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鳥取県人権啓発活動ネットワーク協議会
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鳥取地方法務局長賞作品

私の「変革」

私が人権と深く関わったのは、小学校の六年生の時である。今から約四年前、学校でハートノートというものが配られた。私は嫌な予感がした。

「これから、思ったことや感じたことはこのノートに書いてください。誰にも見せないので安心して自分の気持ちを書いてください。」嫌な予感は的中。どうせ、皆は「いじめはいけないと思いました。」とか「命は大切だと思いました。」とか書くのだろう。小学校の頃は、そんなことをするくらいならまだ算数をしている方がマシだと思っている子だった。そんな中始まった人権学習。

当然こんなことを思っていた私はハートノートなんて白紙で出していた。その内、そんな存在さえ頭の中から消えていた。

六年生の時、修学旅行で広島に行った。そして原爆ドームや資料館を訪れた。まあ先生は本当にワークシートというもが好きで、また私は大っ嫌いな感想を書かなければいけなくなった。また白紙で出そう、そう配られた時点で決めていた。

ひととおり資料館をまわった後に、戦争を経験された方のお話を聞いた。疲れていた私は、ちょっと聞いてから寝ようなどと考えていた。でも寝ることなど到底出来なかった。とても引き付けられた一時間だった。戦争は一人ひとりの人権を無視し、人を人として見ていない。身勝手な行為だと思った。一人ひとりに家族がいて、友達がいて、大事なものがあって、夢があって‥、と考えたらそんなこと出来ただろうか。そんなことを考えながらふと気付いた時には、ワークシートはいっぱいだった。その時くらいからだろうか、人権学習に興味を持ち始めたのは。

その秋、初めて「ハンセン病」という言葉を聞いた。先生がある絵本を読んでくださった。ハンセン病について子ども向けに分かりやすく書いてあるものだった。まわりはみんな泣いていた。

そこにはハンセン病と診断された人達が隔離されることや、その家族が近所の人達にいじめられるといった衝撃的な内容があった。今ではうつらないことも分かり、そのようなことはなくなったが、昔は突然身体が変形したりするものだから、周りの反応も分かる気がする。学校に急にそんな人がきたらやはり避けてしまうし、うつったらどうしようなどと正直、考えてしまう。このような出来事を通して、私は少しずつハンセン病について学んでいった。

冬には、長島愛生園を訪れた。当時、ハンセン病と診断された方々が隔離された場所の一つだ。新薬も開発され、日常生活の中でうつることはないと証明された今でも、まだそこに住んでおられる方も居たし、亡くなっても家族と同じお墓に入れてもらえず、そこで亡くなった人達のお墓もあった。

ここでも入居者の話を聞くことが出来た。今も後遺症が残り、周りの目が気になるという。小学校の時にハンセン病と診断され、親元から引き離され長島愛生園に来たらしい。それから今までずっとここでの生活をしている。まず消毒風呂に入ったのをよく覚えていると言っておられた。

橋の話も聞いた。園内の方々の強い願いで何十年にもわたり運動をしてきて、隔離をする必要の無いことの証としてやっと橋がかかった。「あきらめない心」が私の心にずしんと響いた。昔の過ちに気がついたはずなのに、どうして橋をかけるまでにこんなに長い年月がかかったのだろう。政府や周囲の人々の「自分には関係ない」という無関心の結果ではないだろうか。

園内を周りながら、当時のことを詳しく聞かせてくださり、つらいんじゃないかと申し訳なく思ったが、話をしてくださった方は、この体験をより多くの人達に伝えていきたいと話しておられた。そこで、私たちは少しでも役に立てればと思い、劇にすることにした。学校の皆や地域の方々に見てもらい、思いを伝えることが出来たと思った。

少し方向性は違うが、今年は保育園のボランティアの体験に応募し、初めての体験で得るものが沢山あった。「知らない」「関わらない」では、何も得るものは無いことが分かった。

このように私はこの四年間で考え方が大きく変わり、自分からボランティア活動に参加するまでになった。今も「いじめ」とか「差別」という言葉を耳にするけど、私が大切だと思うのは一人ひとりの人権に関する姿勢や意識をよりどころとするものでないかと思う。無知、無関心がどれほどこわく、何も気付けず何も出来ないことか。少しのきっかけで人として考え方が大きく変わってくる。いろいろなことに関心を持ち、正しい知識を持つことが、まず第一歩ではないだろうか。

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