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福島県人権啓発活動ネットワーク協議会
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優秀賞 「相手のありのままを受け入れる」

郡山市立郡山第七中学校三年 安田 祥大

人権は、全ての人々に平等に与えられていて、誰も差別されてはならないと法律で定められています。しかし実際は、どうしても差別と受け取れる場面に出くわすことがあります。そういう時に、なるべく平等にしようと心掛けることは、とても大切だと思います。私も頭では理解していても、全ての人に苦手意識を抱いていないといえばうそになります。

私は、地域の公民館で行われている将棋のサークルに所属しています。会員のほとんどは、六十〜八十歳代のおじいさんで、中には体が不自由な方たちもいます。その中のひとり、Oさんは、脳の病気が原因で体にハンデを負っています。Oさんの目は、別々の方向を見ていて、言葉もうまく話すことができません。物を食べる時も、涎をだらだらと垂らして、私は初めて見た時「気持ち悪い」という印象を抱きました。しかしOさんは、一生懸命私に話しかけてきました。うまく動かない口を動かし、「君は何歳なの?」「将棋は好き?」「そこはこう指した方がいいよ」など、たくさん話しかけてくれました。そして勝負は、いつもOさんの勝ちでした。Oさんの話し方は、見ていて疲れるようなものでしたが、おじいさんたちの中にたったひとり混ざっている小学生の私を気遣う、暖かい気持ちが伝わってくるようでした。私はその時、体にハンデを持っていても、将棋を指すこともできて、何より優しい心も持っていて、親しく話をすれば、健常者と何ら変わりがないことを知りました。

また、Sさんは左半身が動かなくなってしまった人でした。おもしろい将棋を指す人で、飛車が縦横無尽に活躍しました。私は少し伸び悩んでいて、将棋なんておもしろくないと思っている時期に、Sさんと親しくなりました。Sさんの指し手を見て話を聞く内に、将棋のおもしろさを再発見することができました。それから私は、週末ごとにSさんの家を訪問して、将棋を教えてもらうようになりました。いろいろなことを話して、とても楽しい時間を過ごしました。しかし、学校の定期テストがあって何週間か将棋サークルを休んでいる間に、Sさんは唐突に亡くなってしまいました。

それからしばらくして、私がお線香を上げに行った時、Sさんの奥さんと話す機会がありました。
「あの人は、左半身が不自由でよく頑張っていたよ。いろいろ大変なこともあったけど、あんたと将棋を指せて幸せだったろうよ。」

私は、Sさんだけでなく、家族の方々も大変な苦労をしたのだということに気付きました。体を洗ったり、ご飯を食べさせたり、介護する側も大変な生活だったでしょう。しかし、それでも相手のありのままを大切に思う家族の絆のようなものが感じられました。

土曜日の朝に放送されている、セサミストリートというアメリカの子供向けのテレビ番組があります。これも「人のありのまま」を大切にしているものだと考えます。例えば、車イスの子が、なわとびの場面に出演していますが、彼の役目は跳ぶことではなく、なわを回すことです。その子は本当にいきいきと笑顔でなわを操っています。中には、エイズにかかっている子もいるそうです。それぞれの子供たちが、自分を隠すことなく、できる役目を果たしています。

かつて、タレントのタモリさんが「ダサイ」という言葉を軽い気持ちで作って使ってしまったことを後悔していると語っているのを聞いたことがあります。「ダサイ」という言葉が、人を差別する言葉として使われるようになり、「ダサイ」と言われて登校拒否になったり、自分の全てを否定された様に感じさせてしまったというのです。

そういえば最近は、これと似たように否定的な言葉を好んで使う傾向があるように思われます。「キモイ」「ウザイ」など、相手のマイナス面を自分の感情で決めつけたり、自分の嫌いなものを全て「○」か「×」の「×」として割り切ってしまう言葉が多いと考えます。

「OさんやSさんは、体が不自由だったけど、将棋はとても強かった。そして、とても優しかった。」
その人のことをよく知らないのに、「キモイ」で差別して片づけられてしまうことは、あってはならないと思います。

法律の上の「人権の平等」だけでなく、このような、そのまま差別へとつながる言葉を発する自分を恥ずかしく思う社会であればいいと思います。乙武洋匡さんが、「五体不満足」の中で、男の子たちが口々に自分の悪口を言っている時に、最後尾の男の子が「いいんだよ」と言ってくれたと書いています。人ひとりひとりが、相手のありのままの姿を「いいんだよ」と言えるようになったらなと思います。その時に初めて、「人権の平等」について語り合えるのではないのかと考えます。

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