本文へジャンプメニューへジャンプ
福島県人権啓発活動ネットワーク協議会
ここからメニューです

ホーム > 主な活動 > 全国中学生作文コンテスト > 平成17年度全国中学生作文コンテスト福島県大会入賞作品 >

ここから本文です

| 前の作品へ | 一覧 | 次の作品へ |

優秀賞 「命のバトン」

富岡町立富岡第一中学校一年 大橋 杏理

「白血病になるとかみの毛がぬけてなくなるんだって。

私が小学校六年生の時、友達の男の子達が大きい声で話しているのが突然耳に入りました。その時私は、はっとしてドキドキしはじめました。何か言い返そうとした時、友達の女の子が、
「そういうこと言うんじゃないの。」
と言って私にウィンクしてくれました。涙が出るほど嬉しく、そして言葉にできないほど感謝の気持ちでいっぱいになりました。

小学二年生の八月二十四日、夏休み最後の日、私は白血病になりました。その日私は、朝から食べ物がのどを通りませんでした。母から、
「食べなさい。」
と、言われてもどうしても食べることができません。昼食もあまり食べずに終わり、それから約二時間ぐらいたった時、急に具合が悪くなりました。私は、すぐにおさまるだろうと思っていました。けれど、その後も全く良くならず、私は祖父に連れられてとなり町の病院に行くことになりました。その病院は小さい時から、とてもお世話になっている病院でした。すぐに診察をしてもらうと、
「ちょっと採血してみようか。」
と先生に言われました。まだ幼くてやったこともないことだったので、少し恐かったのを覚えています。ドキドキしながら結果を待っていると名前を呼ばれました。診察室に入ると、先生は少し心配そうな、不安げな表情をうかべていました。まだ私はこの時、何を言っているのかわかりませんでしたが、確実に何か悪いことが起きていると感じとっていました。結局、私は別の大きな病院で再検査することになりました。私の両親は共働きで、その日は仕事に出かけていましたが、祖父からの連絡を受け急いで帰ってきてくれました。その日のうちに大きな病院に行き、詳しく診察してもらいました。そして私の病名は、
「小児性急性リンパ性白血病。」と、いうものだと診断されました。私はわかりませんでしたが、両親のとても深刻な顔を見て、自分は大変な病気なんだと思いました。その後先生から、
「明日にでも入院して下さい。」
と、言われました。両親と私はひとまず家に帰り、明日の入院の準備をしました。そして次の日、祖母、祖父、妹、ひいおばあちゃんに元気に、
「行ってきます。」
と言い、病院に向けて家を出ました。その時私は車の中で泣きました。病院に着くとすぐに、入院の手続きをしました。何日か過ぎた頃、先生に入院期間は約四か月間と診断されました。それから毎日つらい治療の日々が続きました。そして四か月後やっと退院できる日をむかえられたのです。四か月間ずっとお世話になった看護師さんや、先生方にあいさつをして病院を出ました。
「ただいま。」
「おかえり。」
待ちわびていた瞬間でした。けれどひいおばあちゃんの姿が見えません。うれしかった時間も悲しい時間へとかわっていきました。入院するまで元気だったひいおばあちゃんが、私が退院する二日前に亡くなっていたのです。そのことを聞いた時、とても胸が苦しくなりました。一番ひいおばあちゃんを頼りにしていた私にとってそれはとても悲しい出来事でした。私がこんな病気になってしまったために、ひいおばあちゃんやみんなを苦しめてしまったのです。そして元気に退院した姿をもう二度と見せることができなくなってしまったのです。私はこの時ほど自分の病気を恨んだことはありませんでした。それから五年の歳月が流れました。二〇〇五年、七月二十五日、私は寛解となりました。寛解とは五年たつともうその病気が完全に治ったということです。私は自分の病気「白血病」を通して、たくさんのことを学ぶことができました。私の命は自分一人のものではなく、周りにいる多くの人たちの支えがあってあるものだと思います。今、白血病やその他の病気に苦しんでいる人は、世界中に大勢います。だからその人たちの苦しみや悲しみを思う時、おもしろ半分に病気のことでからかうようなことは、絶対にしてはいけないことだと思います。

これから私は自分にできる方法で、病人やお年寄り、体の不自由な人への思いやりのある社会を目指して努力していきたいと思います。それがひいおばあちゃんからもらった命のバトンへの一番の恩返しだと信じています。そして何よりも世界中の白血病に苦しむ人々が一日でも早く治るよう、私は私の命を精一杯生きぬくことで勇気づけられたらいいなと思っています。

このページの先頭へ