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静岡県人権啓発活動ネットワーク協議会
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静岡県内の中学生が書いた人権作文

平成23年度中学生人権作文

中央大会では、推薦した2作品について、人権擁護局長賞と奨励賞をそれぞれ受賞しました。

ここでは、中央大会に推薦した県大会最優秀賞の2作品を紹介します。

人権イメージキャラクター人KENまもる君
人権イメージキャラクター人KENあゆみちゃん
「「元気」にもらったもの」
(中央大会 人権擁護局長賞)
浜松市立積志中学校
3年 内藤 拓海
「本当のサポートとは」
(中央大会 奨励賞)
裾野市立東中学校
3年 杉山 悠人

「元気」にもらったもの浜松市立積志中学校 3年 内藤 拓海

八月八日、僕は満天の星空と天の川を眺めていた。場所は日本一の山、富士山の八合目標高3030メートル

太子舘という山小屋前、時間は午後十一時、僕の隣には耳の不自由な小さな男の子が立っていた。

僕の富士登山は三年前、母に誘われ二人で登頂したのをきっかけに毎年富士山に登っている。今年で四回目の富士登山だ。気持ちにも余裕がある。困っている人がいたら「大丈夫ですか?」と声をかけたり、世界遺産の登録を目指す富士山のゴミを拾うつもりで登山をしようと考えていた。

登山道は大変な人の量で人の渋滞ができていた。天気は快晴だが、霧がかかり時々視界が悪くなる。しばらく登るとやがて霧は雲になり七合目まで進んだ所で、雷が鳴り大粒の雨が降り出した。僕はザックからレインウェアを出し、素早く着込み、列が動き出すのを待っていた。その時、僕の後ろから妙な声が聞こえてきた。振り返ると、小さな男の子が合羽の帽子を深くかぶり泣いていた。「どうした?大丈夫か?」と声をかけてみた。泣きやむ様子がないその男の子に僕は必死で「雨はきっと止むから少しの我慢だよ」「飴食べるかい?」と声をかけた。でもまるで無視をしてるかのように反応もなく泣きやまない。困った僕に、男の子と一緒にいた母親らしき人が「お兄ちゃんありがとう。この子は耳が聞こえないの。気を悪くしないでね」と言った。その時、列が動き出したので僕は迷わず男の子の手を引いた。男の子は少しびっくりした様子で僕の顔を見上げた。「行くぞ」と言うと男の子はうなずいた。僕の唇の動きが少しわかるようだ。本当は耳が聞こえない男の子にどうやって接したらいいのか分からなかった。

歩きながら僕と男の子はもちろん一言も話すことはできなかった。僕はどうやってコミュニケーションをとったらいいのかずっと考えていた。母と男の子のお母さんの会話で、少しずつ男の子のことがわかってきた。 僕たちと同じ山小屋を目指していること、男の子が小学六年生で卒業の記念に男の子が自分から登山をすると言い出したこと、生まれつき耳が不自由なこと、名前は「元気」くん。

雨が止み、元気は僕に何かを話し出した。言葉はよくわからないけど、身振り手振りでなんとなく言いたいことがわかるようになってきた。元気が笑顔になっていくと同時に元気のお母さんの顔色が悪くなってきた。「高山病になったみたいね」と母が言った。山小屋の太子舘まであと少しの所だった。

母が元気のお母さんの荷物を抱え、太子舘に何とか到着したものの、高山病は下山しないと治らない。お母さんは登頂を断念した。元気はまた泣き出してどうしても山頂に行きたいと聞かない。僕は母と相談して、元気の面倒を僕がみることで元気は山頂を目指すことになった。元気は安心して仮眠した。僕は初めての登山の時、山岳ガイドさんに「山は一瞬で表情を変える。絶対に気を抜いてはならない」と教えてもらったことを思い出していた。こんなに責任を感じるのは初めてだった。元気の寝息を聞きながら「絶対に元気を山頂まで連れて行ってやるんだ」と考えながら、眠れずに目を閉じていた。

午後十一時、山小屋の外に出ると元気がワーワーと声を上げた二人で空を見上げた。まるでプラネタリュームのような満天の星空が広がっていた。

途中、一度も元気は弱音を吐くことなく山頂に到着した。ご来光には少し早く、気温は三度と寒いので、僕と元気は山頂の山小屋で母にコーンスープを買ってもらい飲んだ。元気の顔がパーっと明るくなった。

午前五時四十三分、空が紺色から青色に変わり始め、雲海がオレンジ色に染まり出す。そして光線のように光を放つ太陽が浮かぶ。僕は元気の顔を覗いた。眩しそうにしている小さな目に映っていた太陽は今まで見た中で一番きれいだった。元気に見せてあげることができて本当に良かった。僕は使命を達成した気分になった。

下山していくと八合目の太子舘で待っていたお母さんの顔を見た瞬間、元気は突然泣き出した。お母さんも泣いていた。僕もつられて涙が出そうになった。

僕は耳の不自由な人とかかわったことがない。手話もわからず、最初はとまどったけれど、元気と登った富士登山は今までの登山の中で一番楽しかったし、達成感でいっぱいだった。何よりも会話は声だけでするものではないことと、ハンディがあっても頑張れば困難も乗り越えられることを元気から教えられた。僕は「無理だ」を盾にしてすぐに諦めることがある。目標を達成した元気の強い意志は僕の中の弱い心を封じ込めた。耳が不自由な小さな「元気」に大切なものをもらった夏だった。

本当のサポートとは裾野市立東中学校 3年 杉山 悠人

電話で話している父の表情が変わった。話を聞くと同居している祖父の担当をしているケアマネージャーからの連絡で、祖父がヘルパーを外して欲しいと言ったらしい。

祖父は今年八十七歳になる。過去に軍隊の経験があり、その後はずっと教員として働いていた。性格はとてもしっかりした人である。八年前に祖母が亡くなった後も、まわりの家族に迷惑をかけたくないと言って身のまわりのことは全て一人でやって生活していた。新聞を毎日読んだり、一日のことを忘れないように日記も毎日ノートにびっしり書いたりしていた。ところが二年前に祖父の体の調子が急に悪くなり、うまく歩くことができなくなってしまった。祖父は一人で生活することが困難になってしまったのだ。

そこで両親は、福祉サービスセンターに相談し、介護保険を利用して、家の中に手すりをつけたり段をなくしたりして、家を祖父にとって生活しやすいようにした。そしてデイサービスによるリハビリとヘルパーの助けを利用しながら家族で祖父の介護をすることになった。

そのおかげで、この頃祖父の体調が回復してきて、気力も出てきた。しかし自立心の強い祖父はここにきて、ヘルパーが自分の生活の援助をすることを嫌がったというのだ。父は祖父やほかの家族の生活のことを心配して今の状態を続けるように何度か話し合いをしたが、その度にいらだっているようだった。

その様子を見て兄も、年寄りは頑固だから嫌いだと言い出した。兄は今高校生で、毎日電車を使って通学している。電車の中でお年寄りに席を譲っても嫌な顔をされたことが何度もあったというのだ。きっとそのお年寄りたちは自分たちを必要以上に弱者扱いされたくないと思っているのかもしれない。

先日祖父はかかりつけの医者の説明を聞いて今の生活を続けるということで納得したようだ。

今回のことを通じて自分は「人をサポートする」ということの難しさを知った。日本の社会は、お年寄りも体が不自由な人たちも生活をしやすい環境を作っていくことの意識が高まってきていると思う。祖父の場合も、ケアマネージャー、ヘルパー、デイケアに関わっている人たち、主治医、住宅改修会社の人たちなどたくさんの人によるサポート体制によって祖父のより良い生活が成り立っている。ところが、仕組みが整っただけでは精神面におけるケアが不十分なのだろうかと思う。家族も、関わってくれている人々もみな、祖父のためを思って動いているのだが「出来ることは自分でやらなければ。」「ヘルパーに気をつかう。」という祖父の言葉から、祖父の自尊心を尊重しながら何についてサポートするのか、どこまでサポートするのかといったことを本人に理解してもらうことが大事なのではないかと思った。

そういえば、自分は祖父の調子が悪くなったときから少し敬遠しているところがあった。自分にはヘルパーや両親のように直接的サポートはできないかもしれないけれど、労いの言葉など祖父の自信になるような言葉をかけていきたい。

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