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「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)の退潮と今後の展望

1 はじめに

ISILは,これまで,中東地域のみならず世界各地で脅威を及ぼしてきたが,2017年にはその勢力を急速に減退させ,国際テロ情勢は新たな局面に向かうこととなった。

ISILは,元々イラクを拠点に活動してきたが,2011年3月のシリアにおける反政府運動の発生を受けた混乱に乗じ,シリアに活動を拡大して広大な地域を支配下に置くなどし,2014年6月には,「カリフ国家」の建国を宣言した。人々は「オスマン帝国以来となるカリフ国家の出現」に衝撃を受け,その多くが魅了され,「イスラム国」という名の「カリフ国家」への移住を決意したと言われる。

このように台頭したISILの影響は,インターネットを通じて世界中に拡散していったが,同時に,有志連合などによる掃討作戦の強化を呼び込むこととなった。これに対し,ISILは,2015年11月,報復として,フランス首都パリの競技場や劇場,レストランなどで同時多発テロ(「フランス・パリにおける連続テロ事案」)を引き起こした。他方で,ISILに対する空爆や地上戦は引き続き行われ,ISILは,多くの幹部や,シリア,イラク各地の要衝を失うなどし,その勢いに陰りが生じ,支配地を維持することが困難になった。2017年に入ると,各国による掃討作戦が更に進展し,7月には,イラク最大の拠点であった北部・モスルが奪還され,10月には,「カリフ国家」の「首都」たるシリア北部・ラッカも陥落した。ISILはその後も支配地を相次いで失い,12月までに全ての支配都市・町を喪失した。

このように追い詰められたISILであるが,非対称戦法への変化など,組織の生き残りを模索してきた。なかでも,ISILは,プロパガンダなどを通じて,自らの影響力を近隣諸国のみならず,欧米やアジアにも浸透させており,各国では,こうした呼び掛けに呼応するような形で,様々なテロが発生してきた。こうしたISILのプロパガンダは,シリア,イラクでの退潮が顕著になる中でも,一定程度続けられている。

ISILの退潮が顕著になったことは,新たな問題を生み出した。ISILに参加する目的でシリアやイラクに渡航してきたいわゆる「外国人戦闘員」(FTF)は,2017年後半には両国への流入がほぼ停止したとされる一方で,FTFの母国への帰国や第三国への移転による脅威の拡散を懸念する声が高まっている。また,ISILと「グローバル・ジハード」の主導権をめぐって競合関係にある「アルカイダ」の影響力が相対的に高まるとの見方も出ている。

このような状況から,本稿では,世界レベルでの脅威を及ぼしてきたISILについて,第Ⅱ部の内容と若干重複する部分はあるものの,その台頭から退潮までの軌跡を振り返りつつ,今後の情勢などを展望する。

2 ISILの台頭から「カリフ国家」の建国宣言まで

(1) 「イラク・イスラム国」(ISI)時代の勢力減退

ISILは,「イラクのアルカイダ」(AQI)と称していた2006年10月,「イラク・イスラム国」(ISI)の建国を宣言(注1)し,翌月に発出した声明で「カリフ国家」を樹立する意向を明らかにした上(注2),イラク東部・ディヤーラ県や西部・アンバール県などを支配下に置き,ディヤーラ県都バクバをISIの「首都」と位置付けていたと言われる。

ISIは,その後,勢力拡大などを企図し,イラク各地で軍・治安当局のほか,シーア派住民などを標的にテロを継続したが,治安部隊や駐留米軍などによる大規模な掃討作戦を受けた。さらに,ISIは,シャリーアを極端に解釈して地元住民に適用したことなどから,地元住民の反発や他のスンニ派武装勢力の離反を招き,2010年頃までには支配地の大半を失い,その勢力を著しく減退させたほか,同年4月には,最高指導者(当時)アブ・ウマル・アル・バグダディ(イラク人)が,駐留米軍及びイラク軍による合同作戦を受けて死亡した。

(2) 駐留米軍撤退や「アラブの春」を利用し活動を活発化

ISIの勢力回復の主要因
イラク軍・治安当局の軍事的能力が不十分であったこと
駐留米軍に拘留・釈放された元ISI戦闘員の一部がISIに合流したこと
ISIが,シーア派主導のイラク中央政府に不満を募らせるスンニ派住民からの支持を回復させたこと
ISIが,犯罪活動などを通じて活動資金を拡大させたこと

ISIは,2011年12月の駐留米軍のイラク撤退を好機と捉え,アブ・ウマル・アル・バグダディの後任であるアブ・バクル・アル・バグダディ(現ISIL最高指導者)の指揮の下,徐々に勢力を回復させていった。この時期に勢力を回復させることができた主要因として,右表のとおり指摘されている。

また,チュニジアに端を発した「アラブの春」の影響がシリアに及び,2011年3月にはシリア各地で反政府運動が発生した。バグダディは,この機に乗じ,配下のアブ・ムハンマド・アル・ゴラニ(注3)らをシリアに派遣し,既にシリアで活動していたISI戦闘員らと共に反政府運動に関与させるなどした。ゴラニが2012年1月頃にISIのシリアでの関連組織として「ヌスラ戦線」を設立したことで,人員や物資の往来が活発になったとされる。

(3) シリアでの活動を拡大

ISIは,勢力拡大を一層誇示するため,2013年4月,①ISIからISILへの名称変更,②「ヌスラ戦線」のISILへの統合,③活動範囲のシリアへの拡大-などを宣言した。しかしながら,「ヌスラ戦線」側は,即座に声明を発出し,ISILへの統合を拒否し,独自に「アルカイダ」最高指導者アイマン・アル・ザワヒリに忠誠を誓う旨宣言した。ISILは,これに対し,翌5月に発出した声明で,ゴラニを「卑劣な裏切り者」と呼称し,これ以降,シリアで「ヌスラ戦線」とは事実上別組織として本格的に活動を開始した(注4)。こうした中で,ISILは,アサド政権軍の基地に対する攻撃を実行し,ときにはこれを占拠するなど,高い戦闘能力を示したことで,シリアの反体制派勢力の中で有力組織の一つになっていった。

ISILは,このようにシリアの有力な反体制派勢力として頭角を現す中で,活動範囲を拡大させ,特に,北部・ラッカ県や東部・デリゾール県などでは事実上の支配地を獲得し,後に「カリフ国家」の首都と位置付けるラッカ県都ラッカについては,2014年1月頃にその支配を確立したとされる。ISILは,当初,これらシリアの支配地で生活物資を配給するなどし,地元住民からの支持を得ようと試みたが,シャリーアを極端に解釈して地元住民に適用したことなどから,むしろ地元住民の反発を招くこととなった。また,ISILは,当初はアサド政権軍やクルド人勢力との戦闘では,他の反体制派勢力と共闘したものの,バグダディへの忠誠を強要し,これに従わない勢力を「背教者」と称して攻撃対象としたほか,他の反体制派勢力から支配地や武器などの奪取を試みたことなどから,他の反体制派勢力からも反発を招いた。

2014年に入ると,ISILと他の反体制派勢力の間で緊張感が高まり,本格的な衝突に発展したが,ISILは,衝突の末に,他の反体制派勢力から新たに支配地を奪取し,地元部族を降伏させて統合を図り,勢力を一層拡大させた。

(4) イラクでの活動拡大に着手

イラクでは,2013年4月以降,スンニ派住民が多数居住する北部や西部で,シーア派主導の中央政府に不満を抱く住民と治安部隊との衝突が発生・拡大していた。ISILは,この機に乗じ,中央政府の信用失墜や弱体化を図るために治安当局を攻撃するとともに,宗派間抗争を激化させるためにシーア派住民を標的としたテロを頻発させ,西部・アンバール県では,訓練キャンプを構築しつつ,2014年4月までに同県の広域を占拠した。

また,ISILは,スンニ派が多数居住するイラク北部に向けても攻勢を開始し,2014年6月以降,イラク北部と国境を接するシリア北東部・ハサカ県の支配地を後方拠点にする形で,ニナワ県都モスルを始めとする北部の主要都市を占拠し,引き続き,首都バグダッドに向けて南侵を開始し,バグダッドから北方約100キロの地点にまで迫るなどした。さらに,イラク北部のクルディスタン地域政府(KRG)の管轄地域への侵攻も開始し,KRGの中心都市であるアルビル県都アルビルに迫ったが,KRGの治安部隊「ペシュメルガ」などが反撃に乗り出し,ISILによって占拠された地域の一部を奪還した。

(5) 「イスラム国」という名の「カリフ国家」の建国を宣言

民衆の前で演説するバグダディ(2014年8月機関誌「ダービク」第3号

ISILは,2006年10月にISIとして「国家」の樹立を宣言していたところ,2014年6月29日,①同「国家」名の「イスラム国」への変更,②「イスラム国」におけるカリフ制の施行,③最高指導者バグダディのカリフ就任-などを宣言した。

また,バグダディは,2014年7月,イラク北部・モスルの旧市街に位置し,歴史的な建造物としても知られるヌーリ・モスクで,民衆の前に姿を現し,礼拝を主導するとともに,「カリフ」として自らを権威付ける演説を行った。ISILは,その後,シリア,イラクの広範な地域を支配下に置き,両国で700万人ともされる住民を支配していった。

3 ISILの影響力の世界的拡大

(1) ISILによる「州」の設立と自組織名での犯行声明の発出

ISILは,各地のイスラム過激組織などが相次いでISILへの忠誠を表明したことを受け,これを受け入れるとともに,2014年11月,「イスラム国の領土」の一部であるとして「州」の設立を発表し,「イスラム国」の支配が各地に広がっていると主張してきた(注5)(注6)

また,ISILは,「州」の存在を主張している国・地域以外で発生したテロについても,ISIL名の犯行声明を発出することで,自らの影響力の拡大を主張してきた。これら状況をまとめると,下図のようになり,ISILの影響力が拡大してきた状況がうかがえる。

新たにISILの「州」が設立され,又はISIL名の犯行声明が発出された国・地域

(2) 「外国人戦闘員」(FTF)の取込み

2014年8月機関誌「ダービク」第3号での「ヒジュラ」の呼び掛け

ISILは,「カリフ国家」の建国宣言以降,機関誌「ダービク」や幹部声明などを通じ,シリア,イラクのISILの支配地への「ヒジュラ」(移住)を呼び掛けてきたところ,各国からこれに呼応し,多くの人々がシリア,イラクに渡航し,戦闘に従事するようになった。

このようないわゆるFTFは,ISILの台頭によって新たに生じた問題ではなく,これまでも,アフガニスタンやイラク,チェチェン,旧ユーゴスラビアでの戦闘の際には,「義勇兵」として多数の外国人が集結してきたとされる。しかしながら,2011年3月のシリアにおける反政府運動の勃発以後におけるFTFのシリアへの渡航状況は,渡航ペースの早さ,規模の大きさ,出身国の幅広さにおいて,過去20年間で最大のものになったとされる(注7)(注8)

シリアへの渡航動機として,FTFらは右表のとおり挙げているとされるが,戦闘員個々が抱える背景は,社会経済的にも,地理的にも多岐にわたるとされる(注9)

シリアへの渡航動機
圧倒的なアサド政権と戦いたいとする感情
苦難に陥ったシリア人を助けたいとする人道的な感情
中東地域における「カリフ国家」の建設に寄与したいとする大義への共感
シリアにおいてシーア派(やアラウィー派)がスンニ派を攻撃しており,これらシーア派と戦いたいとする宗派的な感情

このようにISILに引き付けられてきた者は,帯同親族らを含め,世界110か国出身の延べ4万人以上に上るとされる。主要各国からのFTFとしての渡航者数は,下図のとおりである。

シリア,イラク入りした「外国人戦闘員」(FTF)110か国出身の4万人以上がシリア・イラクに渡航

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