
乙部町立乙部中学校二年 松本 郁美
人間とは、とても不思議な生き物です。誰かを思って泣くことができます。また、自分の心の持ちようでは人を傷つけることができます。人間は、他の動物が知らない共存を知っています。
あなたには誰かに傷つけられた経験がありますか?私は小学六年生の時に人を傷つけ、また自分も傷ついたことがあります。
ある日の休み時間、私が机の上にノートとふでばこを出して遊びに出かけ戻って来た時のことです。私のノートの表紙が故意にやぶられ、ふでばこにつけていたストラップが切られて落ちていました。もちろん前の時間、ノートは何ともなかったしストラップは中にプラスチック製の芯が通っていたので人の力でちぎれるようなものではありませんでした。私が先生に相談すると、次の時間の授業は、犯人捜しになってしまいました。大好きな友だちを疑うのはいやでしたが、友だちの中から犯人がでてしまいました。その子は、切られたストラップを見て、「大丈夫?」と心配してくれていた子でした。犯人がその子であると知ったときは、とても悲しくてしかたありませんでした。裏切られたような気がして怖かったです。私はすっかり被害者になったような顔をしていました。しかし、その子にもきちんとした理由がありました。彼がやってしまった理由、それは私の言動にありました。
その当時の私には、「間違いは厳しく正すべきだ」という固定概念がありました。ゆえに、間違いを正す際にはつい口調が荒くなっていました。数日前、私はその子とそうじをしていました。しかし、その子がそうじをきちんとしていなかったため私は、
「きちんとやってよ。」
ときつい口調で怒鳴ってしまいました。その子はこれに腹をたてやってしまったと言っていました。その理由をきいた私は、そんなの自分が悪いじゃんと思いました。しかし、担任の先生からは、
「友だちを気づかいながら悪いことを直していく。それが一緒に活動するということなんだよ。」
と言われました。その時、ふと気づきました。人に傷つけられていると思ったら自分も人を傷つけている。だからこそ人を気づかわなくてはいけないんじゃないか。それが共存ではないか。この時、本当に共存の意味がわかった気がしました。このことに気づけたから今、自分はうまくやっているのでは?と、ときどき思います。
人には、もう一つ美しい場面があることをあなたは知っていますか。それは、「命を慈しめる」ということです。
私は今年の二月にいとこを亡くしました。サッカーが得意で誰にでも優しかったいとこが三十四歳という若さで亡くなってしまいました。あまりに早すぎる死に私の家は沈んでいました。そんな中でたった一人、絶対に泣かない人がいました。それは父です。私の父の職業は僧侶です。故人を極楽浄土まで導くのが父の仕事です。そんな父にいとこが死んだ時、
「あまり、大きい声で泣いてはいけない。私たちは寺院関係の人間だから。」
と言われました。その時、父の仕事の大変さを初めて知りました。身内の死はとても悲しいはずです。それでも普通をよそおい、働かなくてはならない父。私は、どうして悲しさを出せないのかと疑問を持ちました。その疑問の答えは、葬儀が終わった後、自宅の本堂でわかりました。
朝、いつも通りに本堂で父が過去帳をよみあげていました。いとこの戒名にさしかかった所で父の声が止まりました。声を押し殺して泣いていました。小さいころから見てきた父の大きな背中がとても小さく見えました。
その時、やっと理解しました。僧侶という仕事を全うするために涙を隠していたのです。その日、初めて見た涙は、僧侶ではなく、父としていとこの命を慈しんでいました。
人間らしさとは、命を慈しめることと共存できることだと思います。最近の世界には、人間らしさが欠けていると思います。自殺をする人、殺人を犯してしまう人、せっかくの命を虐待してしまう人たち。こんな人を少しでも減らすには、人間が人間らしい心で接することが一番重要ではないのでしょうか。世界中がそうなれば、全人類が笑顔になれるのは、そう遠くはないはずです。