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福島県人権啓発活動ネットワーク協議会
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最優秀賞 中央大会・法務省人権擁護局長賞
「金魚に教えてもらったこと」

郡山市立小原田中学校三年 柴崎 千陽

我が家で飼っている金魚が、この夏卵をうみ、その卵がふ化して何百匹もの稚魚になりました。5ミリメートルもないほどの小さな稚魚は、とてもかわいくて、つい時間を忘れてながめてしまいます。

ところが、何日かたったある日、私はふと一匹の稚魚に目をとめました。どこかぎこちないその動きを見ていて、他の稚魚と明らかに形が違うことに気づいた私は、あっと声をあげそうになりました。金魚ならあるのがあたり前である尾がなかったのです。正確に言えば全然ないわけではなく、わずかに細い骨のような、芯のようなものが残っていて、泳ぐ時にはそれを必死に動かして進んでいます。他の部分は変わらないとはいえ、しっぽのないその姿はやはり痛々しく、頼りなく水中を泳ぐ様子を見ながら、私はショックを隠せませんでした。

こんな小さな世界にも不自由な体があるなんて、私は今まで考えたことも想像したこともありませんでした。
「この稚魚を救わなければ…。」

でも、私にはどうすることもできず、ただ心配しているばかりでした。ちゃんとエサを食べられるのか。他の稚魚たちに攻撃されたりしないか、仲間はずれにされるんじゃないか。そして一番の心配は、こんな体でいったいいつまで生きていけるのか。

しかし、一か月たった今、そんな心配はとてもおろかなことだったと思い知らされました。その稚魚は、他の仲間たちと何の変わりもなく、元気に生きているからです。体が大きくなっただけ、尾も大きくなったけど、他の魚に比べたら三分の一、しかも上の部分しかないような尾をしています。それでもしっかり生きています。いじけることもなく、堂々と泳いでいます。不自由な体のはずなのに、それはとても自然なことに思えました。

私がもし助けようとして、この一匹だけ別の水そうに入れていたら、果たしてそれは本当に稚魚を助けたことになったのでしょうか。えさも十分に与え、他の金魚に脅かされることもなく、のんびりと泳ぎ…。表面上は、稚魚にとって理想的な環境となるでしょう。でも、努力しなくてもえさを確保でき、外敵の心配もいらない生活を保障されてしまったら、稚魚は必死で泳ぐことをやめてしまうのではないでしょうか。そして、一匹だけ別にされた金魚は、死ぬまでたった一匹で水そうの中を漂いながら過ごすことになってしまうのです。もし、別の水そうに移していたら、稚魚を守ろうとして、逆に稚魚自身の生命力を弱める結果になり、ただの自己満足に終わっていたような気がします。元気に泳ぐ稚魚たちをながめながら、「助け合う」 ということの意味をかみしめました。

このことは、私たち人間の社会でも言えるのではないでしょうか。手を出して助けるのは簡単だけど、本当に相手のためを思ったら、だまって見守ることも時には必要であり、それが思いやりとなる場合もあるのです。でも、何もしないで見守るということは、意外と難しいことなのかもしれません。大切なのは、その人がその人らしく生きていくために何が必要か、そのために、自分は何をしてあげられるのか、という考えを持つことだと思います。

たとえ、身体にどんな障害があったとしても、それを普通のこととして受けとめる人が増えたら、誰もが住みやすい社会に一歩近づくことができるでしょう。あたり前にがんばっている人に、特別な助けではなく、あたり前の助け合いが自然にできるよう、考えていきたいと私は思います。

住みやすい社会とはどういうものなのか、まだよくわかりませんが、私が金魚に教えてもらったことは、同情だけでは誰もが住みやすい社会にはならないということです。どんな状況でも立ち向かっていくことが必要であり、自分の人生は、自分で切り開いていかなければならないのです。障害者に対して、私たちはつい 「かわいそう」 「大変そう」 という目で見てしまい、「助けてあげる」 ことを考えてしまいます。しかし、自分の力で人生を生きていくという点では、誰もが皆平等です。その前提に立って、お互いに支え合い、助け合う気持ちを持つことが、本当の意味での 「共生」 につながっていくのです。私は、私の人生を一生懸命生きていこうと思います。それが自然であり、あたり前のことなのだから。

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