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アルカイダ(注1)
Al-Qaida

米国を始めとする西側諸国に対するテロを主張するスンニ派過激組織。オサマ・ビン・ラディンの死後,エジプト人アイマン・アル・ザワヒリが指導者に就任

別称:
@The Base,AAl Qaeda,BIslamic Salvation Foundation,CThe Group for the Preservation of the Holy Sites,DThe Islamic Army for the Liberation of Holy Places,EThe World Islamic Front for Jihad Against Jews and Crusaders,FUsama Bin Laden Network,GUsama Bin Laden Organization,HAl Qa‘ida,IAl Qa‘ida/Islamic Army,JQa‘idat al-Jihad

1 設立時期

1988年8月

2 組織・機構

(1) 指導者,幹部等

ア オサマ・ビン・ラディン(Osama Bin Laden,Usama Bin Muhammad Bin Awad Bin Ladin)(死亡)

設立者,前最高指導者。1957年(7月30日,同28日,3月10日,1月1日)又は1956年生まれ,2011年5月2日死亡。サウジアラビア・ジッダ又はイエメン出身。元サウジアラビア国籍(剥奪)。2001年1月,国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会(以下,国連制裁委員会〈注2〉)は,同人を制裁対象に指定した。

サウジアラビア有数の建設会社「サウジ・ビンラディン・グループ」創設者の17又は18番目の息子として生まれ,1979年12月末にソ連軍がアフガニスタンに侵攻すると,その直後から,ソ連軍に抵抗する「ムジャヒディン」(イスラム戦士)(注3)の支援に取り組んだ。1988年に「アルカイダ」を設立し,指導者に就任した。その後,スーダン滞在などを経て,1996年5月に再びアフガニスタンへ入国し,2001年9月には米国同時多発テロ事件を首謀した。2005年末頃から,パキスタン北部・カイバル・パクトゥンクワ州アボタバードの隠れ家に潜伏していたが(注4),2011年5月2日,米海軍特殊部隊の急襲を受けて死亡した。

イ アイマン・アル・ザワヒリ(Ayman al Zawahiri)

本名:
アイマン・ムハンマド・ラビ・アル・ザワヒリ(Aiman Muhammad Rabi al Zawahiri)

最高指導者。オサマ・ビン・ラディン死亡前は,同人の側近として組織ナンバー2を務めた。1951年6月19日生まれ。エジプト・ギザ出身。エジプト国籍。イスラム過激組織「ジハード団」(注5)元指導者。2001年1月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

エジプトの名門一族の生まれで,カイロ大学総長の祖父,「アル・アズハル」(注6)総長の大伯父を持つ。15歳の時,エジプトでの「イスラム国家樹立」を目指す地下組織を設立し,カイロ大学医学部進学後に他の組織と統合して「ジハード団」を指導した。

1981年10月に発生したサダト・エジプト大統領暗殺事件において,武器調達に関与したとして有罪判決を受けて投獄されたが,1984年に釈放された。1986年にはパキスタンへ入国し,同国で「ジハード団」再建に努めるとともに,ビン・ラディンとの関係を構築した。その後,「ジハード団」の拠点をスーダンに移し,エジプト政府高官などに対するテロを実行した。1996年にスーダンからの退去を強いられた後,アフガニスタンへ入国し,ビン・ラディンとともに対米テロを唱えた。現在,アフガニスタンとパキスタンの国境地域にいるとされている。

ウ アブ・ヤヒヤ・アル・リビ(Abu Yahya al Libi)(死亡)

本名:
ムハンマド・ハサン・カイード(Muhammad Hasan Qayid)
別名:
アブ・ヤヒヤ・アル・ハーウィン(Abu Yahya al Hawin)

元「シャリーア(注7)委員会責任者」。組織の元ナンバー2(2011年から2012年まで)。1963年生まれ,2012年6月4日死亡。リビア出身。リビア国籍。2011年9月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

リビは,1990年頃にアフガニスタンへ入国し,1991年,同国で活動していたイスラム過激組織「リビア・イスラム戦闘集団」(LIFG)に参加した。1992年には,アフガニスタンを出国し,LIFGの宗教委員会メンバーとしてモーリタニアに留学した。その後,再びアフガニスタンへ入国し,テロリスト訓練キャンプで説教活動を行った。2002年に拘束されたが,2005年7月,アフガニスタンのバグラム米空軍基地から脱走し,組織内で地位を高めていったとされる。

エ アティヤ・アブドルラハマン(Atiyah Abd al Rahman)(死亡)

別名:
ジャマル・イブラヒム・アシュティウィ・アル・ミスラティ(Jamal Ibrahim Ashtiwi al Misrati),アティヤ・アッラー(Atiya Allah)

組織の元ナンバー2(2011年5月頃から同年8月まで)。1969年生まれ,2011年8月22日死亡。リビア・ミスラタ出身。リビア国籍。

1980年代,リビア指導者カダフィによるイスラム主義勢力弾圧を逃れてアフガニスタンに渡航した。1989年頃「アルカイダ」に加入し,1990年代半ばまでに「アルカイダ」内で指揮命令に携わるようになったとされる。2003年に一時イランで軟禁下に置かれたが,後に釈放され,パキスタンで「アルカイダ」の上級指導部に入ったとされる。2011年5月にオサマ・ビン・ラディンが死亡するまで,同人と文書で連絡を取りつつ,テロ作戦の監督などに携わったとされる。また,ビン・ラディンの存命中,「総司令官」を務めていたとされる(注8)

オ ムスタファ・アブ・アル・ヤジド(Mustapha Abu al Yazid)(死亡)

元「アフガニスタンにおける総司令官」(2007年頃から2010年まで)。組織のナンバー3の座にあったともされる。1955年2月17日生まれ,2010年5月21日死亡。エジプト出身。エジプト国籍。

「ジハード団」に参加した後,「アルカイダ」に参加した。1988年の設立当初から,「アルカイダ」の諮問評議会メンバーを務めたとされる。1990年代前半以降,財務部門も担当した。2001年の米国同時多発テロ事件に際しては,資金調達に関与した。

カ ムハンマド・イリヤス・カシミーリ(Mohammad Ilyas Kashmiri)(死亡)

別名:
ムハンマド・イリヤス・カシミーリ(Muhammad Ilyas Kashmiri),エリアス・アル・カシミーリ(Elias al Kashmiri),イリヤス・ナイブ・アミール(Ilyas Naib Amir)

元軍事司令官・戦略担当者。「ハルカトゥル・ジハーディ・イスラミ」(HUJI)元幹部。1964年1月2日又は同年2月10日生まれ,2011年6月11日死亡。パキスタン管理下のアザド・ジャム・カシミール出身。パキスタン国籍。2010年8月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

パキスタン政府に対する攻撃を支援し,同国軍高官の暗殺計画などに関与した。

キ ファズル・アブドラ・ムハンマド(Fazul Abdullah Mohammed)(死亡)

別名:
ハルーン・ファズル(Haroon Fazul),ハルン・ファズル(Harun Fazul)

東アフリカにおける元指導者。1971年2月,1972年8月25日,1974年2月25日,同年12月25日又は1976年生まれ,2011年6月7日死亡。コモロ及びケニア国籍。2001年10月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

在ケニア・在タンザニア両米国大使館同時爆破テロ事件(1998年8月),ケニア・モンバサ市郊外のイスラエル資本のホテル及びイスラエル航空機を標的としたテロ事件(2002年11月)に関与したとされる(注9)。ソマリア南部において「アル・シャバーブ」と連携して活動していた。

ク サイフ・アル・アデル(Saif al Adel)(軟禁中とされる)
本名不明

別名:
セイフ・アル・アデル(Seif al Adel),ムハンマド・イブラヒム・マッカウィ(Muhamad Ibrahim Makkawi),イブラヒム・アル・マダニ(Ibrahim al-Madani)

元軍事部門責任者(2002年頃)。1963年又は1960年4月11日生まれ。エジプト出身。エジプト国籍。2001年1月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

「ジハード団」出身。1998年8月に発生した在ケニア・在タンザニア両米国大使館同時爆破テロ事件に関与したとして米国で起訴,指名手配。

1988年にアフガニスタンに渡航。「アルカイダ」がスーダンに移った1990年代前半,同国及びソマリアで「アルカイダ」細胞の訓練に当たった。また,オサマ・ビン・ラディンの警護責任者を務めた。2002年,前任者の死亡に伴い「アルカイダ」軍事部門責任者に就任したが,その後イラン当局に拘束され,軟禁下に置かれたとされる。

2001年の米国同時多発テロ事件については,アデル自身は米国等の報復を招くなどとして,反対の姿勢を取ったとされるが,2005年にインターネット上に掲載された同人の執筆によるとされる文書では,「米国を穴の中から引きずり出すために必要だった」と同事件を肯定したとされる。

ケ スレイマン・アブ・ガイス(Sulaiman Abu Ghaith)(拘束中)

本名:
スレイマン・ジャセム・スレイマン・アリ・アブ・ガイス(Sulaiman Jassem Sulaiman Ali Abo Ghaith)

元広報担当。1965年12月14日生まれ。クウェート出身。元クウェート国籍(剥奪)。2004年1月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

1994年夏,ボスニア内戦に参加。2000年頃まで,クウェートに留まり,アフガニスタンの訓練キャンプに参加する者のリクルート活動を行った。オサマ・ビン・ラディンの娘婿とされる。2001年の米国同時多発テロ事件後,「アルカイダ」の広報担当として,同事件を自賛するなどした。イラン当局により軟禁中とみられていたが,2013年2月に身柄を拘束され,同年3月,米国に移送・訴追された。

コ ハリド・シェイク・モハメド(Khalid Shaykh Mohammed)(拘束中)

元メディア部門責任者,元対外作戦部門責任者。1965年又は1964年生まれ。パキスタン・バルチスタン州出身。クウェート国籍。

1986年,機械工学の学位を取得して,米国ノースカロライナA&T州立大学を卒業後,対ソ連戦に参加するため,アフガニスタンに渡航。1994年,フィリピンで甥のラムジ・ユセフとともに,米国本土に向かう米国航空機12機を爆破する計画(「ボジンカ作戦」)に携わった。1998年末から1999年初め頃,「アルカイダ」に加入し,自らが提案した米国同時多発テロ事件の準備を進めた。また,2000年にはメディア部門責任者に就任した。2001年末には,対外作戦部門責任者に就任したが,2003年3月にパキスタンで拘束され,キューバの米海軍グアンタナモ基地内のテロ容疑者拘束施設に収容された。2012年4月,米国同時多発テロ事件に関与したとして,他の4人とともに特別軍事法廷に訴追された。

サ ユニス・アル・モーリターニ(Younis al Mauretani)(拘束中)

本名:
アブド・アル・ラハマン・ウルド・ムハンマド・アル・フサイン・ウルド・ムハンマド・サリム(Abd al Rahman Ould Muhammad al Husayn Ould Muhammad Salim)

元対外作戦部門責任者(2010年頃)。1981年生まれ。サウジアラビア出身。モーリタニア国籍。2011年9月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

2001年に,イスラム過激組織「宣教と戦闘のためのサラフィスト・グループ」(GSPC:2007年1月,「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」〈AQIM〉に改称)に加入し,モーリタニアやアルジェリアにおけるテロに関与した
(注10)。その後,「アルカイダ」との連絡のためGSPCによってパキスタンに派遣され,同組織と「アルカイダ」の合併を進めた(注11)。「アルカイダ」の対外作戦部門責任者に就いていた2010年半ば,欧州でのテロ計画に携わった。2011年9月,パキスタン軍が同人を同国クエッタ近郊で逮捕した旨発表した。その後,アフガニスタンのバグラム米空軍基地に移送され,2013年5月,モーリタニア当局に引き渡された(注12)

シ アドナン・エル・シュクリジュマ(Adnan El Shukrijumah)(死亡)

元対外作戦部門幹部。1975年8月4日生まれ。サウジアラビア出身。ガイアナ国籍。米国・ニューヨークの地下鉄を狙ったテロ計画(2009年9月に摘発)などに関与したとして米国で起訴,指名手配。2014年12月6日,パキスタン軍が同人を同国北西部・連邦直轄部族地域(FATA)南ワジリスタン地区で殺害した旨発表した。

ス サイード・バハジ(Said Bahaji)

メディア部門幹部(2010年4月時点)。1975年7月15日生まれ。ドイツ出身。ドイツ及びモロッコ国籍。2002年9月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

米国同時多発テロ事件に関与したドイツ・ハンブルク居住者のグループ(通称ハンブルク細胞)に属し,実行犯の後方支援に関わった。現在,アフガニスタン,パキスタンの国境地帯にいるとされている。

セ ヤシン・アル・スーリ(Yasin al Suri)

本名:
エゼディン・アブデル・アジズ・ハリル(Ezedin Abdel Aziz Khalil)

イランにおける「アルカイダ」の資金調達・支援責任者。1982年生まれ。シリア・カミシリ出身。国籍不明。

2005年からイラン国内で活動。湾岸諸国から資金を集め,イラン経由でアフガニスタンの「アルカイダ」指導部に送金したほか,リクルートした要員をイラン経由でパキスタン及びアフガニスタンに送り込んだともされる。スーリは,2011年7月,イランで一時軟禁下に置かれたが,後に同国での活動を再開したとされる(注13)

ソ ムフシン・ファディル・アイエド・アシュール・アル・ファドリ(Muhsin Fadhil Ayed Ashour al Fadhli)

イランにおける「アルカイダ」の元資金調達・支援責任者(2011年後半以降)。1981年4月24日生まれ。クウェート出身。クウェート国籍。2005年2月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

2011年後半,ヤシン・アル・スーリの後任として,資金調達・支援責任者に就いた。2002年10月に発生したイエメン沖でのフランス船籍石油タンカー爆破事件などに関与したほか,「イラクのアルカイダ」(AQI)(注14)指導者アブ・ムサブ・アル・ザルカウィ(2006年死亡)に対する支援を行っていたとされる。2009年にイランへ,2013年前半にシリアへ移動し,シリアでの活動の中心的役割を担っているとされる。

タ ムハンマド・アブドッラー・ハサン・アブ・アル・ハイル(Muhammad Abdallah Hasan Abu al Khayr)

財務部門幹部兼メディア部門幹部。1975年6月19日又は18日生まれ。サウジアラビア・マディーナ州出身。サウジアラビア国籍。2010年8月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

オサマ・ビン・ラディンの娘婿。1990年代半ばに「アルカイダ」から軍事訓練を受けた。かつてビン・ラディンの護衛及びその妻らの世話役を務めた。

チ アダム・ヤヒイェ・ガダーン(Adam Yahiye Gadahn)

別名:
アッザム・アル・アムリキ(Azzam al Amriki)

プロパガンダ担当者。通訳,翻訳担当者(アラビア語及び英語に堪能)。1978年9月1日生まれ。米国出身(改宗者)。米国籍。

2004年以降,繰り返しビデオ声明を発出しており,「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)の英語機関誌「インスパイア」(Inspire)第10号(2013年2月配信)に寄稿したほか,2014年10月に発行された「アルカイダ」の英語機関誌「リサージェンス」(Resurgence)第1号にも寄稿している。また,米国において反逆罪で起訴,指名手配されている。

ツ ハリド・ビン・アブドルラハマン・アル・フサイナン(Khalid bin Abdul Rahman al Husainan)(死亡)

元プロパガンダ担当(2009年以降,「研究・宣教部門」から声明を発出)。生年,出身地,国籍不明。2012年12月7日死亡(注15)

イマーム・ムハンマド・ビン・サウード・イスラム大学(サウジアラビア所在)を卒業後,クウェート宗教・寄進・イスラム関連省傘下の複数のモスクで導師を務めたとされる。2006年頃,アフガニスタンに渡航した。

テ アハマド・ファルーク(Ahmad Farooq)

プロパガンダ担当(パキスタンにおける「メディア・宣教部門」責任者)。生年,出身地,国籍不明。

パキスタンの国語であるウルドゥー語でしばしば声明を発出しているが,その顔には常にモザイクが掛けられている。

ト アブ・アナス・アル・リビ(Abu Anas al Liby)(死亡)

本名:
Nazih Abdul Hamed Nabih al Ruqai'i

「アルカイダ」の古参メンバー。1964年3月30日又は1964年5月15日生まれ。2015年1月2日死亡(注16)。リビア出身。リビア国籍。2001年10月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

1998年8月に発生した在ケニア・在タンザニア両米国大使館同時爆破テロ事件に関与したとして米国で起訴,指名手配されていたが,2013年10月,リビア首都トリポリで,米軍特殊部隊により拘束され,同月,米国に移送・訴追された。

ナ ハムザ・ビン・ラディン(Hamza bin Ladin)

オサマ・ビン・ラディンとその第2夫人ハイリア・サバルとの間の長男。1989年生まれ。サウジアラビア・ジッダ出身。国籍不明。

2010年7月にイラン当局が軟禁を解き,パキスタンに渡航したとされる。その後,父母とともにパキスタン北部ア・ボタバードの隠れ家に住んでいたが,2011年5月2日に米軍が同隠れ家を急襲した際には不在であったとされ,現在は行方不明(母親はサウジアラビアに送還)。

ニ アブ・ハフス・アル・モーリターニ(Abu Hafs al Mauritani)

本名:
マフフーズ・ウルド・アル・ワリド(Mahfouz Ould al Walid)

元「アルカイダ」上級指導者(精神的指導者,イスラム学者,作戦立案者としての役割を果たしたとされる)。1975年1月1日生まれ。モーリタニア出身。モーリタニア国籍。2001年10月,国連制裁委員会は同人を制裁対象に指定した。

スーダン及びアフガニスタンでオサマ・ビン・ラディンに仕えるとともに,アフガニスタンでは「タリバン」と緊密な関係を持ったとされる。米国同時多発テロ事件については反対の姿勢を取ったとされる。2001年以降,イランで拘束されていたが,2011年4月頃,イランからモーリタニアに送還された。2012年7月頃,モーリタニア当局は,「アルカイダ」とのつながりを断ったとして同人を釈放したとされる。

(2) 組織形態・意思決定機構

ア 組織形態

「アルカイダ」は,2001年にアフガニスタンの拠点を失うまで,オサマ・ビン・ラディンの側近から成る諮問評議会の下,軍事,財務,宗教,メディア広報の4委員会を設置していたとされるが,現在の組織形態の詳細は不明である。

イ 意思決定機構

オサマ・ビン・ラディン存命中の「アルカイダ」の意思決定には,指導者(ビン・ラディン),側近(ザワヒリ),総司令官(アティヤ)が密接に関与し,総司令官が各司令官などを統括していたとされる。なお,潜伏場所の発覚を避けるため,指導者との連絡には,電話やインターネットなどの通信機器類を使用せず,専らクーリエ(通信担当要員)を用い,文書でやり取りしていたとみられている。

3 勢力

指導者を含め300人程度がパキスタン北西部の部族地域に潜伏しているほか(注17),アフガニスタンで100人足らずの「アルカイダ」メンバーが活動(注18)

4 活動地域

パキスタン北西部・連邦直轄部族地域(FATA)南北ワジリスタン地区,アフガニスタン東部など。なお,「アルカイダ」指導部などは,自らの所在地等を「ホラサン」(注19)と呼称することがある。

5 活動目的・攻撃対象

(1) 活動目的

「カリフ国家」(注20)を復興すること(注21)(注22)。この目的の達成の手段として,いわゆる「グローバル・ジハード」を主張(注23)

(2) 攻撃対象

ア 「シオニスト・十字軍」(注24)

イスラエル,米国及び西側諸国における米国の同盟国を言う。「西側十字軍」又は単に「西側」などと呼称する場合もある。「外の敵」とも言われる(注25)

「アルカイダ」は,「シオニスト・十字軍」の中でも,特に米国を最優先の攻撃対象とみなしている(注26)

「アルカイダ」は,我が国についても,「シオニスト・十字軍」の側にあるとの見方を示している。我が国又は我が国と似た条件の対象を標的として示唆する「アルカイダ」の主な発言は次のとおりである。

年 月 日 発言者(推定含む) 発言概要
03.10.18 オサマ・ビン・ラディン(声明) 「我々は,適時適所でこの不正義の(イラク)戦争に参加している全ての国々,特に英国,スペイン,オーストラリア,ポーランド,日本及びイタリアに対して応戦する権利を留保している」
04. 5. 6 オサマ・ビン・ラディン(声明) 「日本やイタリアのような安保理の奴隷としてイラクに滞在する国の国民を殺害した者には,金500グラムを与える」
04.10. 1 アイマン・アル・ザワヒリ(声明) 「我々は,今すぐ,抵抗を開始すべきである。米国人や英国人,オーストラリア人,フランス人,ポーランド人,ノルウェー人,韓国人及び日本人は,あらゆる地で各自の権益を有し,(中略)アフガニスタンやイラク,チェチェンの占領に参画し,又はイスラエルに対してその生存に資する手段を提供してきた」
08. 4.22 アイマン・アル・ザワヒリ(声明) 「日本は十字軍同盟の旗の下に(イラクで)支援活動を展開した」ため,「イスラムの地に対する十字軍の共犯者である」(公募した質問への回答。イスラム過激派系のウェブサイト)
10年5月後半
以降に作成
オサマ・ビン・ラディン(書簡) 「私はまた,次のような意見についてあなたの考えを聞きたいと思う。それは,我々の能力を越えた一切,すなわち米国内での攻撃や,前線での戦闘に費やすことができない一切のものを,まず韓国のような非イスラム国における米国権益を攻撃することに費やしてはどうか,というものだ」(注27)

イ 「十字軍の代理人である地元政権」(注28)

「十字軍」に協力的とみなすイスラム諸国の政権を言う。「内の敵」とも言われる(注29)

「アルカイダ」は,米国を弱体化させることができれば,後ろ盾を失ったこれら政権を打倒することは容易とみなしている(注30)

ウ その他「イスラムの地を占領」する国

ロシア,中国などを名指し(注31)。なお,イランについては,「イスラムの敵(米国)への協力者」(注32)として敵視しているが,攻撃対象には含めていない(注33)

6 沿革

オサマ・ビン・ラディンは,1979年12月末にソ連軍がアフガニスタンへの軍事侵攻を開始した直後から,サウジアラビア国内で寄附金を集めて現地に配るなどしたほか,1984年には,パレスチナ人イスラム学者アブドラ・アッザム(注34)を首班とする「奉仕局」(マフタブ・アル・ヒダマト)を設立し,ソ連軍と戦う戦闘員を支援するため多額の資金を提供したとされる。

1988年4月にソ連政府が9か月以内のアフガニスタン撤退を発表すると,ビン・ラディンらは,同年8月18日から20日にかけてパキスタンのペシャワールで会合を開き,戦争終結までアフガニスタンで「ジハード」を継続するとともに,ソ連軍撤退後も志願者を選抜して軍事訓練を施すことを目的として,新組織「アルカイダ」を結成し,同人が最高指導者に就任した。発足当初のメンバーは30人程度であったとされる。

「アルカイダ」は,ソ連軍が1989年2月にアフガニスタンから完全撤退した後も,現地の共産政権に対する戦闘を継続した。同年3月,ビン・ラディンは,アラブ人部隊約200人を率いてアフガニスタン人反政府勢力とともにジャララバード包囲戦に参加したが,同政権側の攻撃で約80人を失った。アフガニスタンで内戦が継続する中,ビン・ラディンは,同年秋にサウジアラビアに帰国し,南イエメンの共産主義政権打倒などを目指した。また,1990年8月,サダム・フセイン政権下のイラク軍がクウェートに侵攻すると,同人は,サウジアラビア高官に対し,自らの配下を動員してクウェートを奪還することを申し出るとともに,米軍のサウジアラビア駐留を認めないよう要請したが,同国政府はこれに応じず,多国籍軍の受入れを決定した。同国政府との関係を悪化させた同人は,1991年12月,スーダン首都ハルツームに移住した。

スーダンで,ビン・ラディンは,様々なイスラム過激組織の指導者らから成る「イスラム軍シューラ」を設立し,テロ支援活動に取り組んだ(注35)。アフガニスタンで活動していた「アルカイダ」メンバーの一部はスーダンに移ったが,出身国に帰国した者も相当数いたとみられている。

1992年後半,米軍がソマリアへの展開を開始すると,「アルカイダ」は,米軍と戦うソマリア民兵に武器を提供したほか,1993年には同組織の軍事部門幹部ら数十人をソマリアへ派遣したとされる。

また,「アルカイダ」は,軍事部門指導者(当時)アブ・ウバイダ・アル・バンシリ(注36)を内戦下(1992年から1995年まで)のボスニアに派遣するなどし,欧州などのイスラム過激派と関係を構築したとされる。さらに,1994年には,サウジアラビア人のハリド・アル・ファワズ(注37)が英国で「忠言改革委員会」(ARC)を設立し,ビン・ラディンの声明を発出し始めた。

一方,当時のスーダン政府は,同国に滞在していたテロ組織メンバーらがテロを続発させたことにより,1996年4月には,国連の経済制裁を受けるに至った。こうした中,「アルカイダ」は,同年5月,アフガニスタンへ再び拠点を移した。

1996年5月にアフガニスタンに入国したビン・ラディンを始めとする「アルカイダ」幹部らは,パキスタンとの国境に近いトラボラの山岳地帯に拠点を構えた。ビン・ラディンは,同地において,対米「ジハード」を宣言(同年8月23日付け文書声明「二聖地の占領者に対するジハード宣言」)したのに続き,1997年3月にはCNNのインタビューに出演し,再び対米「ジハード」の意思を示すとともに,サウジアラビアの米軍関連施設を標的とした2件のテロ事件(注38)を称賛した。その後,「アルカイダ」は,「タリバン」の最高指導者ムッラー・モハンメド・オマルの招請を受けて,拠点をカンダハールに移した。外国の干渉を嫌うオマルは,ビン・ラディンに対し,以後インタビューなどには応じないよう求めた。

一方,エジプト政府打倒を主目標に据えていた「ジハード団」指導者ザワヒリは,1997年5月にアフガニスタンへ入国した後,ビン・ラディンとともに対米テロを唱えるようになった(注39)。1998年2月,両人らは,「ユダヤ・十字軍に対するジハードのための世界イスラム戦線」の結成を宣言して,全てのムスリムに対し,米国人とその同盟者を場所を問わずに殺害するよう求めた(注40)。1998年8月,「アルカイダ」は,ケニア及びタンザニアの米国大使館を標的とした同時爆破テロを実行し,5,000人を超える死傷者を出した。この際,「タリバン」最高指導者オマルは,「アルカイダ」にアフガニスタンから出国するよう求めたとされるが,同組織は,その後もアフガニスタンを拠点とした。こうした事件を受けて,米国国務長官は,1999年10月,「アルカイダ」を外国テロ組織(FTO)に指定した。

「アルカイダ」は,2000年10月,イエメン・アデン港に停泊中の米駆逐艦「コール」に対し,小型ボートを用いた自爆テロを実行した。また,2001年9月11日には,同組織メンバー19人が米国航空機4機を乗っ取り,ニューヨークの世界貿易センタービル2棟及び首都ワシントン郊外の国防総省に衝突させるなどした。このテロで邦人24人を含む約3,000人が死亡した(注41)

2001年10月に米軍などがアフガニスタン攻撃を開始すると,同年11月までに「アルカイダ」メンバー500人近くが死傷し,又は拘束され,他のメンバーは,パキスタンやイランなどへ脱出したとみられている。イランはこのほかに「アルカイダ」幹部の一部を拘束し,現在も軟禁し続けているとされる。

「アルカイダ」は,その後もパキスタン部族地域で欧米へのテロを画策し,戦闘員に訓練を施すなどしてきた。しかし,2008年以降,多くの幹部を相次ぎ失ったほか,2011年にはビン・ラディンが米軍の作戦で死亡し,近年は著しく弱体化しているとみられている。

7 最近の主な活動状況

(1) 概況

2011年にオサマ・ビン・ラディンの後継指導者に就いたアイマン・アル・ザワヒリは,繰り返し声明を発出して欧米へのテロを呼び掛けている。しかし,同人の声明本数は,2012年の19本から,2013年には6本,2014年は8本と低調傾向が続いている(いずれも文書声明を除く)。また,2013年4月に「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)とシリアにおける関連組織「ヌスラ戦線」との対立が顕在化した際,ザワヒリは,両組織の調停を試みたものの,ISIL指導者らは同年6月,同人の指示に従わない旨を表明した。2014年2月,「アルカイダ」は,「『アルカイダ』総司令部」名で,ISILとの関係を断絶する旨の声明を発出した(注42)。しかし,ザワヒリは,その後もISILに対し,シリアからの撤退などを呼び掛ける声明を発出している。

同年9月,ザワヒリは,「アルカイダ」の新たな支部として,「インド亜大陸のアルカイダ」を設立したことを発表した。このほか,「アルカイダ」幹部や古参戦闘員らが,アフガニスタンやパキスタンなどからシリアに派遣され,同国で活動しているとされる。

(2) 地元武装勢力の調整

「アルカイダ」は,潜伏するパキスタン部族地域などにおいて,地元武装勢力の調整に当たっているとされる。ザワヒリは,2010年5月に死亡した「アルカイダ」幹部ムスタファ・アブ・アル・ヤジドを追悼する声明で,ヤジドがアフガニスタン及びパキスタンのイスラム武装勢力に働き掛け,「ムジャヒディン諮問評議会」の結成に重要な役割を担ったなどと指摘した(2010年7月26日)(注43)

また,2012年には,アブ・ヤヒヤ・アル・リビが,「タリバン」の代表などとともにパキスタン武装組織諸派の会合(2011年11月から12月まで)に立ち会い,これら勢力の合同協議会「シューラ・イ・ムラクバ」の設立(2012年1月発表)に関与したことが報じられた。リビは,これら会合の場で「一切の相違点を忘れる」よう各派に促すなどし,同協議会設立を後押ししたとされる。

(3) シリアでの活動

シリア情勢の混乱以降,アフガニスタンやパキスタンなどから,約50人から100人の「アルカイダ」幹部や古参戦闘員らがシリアに派遣され,爆発物の開発や欧米出身者のリクルートなど国際的なテロ計画の立案・実行を主な目的として活動しているとされる(注44)(注45)。その中心的役割を担っているのは,ムフシン・アル・ファドリとされる。2014年9月22日,米軍は,シリア北部・アレッポ県西部に構築された司令部施設や訓練キャンプ,爆発物・弾薬製造施設などを標的とした空爆を実施した。

(4) 各地の「アルカイダ」関連組織との連携

アボタバードで押収された文書等から,「アルカイダ」は,各地の「アルカイダ」関連組織を公の声明で激励する以外にも,書簡を介して活発にやり取りし,水面下で指示や勧告を伝えていた模様であることが明らかにされた。また,2013年に報じられた「アルカイダ」やその関連組織等の書簡とされる文書から,これら関連組織内で対立等が生じた際に,「アルカイダ」が要員等を派遣して仲裁に努めていることも示唆された。

ザワヒリは,「アルカイダ」の「支部」として,4つの「アルカイダ」関連組織(注46)を名指ししたものの,このうち,ISILについては,関係を事実上断絶(2014年2月)した。一方,シリアで活動する「ヌスラ戦線」について,ザワヒリは,「ヌスラ戦線」指導者ゴラニらに宛てた書簡(2013年5月23日付け)(注47)の中で,「ヌスラ戦線」が「アルカイダ」支部であることを認めたとされる。また,2014年9月,ザワヒリは,声明を発出し,新たな「アルカイダ」関連組織として「インド亜大陸のアルカイダ」の設立を発表した。これら関連組織と「アルカイダ」との関係は,以下のとおりである。

ア 「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)

「アラビア半島のアルカイダ」(AQAP)は,「アルカイダ」との密接な関係が指摘されている。アボタバードで押収された文書によると,「アルカイダ」は,AQAP最高指導者ナーセル・アル・ウハイシに対し,イエメン政府や同国治安部隊ではなく,米国を標的とすることに集中するよう求めたほか(注48),指導者の地位の禅譲を打診してきたウハイシについて,その座に留まるべきとの指示を与えるなど(注49),戦略や人事面に関与していたことが示されている。これに対し,AQAPは,2009年以降,米国本土に向かう航空機へのテロを累次企図するなど(注50),「アルカイダ」の方針に従っていることがうかがわれる。

また,ザワヒリは,ネット上でウハイシにテロの実行を指示し,その際,ウハイシを「総括責任者」(General manager)に任命したとされる(注51)。ウハイシの書簡とされる文書によれば,同人は,「アルカイダ」から受けた助言を「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)最高指導者アブデルマレク・ドルークデルに自らの言葉で伝えるなどしており(注52),AQAPが他の「アルカイダ」関連組織に対して指導力を発揮している可能性もある。

なお,AQAPは「アルカイダ」との人的つながりも深く,指導者のウハイシのほか(注53),主要メンバーのファハド・アル・クソ(2012年死亡)などが「アルカイダ」の出身者であるとされる(注54)

ただし,アボタバードで押収された文書からは,「アルカイダ」とAQAPの戦略・戦術面における隔たりも見られる。例えば,ビン・ラディン又はアティヤ・アブドルラハマンとみられる者は,ウハイシに対し,「軍事・メディアにおける『アルカイダ』の一般的な政策」は,「内の敵」(イエメンなどイスラム諸国の政府)よりも「外の敵」(米国)に集中することである,と強調した上,イエメン軍などを標的としたテロを行わないことなどを求めていたとされる(注55)

イ 「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」(AQIM)

ザワヒリは,AQIMの前身組織「宣教と戦闘のためのサラフィスト・グループ」(GSPC)が「アルカイダ」に加入したことを自ら発表するなど(2006年9月11日。AQIMへの改称は2007年1月),同組織の「アルカイダ」への合流に積極的な姿勢を示していた。

「アルカイダ」からAQIMに対し,具体的にどのような指示・勧告が出ているかは不明である。AQIMの指導部である「諮問評議会」が,2012年10月頃,傘下組織の「覆面旅団」(当時。同年後半にAQIMから離脱)に宛てた書簡とされる文書には,「アルカイダ」とAQIMとの意思疎通が極めて不十分であったことが示唆されている
(注56)

他方,同文書では,「覆面旅団」指導者モフタル・ベルモフタルが,AQIM指導部との関係悪化をめぐって「アルカイダ」に調停を求め,「アルカイダ」から幹部級の人物が派遣されたことが示唆されている(注57)。ベルモフタルは,これ以前にも,前身のGSPCのメンバーであったユニス・アル・モーリターニ(注58)を「アルカイダ」に派遣していたことを自認している(注59)。また,「覆面旅団」を母体の一つとする新組織「アル・ムラビトゥーン」は,2013年8月の結成発表後,ザワヒリに「忠誠を誓う」と表明しており,同組織が,「アルカイダ」と直接つながりを築いている可能性もある。

ウ 「アル・シャバーブ」

ソマリアのイスラム過激組織「アル・シャバーブ」は,2007年1月に設立され,2012年2月9日,正式に「アルカイダ」に合流した(注60)

「アル・シャバーブ」は,かねてよりビン・ラディンへの忠誠を表明するなど(注61),「アルカイダ」への合流の意図を示していたが,アボタバードで押収された文書によると,同人は,合併を公に宣言すれば,「アル・シャバーブ」への圧力が強まるとの見方を示し,同合併に否定的な見方を示していた(注62)。他方,同人は,「アル・シャバーブ」に対し,「アフリカ軍に攻撃を加える際には,ムスリムの被害を最小限に抑えよ」
(注63)とも求めており,一般のソマリア人を巻き込む同組織のテロに懸念を抱いていたこともうかがわれる。

ソマリアでは,「アル・シャバーブ」と協力して活動する「アルカイダ」メンバーも残存していた。これらメンバーの指導者と言われたファズル・アブドラ・ムハンマド(2011年6月死亡)は,ソマリアで,「アル・シャバーブ」に路肩爆弾や自爆などの戦術を導入させたとの指摘もある(注64)

同人死亡後も,ソマリアでは「アルカイダ」メンバーとされる者が,避難民キャンプで支援物資を配る(2011年10月)などの動きが伝えられた(注65)

エ 「ヌスラ戦線」

シリアで活動するイスラム過激組織「ヌスラ戦線」は,2012年1月に設立を宣言した。2013年4月10日,「ヌスラ戦線」指導者ゴラニは,録音声明の中で,「ジハードの師アイマン・アル・ザワヒリに改めて忠誠を誓う」旨表明した。また,ザワヒリによる同年5月23日付けのゴラニらに宛てたとされる書簡の中で,「ヌスラ戦線」を「アルカイダ」支部として認めたとされる。

また,シリアに派遣された「アルカイダ」メンバーが,「ヌスラ戦線」で指導的役割を担っている可能性や米国などを攻撃する対外作戦部門として活動している旨(注66)が指摘されるなど,人的,組織的つながりが示唆されている。

オ 「インド亜大陸のアルカイダ」

「インド亜大陸のアルカイダ」は,2014年9月3日,「アルカイダ」の関連組織として設立された。同組織は,パキスタンやインド周辺地域で活動してきた複数のイスラム過激組織が集まって結成された組織である
(注67)とされ,各構成組織はザワヒリの指示に従うことを表明した旨言明している(注68)。「インド亜大陸のアルカイダ」指導者とされるシェイク・アシム・オマルは,2012年9月や2013年7月など,「アルカイダ」のメディア部門「アル・サハブ」作成によるプロパガンダビデオなどに複数回登場しており(注69),2014年4月頃,インターネット上に掲出されたとみられる同「アル・サハブ」作成の告知用バナーでは,同人について,「パキスタンの『アルカイダ』シャリーア委員会責任者」と紹介されている。

また,「アルカイダ」作成の英語機関誌「リサージェンス」(Resurgence)第1号(2014年10月19日発行)には,同年9月6日に,武装集団がパキスタン南部・シンド州都カラチの海軍工廠を襲撃した事件の理由及び目的などを訴える「インド亜大陸のアルカイダ」報道担当ウサマ・マフムード名の声明(2014年9月16日付け)などが掲載された。

(5) プロパガンダ

ザワヒリを始めとする「アルカイダ」幹部らは,インターネット上に声明を発出して,「アラブの春」やビン・ラディン死亡などに対応しつつ,新たな機関誌を発行するなど,各地のイスラム過激派をけん引しようとする姿勢を見せている。特に,欧米に対するテロについては,次のように主張している。

ア テロの規模,実行場所

アボタバードで押収された書簡等によると,ビン・ラディンは米国本土でのテロ実行に固執した上,「小規模な複数」のテロでは「不十分」であり,「一度に数千人」を殺害するテロが必要である旨部下に教示していたとされる(注70)。これに対し,ザワヒリは,「イラク,アフガニスタンその他の地域の米軍を標的とする,より容易で,日和見的な攻撃」を志向し,ビン・ラディンと意見が一致しなかったとされる(注71)

こうした相違はそれぞれの声明にも示された。ビン・ラディンは,成功していれば大惨事となった米国航空機爆破テロ未遂事件を称賛する(2010年1月24日)一方,米国フォートフッド陸軍基地銃乱射事件(2009年11月5日,13人死亡)やアフガニスタン南東部・ホースト州の米国関連施設自爆テロ事件(2009年12月30日,8人死亡)については沈黙した。

これに対し,ザワヒリは,米国航空機爆破テロ未遂事件に言及しない一方,米国フォートフッド陸軍基地銃乱射事件,米国関連施設自爆テロ事件について容疑者を称賛した(それぞれ2010年7月19日及び同年5月24日)。指導者就任後も,「米国(権益)が存在すると分かった場所ではこれを追え」(2011年8月15日)など,攻撃場所については問わない柔軟な姿勢を示した。

イ テロの実行者

前述のとおり,「アルカイダ」の幹部らは2011年6月2日,「個人的ジハード」を称揚する声明を発出した。アブ・ヤヒヤ・アル・リビは,「個人的ジハード」を「米国,英国,フランス,又はどこであれムスリムと戦っている国」において「1人ないし少人数のグループで敵に危害を加えること」と定義し,「預言者ムハンマドの時代から続くジハードの一形態である」と正当化した上で,「敵の本土における1回の作戦は,戦場で行う10回の作戦に勝る」と強調した。一方,アティヤ・アブドルラハマンは,「敵地での攻撃に際してどのような行動を取るべきかを学ぶため,ムスリムは,ムジャヒディンの指導部とコンタクトを取るべきである」として個人が独断で計画・実行するテロについては認めない考えを示し,さらに,標的とすべきなのは「ブラジルやベネズエラ」ではなく「イスラム及びムスリムへの攻撃に関わり,かつムスリムの地を侵略している国だけ」であると強調した(注72)他方,アダム・ガダーンは,具体的な標的の例として「十字軍・シオニストの政府,業界(industry),メディアにおける,影響力ある公人」を挙げる一方,「米国には入手容易な銃器があふれている。…これ以上君たちは何を待つというのか」,「君たちは最も近しい人にも計画を打ち明けてはならない」と主張し,いわゆる一匹狼型のテロを呼び掛けた(注73)

ザワヒリは,上記の「アルカイダ」幹部などとは異なり,「個人的ジハード」について明確な姿勢を示していなかったが,2013年には,ボストンマラソン爆弾テロ事件(同年4月)を指摘した上で,「単独又は2,3人」による「多様な攻撃」をあらゆる場所で行うよう呼び掛け,一匹狼型のテロ続発への期待を示した(注74)

年 月 日 主要テロ事件,主要動向等
88. 8  「アルカイダ」が正式に設立
92.12.29 イエメン・ホテル爆破テロ事件
 スーダンの「アルカイダ」キャンプで訓練を受けた者を含むイエメン出身者のグループが,イエメン・アデン市のホテル2か所(ソマリアへ向かう米軍が頻繁に利用)を爆破し,2人が死亡
93. 2.26 米国・世界貿易センタービル爆破テロ事件
 後に「アルカイダ」幹部となるハリド・シェイク・モハメドの甥で,アフガニスタンの「アルカイダ」訓練キャンプで訓練を受けたラムジ・ユセフらが,米国・ニューヨークの世界貿易センタービル地下駐車場で自動車爆弾を爆発させ,6人が死亡,邦人4人を含む1,000人以上が負傷
93.10. 3 「ブラックホーク・ダウン」事件
 アイディード将軍派のソマリア民兵組織が,同国首都モガディシュで米軍ヘリ2機を撃墜し,米軍兵士18人が死亡。「アルカイダ」側は同攻撃に関与したと主張
94.12.11 フィリピン航空機内爆発事件
 ラムジ・ユセフらが,フィリピン・マニラ発セブ経由成田行きのフィリピン航空機に自作の爆弾を持ち込み,座席下で爆発させ,邦人1人が死亡,6人が負傷
96. 8.23  オサマ・ビン・ラディンが,「二聖地の占領者に対するジハード宣言」(いわゆる「対米ジハード宣言」)を発出
98. 2  オサマ・ビン・ラディン,アイマン・アル・ザワヒリらが,「ユダヤ・十字軍に対するジハードのための世界イスラム戦線」の結成を発表
98. 8. 7 在ケニア・在タンザニア両米国大使館同時爆破テロ事件
 「アルカイダ」が,ナイロビ及びダルエスサラームの両米国大使館に対し,自爆テロを実行し,合計229人が死亡,邦人1人を含む5,000人以上が負傷
00.10.12 イエメン・米駆逐艦「コール」爆破テロ事件
 「アルカイダ」が,イエメン・アデン港に停泊中の米駆逐艦「コール」に対し,小型ボートを用いた自爆テロを実行し,17人が死亡,38人が負傷
01. 9.11 米国同時多発テロ事件
 「アルカイダ」が,米国・ニューヨークの世界貿易センタービル2棟にハイジャックした米国旅客機2機を突入させたほか,1機を首都ワシントン郊外の国防総省に突入させ,更に1機をペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落させ,邦人24人を含む約3,000人が死亡
01.10. 7  米軍が主導する連合軍によるアフガニスタン攻撃が開始
02.10. 6  「アルカイダ」が,イエメン・ムカラ沖合でフランス船籍石油タンカー・ランブールに対し,小型ボートによる自爆テロを実行し,1人が死亡,17人以上が負傷
02.11.28  「アルカイダ」が,ケニア・モンバサ市郊外のイスラエル資本のホテルに爆薬を積んだ自動車を突入させ,犯人3人のほか15人が死亡,約80人が負傷。ほぼ同時刻にモンバサ空港を離陸したアルキア・イスラエル航空のチャーター機に対して地対空ミサイルが発射されたが命中せず
03.10.18  オサマ・ビン・ラディンが,アル・ジャジーラで放送された録音声明において,「我々は,適時適所でこの不正義の(イラク)戦争に参加している全ての国々,特に英国,スペイン,オーストラリア,ポーランド,日本及びイタリアに対して応戦する権利を留保している」などと発言
03.11.15
及び11.20
トルコ・イスタンブール連続自爆テロ事件
 「アルカイダ」に接触していたと指摘される者らが,トルコ・イスタンブールのユダヤ教会付近で自爆テロ(15日,20人死亡)を実行し,次いで,英国総領事館及び英国系銀行の2か所で自爆テロ(20日,英国総領事など41人が死亡)を実行
05. 7. 7 英国・ロンドン地下鉄等同時爆破テロ事件
 「アルカイダ」から訓練を受けたとみられる者らが,英国首都ロンドンの地下鉄及びバスで自爆し,52人が死亡,邦人1人を含む約700人が負傷(「アルカイダ」の関与が指摘されている)
08. 6. 2  「アルカイダ」メンバーとみられる者が,パキスタン首都イスラマバードのデンマーク大使館に対し,自動車を用いた自爆テロを実行し,8人が死亡,約30人が負傷。同月5日,「アルカイダ」上級幹部ムスタファ・アブ・アル・ヤジドは,「アルカイダ」に所属する者が事件を実行したとする声明を発表
09. 4. 8  英国当局は,テロ法違反容疑でパキスタン人留学生ら12人を逮捕。同当局は全員を不起訴処分とするも,2010年7月7日,米国連邦大陪審がうち2人を「アルカイダ」への物的支援などの罪で起訴
09. 9  「アルカイダ」から訓練・指示を受けた者が,米国・ニューヨーク市内の地下鉄で自爆テロを実行しようとしたが,当局の監視を察知して計画を中止。米国当局は,同月19日に犯人の1人を逮捕
10. 7. 7  ノルウェー当局は,同国内でのテロを計画した容疑で「アルカイダ」から訓練を受けた中国新疆ウイグル自治区出身のノルウェー人ら3人を逮捕。2012年1月30日,デンマーク紙を狙ったテロを企てたとしてうち2人に有罪判決
11. 4.29  ドイツ当局は,同国内でのテロを計画した容疑で「アルカイダ」から訓練を受けたモロッコ人ら3人を逮捕,起訴(同年12月8日,更に1人を逮捕)
11. 5. 2 オサマ・ビン・ラディン死亡
 パキスタン北部・アボタバードで,オサマ・ビン・ラディンが米海軍特殊部隊の急襲を受けて死亡
11. 8.13  武装集団がパキスタン東部・ラホールで米国人開発専門家(当時70歳)を誘拐。同年12月1日,ザワヒリは,「アルカイダ」が同人を人質に取ったと犯行を自認
11. 8.23  パキスタン部族地域で,アティヤ・アブドルラハマンが死亡
12. 6. 4  パキスタン部族地域で,アブ・ヤヒヤ・アル・リビが死亡
13.10. 5  米軍は,リビア・トリポリで,アブ・アナス・アル・リビを拘束
14. 2. 2  「アルカイダ総司令部」名の文書声明を発出し,「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)とはいかなる関係もない旨発
14. 9. 3  ザワヒリが,「インド亜大陸のアルカイダ」を設立したとする声明を発表
14.10.19  「アルカイダ」として初となる英語の機関誌「リサージェンス」(Resurgence)をインターネットで配信

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