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愛媛県人権啓発活動ネットワーク協議会
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私の生きてきた道

宇和島市立城北中学校 3年 佐近 未妃

一九九七年四月九日、午後一時三分、体重一三五二g、身長三十九cm、胸囲二十九・五cm、頭囲二十七cm。これが、私の出生時の記録です。

超未熟児だったので、三ヶ月保育器に入ることになりました。ところが、私は網膜芽細胞腫という目の病気にかかっていたのです。この病気の発生頻度は、一万五千人の出生につき一人、両眼一に対し片眼二・六という割合です。私は両眼性でした。

一九九七年八月四日、愛媛大学医学部附属病院眼科に入院しました。八月二十日、手術左眼摘出、九月八日から十月七日まで毎日放射線治療、十月十日に退院しました。

その結果私は、生後約四ヶ月で自分の左眼を失いました。でも、私はまだ良い方だと思っています。本当であれば両眼とも失っていたからです。サポートされていた先生の中には両眼とも摘出した方が良いと言われた方もいたそうです。しかし、主治医が、まだ光も朝も夜も分かっていない、両親の顔も見ていないのに両眼とも摘出するのは不びんだということで右眼を残してくれました。私にとって最高のプレゼントになりました。

しかし、右眼も視力が良いわけではではありません。また、視野も狭いのです。私は幼い頃、地面の色が変わるたびに止まり、片足を出してツンツンとここは歩ける場所か確認し、さらに段差がないことを自分なりに確かめながら歩いていたので、母はこの子は自分で歩ける様になるのかと思ったそうです。今ではそんなことも無くなり、自転車も乗りこなせるようになりました。

現在も年に三、四回、松山赤十字病院に通院しています。幼稚園から小学校三年生までは特に何事もなく過ぎていきました。

ところが、小学校四年生の時、ネフローゼ症候群という腎臓の病気を発症しました。この病気には四つの症状があります。高度の蛋白尿・低蛋白血症・高脂血症・浮腫です。私は二〇〇七年九月二十五日に市立宇和島病院に入院することになりました。

また厳しい治療生活が始まりました。この病気の治療のために、まず食事制限がありました。食事制限といっても、ただ食べ物を食べないだけでなく、食事の味付けは塩分ゼロ、水分は一日三百CC以内、薬を飲むのもこの決められた水分量からでした。そして絶対安静、ベットから降りることもトイレ以外は許されませんでした。

人見知りだった私は最初は四人部屋の病室でカーテンを閉め切っていました。そんな中で私は一人の高校生と出会いました。彼女とは一ヶ月以上ともに入院生活を送りました。隣のベットの彼女は高校に通っていて、毎日、「行ってきます。」「ただいま。帰ったよ。」などと私は明るく声を掛けてもらい、しばらくするとずっとカーテンを開け切ったままでトランプをしたり、いろんな話をして過ごしたりするようになりました。私にとって彼女は心の支えになりました。その後、私は二〇〇七年十一月九日に退院しました。

その後、通院をしながら順調に回復したと思っていたのですが、六年生時に再発してしまい一番楽しい時期に入院してしまいました。ネフローゼ症候群は四人に三人は再発する病気だと聞きました。けれども、こんなことで落ち込んでいる状況でもなくなりました。

二〇一一年八月四日、定期検査で松山赤十字病院へ行くと、少しずつ視力が落ちているけどこれ以上は治療の方法が無いと言われました。八月二十五日にはだんだんと厳しくなるだろうと言われました。十月十三日には放射線で固めた腫瘍に水がたまり大きくなり、腫瘍が邪魔をして視力は下がっていくだろうと言われました。それでも、もともと五歳で視力を失うだろうと言われていたので、長いこともったなと思いました。また、網膜芽細胞腫は悪性腫瘍のためいつ転移してもおかしくないので、転移していない分よかったと思いました。

このような経験をしてきて、私は病気の人、障がい者、差別を受けている人こそが人の気持ちを理解し、優しさに満ちあふれていると思いました。

私の理想社会は、すべての人が支え合いながら生きていく世の中です。障がいがあるからといって助けてもらうばかりでなく、障がい者でも人を支えられるようになれたらと思います。私は、世の中の人たちに目が見えない人のことをもっと理解してもらうために、見えないとはどういうことかを伝え、健常者と視覚障がいがある人たちの架け橋になるような行動をしたいです。

いろいろな人たちが、住みやすい世の中にしていきたいです。

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