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ホーム > 各種行事 > 第57回(平成21年度)中学生人権作文コンテスト結果 >

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優秀賞「無意識の差別」

大阪市立今宮中学校 三年 山口朝陽

みなさんは病気の人、体に障害のある人を目にしたとき、どのような気持ちになるだろうか。

おそらく、ほとんどの人が「かわいそう」という哀れみの感情を抱くと思う。

しかし、その感情はそういう人達に対してもつ正しい感情なのだろうか。もしかしたらそういう風に思われる方が、辛く感じる人もいるかもしれない。

私は二歳の頃から『ネフローゼ症候群』という腎臓の病気を持っている。この病気は原因不明のため、これといった治療法がまだわかっていない。そのため、私は病気を抑える薬を飲むしかなかった。今ではもうずいぶんと調子が良くなり薬を止めているが、小さい頃は再発による入退院を繰り返していた。

入院中、私には何人かの見舞い客が来た。
家族や祖父母はもちろん、保育園や学校の先生も来た。家族の中ではあまりなかったが、他の人達はだいたい一回「かわいそうにねぇ。」という言葉を漏らしていった。私はその
「かわいそうに」と言われるのが、あまり好きではなかった。いや、嫌いだったかもしれない。

「かわいそうに」の言葉には、同情の意味が込められているのだろうが、私にとってはどこか他人事のように聞こえる。ようするに、“本当に同情しているように聞こえない”のだ。それにこの「かわいそう」は、何か不運な事故にあって言われるものと言葉の重みが全然違う。暗に「普通の体じゃなくて大変だね。」と言われているような気がして、自分と健康な人との違いを実感させられる。

これは他の病気の人や、障害を持っている人にとっても同じではないだろうか。この人達もきっと、今までに何回も同情の念を向けられてきたはずだ。その度に、私のような思いをしてきたのではないか。というか、これはある意味の差別なのではないか。私は最近そう思うようになってきた。同情は、時によっては健康な人とそうでない人達を分ける、いわゆる差別になってしまうと。

しかし同情される辛さを知っている私でも、そのような人達を見たとき、その人達の話を聞いたとき、無意識のうちに「かわいそう」と思ってしまう。反射的に、この言葉が口から滑り出てくる。これは私だけではなく、他の人達だってそうだろう。ではなぜこんなことになるのか。それは世の中で、病人・障害者=かわいそうな人、という図式が成り立ち、それが日常生活の中で私達に擦り込まれてしまっているからではないかと私は思う。だから私達は、病気の人・障害のある人を見たとき、あるいはその話を聞いたとき、「かわいそう」と思う癖がついているのだ。そうなれば、「かわいそう」という言葉が他人事のように聞こえてしまうのは当たり前だ。

この無意識の差別を無くしていくためには、まず、私達が病気の人・障害のある人に対する見方を変えなければいけないと思う。ただ遠巻きに「気の毒に。」「大変だなぁ。」と見ているのではなくて、その人達にも健康な人達と同じような態度で接することができれば、それだけでずい分違うはずだ。だが、全部が全部健康な人と同じというわけにはいかない。そこはやはり、その人達それぞれ何か健康な人よりも不便な点があるわけだから、そういうときはきちんとその人を気遣って、手助けしてあげればよい。

私も、特に病み上がりのときなどは、友達の気遣いに助けられた。小学校からの友達は私の体のことをよく知っているし、中学校からの友達も、私にできないことがあることを理解してくれた。

確かに、変に特別扱いされて、みんなと違う存在にされてしまうのは嫌だけど、でもやっぱりみんなができるのに自分にはできないことがあるので、そんな時に、誰かがそっと助けてくれるのは、本当に嬉しいものだ。

だから私達みんなが、この考えを持ち、更にそれを実行していけば、無意識の差別は無くなっていくと思う。そして、いつかは世の中の病人・障害者=かわいそうな人、という図式も取り払われることだろう。そうすれば、きっと、人に優しい世の中になっていくと私は思う。

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