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ホーム > 各種行事 > 第56回(平成20年度)中学生人権作文コンテスト結果 >

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優秀賞 知らないを知っているに

高槻中学校 3年 山元 康弘

先日、父から幼い二人の男の子の話を聞いた。一緒に遊んでいた二人の内一人は盲目で、その子にもう一人の子が「見えないって真っ暗なの?」と尋ねると、その盲目の子は「真っ暗って何?」と反対に尋ねたという。この話を聞いて初めて僕は相手の立場に立つということは、どういうことかを教えられたように思う。これまで僕は電車などで座っていてもお年寄りを見かけたら、声はかけないけれど席を譲ろうと立って他の場所へ移動したり、駅前の自転車でいっぱいの狭い通路を白い杖を持った人が通ろうとしていたら、困らないよう自転車を動かしてあげたり、自分なりに何かできることを考えて行動していたつもりだった。しかし、この話から僕のしていたことは自分の一方的な思い込みと押し付けであったのではないかと考えさせられた。僕たちは、どれほど自分の知らない世界のことをわかっているのだろうか、気づかないということで他人を傷つけていることはないだろうか。

最近、バリアフリーという言葉をよく聞く。身体の不自由な人が、障害があるために社会参加できないことがないよう、また障害のない人たちと同様に自由に生活できるようにとの配慮から、バリア(壁)をフリー(なくす)にするという意味らしい。町のあちこちで気をつけて見ると建物や道路の階段横にスロープや手すりがつけられ、歩道には点字ブロックがある。そして、どこの駅にも必ずエレベーターやエスカレーターが設置されている。このような設備を私は、とても良く考えられており、いろいろな障害のある人でも自由に社会参加できるようになったのではないかと思っていた。しかし、せっかくのスロープも長すぎるものや、勾配の急な所は車椅子の人が一人だけでの操作は負担が大きいとか、車椅子が通りやすいよう車道と歩道の段差を無くしたために、目の不自由な人には車道と歩道の区別がつかない。また、点字ブロックは足腰の弱った人にはバリアーになるというように、問題も出ているという。ただ、こういう設備がある所はまだまだほんの一部で、何の手も尽くされていない場所の方が多いのではないかと考える。

先日、お盆に家族と観光地へ出かけ、昼食をとるため、予約なしでは入れないという高級な和風レストランへ行った。ところが、その店の門の前で車椅子のお年寄りと一緒に来られていた数人の人たちが、困ったような顔で何か話をされていた。僕たちは気にせず、先に門をくぐって玄関の戸を開け、店の中へ入った。その時、僕は門の外にいた人たちが何を話されていたのかわかった。広い玄関には高めの上がり口があり、廊下から更に一段上ったところに座敷があった。僕たちは門の敷居をまたいで、そこから玄関まで砂利をひいた中に置いてあった五、六個の飛び石の上を何も気にせずに歩いてきたのだ。車椅子が通れるわけがなかった。玄関から外を見ると、二人の男の人が車椅子ごとお年寄りを抱えて、砂利に足を取られながら汗だくで玄関まで運んで来られるところだった。そしてその人たちの会話から、玄関でお年寄りを車椅子から降ろして、背負って座敷へ上ろうとされていることがわかった。もちろんレストランの従業員の人も何か手助けしようと玄関まで出て来られていたが、そういう状況にあまり慣れていないらしく、何もできずオロオロと見ておられるだけだった。その人たちがなぜ、大変な思いをして車椅子に不便なその店に来られたのかわからないが、僕はその人たちが楽しい時間を過ごせたのか、料理をおいしく食べられたのか気になった。

僕が今回の出来事で強く感じたことは、僕たちは自分に関係のないことや知らない世界のことに対してあまりにも無関心で、意識しないと何も気づかないということだ。障害のある人への無関心や無理解は、知らないというだけでそのまま偏見や差別にもつながると思う。こうした問題をなくすために、体の不自由な人たちはもちろん、お年寄りや小さな子供を連れた人が町のなかや乗り物などでどのように感じているかということを多くの人に知ってもらう必要がある。以前テレビで、体におもりやアイマスクをつけて身体の不自由な人たちがどのように感じているかを体験してもらう催しをしていた。僕は多くの学校や会社などでこのような体験学習をしてもらって、たくさんの人が関心をもち、理解できるような機会を作るべきだと考える。冒頭の二人の男の子のように、僕たちもふだんの生活のなかで障害者と一緒に遊んだり、勉強したりできるようにすれば、お互いをより深く理解することができるのではないだろうか。そして援助する側が、自分のしたことの自己満足で終わらないよう、自分のしたことが相手にどう受け取られているかを知る努力をし、今後の自分の行動に生かすことが必要だと考える。

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