人権作文コンテスト
全国中学生人権作文コンテスト埼玉県大会
中学生人権作文コンテストは、作文を書くことを通じて人権尊重の重要性、必要性の理解を深めるとともに、豊かな人権感覚を身につけてもらうことを目的として、昭和56年度から実施しています。
平成23年度は、県内の全中学校のうち約87%の学校から御協力をいただき、県内の全中学生の約54%の生徒の皆さんから107,345編の応募がありました。
また、応募のあった作品の中から中央大会に推薦した最優秀賞作品6編のうち1編が社団法人日本新聞協会会長賞、2編が法務省人権擁護局長賞を受賞しました。
ホームページ上では最優秀賞作品のみを紹介させていただきます。
なお、数に限りはありますが、さいたま地方法務局人権擁護課及び支局総務課内において、優秀賞作品も掲載されている「埼玉県大会作品集」と中央大会の入賞作品が掲載されている「入賞作文集」を配布しております。興味を持たれた方は御連絡いただければと思います。
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最優秀作品紹介
『支えあって生きる』(社団法人日本新聞協会会長賞)・・・本庄市立本庄南中学校 林凌平
『人を繋ぐ思いやりの心』(法務省人権擁護局長賞)・・・川越市立高階中学校 田中里奈
『頑張れ』(法務省人権擁護局長賞)・・・・・・・・・・・・・・・吉見町立吉見中学校 砂生ひかり
『転居を通して僕が感じたこと』(中央大会奨励賞)・・・学校法人立教学院立教新座中学校 茂木嘉音
『キャンプの体験から』(中央大会奨励賞)・・・・・・・・・加須市立加須東中学校 安藤萌
『人生の大先輩』(中央大会奨励賞)・・・・・・・・・・・・三郷市立北中学校 荒川媛奈
【審 査 員】
埼玉県文芸賞選考委員 猪俣 千代子
埼玉県教育局市町村支援部人権教育指導主事 長谷川 守
さいたま市教育委員会生涯学習部生涯学習振興課人権教育推進室長 関口 一郎
埼玉新聞社文化くらし部長 佐藤 達哉
テレビ埼玉報道制作局制作部長 出井 恭一
浦和レッドダイヤモンズ社長補佐 白戸 秀和
大宮アルディージャ取締役管理本部長 東山 雄二
埼玉西武ライオンズ取締役 佐藤謙
埼玉県人権擁護委員連合会長 伊藤一枝
さいたま地方法務局長 山本 寧
『支えあって生きる』 林凌平
基本的人権の尊重。今までの自分が人権について知っていることと言えばこの言葉ぐらいだ。日本は、世界に比べれば平和で安全な国だし、自分もその国で、何不自由なく幸せに暮らしていた。そうあの日までは…。
3月11日の東日本大震災は、たぶん日本の歴史に残る大きな災害だ。教室の後ろに掲示してある歴史年表にも、いつか刻まれることと思う。ぼくは、その被災地に住んでいた。地震で建物が壊れたりしたものの、家族や友達、地域の方々に亡くなった人はいなかった。
しかし、地震の後の原発事故のため、ぼくと家族は家を離れ、友達や親しい人たちと別れなければならなくなった。生まれ育った故郷を離れなければならなかったのだ。
人権をおびやかすもの。戦争や紛争、貧困、差別や偏見、環境破壊など、今までの自分にはなんの興味もなかったことだった。まだ戦争や紛争中で、子供たちの命が危ない国があることも、戦争は終わったけれど、貧困のため食べるものがなく、病気になっても満足な治療も受けることができない国があることも社会で学習した。テレビでそんなニュースを見れば、かわいそうだと思ったし、争いがよくないことも分かっていた。
しかし、それは自分にとって、遠い遠い国の出来事で、自分の心を痛めるようなことではなかった。まさか自分たち家族が、家を無くし、日本中を転々と移動しながら、目に見えない恐怖におびえ逃げまどう避難民になろうとは、想像もしていなかった。避難所では、配給のおにぎりを妹と半分にして食べた。薄い毛布にくるまり、寒い夜を過ごした。ラジオのニュースを聞くのが、とても怖かった。
避難先でぼくと妹は、父に言われたことがあった。
「これから先、もしかしたら、おまえたちは差別を受けることがあるかもしれない。福島は被曝という厳しい現実と向き合わなければならないからだ。心ないことを言う人がいても我慢をしていこう。そういうときこそ、人の本当の温かさが分かる。人とのつながりがどんなに大切か分かるはずだから。周りをしっかり見ていきなさい。」
その時は、父の言葉の意味がよく理解できなかった。いつになく真剣で、悲しそうな父の顔が印象に残っただけだった。
自分は今、埼玉県本庄市に暮らし、学校にも通っている。なつかしい故郷にはまだ帰ることはできないが、新しい友達もでき、幸せだと思う。
初めて学校に行く日は、とても緊張していた。自分が福島から来たことで、被曝者と言われたりしないか、無視されたりしないか、汚いものを見る目で見られたりしないか、不安でしょうがなかった。
しかし、友達の反応は違っていた。自己紹介で、福島から避難してきたことを聞いた時は、一瞬驚いていたが、次の瞬間からは他の友達となんのかわりもなく接してくれた。
みんなの態度は、ぼくにとって、とてもありがたかった。かわいそうにと思われてもかまわないが、ぼくは一人の中学一年生として、生活がしたかった。校長先生や他の先生方、先輩方にも、時々声をかけていただいたが、普段は他の友達と同じように、時には厳しく、時には優しく接してくださる。そんな生活の中で、ぼくは、自分が避難してきたことを忘れてしまいそうになる。
このように、ぼくは、差別という人権侵害を一度もうけることがなかった。ぼくの人権を尊重し、受け入れてくれた皆さんにとても感謝している。
人権を守るというのは、自分の力ではなかなかできないのではないかと思う。自分の人権は、誰かに守ってもらっているのだ。それは、家族だったり友達であったり、地域の人々だったりする。それだけではない。見ず知らずの人であっても、傷付け合ったりせず、お互いに人権を守り合うことが大切なのだと思う。それが人権を尊重すると言うことではないだろうか。
震災は、自分にとって人とは何か、幸せとは何かについて考えたり気づいたりするよい機会になった。一番大切なことは、一人ひとりが、何が差別で何が人権侵害なのかを、しっかり考えることだと思う。そして、相手が何を望み、どう接してほしいのかを考えてあげることが必要だ。
ぼくの未来はまだ何も見えてはいない。しかし、ぼくには分かったことがある。それは世界のどこにいても、どんな困難にぶつかったとしても、それぞれの人権や自由を守ることができる社会さえあれば、人は幸せに生活できるということだ。
父の言葉には、そんな意味があったのかもしれない。それはまだ分からないが、今自分ができることをして生きていきたいと思う。
それが、「支えあって生きていく」ということではないだろうか。
『人を繋ぐ思いやりの心』 田中里奈
私には将来の夢がある。看護師になることだ。いつかは社会に出て、人のために働きたいと思っている。そう思うようになったきっかけは、父の仕事を見ていたからだ。私の父は自衛官である。小さい頃から、自衛隊の仕事を見ていたり、聞いたりしていた。父は、「国を守ることが自衛官の仕事なんだ。」と、言っていた。私は、国を守ることは、戦争時に防衛をしたり、人々の生活の安全を守ることだと思っていた。しかし、父のある派遣により、思っていたこととは違うことが分かった。
それは数年前に起きた、新潟中越沖地震の時だった。地震が起きてからすぐ父に緊急要請が来た。父はすばやく仕度をし、あっという間に荷物をまとめた。私たち家族は、体調への不安と、仕事を応援する思いで、父を見送った。それから、テレビで流れる地震被害の情報を聞き、被災地の状況や自衛隊の活躍を見ていた。すると、マスクをし、白い調理服を着た父が映っていた。テレビの中の父は被災者のために食事を作っていた。被災地に行った父が、どんな仕事をしているのか知らなかった私は、とても驚いた。父はたくさんの人のために、野菜を切ったり、スープを作ったり、一生懸命に働いていた。作られた料理は、多くの被災者の方に配られた。作りたての温かい料理をもらい、幸せそうに食べていた。それを見て、本当に安心した。この災害により、多くの死者と行方不明者が出た。家族や知り合いが、どこにいるのか分からない。人々の気持ちは不安でいっぱいだったと思う。しかし、温かい料理をもらって、人々の心の傷が一時忘れられているように見えた。そんな、料理を作って人々を励ます仕事をしている父を本当に尊敬できた。いつも、山での訓練や、泊まりの多い父は、こんな時に、どんな仕事でも立派に働くことができた。人々を励まし、災害地の復興のために、瓦礫の撤去や、壊れた道路の修復など、一生懸命に働くことができて、すごいと思った。
それから何日か後、父が帰宅した。父はあれだけの重労働にもかかわらず、疲れたとは一言も言わなかった。逆に、被災地のことを教えてくれた。料理をもらうために、たくさんの人が列を作り、行儀良く待っていたそうだ。そして、もらう時に「どうもありがとうございます。」と嬉しそうに言ってくれたのだ。父は人のために働くことができて良かったと言った。仕事での災害派遣という形ではあったが、被災地に行って、人々が互いに助け合う姿を見て、勇気をもらったそうだ。そして、自分がその場に行って、人々の強く生きる姿を見ることができて、良い経験をしたと言っていた。
私もいつか、人のために働きたいと思った。父のように、人の役に立つ仕事に就き、一生懸命働けたら、どんなに良いだろう。父の仕事を見ていて、父が言っていた、「国を守ることが自衛官の仕事。」というのは、、「人々の幸せを守ることが自衛官の仕事。」だと思った。国とは一体何であるか考えた時、国は人々が幸せに暮らす場所。その幸せが失われないように働く。その幸せがいつまでも続くように、助け合っていく。だから、私は看護師になって、人々の幸せを守りたいと思っている。
この震災により、私は学んだことがあった。私たちは多くの人々の助け合いの中で生きていく。温かい思いやりの中で人の心は学び続けていく。助け合うこと、思いやりの心を持つことは、困難を乗り越えるための力になる。その心があるから人は人に幸せを与えてくれる。人はこんなにすばらしいことができる。一人一人の思いやりの心を育てて、もっとすばらしい世界を広げていきたいと思った。誰にでも人を思いやる心があるのなら、その心を大切に、相手の思いやりも大切にしてほしい。一人一人が意識することで、私たちの幸せは増えていくのだから…。
今年の三月十一日に、今まで体験したことのない大震災が起こった。それは、見たことのない自然の破壊力であった。人間が造り出したものは壊れ、あっという間に津波にすべてを流されてしまった。自然のすさまじさと、人工的に造った物の脆さが手に取るようにして分かった。しかし、もう一つ手に取るようにして分かったものがあった。それは、人々の力強さと、被災者を思いやる心だ。信じられないような状態になっていても、あきらめず、たくさんの人の力で助け合いながら、着々と復興作業を進めている。被災者のために全国、世界中からの支援と、多くの応援やボランティアが行われている。思いやる心は、国境を越えて世界を繋げた。私が今できることは少ないけれど、父のように、多くのボランティアの人たちのように、人のために活動のできる人になりたい。そして、人を助け、人を思いやることのできる看護師になりたいと思っている。
『頑張れ』 砂生ひかり
私の姉は特別支援学校に通っています。高校二年生です。私も背は小さいほうですが、姉はもっと小さいです。
私は友達によく聞かれます。「お姉ちゃん、どこの高校?」と。「私のお姉ちゃん、特別支援学校に通ってるんだ。」こう答えられるようになったのはつい最近でした。
姉は背も小さいし、言語もはっきりしていません。それに運動も勉強も苦手です。自分のことも満足にこなせませんので、二つ年が離れていても、妹のようでした。私が友達と出かけると言って、支度をしていると、
「ひぃちゃん、今日お友達と出かけるの?いいなあ。どこ行くの?」
と、毎回聞いてくるのです。
私は毎回聞いてくるので嫌気がさし、いつも「うん。」としか答えませんでした。けれど今思うと、特別支援学校に通っている姉は一緒に出かけられる友達がいなくて、私がうらやましかったのだと思います。そしていつしか、私は姉に冷たい態度をとるようになりました。
けれどやはり、姉にはできないことがたくさんあるので、その面倒を見るのもこなすのも妹である私でした。幼い頃からそうです。姉にできないことをかわりにやるのは全て私でした。
やがて私は思春期を迎え、親と会話する回数は減っていきました。たまに母と洋服を買いに行ったりすると、母はいつも「この服、お姉ちゃんに似合うかな。」と必ず言うのです。
私は不満を抱きました。(なんでよ。頑張っているのはいつも私なのに。どうして、お姉ちゃんのことばっかり考えているのだろう。お姉ちゃんなんかよりもずっとずっと、頑張ってるのに。)と思うようになりました。そしてその不満が爆発する日が来たのです。
お正月の日の夕方でした。私は友達とメールをしていて、その時会うことになりました。でも時刻はもう六時になろうとしていました。冬なので外はもう、暗くなり始めています。私は、「年賀状を出してくる。」とうそをついて家を出ました。結局、家に帰ったのは七時半過ぎ、案の定、母にものすごく怒られました。いつもなら黙って怒られている私でしたが、今回は反論しました。
「どうしてよ。いつもいつもお姉ちゃん、お姉ちゃんって言ってるくせに。だったらあたしなんかが夜に抜け出したくらいで、そんな心配しなくていいじゃない。小さい頃から、妹はあたしなのになんでお姉ちゃんの代わりしなきゃいけないの?お姉ちゃんなんか何もできないくせに。頑張っているのはいつもあたしなのに。」
私が抱いていた不満を全てぶつけました。泣き叫ぶように。するとお母さんは、目に涙を浮べながら私に近づいてきました。すると、私を一発叩いたのです。そして、
「なんでそんなこと言うのよ!」
「ひかりが大切じゃないわけないでしょ?確かにひかりはお姉ちゃんより勉強も、運動もできるかもしれない。だからお母さんもひかりばっかり期待してて、重いプレッシャーをかけちゃったよね。でもね、お姉ちゃんだって頑張ってるんだよ。勉強したくても、うまく理解できないの。運動したくても、体が言うこときかないの。お姉ちゃんの後に、五体満足で生まれてきてくれたひかりを見たとき、どれだけ嬉しかったか。頑張ってるのはひかりだけじゃないよ。辛いのはひかりだけじゃない。」
母は泣きながら、私に訴えるようにそう言いました。
私は涙が止まりませんでした。自分の未熟さに腹が立ったのです。障害をもっている姉を「何もできないくせに。」と言った自分が情けなくて仕方がありませんでした。
そして、その日から私の考えは変わりました。お姉ちゃんだって一日一日、必死に頑張って生きている、と思うと応援したくなりました。
また、姉は最近漢字検定の受験も始めました。毎日コツコツ勉強して、次々と合格していく姉を見ると私も負けないように「頑張らなきゃ」と思うようになりました。
今でも、障害者を差別している人がいます。私の周りでもたくさんいます。そんな人達に伝えたいです。障害をもっているからって、少しハンデがあるからって、みんな同じ人間なんです。みんな必死に生きているのです。五体満足で生まれてきた私達は、その丈夫な体を充分に活かせるはずです、と。
障害者にも、もちろん私達にも人権があります。その人権を平等に尊重していくことが、生きていくうえで、とても大切だと改めて思いました。
『転居を通して僕が感じたこと』 茂木嘉音
僕はこの春、中学校への進学を機に通学の利便性などを考え一家で中学校の近場へと転居をした。この転居で僕の通学は楽なものとなり、学校生活でも日々勉強や部活動にと新しい発見が多い充実した毎日を送っている。
この新しい生活環境になじみ、充実感を味わっている一方で僕には気付いたことがある。それは「家族や友人の温かさ」ともう一つは「近所の人達の温かさ」つまり「生活環境を取りまく人達の温かさ」である。このうち、「生活環境を取りまく人達の温かさ」について僕の感じたことや考えを述べたいと思う。
新しい生活環境となって数ヶ月が経ってみると、僕は少し自分の周囲の環境に違和感のようなものを感じたのだ。その違和感に気付くきっかけは、ある朝の登校時、同じマンションの方と顔を合わせ、お互いにあいさつをした時だ。「お早うございます。」以外の言葉はお互いになかった。それが普通なのかもしれない。しかし僕はそうは感じなかった。新しい環境には僕をよく知っていてくれ気軽に声をかけてくる人達がいないということに気付くと同時に、これが違和感の原因だと思ったのだ。
以前住んでいた場所で僕は十年近くを過ごしてきた。家には、父や母以外に祖父母がおり、いつも誰かが側にいた。家の外に出たら近所のおじさんやおばさんがほぼ必ずという程に、僕の姿を見かけると「元気か?」「背がまた伸びたんじゃないか。」「どこに行くの?気を付けるんだよ。」などと声をかけてくれ、僕を見送ってくれた。また家から少し離れた場所でも小学校の友達や保護者の方が僕に声をかけてくれたり、買物先でも病院へ行っても僕のことを小さな頃からよく知っている人達ばかりだったし、僕も皆のことをよく知っていた。これらのことは僕にとっては当たり前のことであったが、しかし今僕のいる環境にはそれがない。僕を知り、認めてくれ声をかけてくれるし、見守ってくれる。このことがどれ程僕を安心させてくれ、当たり前のようでいてそうではなくありがたいことであるのかを、生活の環境が変わって初めて知り、気付いたのである。家族の温かさも必要不可欠なものであるのは言うまでもないことだ。僕の家は、口数は少ないけれどいつも僕を最優先に考えてくれる優しい父と、元気が良くおしゃべりでしっかり者の母がいて、僕にとって本当に安心していられる場所だ。けれども家族にもそれぞれの時間があるから、四六時中一緒にいられるわけではないのだ。だから一歩外に出たら外で感じられる温かさがとても大事になってくるのではないだろうか。
人が人を知り、お互いを認め、尊重する。このことによって人は気持ち良く安心感のある生活を送ることが出来るのではないだろうか。そのためには人に自分を知ってもらうだけでなく、自分も人に関心を持ち関わっていくことで人を受け入れることが大切なのではないかと僕は思う。そしてこれこそが基本的人権の尊重と言えるのではないだろうか。
今、テレビ等で何でも一人で行動するというスタイルがかっこ良いと「おひとりさま」という言葉が紹介されている一方で、周囲から孤立してしまった結果ともいえるような、「無縁社会」「孤独死」といった言葉が取り上げられ、問題視されている。僕は、一人で何かを考え行動することが必要な時があるのは理解出来るが、「おひとりさま」がかっこ良いとは決して思わない。一人でいる気楽さは他人に責任を持つことがないのと同時に、自分も誰からも責任を持ってもらえないということで、それが「無縁社会」「孤独死」へと繋がっていくのではないだろうか。僕が今回体験し感じたものとは深刻さの度合も何もかも違うだろう。でも人に見守られることの安心感がないことが不安や淋しさとなることは同じなのだと思うし、これらの言葉はなくしていかなければいけない言葉なのではないだろうか。
基本的人権の尊重は日本国憲法の中でうたわれているものだ。憲法というと難しく遠いもののように思えてしまうし、まだ未成年の僕には関係のないものと思ってもいたが、そうではなかった。実際は僕の身近な所にあるもので、大人も子どもも関係なくこれに守られているし、与えられるだけでなくて僕の気持ちの持ち方ひとつで誰かに与えることも出来るものなのだと感じた。
今回、僕が転居という出来事を通して得た体験は感じるだけでは無意味になってしまう。だからこれからも忘れず肝に銘じて、新しい環境でも人と人との心が通い安心して過ごせる場所になっていくように、まずは僕自身からあいさつからでもいい、人と人とが関わっていける環境作りを続けていこうと考えている。そして皆が安心して毎日を過ごせるようになっていけば素晴らしいと僕は思う。
『キャンプの体験から』 安藤萌
去年の夏、私は、二才年下のいとこと二人きりで、初めて家族を離れて子供達だけでのキャンプに参加しました。これは、旅行会社の企画で、いろいろな場所から、小学校の二年生から六年生までが集まり二泊三日のキャンプ生活を体験するというものでした。引率のインストラクターは駅で初めて会った知らない人ばかりで、子供たちも一人で参加している子が多数でした。
私は、年下のいとこと一緒でなかったら、その場から逃げだしたいくらいの緊張と心細さでした。それでも現場に着くころにはインストラクターによって七つのグループに決められ、いとことは別のグループになってしまいました。しばらくして少し開き直った気持ちでMちゃんという女の子に話しかけ、すぐに仲よくなることが出来ました。私のグループには、乱暴そうな四年生のA君、眼鏡をかけた五年生のB君、肌の色が浅黒いCちゃんという五年生の女の子、香港から東京のおばあちゃんの家に遊びに来ている途中で参加したという女の子二人、それと私と同じ六年生のMちゃんの七人グループでした。もともと私は、このキャンプには乗り気ではなかったのですが、学校での友達関係に少し悩んでいる私をみて母が、
「クラスの中の友達関係の悩みなんてすごく小さなことなの。世の中にはたくさんの人がいてそれぞれに個性があり、良い所も悪い所もあるの。いろんな人と知り合ってみたら自分が小さなことにこだわっていることがわかるわよ。」
と、この流れで勝手にこのキャンプに申し込まれてしまったのです。
川の水で野菜を洗っているとA君がCちゃんに
「お前フィリピン人なんだろ。お前の国は貧乏だから日本に働きに来てるんだろ。」
突然そんなことを言ったので私はビックリしてCちゃんの方を見ました。でもCちゃんは黙って自分の作業を続けていました。日本語があまり分からないのかなあと思いました。すると、
「フィリピンという国は男が働かないから女は働き者なんだよなぁ。しっかりかせいで帰れよ。」
と今度はB君が言いました。二人から失礼なことを言われているCちゃんをかわいそうに思ったのですが私はフィリピンについて良く知らなかったので何も言ってあげられませんでした。他の子も黙っていました。そこにインストラクターが来てCちゃんに話しかけるとCちゃんは日本語で答えていました。(えっ、日本語わかるんだ。)私は、さっきのA君たちの言葉を思い出してドキドキしました。Cちゃんは何で言い返したり泣いたりしなかったのかと心に様々な気もちがかけめぐったのですが、結局何も聞けませんでした。夜になり、テントで寝る時間になりましたが私は昼間のことが気になり、なかなか眠れませんでした。皆寝ちゃってどうしようと思っていたらCちゃんがテントから出ていくのが見えました。私は気になって後からテントを出ました。Cちゃんは岩の上に座っていました。
「どうしたの。」
と声をかけると
「まだ眠くないから星を見てたの。」
私は、思い切って
「昼間はひどいこと言われちゃったね。私なら泣いちゃうけどCちゃん強いね。」
と昼間のことを言ってみました。
「慣れてるから。」
といってフィリピン人ということで日本でいろいろな差別を受けている話をしてくれました。私は本当に驚き悲しい気もちになりました。日本で生まれ、日本人ということを特に意識したこともなく、何も言えなかった私に、
「本当は泣きそうだったの。でも、ママが仕事でどこにも連れていけないからと、参加させてくれたの。だから、絶対、泣かないと決めて来たの。」
私より年下の子が母親のことを思いやり、差別に負けず頑張っているのを知り、一言もかばえなかった自分が恥ずかしくなりました。
「でも日本人優しい人もたくさんいるよ。」
と笑った顔を見て私は、うれしいような申し訳ないような複雑な気もちで涙が出そうになりました。
最後の日、皆と別れてから差別についてもう一度考えました。インターネットが広がり世界がつながっていると言われても、まだまだ差別の多いことに気づかされました。私が大人になるころには、国の違いで差別されることなく、心がつながる世の中になっていたらと強く思います。私はこれから、たくさんの人と関わり、多くのことを知り、正しい判断のできる人になりたいです。そして、悲しい差別が無くなるようにきちんと意見が言える大人になりたいです。
『人生の大先輩』 荒川媛奈
私の父は、養護老人ホームで働いています。以前は、特別養護老人ホームで働いていました。たまに仕事の話をしてくれて、その度に満足そうに笑います。
『老人ホーム』というと、楽しそうなイメージは持たれにくいものです。私も小学生の頃は、あまり関わる機会もなかったので、話を聞いて、大変そうだ、と思うくらいでした。
中一のとき、こんな話を聞きました。
「認知症の方が増えているんだよ。でも、今日、『荒川さん』って呼んでくれたよ。」
私は、へぇーと言いました。何故そんなに嬉しそうなの?と思いました。介護なんて楽ではないだろうし、正直そういうのって面倒だろうなあ…。そのときの私は、そう思いました。v
それから何か月か経って、学校で福祉についての総合的な学習の時間が始まりました。私は『高齢者福祉について』の学習を選択し、特別養護老人ホームのことを調べました。
特別養護老人ホームは、環境的・経済的な理由で家での介護が困難な高齢者や、その他の理由で特別な介護が必要な高齢者等を介護することを目的とした施設です。父の話によると、養護老人ホームから特別養護老人ホームへ移動する方もいるそうです。
インターネットや本である程度、福祉施設について調べました。最後に、父にインタビューをすることにしました。
「どんな仕事があるんですか」、「大変な仕事はどのような仕事ですか」…。
そして最後に、こう質問しました。
「この仕事をしていて、良かったと思うことは何ですか。」
すると父は、うん、そうだな…と言い、それからこう言いました。
「この仕事はね、お年寄りの介護をするのはもちろんだけど、『お年寄りから学ぶ』ことができるんだよ。自分の知らないことを、たくさんお話しして下さるし。だから、介護をさせてもらって、本当にありがたいと思っているよ。」
『お年寄りから学ぶ』か。『介護をさせてもらう』… こんな考え方をしているのか。何かちょっと意外でした。もっと、こう、何というか、大変な仕事というイメージがあったので、びっくりしました。メモを取っていると、また父が話し始めました。
「例えば、町でお年寄りが困っていた、として。」
えっ、と思いました。何の話だろう。
「お年寄りを、先輩だって思えば…あー、先輩っていうのは、人生の、大先輩ってこと…うん、そう思っていれば、迷わず助けようとするよね。」
そうだな、と思った。『先生』、『先輩』という人には、きっと協力する。
「だから、今の子どもたちには、お年寄りのことを、『人生の先輩』だと考えてほしいな、媛奈にも。要するに、考え方は、ほら、行動になるし。」
うん、ありがとう、と私は言いました。そうか。だから、いつも話をするとき、あんなに嬉しそうなのか…。
お年寄りは、人生の大先輩。その言葉がずっと、頭の中を離れませんでした。
『介護』というのは、親切でやるものではないんだな、と思いました。私の父は、この仕事にやりがいを感じています。何より、お年寄りを、尊敬しています。
『高齢者の人権』と、テレビ番組や新聞で報道される中、実際、身近なところで、私たちはどうすればいいのでしょうか。町のバリアフリー設備、福祉施設の充実…直接協力できることは少ないかもしれません。
だから、形として協力するより先に、まず考え方から変えていけばいいと思います。お年寄りは、たくさんの知識を、私たちに伝えて下さいます。私たちの何倍も、人生を歩んで来ています。そう考えれば、『高齢者の人権』が守られないはずはない、と思うのです。
今回、父にインタビューさせてもらったことで、私の『高齢者』に対する考え方は、大きく変わりました。この意識から行動に移して、人生の大先輩から、たくさんのことを教わりたいと思います。

