるロジックとして使われる,結局,あなたが契約したんだからと。   それを第三者が言うときに,契約の趣旨からそうなんだという説明になるわけで,外在的な社会通念で決められると,当事者が意図していないことについてまで押し付けられるのではないかという危惧と似たような危惧が,内から出てきたんだからというロジックで押し付けられることになります。結局,そのどっちにしても,第三者が押し付けるというのは同じではないかというところがあるのではないですか。 ○中井委員 その点は繰り返し申し上げますけれども,契約外在的なものが契約をオーバーライドというんですか,乗り超えることはあり得ないと思っているんですね。ですから,それは1930年代を持ち出すまでもなく,今日においても,契約の趣旨若しくは契約の合意内容なのかもしれませんけれども,契約の内容を認定できるにもかかわらず,他の規範がそれを乗り越えていくということを想定しているということは全くないわけです。 ○山野目幹事 そうおっしゃっていただけるのなら,正に中井委員が先ほどおっしゃったように,甲案の別案1に着目することとして,それをその文言のままでよいかとかいうことはありますし,ただちに細部がこれでいいとはもちろん思いませんけれども,ここから出発して育てていくことについては,何か,みんなで作業していけそうな感覚を抱きますけれども,違うでしょうか。 ○中井委員 言いかけたのは,そういう考え方に付け加えたかったのは,弁護士会が危惧しているのは,それでもピュアな契約の趣旨ということになるんでしょうか,合意の徹底化に対して常に危惧があります。それは先ほど不可抗力があっても,3日以内に物を運ぶと契約したら,それは契約は契約ではないか,という考えに対して,それには何らかの合理的な修正をしていこうという気持ちが働く。そのときに何らかの常識的な,社会通念的な判断というのを常に持ち込みたいという潜在的欲求があるのです。   行き過ぎた裸の合意に対して歯止めを掛けておく必要性というのは,現実,契約実務の中でやはり見られる。それは対等当事者間が誠実な交渉をして,最もすばらしい合意をすることが本来あるべきでしょうけれども,現実社会は必ずしもそうでもない。極めて希薄な合意という場面もありますし,力の立場の違うところで行われる合意もありますが,これに対して何らかの制約原理で契約の中で解決しておきたい。これに対して,それはその契約内容で解決する場面ではなくて,そういう問題があるとすれば不当条項規制なり,他の保護的な規範でもって解決すればいいではないかという山本敬三先生の部会での御意見に対して,それはやはり留保しておきたい。これをどう折り合わせるかということではないかと思っています。 ○松本分科会長 局面は二つあって,一つは当事者の合意がきちんと分かるにもかかわらず,別の法理でもって,それをオーバーライドする形で社会通念を働かせていいのかという点です。もう一つは当事者の意思からは判断できない,何らかの擬制をしなければならないという局面で,それを契約の趣旨という,あなたは多分,こう考えていたはずだという,あなたの意思に還元する形で持っていくのがいいのか,それとも,それは外からというか,客観的な評価として入れたほうがいいのかという点です。やっていることは多分,同じだと思うんですが,説明のロジックとしてどちらがいいのかということに尽きるのではないかと思います。 ○山野目幹事 中井委員がおっしゃったことと分科会長がおっしゃったことに正に尽きるのでありまして,今後の作業の方向性を見定める上で,本日の収穫は極めて大きかったものと感じます。その上で分科会長に進行のお尋ねですが,沖野幹事がお出しになった選択債権の問題は今日はしないということでしょうか。 ○松本分科会長 失礼しました。415条の論点は対立点がクリアになったところで止まったかと思いますけれども,沖野幹事から提出された意見書,すなわち,選択債権のところを最初,入口だけ議論をして,沖野幹事がいらっしゃらないのにやるのはよくないのではないかということで止めていたので,そこをこれから行いたいと思います。 ○筒井幹事 つなぎで一言だけ発言いたします。沖野幹事から事前にペーパーが提出され,あらかじめ電子メールで会議メンバーの皆さんにお届けできましたので,本日の会議の席上では全文を読み上げることはせず,各項目についての御意見の要旨を私から簡単に御紹介させていただきました。その中で,3のその他として四つの論点を挙げていただいたのですけれども,そのうちの(1)と(3)は条文化の際の工夫といった観点からの御提案で,非常に有益な御指摘である反面,今後の審議で独立の提案として取り上げていくにはやや細かいと思いましたので,今後の条文化の作業における留意点として受け止めたいということを私から申し上げました。   それから,3(2)については,民法410条に関して選択権が相手方に移転する等の内容に改めるという御提案は,新規の提案ではないかという御紹介をし,それから,3(4)については,パブリックコメントに寄せられた意見のうちの一つで,任意債権に関する規定を新設すべきであるという意見にスポットを当てて御紹介いただいたもので,これについても,この場で議論する必要があるのではないかという御紹介をいたしました。恐れ入りますが,沖野幹事から補充していただければと思います。 ○沖野幹事 今,御紹介いただいたとおりで的確に御紹介を頂いたと思います。補充の必要ないのですけれども,それでも申し上げますと,不能の場合の処理は潮見幹事が部会で御指摘になった点であり,原始的不能論の処遇とともに考えておくべき事項として,一つは不能条件の問題,一つは選択債権の不能の場合の処理とが指摘されました。不能条件は必ずしも影響しないのではないかというのが前回分科会でも整理されたところです。これに対し,こちらの選択債権の場合には,正に給付内容そのもののほうですので,連動して考える必要があるのではないかという問題意識です。連動して考えるとすると,その先にリスクの取り方の問題があると思われまして,選択権の移転というようなことも考えるのではないかとしています。ただ,この話自体は原始的不能論がどうなるかということと関係する面がありますのと,もう一つ,リスクの取り方というのがこれでよいかという点と両面があって,直ちにどうこうということができるものではないのかもしれません。それから,これを強く推すというつもりではなく,こういう考え方もできるのではないかということを申し上げたつもりです。   もう一つの任意債権は,パブリックコメントですとか,あるいはNBLに掲載されました意見に出ておりまして,今,取り上げておかないとなかなか取り上げることが困難ではないかと思いましたので,既にメンバーの方々は御承知のことではありますけれども,選択債権に関連付けて注意を喚起したという程度のものです。具体的にどのような規律が必要なのかは,実をいいますと,金融取引においてその必要性があるという御指摘なのですが,私自身は十分に実感できておりません。ですので,取りあえず,問題としてあるという点だけ留意をしておいて,正にこういうことが必要だというものを出していただけるようなきっかけを作れればという趣旨です。 ○山野目幹事 筒井幹事のほうから御紹介のあったその他の(1)から(4)までの論点のうち,(1)と(3)の扱いは筒井幹事の受け止め方でよろしいと感じます。(2)と(4)の新しい問題提起は,いずれもこの分科会で御異論がないのであれば,新しい問題提起として,これについての検討を始めるべきであるという具申を部会になさっていただくことが相当であると考えます。簡潔にそのことのみを申し上げればよろしいのですが,若干,自分の感触を付け加えますと,(2)のところの,一ないし複数の給付が不能である場合の選択権移転構成は,これを一つの候補にして今後の議論を続けるべきですし,又は分科会でそれを現行規定と対比検討せよというお話があれば,それをすればよいものであろうと思います。いずれにしても,それほど事務当局に大変な作業をお願いする必要はなくて,既に沖野幹事がここまで作っておられますから,このようなものをバージョンアップしていっていただくことでよろしいと考えます。   それから,任意債権については実は私自身も気になっておりましたところの問題であり,任意債権に関する規定が沖野幹事が御指摘のとおり,現行法にはありません。それで,民法の規定が何をするか,という役割論にも関わりますが,概念を提示しておくという役割との関係でいうと,選択債権というものがあるのは分かるけれども,今の日本の民法の規定を読むと,任意債権というものがあることが分からない。例えばフランスの債務法の教科書を読むと,こういうものが全部並んでいます。任意債権のところを見ると,これも日本にあるかなと思って見るとどこを探してもなくて,学者の書いた本を読むと,そういうものもあると書いてある。このような状況は余りよろしくないと感じておりました。   ただし,実際の需要がないのに,そういうことを言っていくのは,いかにもアカデミックに偏った議論であるとも感じておったのですが,本日の沖野幹事の御説明を拝見すると,どれほど強い需要か分からないけれども,金融界からそういう側面の指摘がないではないというお話ですから,ここまでの根拠があるのであれば,やはり概念を提示するという役割に重点を置いて,規定を置くという方向がよろしいのではないかと感じます。そのようなものですから,余り詳細なもの,たとえば現行の選択債権の規定の数ほど設けるということは何か異様な感じがしますし,簡潔に必要なことのみを規定するような書きぶりが,恐らく,それしかできないでしょうし,そういう落ち着きどころがよいであろうと感じます。いずれにしても部会に対して検討の開始の意見を述べるということが相当であると考えます。 ○松本分科会長 先に410条のほうから議論していただきましょうか,こちらのほうがやりやすいでしょうから。 ○内田委員 全然,定見はないのですけれども,御意見がないようですので。沖野さんから一つの代案を出していただいているのですが,現行法の規定でなぜまずいのかというのがもう一つ確信が持てないのですね。選択債権というのは任意債権と違って,二つの給付が対等でどちらでもいいという状態にあるわけですので,一方が給付できなくなれば,他方になるというのが,何かごく常識的な感じがするのですが,それでも不能になったものを選ぶ余地を残すべきであるというのは,原始不能論との関係で理論的にというのは分かるのですが,実際上,そういう必要性はあり得るのでしょうか。 ○沖野幹事 実際の必要性は正直,分かりません。内田委員がおっしゃった通常の当事者をどう考えるかという観点からみるときに,給付が一本であるものが元々不能であったときにどう考えるかという話とは別で,選択肢としていずれかを選択する想定であるときに,片方はできる,片方はできないというときは,できるほうを選ぶのが普通ではないかと考えるとすると,当事者の通常の意思を基点とするということだとしても,原始的不能についての給付の取扱いが直ちに選択債権について同じ規律になるわけではないという,その余地もあると思います。   その余地もあるということも書いたつもりです。そもそもこういう考え方もあり得るという程度のものですので,強くこう変えたほうがいいというよりは,最初に基点となるのは原始的不能についての規律で,原始的不能についてどのような規律が考えられるかということが幾つかあり,それが決まったときに,そこから流れてくる可能性のある規律として複数が考えられ,その中に新しいタイプになるものについては規定のイメージを出したほうがイメージが湧きやすいのではないかという趣旨で,記載したものです。これを積極的に,是非こうすべきだというまでのつもりはないのです。 ○中井委員 沖野幹事からの(2)の提案が今の御趣旨だとすれば,ある意味で積極的ではなくて,理論的にはこうなるのではないかという御提案であるとすれば,現行法を変える必要性を私も感じませんので,不要ではないかという意見です。そもそも選択債権というのが実務的に本当に使われているのかということ自体,かなり限定されているのではないのか。幾つか判例はあるようですけれども,実務的にはそうではないか。今回,意見紹介した中でも,選択債権についてほとんど意見が出ていないというのが事実としてあります。   加えて,今のこの問題については複数の選択債権があって,そのうち原始的か,後発的かはともかくとして,履行が不能になったのであれば,残りのものに特定して何がおかしいのか。基本的にはそれが極めて素直ではないかという先ほどの内田委員の意見といいますか,感覚に全く同じです。過失のある場合については2項で残しているわけですから,そういうときはけしからんから,場合によっては選んで損害賠償等もできるのかもしれませんけれども,現行法の1項,2項の関係があるところに加えて,なお,AないしA2で選択権を残しておく必要性というのが本当にあるのだろうかと素朴に思います。 ○山野目幹事 内田委員,中井委員が御指摘のとおりであるとは感じますが,不能について,今,従来の考え方を本質的に変えるかもしれない議論をしているものですから,その出来上がりを踏まえた法典の内部における思想的一貫性は必要であると考えます。選択債権はめったに使われないとおっしゃられればそうですが,だから,ちぐはぐなものを作ったと言われるのは困るのでありまして,すごく大きな論点として扱ってくださいとはもちろんお願いしませんけれども,不能論の終着を見た上で,なお,このことも最後にもう一回,注意してみてくださいね,というくらいのことはテークノートしていただくというような扱いは,やはり,ここで切り捨てるということはしないで,していただきたいと感ずる部分がございます。 ○内田委員 不能論との関係では,給付が一つの場合に自分がそれを給付すると約束していながら,不能だから責任はもうありませんというのはおかしいのではないか。約束の中身をきちんと精査をして,正に契約でどこまで引き受けているかということですけれども,不能であっても不履行の責任は負うという場合もあり得るという議論だと思うのですね。でも,ここでは対等な二つの給付があって,どちらでもいいですよという状態で一方が給付できなくなったということなので,今の不能論はストレートに特定の結論を指示する形では効いてこないのではないか。むしろ,選択債権の場面での当事者の合理的な意思とか,常識といったもので判断できる問題なのではないかと思います。 ○山野目幹事 私もストレートに効いてくるとは感じません。ですから,念のため,御留意いただきたいという程度の話です。 ○松本分科会長 内田委員の御説明のところでちょっと分かりにくかったのは,選択債権が成立した時点において既に一方の給付が不能であったという場合,二つのもののうちから,どちらか好きなものを選んで,あなたにあげると言ったんだけれども,実は一つのものはもう存在しなかったという場合にどうなるのか。つまり,契約締結時点における原始的不能の場合における契約の成否,不履行になるのかどうかという話を選択債権成立時点における二つの債務の一方が不能であったという場合に置き換えた場合にどうなるのかという話が一つあって,それからもう一つは成立後に二つのもののうち一つが滅失したという場合にどうなるのかという話があって,この二つは別の話かと思います。後者の場合は帰責事由等がなければ,結局,二つのうちの一つに結果としてなったのだから,それでいいのではないかという話で収まると思うけれども,締結時点において一方が不能なのに選んでいいと約束したことの責任は,場合によっては残っているのではないかと思うんですが,そこを沖野幹事も分けないで議論されていますよね,このペーパーでは。 ○沖野幹事 最終的にはそうですね。原始的不能からスタートして,後発的不能の場合に更にどうなるかについては,規律は同じで最終的には同じでいいのではないかと。 ○松本分科会長 違うと評価したほうがいいのではないかと思うんですが,内田委員は一緒で,どちらも同じルールでという御意見ですね。 ○内田委員 現行法がそうなっているわけで,現行法に対して原始的不能論が影響してくるというのは原始的な不能の場合だけですね。その場合について原始的不能論のあの理屈が必ずここで別の結論を指示するかというと,そうではないだろうということを先ほど申し上げたわけです。そうであれば選択債権の問題として判断すればよくて,そうすると現行法の判断には合理性があるのではないか,ということです。 ○筒井幹事 民法410条に関する新規の御提案に関しては,本日,新しい御提案があり,ただ,必ずしもそれを強く推すわけではないという御説明がありました。それを踏まえて,本日の御議論では,中間試案に必ず盛り込むべき新規の提案として部会に報告するまでの必要はないようにも思いましたが,しかし,留意を要する一つの別の提案があったことを報告し,その上で中間試案のたたき台を提示する段階で,改めて部会でも話題にするという扱いにしてはいかがかと思います。 ○鎌田委員 もし生き残るのなら,一つだけ検討しておいてほしいのは,例えば甲不動産,乙不動産のどちらかを贈与しますよと言っておいて,その人が甲不動産をほかの人に売ってしまったら,故意による履行不能ですよね。そうすると向こうのほうに選択権が移って,甲不動産を選んで損害賠償をせよと請求できるようになるというのは妥当なのかなということです。これでいくと,そうなりそうに拝見したんですけれども,それはむしろ乙不動産を贈与するつもりで甲不動産は売ってしまったと理解したほうが妥当な気がします。 ○松本分科会長 選択権のある側が一方に絞ってしまったと。それは,普通ではないですか。 ○鎌田委員 これでいくと過失にというのだから故意も入るんだと思うんですけれども,故意または過失によって一本の給付を不能にした場合には,選択権が相手方に移る。債権者がどれかを選ぶ,そのときに不能になったものも選べるわけですから,不能になったほうを選んで損害賠償を請求することができるようになるという,そういう規範だとすると大丈夫かなということです。 ○山野目幹事 御指摘は分かりますが,そのことも含め筒井幹事の提案なさる扱いでお進めくださるとよろしいと考えます。 ○松本分科会長 それでは,もう一点,任意債権について御意見はございますか。 ○内田委員 実務的にこういう場面で使われているという例が挙がっているのですが,この例について説明をしていただける方がいると非常に有り難いと思います。 ○松本分科会長 契約の趣旨から何でもできるんだということであれば,規定は要らないということで,公序に反しないかどうかというレベルの部分だけが残るんですね。有効か,そういう合意が可能かどうかと。恐らく任意債権のようなものを金融実務で作る場合は,相当,細かく条文を立てて,きちんと契約書を作るでしょうから,そうすると,当事者の意思を尊重すれば,それは認めるべきだと,契約の趣旨からいって当然だという話に多分なるので,あとは公序良俗違反になるかならないかというところだけ議論しておけばいいのではないですか。民法で細かい任意規定を作ってあげる必要があるのか。それとも強行規定的に型をはめないとまずいタイプの契約なのであれば,それは民法に入れるのではなくて,むしろ,金融関係の法律に入れたほうがいいのかもしれないんですが,その辺りはいかがですか。 ○山野目幹事 そうおっしゃるのであれば,選択債権だってそうであると思います。別に公序良俗に反しないので民法に規定がなくても,どうぞ,おやりください,でもいいと思いますが,複数の給付が同じウエートで並んでいる選択債権とは別に,ここで任意債権と言われているように,主位的な給付を本来は給付すべきであるが,代用権を持つ者が代用権を行使すれば,従たる給付に取り替えることができるというタイプのものもあるのです,と,それについては非常に簡潔にこんなこともありますぐらいの規定を置いておくということは,概念の提示という意味であってもよいのではないかという意見を先ほど申し上げさせていただきました。ここに書いてある優先株,劣後債というものは,細かなことは存じ上げませんけれども,ある給付を負っているけれども,代用権を持つ者がそれに入れ替えるということは様々な取引でありそうな感じがして,その実例について沖野幹事が言及なさったのではないかと想像いたします。 ○岡本委員 この点については銀行界で議論したわけではないので,私の今までの経験というか,認識ということなんですけれども,任意債権の規定がないから商品開発とかの場面で困ったという経験というのは余り認識はないですね。任意債権も分科会長がおっしゃったように,公序に反しない限りはそういうものを作れるというのは当たり前なのかなと思うものですから,特に懸念なく,そういう条項を作ることはあり得ると思いますし,それを作った場合でも,任意債権の規定がないことに照らしてどうかということは,余り問題視されてきていなかったような気がいたします。ただ,そうではあるんですけれども,規定を設けないほうがいいかというと必ずしもそうではなくて,選択債権についての規定があるのと同じように,メニューとしてこういうものがあるんだということを規定すること,そういう位置付けであれば置いてもおかしくはないのかなとは思います。 ○内田委員 今の岡本委員の御発言と同趣旨なのですが,選択債権の場合,甲給付と乙給付があって,甲が不能になれば乙になるという,この規定がいいかどうかという議論を先ほどしたわけですが,そういうルールが今あるわけですね。任意債権の場合は主たる給付が甲で,代用し得るのが乙であるという場合に,甲が不能になると免責されるわけです。結果がはっきり違うわけですので,もちろん,それを合意で契約に書けばいいではないかということは言えるのですけれども,契約書にこれは任意債権であると書ければ簡単に契約の中に組み込めますので,そういう道具を用意しておくということには,意味があると思います。ただ,ヨーロッパには任意債権について非常に詳細なルールがあるようですが,日本でどうして実例がないのか,実例はあるのかもしれませんけれども,その規定を置けという声がなかなか上がってこないのはなぜかと不思議に思うところはあります。しかし,規定があれば,多分,使われるのではないかという気はいたします。 ○松本分科会長 恐らく今回の債権法改正の一般的姿勢として,任意規定をどれぐらい用意をして,教科書的な定義規定をどれだけ用意するのか,あるいはどれぐらい典型契約の増やすのかというような問題と共通の論点だろうと思います。使ってほしいということでなくてもいいんだけれども,メニューを提示する方向にいくのかという話だろうと思いますので,ここの議論だけでどうこうということは恐らく決まらないだろうと思います。   もう一点,選択債権というのも任意規定ですよね。強行規定ですか。 ○山野目幹事 任意規定ではないですか。 ○鎌田委員 だから,逆に沖野さんはいろいろその辺の留保を明示的に書こうという提案もされている。 ○松本分科会長 契約の趣旨でみんな決まってくるんでしょう。 ○沖野幹事 任意規定ということの意味なのですけれども,選択債権に関する規律が例えば選択権者が債務者ですというのは,決めれば債権者にもなるしと,その意味では任意規定だと思うのですが,選択債権という概念が任意規定かと言われれば,それを変えるともはや選択債権ではなくなるということだと思うので,そういう基本的な概念が必要なのではないでしょうかという意味で,任意債権についての規律ということが考えられるのではないかと。実際の実務は,今,それで回っているわけでしょうし,個別具体的な規律内容を合意し,書き切るということで対応されていることだけれども,それでも何か一抹の不分明さが残るということであれば,その部分の解釈を展開するための基本概念を用意するということはあり得るのではないか。   その意味で,規律は全部契約に書いてしまえば,それはそれでいけるでしょうという,その意味では任意債権という概念もありますねということを書かなくてもいけるというのは,そのとおりだと思います。けれども,任意規定かどうかというときのイメージというか,使い方というか,それは二通りあるのではないか。基本的な概念を提示するという意味と,その具体的な規律というのがどういうものであるかとで,具体的な内容の詳細は,当事者が決めれば別の内容があるでしょうということではないかと思います。 ○松本分科会長 多分,ここでは答えは出てこないと思いますから,どこかで共通の方針を決めるときに議論をしていただければいいかと思います。 ○鎌田委員 中身を具体的にしておかないと,次にこれからもうちょっと詳しく検討しましょうというわけにはいかない。 ○松本分科会長 講学上,議論されている概念はたくさんあると思うんです。そういうものも民法に入れておくほうがいろいろ便利ではないかというレベルの議論をどこまでするのかという話が一つあって,それから,本当に実務上,ニーズがあって,民法に手掛かりを置いたほうがいいんだという話と,少し次元が違うのかもしれないですね。 ○内田委員 任意債権は,純粋に講学上というのではなくて,実務界からあったほうが有益であるという声が上がっているので,それで置いても害はないのではないかという議論になっているのだと思います。 ○筒井幹事 任意債権に関する議論の取扱いについてですが,沖野幹事からの御提案も,分科会で話題にしてはどうかという限度で,パブリックコメントの一つの意見にスポットを当てていただいたということであり,まだ具体的な提案として何かが出ているわけではないと思います。ですから,本日,この場で議論があったに触発されて,今後更に具体的な提案が出てくるようであれば,部会での議論に乗せることを改めて検討することとしてはいかがでしょうか。具体的な提案というのは,このメンバーからであっても,外部からであっても構わないと思いますが,もう少し具体的な提案を待って今後の取扱いを考えるというのが私の意見です。 ○松本分科会長 分科会で決めることではないと思いますから,それで結構です。  ○山野目幹事 進行の確認ですが,選択債権は今,沖野幹事が新しく追加してくださった論点の議論をしたものですから,本来の論点の議論は済んでおらず,次回もこの部会資料を持参するということになりますね。当然のことの確認になってしまいますけれども。 ○松本分科会長 本体の部分は議論しなくていいというおまとめだったのではないですか。筒井幹事の話では。 ○鎌田委員 いや,沖野さんが来てから議論しようとした。 ○山野目幹事 選択の遡及効の規定を削るか,削らないかとか,第三者が選択権を持つ場合の撤回の問題などは,急いでしてしまえばできなくはありませんが,余り急がないという御判断をされたものであるとお見受けしました。 ○鎌田委員 やってしまったほうがいいのではないですか。 ○松本分科会長 それはもう議論する必要がないと整理されたので,私はそうかなと思ったんですが,そうではなかったんですか。 ○筒井幹事 それは,3のその他の提案について申し上げたのですが。 ○内田委員 ただ,先ほど,意見が出なかったので。 ○沖野幹事 ちょっとだけよろしいですか。撤回についてはそのままの考え方どおり,規定を設けてはどうかと思っております。それから,ただし書の遡及効は,多少気になります。パブリックコメントでも削除して大丈夫かという点と存置しても無害ではないかという点が指摘されています。それから,ここに書きましたのは当然に対抗力が取得されるような場合に,遡及効制限ということがなお考えられるのではないかと思われますので,従来は働く場面はほとんどないと言われていたのですが,本当に全くないのかというところが,なお大丈夫かという不安を感じておりまして,ないと言い切れるならば削ってしまえばいいんですけれども,あることによって害がないのであれば,念のため,置いておくということも,なお考えられるのではないかというつもりです。 ○山野目幹事 6の論点は沖野幹事と同じ意見であり,この規定を設けるという考え方を採用すべきであると考えます。6のイの論点は,私個人の感覚としては選択の遡及効の規定のただし書は気持ち悪いから削りたいと思っていましたが,今日の沖野幹事の御注意を伺っていて,第三者との関係を論ずる必要がないという,ないことの証明というものは難儀ですから,本当になくしていいのですかとおっしゃられれば,確かに心配になってきますし,考えてみますと,今は見付からなくても将来に向けて様々な,とりわけ無体の権利が生成していって,それについての効力要件や対抗要件の仕組み方によっては,このような規律が話題になる局面があるのかもしれません。そのときの規律の在り方が遡及効を制限するただし書の規律が本当にいいのかどうかも,本当は議論されなければならないと感じますが,しかし,そういうことを詳らかに議論することができないとすれば,現行法を維持するという考え方にも相応の説得力があるであろうなというふうに,沖野幹事のお話を伺っていて感じました。ここは感想にさせていただきます。 ○中井委員 弁護士会で意見ですが,6のアについてはこの方向で賛成である。イについては沖野幹事と同じように,害がないのであれば,取りあえず置いておいたほうがいいのではないのというのが多数意見でした。 ○鎌田委員 具体例で例えば,甲特許権と乙特許権のどちらかというケースで,甲特許権について通常実施権が設定されているとすると,特許法改正で通常実施権は当然対抗になったので,その後に選択の対象を甲特許権にして遡及効があると,通常実施権は消えてなくなるのか,当然対抗の趣旨からいって移転はするけれども,通常実施権だけは残ると考えるべきなのか。今,沖野先生のこれはむしろ遡及効でひっくり返ってしまうのだから,第三者保護規定があって初めて通常実施権は生き延びられるという,そういう御理解ですね。だとしたら,ただし書は必要だと,こういうことになる。従来は対抗問題で処理するからただし書は働かないという議論のされ方をしていたんですよね。 ○松本分科会長 一般論化して言えば,対抗要件を満たしていなくても第三者に主張ができる場合があり得るから,それを後からひっくり返すというのはよくないということですね。 ○鎌田委員 ひっくり返ってしまうと考えるのか,当然対抗なんだから,ずっと対抗できると考えるのか,解釈論的には両方ありそうで,ひっくり返るというほうが素直そうには思うんですけれども,それはやはりただし書があったほうが,そういう議論は避けられる。 ○中井委員 今の特許権も結局は対抗できるという制度になったのですね。ですから,それで対抗できると考えるか,それで対抗できないんだけれども,この救済規定で助かるか,どちらにしても助かるという方向の結論ですね。 ○鎌田委員 ええ。そうしないとまずい。 ○中井委員 それなら異論はありません。 ○松本分科会長 ということで,特に削除したほうがいいという御意見はなくて,置いておかないとどうしても困るという意見も明確にはないけれども,削除した場合の万一のマイナス面を考えると,残しておいてもマイナスはないんだからという方向で,残すという意見で一応,分科会としては一致したということにさせていただきます。よろしいでしょうか。消極的存置論ですが。 ○内田委員 今まで余り意味がないと言ってきたのに,という気はしますけれども,結構です。 ○松本分科会長 よろしいですか。これで一応,当初の予定の半分ぐらいまで終わったかと思いますが,中休みまでの間に415条を終えるというタイムスケジュールだったですけれども,今回も半分しか終わらなくて,どうも,失礼をいたしました。   最後に次回の議事日程等について事務当局から御説明を願います。 ○筒井幹事 この分科会としての次回会議は4月24日,火曜日,午後1時から午後6時までです。会場は未定ですので,追って御連絡を差し上げます。次回の議題は,本日の積み残し部分と,次回会議までにこの分科会で取り扱うこととされたテーマになります。どうぞよろしくお願いいたします。 ○松本分科会長 それでは,本日も大変熱心に御議論いただきましてありがとうございました。これで本日の審議は終了させていただきます。 -了-