本文へジャンプメニューへジャンプ
福島県人権啓発活動ネットワーク協議会
ここからメニューです

ホーム > 主な活動 > 全国中学生作文コンテスト > 平成17年度全国中学生作文コンテスト福島県大会入賞作品 >

ここから本文です

| 前の作品へ | 一覧 | 次の作品へ |

優秀賞「当たり前のこと」

二本松市立小浜中学校三年 鹿又 広佳

私達には「個性」がある。だから、外見や考え方が違うのは当たり前のことだ。でも、誰でもそれは理解しているはずなのに、どういうわけか「差別」は生まれてしまう。

「いじめ」も差別の一つだろう。いじめをする理由の中には、「その人の個性を認められない」という、差別の原点があるからだ。

いじめは時に、人を死においやることもある。最近ニュース等でもよくみかける。いじめに耐えられなくなった被害者が、自殺をしてしまう事件。あるいは、いじめの腹いせに加害者や、身近な人を殺してしまう事件などを。

私も、まだ幼い時だったが、仲間外れや無視されるといったことを経験している。私は、人と接するのが苦手だったし、自分の意見をまだはっきり言えなかった。そのおまけに、トロい性格なので、そんな私を邪魔に思ったのだろう。ある友達グループの中心的存在だった子は、私をことごとく嫌っていた。

「こんな私が悪いんだ」と、私はずっとそう思っていた。もちろん誰にも、仲間外れが嫌だとか、無視されることを打ち明けることはできなかった。

でも、私の場合は時とともに解決されていったのでよかった。私はいつの間にか、自分の意見をはっきり言えるように成長することができた。そして、他の友達も声をかけてくれるようになった。そのようなことがあってか、自然に仲間外れや無視されるといったことはなくなったのだ。むしろ、私を嫌っていた子は今となっては普通の友達だ。

でも、あの時誰か頼りになる人に、打ち明けることができたらどんなに楽だったろうと思う。いくら自分が悪いと思っていても、止めて欲しかったし、つらかったのだ。誰でもいいから、自分を理解してくれる人がいて欲しかった。

私は、いじめの被害者が助けを求められないでいることがとてももどかしく思える。確かに、私の場合は打ち明けなかった私が悪い。でも、今の社会では、「助けを求められない状況」ができていると思う。被害者を助けようという意欲が見えないところもあるからだ。

ニュース等で耳にした例は、「学校に相談したが、世間の目を気にされてもみ消されてしまった。」というものがある。また、「それは被害妄想だ。」と言われ、全く相手にされなかったということもある。大人は子どもを守るべきなのではないか…そう思う。大人は私達の手本となるべきなのに、その大人が子どもから逃げてしまっては、示しがつかないのだから。

でも、私も偉そうにそんなことばかり言えるものでもない。大人ばかり頼らないで、自分の力で自分を守る努力もしなければならない。子ども同士、仲間同士で助け合わなければならない。

つまり、見て見ぬ振りをしないということが大切なのだ。そして、そうなることで初めていじめの被害者が安心して誰かを頼りにできる状況が、できていくと思う。

もちろん、そんな簡単なことではない。私の友達で、仲間外れがあったときもあったが、なかなか勇気を出して、「やめなよ」の一言が言えなかった。私は、その仲間外れにあった友達の気持ちはちゃんと知っていたはずなのに…。

でも、一度だけ指摘できた時もある。その友達のノートが汚されているのを見たときだった。その時は、勇気を出す、出さないなんてどうでも良かった。ただ、怒りがこみ上げてきたのだ。もう、それは明らかないじめだった。そう感じて、すぐに体が動いたのだ。その私の行動が正解だったとは言えないが、先生が力になってくれたので心強かった。

いじめをなくすこと、それはいじめの加害者、被害者だけの問題ではないと思う。いじめは人事ではない、私達みんなの課題だ。まして、いじめが死につながるなんてことはもってのほかだ。そこまでおいつめているのは直接のいじめの加害者だけではない。私達が何もできないでいれば、私達も加害者なんだ、と私は思う。

近い将来、いじめを目の前にしたら、今の考え、決意を思い出して立ち向かえるようになりたい。ただのきれいごとで終わらないように…。

同じ人間なのだから、傷つけないことは当たり前。個性を認め合うことは当たり前。傷ついている人を守ろうとするのも当たり前。「人権」はそんな「当たり前のこと」を保障していると、私は思う。ただ、まだまだこの権利は未完成だ。私達の最大の課題は、この権利を深く学び、守りぬくところにあると思う。

このページの先頭へ