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第25回全国中学生人権作文コンテスト福岡県大会(北九州協議会部門)作品集

一緒に歩いて行こうね

私の父は、世間一般で言われる『障害者』です。久しぶりに親戚に会うとだいたいの人にこう言われます。

「お父さん普通に出来なくて大変でしょう。助けてあげてね!」

それから私は『普通』の意味をよく考えるようになりました。普通とは《特に変わったところのないこと》という意味で使われます。

何を基準に言っているんだ、と少し腹が立ちました。同じ人間なんて1人としていません。優しい人や怒りっぽい人。背の高い人や低い人。『普通』の基準は自分だと、私は思います。だから、左半身の動かない父を「普通じゃない」と言って泣かせないでほしい。

でも、父を1番最初に泣かせてしまったのは、私でした。

父は、つい1年ほど前に突然『障害者』になりました。脳梗塞からくる半身不随。左半身の自由がきかなくなり、車椅子が父の足になりました。

父が運ばれた時、何故か私だけ会わせてもらえませんでした。それから、私が父に会えたのは運ばれた日から3週間ほどたってからでした。久しぶりに見た父の姿。私は車椅子に乗った父の姿を見て驚くばかりでした。

それから父は厳しいリハビリに耐え、ようやく退院する事ができました。退院できたと言っても、左半身が動かないのは変わりません。1人じゃ何もできないのです。なので、「私が助けてやらんと・・・」と、いつも思っていました。

ところが日がたつにつれ、その思いは徐々にうすれていき、父の面倒はだんだんいい加減になっていきました。

ある日の事です。私がめずらしく勉強していると、いつもの様に隣の部屋から父の声が聞こえてきました。

「朝野、血圧をはかってくれんか。」

はじめは、快く引き受けます。しかし、血圧をはかり終わって勉強を再開すると、間もなく次の声が聞こえてきます。

「朝野、すまんが尿器とってくれ。」

私は『そのくらい自分でしてよ!』と言いそうになりましたが、ぐっとこらえて仕方なく腰を上げました。父に尿器を渡し、勉強再開!と腰をおろすと1分もたたないうちに、次の声が・・・。さすがにうんざりした私は、とうとう口答えをしてしまいました。

「もういい加減にしてよ!うちだってする事があるんやけ、立て続けにお父さんの面倒みれんのよ!前から思っとったんやけど、お父さんは人に頼りすぎ!ちょっとは自分で努力したら!すごい迷惑!」

そう言い放って、父の部屋をでていきました。自分の部屋に戻り、ため息をついてテレビをつけると、また父の声が聞こえてきました。でも、さっきとは違った様子でした。

私はそのまま動かずに、息をひそめて父の声に耳を澄ませました。しばらくすると、父は、かすれた声で私に「ごめんな。」と言いました。それから、父は全く私を呼ばなくなりました。私は少し心配になって、父の部屋をのぞいてみました。父は下を向いていました。泣いていたのです。怒っていたはずの私も、そんな父の姿を見てしだいに反省の気持ちが出てきました。悪いこと言ってしまったな。謝らないと。そう思っていると、私に気付いた父は、またこうつぶやきました。

「ごめんな。」

その言葉を聞いて、ついに私も涙がこぼれてしまいました。2人で「ごめんね、ごめんね。」と泣きました。

その日から、父はよく「あの時、死んでたら・・・」と言うようになりました。私が言わせているんだ、と思うと胸が苦しくなります。

だから、私は父をそんな気持ちにさせないために、毎日思いやりの心で父に接しようと思っています。

こんな日々の中でも、父が普通じゃないなんて思ったこともありません。むしろ『普通』より上の存在です。どんな姿であっても、私のお父さんです。

お父さん。

いつも隣にいるよ。

一緒に歩いて行こうね。

憎しみを越えて築いていくもの

昨年(二〇〇四年)は、オリンピックの年で、ワールドカップ予選が開催されていたということもあり、サッカーの試合をテレビで観戦する機会が多かった。日頃は、日本という国を意識することが少ない私が、サッカーの試合では、一生懸命にプレーする選手を観ているうちに、「がんばれ!日本」と心の中で叫んでいる。ゴールしようものなら思わず飛び上がって拍手をしている。

そんなサッカー三昧の中で開かれたアジアカップは異常だった。アジアカップを調べてみると、四年に一度アジアの国が集うサッカーの祭典で、一九五六年に始まり、その歴史は欧州選手権よりも二年古い。サッカーは欧州と南米が先進地域で、アジアは遅れていると思っていただけに意外な感じがした。しかも、日本は四年前の優勝国である。

父が熱狂的なサッカーファンで、私もちょうど夏休みに入ったこともあり、一緒にテレビ観戦をしていた時、異様な光景を目にした。マスコミも大きく取り上げたが、中国のサポーターが日本チームに激しいブーイングを浴びせ、国歌斉唱時にも騒然とし、鉦や太鼓を打ち鳴らして妨害をしたことである。色々な国に行った経験を持ち、イタリアでもプレーをしたジーコ監督が「国家斉唱時のブーイングは許せない。どういう状況でも尊重すべきだ」と語ったことが印象深い。さらに、日本のサポーターや日本選手団のバスに、中国のサポーターから罵声やゴミを投げられていた。「どうして」という想いが私の胸の中で一杯になって溢れた。これまでの私は、中国のことも中国人も比較的好きだったからだ。中華料理も好きだし、小学生の頃、中国雑伎団のテレビ放送を観て、中国独楽に夢中になって練習したり、ハロウィンの仮装ではチャイナ服を着て嬉しかったこと等を覚えている。中国は歴史が古く(遺跡が発見されるたびに変わるようだが、今は五千年の歴史と言われているらしい)礼節を尊ぶ国というのが中国に対する私の印象でもあった。それが今回の騒動でかなり変わったことは否定できない。

新聞やテレビによると、反日行動の一番激しかった重慶は、第二次世界大戦中に、日本軍が激しい空爆をした等の歴史的な背景があること、内陸部で経済発展が北京や上海に比べて遅れていること(一人あたりのGDPは五分の一位)への苛立ちや日本人留学生の寸劇問題、小泉首相の靖国神社参拝、尖閣諸島の領有問題等が絡み合い、このような事態になったと分析していた。また、中国政府の反日教育を原因に挙げている記事もあった。

はじめて知らされたこれまでの歴史的背景に、私は動揺した。ちょうど夏休みの社会科の宿題で、戦争体験者の話を聴くという機会があったので、更に関心を深めたのも事実である。私はしばらく語るべき言葉を失い、複雑な思いにとらわれた。

昔、戦争があった。そして、確かに残虐なことをしてきた日本。それは、国対国の憎しみにとどまらず、世代を超えて人対人となってしまっている。戦争体験のないサッカー選手やサポーターには何の罪のないはずなのに。

そうした感覚でみると、日本への中国人の反応と、アメリカに対する日本人の反応は、だいぶ違うと感じる。日本とアメリカは戦争をした相手国であり、広島・長崎に原爆を落としたのもアメリカである。だが、多くの日本人はアメリカが大好きだと思う。アメリカ映画を観て、アメリカ人の歌手に憧れ、生活スタイルもアメリカナイズしている。韓国はどうかといえば、中国と同じく日本に侵略された歴史を持つ国で、今だに日本の歌、映画等に対する規制が敷かれているという。日本では「冬ソナブーム」に沸いているのとはかなり違うが。それでも今回の中国人の反応とは違い、日韓ワールドカップの際には、韓国サポーターも日本の応援をしていたという報道を、今でも私は憶えている。それとも、中国人の心の中の根の深い部分をもっと知るべきなのかもしれない・・・。

日本は、過去に大きな過ちを犯したことは消すことの出来ない事実であり、日本を憎んでいる人々に対して心から謝罪し許して貰わなければならないと思う。そして、今後もずっと、悲しみの中、反省と戒めを込めて、毎年の終戦記念日を迎えていかなくてはならない。

これからの私達は、国際社会の中で、どの国も戦争をしてはならないという厳しい理念と監視のもとで生きていかなければならないと思う。遠くの国でおきている戦争が、決して他人事にならないようにしなくてはならないと強く感じる。

中国のことわざに温故知新という言葉がある。昔のことを学び、そこから新しい知識や見解を得るという意味だ。過去の出来事を深く心にとめて、お互いを理解し認め合うことのできる、そんな豊かな未来を、私は築いてゆきたい。

車椅子の旅行者

祖父は、ぼくが生まれたのと同じ年に脳梗塞で右半身マヒになりました。家の中でも右足には靴のような装具をつけていなければなりませんが、杖を使って歩くことはできます。また、右利きだったのに右手が動かなくなったので、左手の訓練をして右手と同じように動かすことができます。でも外出する時はいつも車椅子を使います。小さい時には、抱っこしてもらう代わりに、よく車椅子の祖父のひざにのせてもらいました。車椅子のふたり乗りは、自分で歩かなくてもいいので楽ちんです。

ぼくたち家族と祖父母は年に一度は一緒に旅行します。両親は、祖父の希望の場所に旅行するための下調べするのは大変だけれど、以前に比べればずっと楽になったと言っています。十年ぐらい前には、ホテルに電話して「車椅子使用の家族がいますが、大丈夫ですか。」とたずねると断られることも多くて、「室内では杖をついて歩けるので、部屋に車椅子用のトイレがなくても大丈夫です。」と説明してもいい返事がもらえなかったそうです。ロビーまでのスロープさえもないところもあったそうです。それから、旅行中に立ち寄る施設やレストランにも全部電話して確認していたそうです。そうでないと、断られたり、いやな顔をされたりすることが多かったからです。しかし、今ではスロープはホテルに限らずあらゆる場所にあり、公共の施設ではなくても主な場所には、車椅子用の駐車場やトイレもあります。そして、何よりうれしいのは人の応対がよくなったことだそうです。できることと、できないことをきちんと説明してくれた上で、「できる限り協力するので、どうぞお越しください。」という誠意が伝わってくるお店やホテルが大部分になったそうです。また、車椅子での使用可能なようになっていないことをわびる言葉もよく聞くようになったそうです。このことから、ホテルやレストランなどのサービス業では、この十年あまりで車椅子や障害者への理解が深まったといえるのでないでしょうか。それでは、サービス業でない一般の人たちはどうでしょうか。これは、ぼくの体験からの考えですが、まだまだ、理解しない人や無関心な人が多いのではないのでしょうか。車椅子の人用の駐車場に普通の人の車が止まっていることがよくあり、階段やエスカレーターに乗ることが無理でエレベーターにしか乗れないのに優先されることが少なく、狭いドアの所では待ってくれずに車椅子のほうが譲らなければならないのが日本の現実です。もちろん、中には手伝ってくれたり、譲ってくれたりする理解のある人もいます。

初めのうちは車での旅行ばかりでしたが、遠出するために他の交通機関も使ってみることになりました。父がぼくたち兄弟に「今までの旅行以上にみんなの協力が大切になってくるから、おじいちゃんのためにがんばろうね。」と言いました。JRとレンタカーを使った旅行を二度ほどして、JRは駅のホームまでのエレベーターがないところが多く、結構大変だとわかりました。その点、飛行機とレンタカーを使う方が楽です。空港の設備も整っていて、ターミナルや搭乗口までの(ぼくたち家族のために用意してくれた)車での移動や搭乗口の手続きの優先など便宜を図ってくれます。飛行機で現地まで飛んで、そこでレンタカーを借りて移動するのが、車椅子の旅行にはいいと思いました。

一年半前にハワイに旅行に行った時は、驚きました。公園やビーチや水族館、どこに行っても車椅子の人がいました。祖父は「日本にいる時より気兼ねしなくていい。」といっていました。アメリカで障害者の人権が高く認められているのは、戦争による障害者が非常に多いからだそうです。国のために戦争に行って障害者になった人たちを国が保護するのは当たり前だという考えから、健常者のできることで障害者のできないことはないほど、あらゆるサービスが受けられます。それなら、日本のお年寄りも、長い間、国のために働いてきて病気になって障害者になったのだから同じではないでしょうか。戦争がなくて平和な世の中でも国民を守るべきだと思います。そして、障害者や介助者が気がねなく外出できる国になってほしいと思います。

人間らしい人間

六〇年前の八月、世界で初めて、人類に対する兵器として核爆弾が使用された。

今年も各被災地で原爆が投下された日に行われた慰霊祭の模様が、テレビで放送されていた。

ある雑誌に核実験についての記事が載っていて、それを読んだ僕はとても驚いた。

全世界でこれまでに行われ、公表された核実験の数は二〇五七回。実験の回を重ねる毎に、放射能による被害者は増えているというのだ。

広島・長崎に原爆が投下されて以来、核実験やウラン採掘・核物資製造・原発事故などによって、膨大な量の放射能が生み出され、撒き散らされて、その被害の大半は実験場近くの住民に押しつけられた。それまで、島で暮らしていた人々は、自然の恵みを受け、ヤシの実を採ったり漁をしながら、素朴で幸せな生活を送ってきたのに、なぜ悪魔のような事が起きてしまったのか。地球は、全世界全人類の共有するもののはずなのに。一九四六年、アメリカの軍事関係者の「人類の福祉と世界平和のために貢献してほしい」という言葉で一変したという。

アメリカの核実験場となった太平洋中西部マーシャル諸島だけで十二年間に六七回の核実験が行われた。その時の放射能は、広島に投下されたのと同じレベルの原爆を週に十一回ずつ十二年間投下したのと同様の量であったという。それは、思わず目をおおってしまうような恐ろしい現実だった。

実験が終わって四七年経っているにもかかわらず、現実なお島には放射能が残り、人々は白血病やガン、甲状腺障害などの病におかされ、脅かされているという。マーシャル諸島が核実験の場にされたのは、「隔離された地域であり、十分な広さがあるため」、「報告書に、マーシャル諸島には何もないと書かれているため」などの理由があったからである。

人が住んでいることが分かっている上で「何もない」地であるから、実験場にしても差し支えないと判断したのだろう。僕は、「なんて無責任なんだろう。」と思った。

実験は、単に核爆弾の威力を図るだけではなく、人体への放射能の影響を図るというもので、アメリカの医師団は、火傷や身体の不調を訴える住民たちに、一日三回の海水を浴びるような指示をし、いっさい治療を行わず、血液と尿の検査だけを続けた。想像するだけで、身の毛もよだつようだ。人間が人間に、こんな残虐で恐ろしい事をよく出来るものだ。人間そのものを完全に無視した行為だと思う。

実験に関する詳細な記録は多く残っているそうだが、被爆した人々についての記録はほとんど残っていないそうだ。被爆者の話を聞くことでしか読み取れないというのだ。

人種を無視したこんな悲しい事は、絶対に許してはならないし、二度と繰り返してはいけない。

僕達は、戦争を知らない世代だ。また、僕達の親も戦争体験のない世代だ。だから、二度とこのような悲惨な事を起こさないようにする責任が僕達にはあると思う。

僕は、何の為に生きているのだろうかと考えてみた。人間として、この地球に生まれてきた以上、この場所で、幸せな人生を送りたいと誰もが願うだろう。だったら、戦争や核の恐怖をなくしていかなければならない。地球上の人々一人残さず不幸にしてはいけない。また、人間らしい人間に僕達は戻っていかなくてはいけないのではないか。

そのためには、真剣に平和というものを深く考え、過去の出来事も知っておかなければならないと思う。人間が人間を尊重し、かけがえのない命を、地球を大切にしていかなくてはいけない。

人間を無視した考えや行動は、どんな理由を並べても通用しない。「人権を尊重する」という心がなければ、解決への道は生まれてこないのではないだろうかと、僕は思う。

いじめの現場を見て

私はいつも人権作文といえば、遠い国で苦しんでいる紛争地の人の事などを思い出します。ところが、去年の冬に私は身近な人が苦しんでいるところを見ました。

私が、学校から帰っていると小学生達に通学路で会いました。私が六年生だった時に一年生だった子と二年生だった子達でした。十人くらいの子達が走って帰っていました。その中でも私が小学生の時、昼休みなども一緒に遊んでいた仲の良い子がいました。声をかけようと思った瞬間、横から一人の女の子が、

「お姉ちゃん、話聞いて。」

と、言われその子も知っている子だったので、

「どうしたの。」

と言ってその子の手を握ったとき、その子のまわりにいた十人くらいの子のうち一人が、「一美ちゃん○○ちゃんに触らんほうがいいよ、手とかもつながんほうがいいよ。」

と、言いました。○○ちゃんとは私に話聞いてと言ってきた子です。やがて他の子達も、

「そうよ、そうよ。」

と言いだしたのです。私は何がなんだか分からず、

「何があったん。どうしたん。」

と言ったら、

「○○ちゃんに近づいたら菌がつくよ、近づいたらだめって。」

と言うのです。私はこの○○ちゃんが犬の糞か何かを触って手が汚いのかと思い手を放すとその子は手足をバタバタさせながらワーワー言いだしパニックになり、私が何があったのか詳しく聞くと、「汚い」と言っていた方の一人の子が、

「○○ちゃんはね、最近までおたふく風邪で休んどったんよ。で、今日学校来たばっかりなんよ。だけ○○ちゃんはおたふく風邪菌持っとるけ近くに行ったら、うつるよ。」

と言いだしたのです。最初は私は「えーっ。」という感じだったけどよく考えると私はおたふく風邪になったこともないし、おたふく風邪はうつる病気だということが頭にピンッと思いうかび、ランドセルに手を触れたまま少しさがってしまいました。そして家に帰ってお母さんにその日あったことを話しました。するとお母さんは、

「ああ、それは変な考えやね。おたふく風邪は確かにうつるけど、お医者さんがもうこれくらいになったらうつらないって分かってる日を言って、それから学校に行くんだからもう絶対うつらんのよ。」

と、言ったんです。私はその瞬間ドキッとしてしまいました。私は近くには居たものの、ランドセルに手を置いたまま一歩さがってしまったのです。

私は後になってとっても○○ちゃんに悪いことをしてしまったなと後悔しました。私は『おたふく風邪はうつる』という浅い知識で○○ちゃんを不安にさせてしまったのです。きっとその子はこの人ならあの悪口を言っている子たちに一言、言ってくれると思って私のところに来たはずです。でも私は『おたふく風邪になったらどうしよう。』という考えが一番に浮かび相手の事を考えていませんでした。

ところがそれから一週間ほど経った頃、その子のお母さんに会ったら、

「この前はありがとうね、○○喜んどった、お姉ちゃんが一緒に居てくれたって。」

と言ったのです。私はびっくりしました。でも『喜んでたよ』という言葉を聞いてとても嬉しくなりました。

私がこういう経験を通して学んだことは、自分と一緒に居てくれる人がいれば、安心する、ということです。私もたまに人に言われた小さな事にイライラしたり悩んだりすることもあります。でもそんな時に話を聞いてくれる家族や友達がいることで安心します。

私は、今回色々勉強できました。人を安心させる事はできたけど、悪口を言っている子たちをやめさせることはできませんでした。もし私がその子の立場にたったら、やはり何か言ってほしいと思うし、言ってまちがっている事を言ってる子たちをやめさせ本当の事を教えることが、その子を助けることだと思います。

私はこういう小さな事がどんなにいけないことか分からない人が戦争を始めたり、国同士の大きな差別をしたりするんだと思います。だからいじめや小さな差別の現場を見たら、見て見ぬふりをせず、しっかりやめさせていける人になりたいです。だからみんなもそんな時は一声かけてあげて下さい。その一声がみんなの心をつなぐ第一歩だと思います。

縮まった距離

「障害者」というと誰のことをいちばんに思い出すだろうか。

ある人は、「ヘレン・ケラーだ」と言うだろう。「三重苦の少女」ヘレン・ケラー。誰もが伝記などで知っている、とても有名な人だ。私も小学校のころ、何度も何度も彼女の伝記を飽きるほど読み返し、そのたびに「スゴイなぁ」と、心の底から感動していたものである。

またある人は、「乙武さん」と言うであろう。乙武洋匡さん。彼は手足が無い姿でこの世に生を受けた。俗に言う、「身体障害者」である。彼も、彼自身の著書で有名だ。これも読んだことのある私は、障害を障害のように感じずに生きる彼の姿勢に驚きを感じずにはいられなかった。またテンポ良く進む内容に、彼が障害者だということをしばしば忘れることもあった。

しかし、私がいちばん最初に思い出す障害者は、この二人ではない。私が最初に思い出す「障害者」。それは、隼己‐私のいちばん下の弟である。

弟は、ヘレン・ケラーのように目が見えないわけでもなく、乙武さんのように手足がないわけでもない。弟は、「自閉症」という障害を持つ知的障害児なのである。

最初に奇妙だなと感じたのは、弟が二歳になっても言葉らしい言葉がしゃべれなかったということだ。普通なら一歳前後でしゃべれるようになるはずなのだが。しかし、そのことも「まあそんなものなのかな」と軽く考えて、そこまで気にしていなかった。

そして、私が弟の障害を知ったのはそれからもう少したってからだった。

小学六年生。私は、一冊の障害児についてのマンガを読んだのである。その中に登場する障害を持った子の言動が、あまりにも隼己に似ているなぁと思ったのだ。このマンガは母から借りたものだったので、返すときになにげなく、「母さん、このマンガにでてくる自閉症の子、隼己に似てるね。」

と言った。すると母は、さらりとこう返したのである。

「似てるんじゃなくて、同じなの。隼己も同じ障害を持ってるのよ。」

私は内心とても驚いていたが、「へー、そうなんだー」と言って足早に自分の部屋へと戻った。私の弟は障害児。そう知って驚きはしたが、悲しんだり「かわいそう」と思ったりはしなかった。むしろ、なぜだか妙に納得できた。それから数日は、隼己のことを「障害児」としてとらえることもときどきあったりした。けれど、隼己は隼己。何も変わりはしない。

私はそれまで、ヘレン・ケラーや乙武洋匡さんの本を読んで「障害者」のことを知ってはいたが、それはあくまでも知識。実際には遠い人や昔の人であって、イマイチ実感がわかずに、「障害者」は「どこか遠くの人」としかとることができなかった。

しかし隼己が「障害者」だと知ってからは、急に身近に感じられるようになった。障害者はどこか遠くの人のオハナシなんかじゃない。一つ屋根の下で暮らす、私の弟のことなんだと。隼己は知的障害者である以前に、私の弟だ。私たちと同じように笑い、泣いて、毎日を過ごしている。だから私は、障害者は特別な人じゃないと実感させられたのだった。

隼己や乙武さんのような人々が「障害者」と呼ばれるのに対し、私たちは「健常者」と呼ばれる。よく、障害者は「かわいそう」と言われている。目が見えないから、手がないから、かわいそう、と。また重い障害を持つ人に対しては、「生きていて何が楽しいんだろう」と言われることもしばしばだ。しかし、障害を持っているから、生きるのが楽しくないということがあるのだろうか。健常者の私だって、生きているのがつらくなる時がたびたびあるのだ。生きるのが楽しくないのは障害があるせいだ、と言うのなら、それは逃げだと私は思う。障害があってもなくっても、楽しく生きるかはその人の考え、心しだいだと思うからだ。

隼己は毎日、楽しそうに生きている。まだ隼己は自分の気持ちをうまく言葉にすることができないが、隼己がにっこり笑うと、言葉以上のものが伝わってくる。隼己が障害者だからこそ、私は障害者についていろいろな事を知ることができた。

隼己、本当にありがとう。明日も姉弟みんなで遊ぼうね。

空を見上げて

今、私がこうして平和な時間を過ごしている時に、世界中の一体何人の罪のない人が、差別や戦争、貧しい暮らしに苦しんでいるのだろう。人権学習で人権について学ぶにつれその想いは深まっていきました。

人は皆、人間らしく生きるために当然なこととして認められている、自由や平等などの権利『人権』を持っています。しかし、テレビのニュースや新聞などでよく知られているように、世界には様々な境遇にたたされている人がいて、持っているはずの人権が保障されてない例もたくさんあります。また、多くの人に知られていない所にも『差別』は存在し、心も体も傷つけられている人が今もいます。私達のような中学生にとっても身近である『いじめ』も、立派な人権侵害行為です。

そのように思ってはいても、それまでの私は「こんなことはおかしい。誰かが立ち上がらなければいけない」と思ったことはあっても、何をしていいのか分からず、結局立ち上がる「誰か」になれないまま事を終わらせてきました。

しかし、ある時私は、1円や5円などの小銭でいっぱいになった募金箱を見つけました。その時ふと思いたったのです。立ち上がる「誰か」になれなくても、その「誰か」を支えることならできるかもしれない。どんな小さな事でも、実行すれば手助けができるかもしれない、と。

私が見つけたその募金箱はコンビニエンスストアに設置されていたのですが、おそらく商品を買った人の中に、おつりとしてもらった小銭を入れた人がいるのでしょう。もしかすると、財布から小銭を出して入れた人もいるかもしれません。

そしてそのことを経験してから、私は、貧しい国々への支援の募金を納めはじめました。少ない金額でも、募金箱を見つけるたびお金を入れることで、回数を重ねていくことにしました。

また、災害にあった地域、国の人々へ、服など役にたちそうな物を送り、使ってもらえるようにしました。

その他に、本や新聞等に『人権』に関する文章があったら読むなど、『人権』への理解が少しでも深まるように、という思いで、自分にできることをやってみました。それがどのような形で表れるのかは分からないけれど、『人権』を守ることにつながっていて、人に喜んでもらえるなら、私は本当にうれしいです。

また、身近な人権についても考えたところ、まずは人に優しく接するよう心がけ、悲しんでいる人がいないかよく周りを見わたすことからはじめることにしました。すると、人のことを気にかけ、見るようになってから、不思議なことに自分のことも少しずつ見えるようになったということに気がつきました。人が人を思いやることで自分を知り、また人を大切にしたくなる・・・。そんな優しい気持ちが、これからの私の心に、そしてたくさんの人の心に生まれてくればいいな、と思います。人を認めることで自分が認められる、また、自分を認めることで人を認めたくなる、そんなすばらしい循環ができることによって、この世界はもっと『人権』が保障された平等なものへと変わっていくことができるでしょう。

人一人の力はとても小さいけれど、たくさんの人が少しずつでも力を出し合い、協力すれば、世界から『人権問題』がなくなる日も夢ではないと思います。一日でも早くその日がおとずれるように、私はこれからも自分にできる努力を続けていきます。

いつか世界中の『差別』がなくなり、『戦争』がなくなり、『貧富の差』が少しでもなくなることが、今苦しんでいる人々の願いであり、私の願いでもあります。そしてこの願いが世界中の人の願いとなってほしいです。

ふと空を見上げた時、この空の下に生まれてきた人とは皆「平等」であると、全ての人が思えるような優しい世界になってほしいです。

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