全国中学生人権作文コンテスト新潟県大会
法務省と新潟県人権擁護委員連合会では昭和47年から中学生を対象に人権作文コンテストを実施してきました。
平成23年度は県内154中学校から、14,837編の作文の応募があり、数次の審査を経て41編の入賞作文が決まりました。(審査結果)
平成23年度「全国中学生人権作文コンテスト」新潟県大会の結果、最優秀作品として新潟地方法務局長賞、新潟県人権擁護委員連合会長賞を受賞した作品を中央大会に推薦しました。
中央大会の審査の結果、上越市立吉川中学校1年 水澤出帆さんの作文「家族の姿から学んだこと」上越市立城東中学校3年 永野裕二さんの作文「聴覚障害者として生きて」は共に奨励賞を受賞しました。
平成23年12月17日(土曜)に新潟市民プラザ(NEXT21 6F)に於いて新潟県大会の表彰式が行われました。入賞者の表彰の後、最優秀作文2編の朗読が行われました。
又この表彰式の開催を活用し、人権週間に計画されていた「人権講演会」を実施しました。今年の講演講師は明治大学国際日本学部教授、学部長の蟹瀬誠一さん。
演題は「震災後に問われる日本の底力〜風評被害と人権問題を考える」 で、私たちの身近な生活に直結した内容の講演でした。

新潟県大会の最優秀賞、優秀賞受賞の中学生と審査員一同

講演講師 蟹瀬誠一さんと演題
講演は手話通訳、要約筆記の配慮がありました。
応募総数 県内154校 14,837編
| 賞 | 学校名 | 学年 | 氏名 | 題名 |
|---|---|---|---|---|
| 最優秀賞 新潟地方法務局長賞 | 1年 | 家族の姿から学んだこと | ||
| 最優秀賞 新潟県人権擁護委員連合会長賞 | 3年 | 聴覚障害者として生きて | ||
| 優秀賞 新潟県教育委員会教育長賞 | 3年 | ねがい | ||
| 優秀賞 新潟県教育委員会教育長賞 | 1年 | 心をつなぐ言葉 −いじめのない明日へ− | ||
| 優秀賞 新潟日報社賞 | 3年 | 小児がんと闘った子を通して | ||
| 優秀賞 新潟日報社賞 | 2年 | 支え合う大切さについて | ||
| 優秀賞 NHK新潟放送局長賞 | 1年 | 中村明日香、野球部です! | ||
| 優秀賞 NHK新潟放送局長賞 | 2年 | 人それぞれの個性 | ||
| 優秀賞 BSN新潟放送賞 | 3年 | 明日を信じて | ||
| 優秀賞 BSN新潟放送賞 | 3年 | 思いやりのかたち | ||
| 優良賞 | 3年 | 今、自分にできること | ||
| 優良賞 | 3年 | やっと理解できたこと | ||
| 優良賞 | 3年 | 見直したい「男だから」「女だから」 | ||
| 優良賞 | 1年 | 自分を救うのは自分の勇気と意志 | ||
| 優良賞 | 3年 | 私の考える人権の守りかた | ||
| 優良賞 | 3年 | 人のやさしさ | ||
| 優良賞 | 3年 | 自分の体験から | ||
| 優良賞 | 2年 | いじめという名の暗闇 | ||
| 優良賞 | 3年 | イメージ | ||
| 優良賞 | 3年 | 差別のある現実 | ||
| 優良賞 | 3年 | One For All, All For One | ||
| 優良賞 | 1年 | 差別をなくすために・・・ | ||
| 優良賞 | 3年 | 人権について思うこと | ||
| 優良賞 | 3年 | 「思い出」という宝物 | ||
| 優良賞 | 3年 | 「言葉の力」 | ||
| 優良賞 | 3年 | 戦争と人権 | ||
| 優良賞 | 3年 | 差別のない明るい未来を信じて | ||
| 優良賞 | 3年 | 野 | みんなちがって、みんないい | |
| 優良賞 | 2年 | ちょっと考えれば笑顔がいっぱい | ||
| 優良賞 | 1年 | 大切な金魚から教わったこと | ||
| 優良賞 | 2年 | 橋 | 勇気をくれた言葉 | |
| 優良賞 | 1年 | 知らないうちに・・・ | ||
| 優良賞 | 3年 | 差別をなくして明るい日本を作ろう。 | ||
| 優良賞 | 3年 | 障害者と共に生きる | ||
| 優良賞 | 2年 | 地震から学ぶ | ||
| 優良賞 | 2年 | 悪口と個性から考えること | ||
| 優良賞 | 1年 | 人権について | ||
| 優良賞 | 2年 | 障がい者差別について | ||
| 優良賞 | 2年 | 「自分らしくとは」 | ||
| 優良賞 | 2年 | 出会い、そして人への思い | ||
| 優良賞 | 2年 | 「心」 |
最優秀賞・新潟地方法務局長賞
家族の姿から学んだこと
上越市立吉川中学校 一年 水澤出帆
ときどき、母の友人から電話があります。その電話をとったとき、ぼくはあわてて母にかわります。なぜなら、その電話の主は、
「あーうー」
としか言わないからです。母は電話をかわると、なんでもないように三十分近くも話しをしています。
その母の友人は、体に障がいがあります。車いすによりかかるようにしないと歩けないそうです。そして、言葉を話すことができません。なぜ、言葉を話せない人と母は、三十分も電話ができるのか、ぼくはとても不思議でした。母にたずねると、
「だって友達だもん。友達と電話ができて楽しいと思うとけっこう通じるものよ。」
と言っていました。初めは、そんなので通じるのかなとおもっていましたが、母を見ていて気づいたことがあります。それは、母がその友人を障がい者として見ていないことです。もし、母がその友人に対し、「電話だとなかなか話が通じないから会ったときに話しましょう。」と言っていたらどうなっていたでしょう。おそらく、その友人はもう二度と電話をしてくることがなかったのではないでしょうか。たとえそれが、相手を思った言葉だとしてもです。相手を思いやったり、気づかったりする言葉や行動が、ときとして相手を傷つけることがあるのかもしれません。きっとそこには、無意識のうちの差別が生まれているように思います。
母は、障がいのある人も、健康な人も、年をとっている人も、若い人もみんなで楽しもうという主旨のサークルで、毎年地元の祭りに出店しています。団子やパンなどを売るその店に、ぼくも一度手伝いに行ったことがあります。障がいのある人がたくさん参加していました。ぼくは、その人達とどう接していいかわからず、ほとんど話をすることができませんでした。母はというと、どの人にもふつうに話していて、その様子だけ見ていると障がいがある人がどの人なのかまったくわかりませんでした。そのとき、話ができなかったぼくの心の中には、「この人達は障がい者なんだ。」という差別が生まれていたのかもしれません。
ぼくには、小学生の妹がいます。妹も母と同じように、障がいのある人達にとても自然に接しています。言葉の話せない母の友人からの電話にもまったくあわてる様子もなく、「少しおまちください。今、お母さんにかわります。」といつも通りに対応しています。また、学校でこんなこともあったそうです。ある日、校外学習で商店街で買い物体験をしたそうです。そのとき妹は、少し多動な所があり、目をはなすとどこかへ行ってします子と同じグループになりました。そこで妹は、先生に言われたわけでもないのに、買い物体験の間じゅうずっとその子と手をつないでいたそうです。そのことを妹にたずねると、
「だって、お友達が迷子になったら大変だし悲しいから。」というなんともあたり前の答えが返ってきました。母も妹も、友人達の障がいを個性としてとらえているのではないでしょうか。
では、自分はどうでしょう。差別はいけないと思っているし、差別をするつもりもまったくありません。しかし、心のどこかで、「言葉が話せなくてかわいそう。」「一緒にいると大変かも。」といった気持ちがあったと思います。
相手を深く知ろうとせず、その表面だけを見て判断している自分は、その人達の人権を尊重していなかったのではないかと気づきました。そのことを、身近にいる家族に教えてもらったように思います。
障がいのある人達は、けっしてかわいそうな人でも、困っている人でもありません。障がいがあるという前に幸せに生きていきたいと思っているぼくと同じ一人の人間です。それぞれ持っている個性や、考え方、意見を認め合っていくことが大切だと思います。
「人権問題」というと、なんだかとても難しいことのように感じます。しかし、ぼくの身近にとても自然に行動しているよい手本が二人もいます。そんな家族をほこりに思い、ぼくも自分のできることから取り組んでいきたいです。
みんなが幸せになれるように。
最優秀賞・新潟県人権擁護委員連合会長賞
聴覚障害者として生きて
上越市立城東中学校 三年 永野裕二
僕は聴覚障害者で、聴力を補うための補聴器をかけています。補聴器は水に弱く、おふろに入ったり、海やプールに行ったりしたときは必ず外さなければいけません。また、寝るときも邪魔なので外します。電池も切れやすいので、こまめに入れ替えなければいけません。でも、慣れてしまえば簡単なので、このことを不便だとか大変だとか思ったことはとくにありません。聴覚障害者であることにも、あまり悩んだことはありません。むしろ、聴覚障害をもっていることに甘えてしまい、それを指摘されて自分を恥じたことさえあります。
そのため、母が真剣に自分のことを話しているのを聞いて、なぜ自分は、自分が障害者であることに、こんなにも楽観的でいられるんだろうと、自分で自分を不思議に思っていました。自分のこととしっかり向き合っていないからと、言われればそれもあると思います。自分で聴覚障害であることを利用した遊びをして、母に本気で叱られたこともありました。しかし、話している相手が自分に言っていることが聞きとれなかったり、海やプールへ行ったときには、周りの音が全く聞こえなかったりと、聴覚障害者であるためにどうしても不自由な体験をしなければならなかったこともあるので、それだけではないと思います。なので、どうして聴覚障害であることが全く気にならないのか、よくわかりませんでした。
そんなとき、母が姉の作文を読ませてくれました。姉は中学二年生のころ、知的障害者である自分の兄と、聴覚障害者である僕と暮らしてきたことについて、自分の考えを作文にまとめていました。
この作文を読んだとき、今まで不思議に思ってきたことが、ふいにわかりました。
なぜ自分が聴覚障害者であることについて、深く考えてこなかったのか。それは、僕はとてつもなく恵まれた人間だったからです。
その作文には、こう書いてありました。
「障害者を抱えるのは大変ですが、それでも私の兄、弟であることに変わりはありません。だから健常児と同じ扱いで叱ったり、ほめたりします。」
姉は、僕を障害者であると同時に、普通の人間として接してくれていました。障害者としての配慮をしつつ、僕を一人の人間として普通の人たちと同じように接してくれていたからこそ、聴覚障害であることを苦とせず、普通の人達と同じように生きていけたのです。
姉だけではありません。母、父、祖母、兄も、僕のことを普通の人間としてみてくれていました。特に母は、僕の耳を診てもらうために、仕事を休んでまで、僕を遠くの病院まで連れていってくれました。こんなに心優しい家族がいたからこそ、今の僕がいるのだろうと今では思います。
考えてみれば、家族だけではありませんでした。僕には、友だちが大勢います。良い人から、少し嫌な人までたくさんいますが、そのほとんどの人が、僕を他の友だちと変わらずに接してくれています。中には、耳のことを考えてゆっくり話してくれたり、たまに耳のことをひやかされたとき、その人を注意したりしてくれます。僕が今まで会ってきた人たちのなかで、僕を聴覚障害者であることで本気で侮辱する人は一人もいませんでした。
「人間として差別をしないのは当たり前のことだ。」という人もいるかもしれません。たしかに、差別することは人としてよくないことだし、差別しないことは人として当たり前だと僕は思います。しかし、同時に僕は「当たり前のことをしてもらうことが、その人にとって一番幸せなことなんだ」とも思うようになりました。僕は、聴覚障害者であっても、今の生活にとても満足しています。それは、僕が多くの人たちに支えられているからであり、僕はそのことをものすごく幸福に感じています。
人権を守るということは、一見大変そうなことに思えますが、難しく考える必要はありません。ただ目の前の人に、人として当たり前のことをすればいいのです。それだけで、その人は嬉しいでしょうし、たとえ結果的に相手を傷つけてしまっても、それがその人のことを気遣ってしたことなら、決して間違いではありません。
僕は、今まで、多くの人に一人の人間として接してもらってきました。だからこそ、僕はどんな人にでも、相手のことを尊重し、一人の人間として接していきたいです。それが、聴覚障害者である僕を、人並みに生きさせてくれた人たちに対する、恩返しだと思っています。

野