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トピックス

 
第26回中学生人権作文コンテスト宮城県大会の審査結果と入賞作品3編をご紹介します。

第26回全国中学生人権作文コンテスト宮城県大会

主催
仙台法務局・宮城県人権擁護委員連合会
後援
宮城県教育委員会・仙台市教育委員会・宮城県中学校長会・河北新報社・NHK仙台放送局

審査結果

『最優秀賞』

姉が教えてくれたこと
仙台市立中山中学校三年 三浦 夏生

『河北新報社賞』

初めて知った家族の思い
村田町立村田第一中学校二年 鳥島 美咲

『NHK仙台放送局賞』

訪問介護で考えたこと
仙台市立中山中学校三年 鈴木 由紀子

『優秀賞』

心のバリアフリー
仙台市立南中山中学校三年 菱田 絵理
障害のある母を通して
宮城県古川黎明中学校一年 横山 歩美花
障害者という存在
大崎市立古川北中学校三年 佐々木 恵美
本音と理解
仙台市立幸町中学校三年 佐藤 美怜
私の革命
気仙沼市立唐桑中学校三年 熊谷 美咲

『奨励賞』

昔の体験から学んだこと
気仙沼市立条南中学校三年 千葉 朋子
最大の挑戦
仙台市立南中山中学校三年 栗原 和希
境界線を越えて
仙台市立中山中学校三年 張 子 康
さおちゃんが変えてくれた私の心
大崎市立古川北中学校三年 佐藤 弘実
心の痛み
本吉町立大谷中学校三年 藤崎 智子
いじめをなくすために
登米市立登米中学校三年 植村 麻央
はじめの一歩
気仙沼市立唐桑中学校三年 村上 智海
叔父の教え
仙台市立上杉山中学校三年 小南 あずさ
あやちゃんが教えてくれたこと
丸森町立丸森東中学校三年 佐藤 悠
障害者とふれ合うこと
宮城県古川黎明中学校一年 小野 寺栞
勇気をもって
気仙沼市立気仙沼中学校三年 南舘 香織
大きな心を持って
仙台市立台原中学校三年 及川 千彰

最優秀賞 姉が教えてくれたこと

仙台市立中山中学校三年 三浦 夏生

私には二歳ちがいの姉がいます。歳が近いということもあって、幼い頃から私はどこに行くにも常に姉といっしょでした。

姉は世間一般の十七歳よりはひとまわり体が大きく、食欲はきわめて旺盛です。性格は少し自己中心的で、そのことが原因でケンカになることもあります。ここまではごく普通の姉妹の関係です。でも、家を一歩出ると気づかされるのです。姉が障害を持っているということを。

人と視線を合わせることが苦手なことや、一つ一つのことへの強いこだわりからも、たぶん姉を見た人のほとんどは、何か違うなぁと感じるはずです。

姉は自閉症です。姉は当時通っていた小学校の最初の特別支援学級の生徒で、小学一、二年の時は一人学級でした。一人だった分、常に担任の先生や学年の子供と過ごすことができて、姉のためにとてもよかったと母は言います。しかし、もちろん良いことばかりではありません。特別支援学級一回生ということもあって、姉のような人を初めて見る人も少なくなく、他の学年の一部の男子がちょっかいを出してくることがよくありました。三、四人で姉の近くに近寄っては肘で押してみたり、誰もいないと思って言葉の暴力を浴びせたりと、やり方は様々でしたが、何も言い返さない姉をいいことに、何回も同じことをくり返しました。姉が嫌になってちょっと大きな声を出したり、うなったりすると、「何だコイツ」と言って逃げ、さらに暴言を浴びせます。たぶん私の知らないところで何度もそんなことがあったと思います。まだ小学校のある冬の日の下校の時でした。下級生の男子二人組が姉の顔に雪玉を投げつけている光景を偶然見てしまったのです。その時はもう無我夢中ですぐにその場にかけつけて、その子達から姉の服のすそをひっぱって必死に遠ざけていました。本当はその時、雪を投げた子達にきちんと「そういうことはしてはダメだよ」と言うべきだったのでしょうが、とにかく姉をこの子達から守らなければならないという気持ちでいっぱいでした。男の子達から離れてほっと安心したその時です。ふと姉の顔を見上げると、満面の笑みでニコニコとこちらを見ているのです。そして自分の顔についている雪を私の顔にペチャッとつけてきました。姉にしてみたら、男の子達が投げてきた雪玉も雪合戦の遊び感覚で、姉自身は楽しんでいたんだと思います。そんな姉の姿を見ていると、すごく胸がさされるような、しめつけられるような気持ちになって、泣きたくなったのを今でも鮮明に覚えています。男の子達がなぜあんなふうに姉をからかって喜んでいるのか分かりませんでした。でもその話を聞いた母は私に言いました。

「周囲の人達の中には、学校の先生も子供達もどう接してよいか分からない人が多いのだからお姉ちゃんのこといろいろと伝えてあげようよ。」

周りの人に姉のことを分かってもらう、これが,母が一番努力したことです。たとえば母は様々なところに姉をつれて行きました。地域の子供会であったり、買い物であったりと、どこにでもつれて行きました。ただ一つだけ避けたのは、お正月のお参りや、並んで順番を待たなければならない催しです。それはなぜかというと、姉はじっと待つという行為がとても苦手だからです。こうして姉は、家族のサポートを受けながら、元気に生活しています。私自身も、姉の障害を特に意識することなく過ごしています。だから私は、周りの人達から「お姉さん大変だね」と言われることにとても違和感を覚えます。

いろいろな人がいてあたり前なのに、障害を持っているだけでつい、かわいそうだという顔になったり、その場から離れたりする人達がけっこう多いのではないでしょうか。障害を持っている人達は、姉の姿を見ても分かるように、生活に不自由はあっても、決して不幸ではないと私は思っています。一番の障害になっているのは、健常者と言われる私達が、障害を持っている人を特別だと見てしまうことではないでしょうか。私の家族は、姉が周りの人とうまくコミュニケーションをとれないところを、私達なりのやり方でサポートしています。

でも考えて見れば、家族がお互いに助け合ったりすることはごくあたり前のことです。私にもたくさんの欠点があります。それを家族は大らかに受けとめてくれています。

私は、障害を持つ姉から様々なことを考えるきっかけをもらいました。弱い人の立場になってみること、お互いを認め合うことの大切さ、そして、誰にとっても暮らしやすい社会をつくるにはどうしたらよいのかということを。私はこれからも、絶えず考えることをやめないでいこうと思います。

河北新報社賞 初めて知った家族の思い

村田町立村田第一中学校二年 鳥島 美咲

去年の二学期の初め頃、私は毎日イライラしていました。中学生になって、生活がとても忙しくなり、部活も休みがほとんどなく疲れきっていたのもありましたが、気分的にも落ち込んでいたのです。

私はソフト部に所属していました。うまくできずコーチにどなられる事が毎日の様にあり、そのたびに、とてもいやな気持ちがこみあげてくるのです。それは、小学校四年の頃の嫌な思い出がよみがえってくるからです。

父と母はその頃、毎晩のように言い争いをしていました。その様子を見て、私は心配で夜もあまり眠れませんでした。大声をあげられるのが怖かったのと、今の生活がこわれるのではないかという不安のためです。

結局父と母は一年後に離婚してしまいましたが、コーチのどなり声を聞くと、その時の不安や怖さがよみがえってきてとても苦しくなってくるのです。でも、その思いを他の人には言えませんでした。そのせいか私は、母や姉にやつあたりしてしまい、毎日家ではケンカばかりでした。

私の思いを知らない二人は、「あんたのイライラは、自分がうまくなれないからでしょう。自分がもっと一生懸命がんばればいいじゃない。」と言うだけでした。私は、誰にも自分の気持ちをぶつけられず、だんだん調子が悪くなり学校にも行けなくなりました。

そんなある日、私の体に異変が起きました。夢を見てすごくうなされて、何度大声で名前を呼んでも起きなかったそうです。私はすぐに、病院に運ばれました。その日は、「大丈夫です。心配いりません。」と言われて家に帰ったのですが、次の夜、今度は違う症状でまた病院に運ばれてしまいました。詳しく調べてもらった結果、精神的にまいってしまって色々な症状が出るのだという事が分かり、入退院を繰り返すことになってしまいました。

母は、私を心配して今までやっていた仕事をずっと休む事になりました。仕事を休むと生活に影響してしまうので本当は大変だったのだろうけど、私の事を第一に考えてくれたのです。また退院してからも、深夜にならないと眠れない私のそばに、いつも起きてついてくれました。母がいつもついていてくれると思うと、私も気が楽になり、病気もずい分良くなりました。

けれどもまた母とのケンカが始まりました。「学校どうするの。」と母が聞くようになったからです。学校に行きたいのに行けない苦しさがあり、でもそれを分かってくれない母にやつあたりしたのだと思います。また、なんとなく、その頃高校卒業する姉と比べられている様な気もしました。そして小さい頃から姉は大事にされて色々な物を買ってもらえるのに、自分はおさがりばかりだった事などをつい母に言ってしまいました。私は、母に強い口調で聞きました。

「お母さん、私とお姉ちゃんを区別してるでしょ。」

私はその時、母に怒られると思いましたが母は泣いてしまったのです。私はびっくりしました。いつも強い母だったからです。その時、「ひどい事を言ってしまった。」と分かりました。あやまったら母は言いました。

「美咲とお姉ちゃんを区別した事ないよ。美咲がどう感じているか分からないけど、お姉ちゃんの方がつらい思いをしたと思うよ。」

小五の頃から我が家の家計は母が一人で支えています。だからほしい物があってもなかなか買ってもらえませんでした。私もがまんしていましたが、姉は父がいた頃にゲームを買ってもらったり、洋服を買ってもらったりしていたのです。私はそのお下がりばかりなのが不満でした。でも私の小学校卒業式の前、姉が母にこう言ったそうです。

「卒業式の服は美咲に買ってあげて。」

それを母から聞いた時、私は涙があふれ出しました。姉の気持ちがうれしくて涙が止まりませんでした。私は私の知らない所で母や姉に大事にされていたのだと思いました。私は家族からたくさんの愛情をそそがれて今日まで生きてきたのだと実感しました。

今私は毎日学校に来てマイルームという私の教室で勉強しています。そこに入れかわり立ちかわり先生方が来ていろんな話をしたり勉強を教えてもらったりしています。先生方からも協力してもらいながら、前のように教室にもどれるように頑張っています。

私の事を思い、私のために力を尽してくれるたくさんの人たちに感謝しながら、これからも明るく元気に頑張っていきたいと思います。

NHK仙台放送局賞 訪問介護で考えたこと

仙台市立中山中学校三年 鈴木 由紀子

「長生きしてごめんね」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。私が何年か前、社会の授業で聞いてとても印象に残った言葉でした。

私が中学二年生の頃、職業体験で訪問介護の仕事を体験させてもらったときのことです。訪問した家は田んぼばかりで、近くには二、三軒しか家がない所にありました。その家には七十歳ほどのおじいさんと九十歳ほどのその方の母親が住んでいました。週に一回介護士の方が来るだけで、あとはずっと二人だけの生活なのだそうです。おじいさんのたった一人の息子は街へ働きに出ていてほとんど帰ってこられない状態でした。おじいさんは、体が悪く寝たきりでした。古い家で老人が二人で暮らしていて、しかも母親が七十歳を過ぎた息子の面倒を見ています。だからと言って母親が健康なわけでもないのです。そんな状況を見て、私はいたたまれない気持ちになりました。これが、私が初めて実際に見た「老老介護」の姿でした。

おじいさんはおばあさんが席を立つと「自分より年上の母親に迷惑をかけて、何のために生きているんだろうね」と悲しそうに笑いながらボソッと言いました。そのとき「長生きしてごめんね」その言葉を思い出しました。私は何を言ったら良いのかわかりませんでした。苦笑いするしかなく涙が出てきそうでした。あのときのおじいさんの顔は今でも忘れられません。家族に迷惑をかける、という思いが「長生きしてごめんね」という言葉を生んだひとつの原因でしょう。

家で面倒を見きれなくなったり、自分で生活できなくなったりした人が入る老人ホーム。高齢化社会がさらに進んでいる今、老人ホームの定員がいっぱいになり入りたくても入れなくて順番を待っている人がたくさんいるということを聞きます。さっき話したおじいさんもその一人でした。しかし、その老人ホームに入ったら楽かというと必ずしもそうではないのです。

私の母は老人ホームで働いています。歩けない人がほとんどで、認知症が進み歩ける人でも突然いなくなってしまったりして、うまく職員とコミュニケーションをとれない人もいるそうです。そんなお年寄りの家族の中には老人ホームに預けたきりで全く会いにこない人もいると聞きました。まだ認知症の進みがひどくない人であれば、家族が来ないということがわかっていてとても悲しい思いをしているのではないでしょうか。また老人ホームに入ることでその家族は月に何十万円もお金を払わなければなりません。家族に大金を払ってもらっていることを辛く思い、「早く死にたい」と言うお年寄りも少なくないと聞いたこともあります。私の母も家族にお金ばかりかけさせていたら自分もそう思うかもしれないと言ったのです。私は驚きました。まさか自分の母親からそんな言葉が出るなんて思ってもいませんでした。お金がかかりすぎてしまうのも「長生きしてごめんね」その言葉が生まれた原因ではないでしょうか。

このような高齢化問題は今に始まったことなのでしょうか。昔、年をとった老人を捨てる山、姥捨山があったそうです。ですから高齢化が進んでいなかった時代には老人が肩身狭い思いをせずに暮らせたかというと、あながちそうでもないのでしょう。高齢化が進んだ今、問題が発生したのではなく深刻化したと言った方が正しいのです。

実際に話を聞いたり現状を見たりして「長生きしてごめんね」その言葉が本当に辛い言葉だと感じました。それなのにそう思わざるをえない社会になってしまっているのです。しかし、それはしかたのないことなのでしょうか。そんなふうに思わせてしまう社会は良いのでしょうか。私はお年寄りにそんなふうに思ってほしくないですし、もちろん将来自分の親も絶対言わないでほしいです。そして自分自身も言いたくありません。

私の家は祖父母と同居していますが、二人ともとても元気で楽しく暮らしています。介護という言葉とは程遠く実感がわかないのですが、いつまでも二人が元気でいられるわけでもありません。将来自分も家族の一員として介護という現実に直面するということを自覚して、しっかりと考えなくてはならないと改めて感じました。

例えば、国も協力して老人ホームを増やしたり、お金をできる限り安くしたりして、お年寄りの負担、そしてその家族の負担も軽くするべきです。また訪問介護を体験したとき、おじいさんは私と話したことをとても喜んでくれました。ですから地域の小中高生がお年寄りと交流できる機会を増やすべきです。近所のお年寄りに元気にあいさつをしたり声をかけたりすることも大切にしていきたいと思います。小さなことからでも始めて、「長生きしてごめんね」そんな言葉がない社会にしていきたいです。

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