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平成26年度「全国中学生人権作文コンテスト」富山県大会入賞作品

最優秀賞(富山地方法務局長賞) 「痛みを気づきに変えて」

高岡市立五位中学校 2年 吉田光輝

人は暴力によって傷つけられることがある。一般的に暴力といえば,力によるものや言葉によるものだろう。でも,それと並ぶ暴力が他にもある。それは,視線による暴力だ。ぼくは,その視線による暴力がどれだけ人を傷つけるか,去年の夏,身をもって知らされた。

去年の8月の初め,ぼくは部活動中に,左足の脛骨と腓骨を骨折した。折れ方がやっかいだったらしく,手術をして創外固定の処置がなされた。創外固定とは,外側から骨に太い針を数箇所刺し,それを金属とボルトで固定したものだ。生々しく足から金属が突き出ていてまるでサイボーグのような見た目が,ぼくは嫌でしょうがなかった。術後もかなり痛かった。入院中のある日,ぼくはリハビリの後,初めて病院の売店に車イスで寄ってみた。同じ病院内とは思えない明るさと活気があり,街のコンビニのよう。そこでぼくは,ある視線に気づいた。最初は車イスから伸びたぼくの足をちらっと見て,一旦視線をはずしたかと思うと何かを確かめるようにもう一度見て,しまいにはぼくの足を信じられないものを見るように凝視していた。それは,無遠慮で,侮辱的で,屈辱的な視線だった。その視線は長くぼくの足にとどまった。ぼくの入院していた病院は3次救急病院の為,救急車がひっきりなしにやってくる。だから当然,地域の重傷,重症,重篤な患者が集まっている。そんな病院の売店なら,いろんな人がいるはずなのに,なぜ…。ぼくは傷口以上に胸が痛んだ。そしてこの時,そのあからさまな視線は,暴力に匹敵すると思った。ここですらこうなら,一歩外の世界に出たら,いったいどんな視線にさらされ,どんな言葉をあびせられるのだろう。この日から,ケガの回復以外の心配までするようになった。そんなぼくの不安をよそに,退院の日はやってきた。この日は夏休みの最終日。夏休みの目一杯を病室で過ごした無念さよりも,明日から自分に注がれるだろう好奇の視線におびえる気持ちで一杯だった。本当は,松葉杖でちゃんと学校内を移動できるか,処置した足が暑い教室で汗をかき感染症を起こさないか等,現実的な問題をたくさん抱えていたにも関わらず,ぼくは売店で受けた視線が目に焼きつき,傷つき,そこから意識が離れなくなっていた。

退院の翌日,今後の学校生活の相談で中学校に行った時,校長先生に声をかけられた。

「君は今,ケガをしていろんな我慢を強いられ,とてもショックを受けていると思う。だけど,君は誰よりも早く,弱い者の立場を身を持って知り,それを学ぶ機会を得たとも考えられるよね。健康であれば当たり前だったことが,そうじゃない人にとっては,とても不自由だったり不親切だったりするはず。そこに気付くことが出来る人になる為の貴重な時間だと思えばいい。そして,何より君は必ず治る。治ったらまたサッカーも出来る。みんなと元気に運動も出来る。それまで,中学校をあげて君を応援する。だから,明日からなんの心配せず,元気に学校に来なさい。」

ぼくは衝撃を受けた。校長先生に言われるまで,自分の状況をとてもそんな風には受け止めてはいなかったからだ。でも確かに,弱い者の立場も,苦痛も,いやおうなしに知った。そして,時には視線ですら,簡単に人を傷つけることを知った。この時の校長先生の言葉は,凍りついていたぼくの心をにわかにとかし始めた。翌日から学校へ行くと,担任の先生が学校で待っていてくれ,クラスメイトや友達はとても自然に接し,さりげないまなざしで創外固定と松葉杖のぼくを見守り,いつも誰かが手を差し伸べてくれた。冷たい視線に傷ついた心は,温かい言葉に励まされ,やさしいまなざしに助けられ,そして半年後に再手術をし,ケガから1年で骨折も治った。

今思えば,あの視線はもしかすると同情に満ちたものだったのかもしれない。それでも,人を凝視するのは間違っている。同情だけならむしろ「対岸の火事」だ。入院中,車イスのぼくが,行動に思いやりを感じた人達。それは,エレベータの扉の開延長ボタンを黙って押して,ぼくが乗り込むのを待っていてくれた見知らぬお兄さんや,車イスから伸びた足がぶつからないように,通路にいた子どもをそっと引き寄せて「どうぞ」と言ってくれたよそのお母さんや,車イスのぼくとすれ違っても気にも留めず,振り返りもせずに普通に通り過ぎてくれた人達。ぼくが味わったこの感覚は,身体の不自由な人や,病気やケガで苦しんでいる人に対しての接し方のヒントになると思う。とは言え,ぼくにはもう一つ乗り越えなければいけないことがある。それは,未だ人前で手術跡が見える短パン姿になれないことだ。体育の授業や掃除の時間も,どんなに暑くても絶対長ズボン。でも今こそ,傷跡を隠さず,短パンで過ごそう。そしてこの1年間がぼくにとって,いつか誰かの懸け橋になることができる人物になる為の学びの時間だったと,心から言えるようになりたい。

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最優秀賞(富山県人権擁護委員連合会長賞) 「自分を受け入れる」

魚津市立西部中学校 2年 元野里音

産声と同時に隠すように母のもとから離された私。この世に生まれて数時間の間,私は母と会う事が許されなかったという。きっと何か問題があったに違いないと悟った母は,「五体満足ですか?」と医師に問いただしたが,返ってきた返事は「今,処置をしておりますから。」だったという。真夏の蝉の鳴き声に負けじと,大きな声で泣く娘を抱けないことが,なによりも辛かったそうだ。一目でもいいから,娘を見せて下さいと懇願した母の瞳に映った私は,鼻に障害もって生まれていた。500人に一人という割合で生まれてくるこの先天性の障害は,未だ原因がはっきりとわかっていない。遺伝性の問題や食生活,日常生活の問題,あげればきりがないほど,何がだめだったのかと自己を問い自分を責めた母。この日の夜,一生分の涙を流した反面,現実を受け止め,これからいろいろな問題に直面するであろうという覚悟は不思議と容易であったという。なぜなら,それだけ生まれてきてくれた事が嬉しくて,可愛くて,生まれてきて良かったと思える人生にしてあげたい思いの方が強かったからだそうだ。その思いがあったからこそ目の前にある現実とすぐに向き合う事ができたと話していた。

私自身,幸い自分が障害である事に対して辛いと思ったことも,それが特別不自由であると感じた事もなく生きてきた。3度の手術を繰り返し,見た目も機能的にもなんら問題もない。むしろ,今の自分に十分満足しているぐらいだ。

だが「障害をもって生まれる。」ということは,皆が普段当たり前のようにしていることが,当たり前のようにできなくなるということ。「普通のことができない。」という姿を,私は3度の手術を行った病院で,目の当たりにした。

手術の度に目にする同じ病棟のお友達は,様々な障害と向き合っていた。目が見えなかったり,指に支障があったり。私は普通である事が幸せで難しいということに,小さいながらに思い考えていた。幸せの基準は人それぞれだけれど,ここで共に過ごした友達は,今を生きることに一生懸命であった。みんなの姿から生きる事の意味を教えてもらったような気がした。

偶然は必然である。

起こるべきして起きた障害なのかな。と思うときが多々ある。たくさんの人との関わりの中で,私は多くの優しさをもらい,恩恵を受けてきた。今度は,今の私に何ができるのかと考える。

これからの生活の中でいろいろな人と巡り会った時,同じ境遇の人が悩んでいたら,私の経験を活かして思いを共有し合うことが出来る。そして,何よりも寄り添う事ができる。私は自分の障害を包み隠さない。それを,自分の個性として生きていく。痛々しく見られるかもしれないが,自分を受け入れられるようになった今,この経験を活かしていければと思っている。

「今日を精一杯生きる。」

そう,私は明日の為に,今日を精一杯悔いの無いように明日につなげていきたいと思っている。

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最優秀賞(北日本新聞社長賞) 「私の妹」

滑川市立早月中学校 3年 金川侑生

私の妹は,妊娠6ヶ月目で生まれ,脳性マヒという病気にかかりました。脳性マヒとは,何らかの原因で脳が損傷を受けると,その後,体や手足が自由に動かせなくなる病気です。妹はその病気の中でも重度で,知的障害もあり,一生寝たきりです。

妹が生まれた時,私はまだ6歳でした。まず率直に思ったことは,「妹ができてうれしい」という気持ちと,「お姉ちゃんになった」という気持ちでした。早く妹の顔をみたいなと思っていてもなかなか会えず,初めて顔を見たのは,生まれてから4ヶ月後でした。病院から退院して家に帰ってきた時,妹を抱っこしました。抱っこしてみると,とてもあたたかくてかわいかったです。

それから,私が小学2年生になったある日,両親が妹のことを話してきました。

「妹は,重い障害を持っていて,話すことも歩くこともできず,ずっと寝たきりなんだ。」
と言われ,生まれた時から4ヶ月の間,何があったのかも話してくれました。

「生まれた時は,体重が700グラムもない未熟児で,自分で呼吸することすらできず,しばらくの間,人工呼吸器をつけていたんだよ。何回も命の危険にあったけど,一つ一つ乗り越えて生きているんだよ。」
その他にもたくさんのことを話してくれました。両親の話を聞いた時は,とてもびっくりしたことを覚えています。そして考えていくうちに,妹は周りの子たちとは違って,障害者なんだと思った時は,とても悲しかったし,そんなことなら,妹が生まれなくても良かった,一人っ子のほうが良かったとひどいことばかり考えてしまいました。

それから私は,妹のことが嫌いになりあまり近づかないようになりました。そんな時,妹は体や手足が少しでも動きやすくなるように,リハビリに通い始めました。私は最初,なんとなくリハビリについて行きました。その場所に行くと,妹はリハビリの先生と一緒に,筋肉の緊張を和らげるリハビリなど一生懸命頑張っていました。そこでは,妹と同じ病気を抱えた子供たちが,リハビリをしたり皆で遊んだりして楽しんでいました。その姿を見て私は,皆がそれぞれ病気を抱えているけど,必死にたくさんのリハビリをしている姿にとても感動しました。

ほかにも妹は,大きな病院にも通院しています。そこでは毎月,心臓の音や体の調子をみてもらっていて,病気にかかっていなかったらいつもほっとします。それは,妹が入院したら,家に帰ってこないから寂しい気持ちと,母も付き添いで一緒にいないといけないからです。その時家は,二人もいないからとても静かになります。家族が一人でもいなくなるのはとても悲しいことだと,妹が入院してから気付かされました。

私はこの9年間,妹のことをあまり誰にも話さず,隠したい存在だと思っていました。妹のことを友達に話したら,私がイジメられると思っていたからです。しかし,今回の人権作文コンテストの応募で,人の人権を考えた時,妹のことを書こうと思いました。

両親が妹のことを話してくれた時は,ひどいことしか考えれなかったけど,今は私の大切な妹です。

私が学校から帰ってきたら,妹はいつも布団に横になっています。妹の隣で一緒に横になると,とてもいやされ心がすっきりします。たとえ話すことが出来なくても,顔を見ているだけで心が通じ合っていると感じます。

妹のように,障害を抱えて生きている人はたくさんいます。障害を抱えている人を,軽蔑の目で見る人もいますが,私もその人たちと同じように見ていた自分もいました。今思えば,何て最低な人間だと思います。障害を抱えていても,皆必死に生きようとしていて明るく笑っています。妹も,泣くこともありますが,お風呂に入ると分かった時は,いつも体全体を使ってうれしいことを表現し,声を出して喜びを伝えます。妹は,家族の中でかけがえのない大切な存在です。生まれなくてもいい命は,一つもありません。

私は,将来看護師になりたいと思っています。なりたいと思っている本当の理由は,妹の存在です。妹が通院している病院で,看護師という仕事を知りました。看護師さんが妹の手当てをしたり,母にも親身になって優しく寄り添ってくださる姿を見てなろうと思いました。

最後に,私の妹は小学校3年生で,楽しく支援学校に通っています。障害を抱えている人も私たち健常者もお互いに支え合って暮らせる社会になってほしいです。

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