これからの刑事手続に関する研究会 (第2回) 第1 日 時  令和8年3月11日(水)    自 午後1時30分                         至 午後3時59分 第2 場 所  法務省第1会議室 第3 議 題  1 ヒアリング         2 その他 第4 議 事 (次のとおり) 議        事 ○小倉参事官 ただいまから、これからの刑事手続に関する研究会の第2回会議を開催いたします。 ○川出座長 本日も、皆様御多用中のところ、御出席いただきまして、誠にありがとうございます。   まず、事務当局から、本日お配りした資料について説明をしてもらいます。 ○小倉参事官 本日は、ヒアリング関係の資料として、ヒアリング出席者名簿とヒアリング出席者の説明資料をお配りしております。 ○川出座長 それでは、議事に入りたいと思います。   本日は、前回会議で皆様から頂いた御意見を踏まえ、事前にお知らせしましたとおり、お配りした出席者名簿に記載されている2名の方々から、ヒアリングを行うことといたします。   初回である本日のヒアリングにおきましては、刑事手続の研究者であるお二方から、これからの刑事手続の在り方についてお話を頂くことにいたしました。   進行としては、ヒアリング出席者名簿に記載の順に、1名ずつ、50分程度お話を伺った後、15分程度委員の皆様からの御質問にお答えいただくという流れで進めさせていただきたいと思います。   お一人目の方は、田口守一早稲田大学名誉教授です。   本日は、御多用中のところ、ヒアリングに御協力いただきまして、誠にありがとうございます。   まず、田口先生から50分程度お話を伺い、その後、委員の方々から、15分程度御質問させていただきたいと思います。   それでは、よろしくお願いいたします。 ○田口氏 御紹介いただきました田口でございます。本日は貴重な機会を与えてくださいまして、ありがとうございます。   私は、これまで当事者主義の原則について、少しばかり研究してまいりましたが、多分に理念的な議論が多かったように思います。この点、特に、最近10年ほどの刑事司法制度に関する改革論を見ますと、これまでになく抜本的で、かつ、具体的な議論がなされているという印象を受けております。先般の「改正刑訴法に関する刑事手続の在り方協議会」の取りまとめ報告書を拝見しても、「有罪答弁制度」への言及もあり、このようなテーマが具体的な制度論の一つとなってきたということ自体に一種の感慨を覚えております。しかし、そうなりますと、これからは、これまでのような理念だけでなく、もう少し現実的な議論も必要となってくるかなと感じているところです。   ところで、本日の研究会は、「これからの刑事手続に関する研究会」という名称になっておりますが、この「これからの」という、やや官庁らしくないといいましょうか、文学的といいましょうか、「これからの」という柔らかい名前に感銘を受けておるところです。というのも、「これから」というのは、やはり素直に読むと、「将来の」とか「未来の」といった意味に取れますが、そうであれば、これはもはや現行の制度やその解釈を一旦棚上げにして、自由な立法論の話をしてもいいのではないか、法務省がそのような自由な研究の場を設けられたということに感銘を受けたわけです。実は、そういう勝手な解釈をさせていただきまして、本日は、やはりある程度理念的な話を、かなり自由に話してみたいと思っている次第です。そういうことですので、どうかよろしくお願いいたします。   それでは早速、本論に入ります。   平成28年(2016年)の刑事訴訟法改正を導いた法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」は、改革の方向の一つに、「取調べへの過度の依存に代わる証拠収集手段の多様化」を掲げました。この被疑者の取調べについて、これまで主に問題とされてきたのは、身柄が拘束されている被疑者で自ら供述しようとしない被疑者についての取調べであったと思います。そこで、まず、取調べに関する現行法制がどのような経過を経て成立することになったかを見ておきたいと思います。   現行法制の成立の経緯については、まず、昭和22年(1947年)10月に、日本側の最終案である「刑事訴訟法改正第9次案」がGHQに提出されました。GHQは、この日本側案につき多くの修正提案を行いました。この場合、注意しておきたいのは、後でも少し触れますが、「第7次案」では、いわゆる「有罪答弁制度」が条文化され、最終の「第9次案」でもその条文はまだ残っていましたが、その後これは削除されたこと、さらに、この「第9次案」には、起訴状一本主義も、訴因制度も、訴因変更制度も、伝聞法則も含まれていなかったということです。すなわち、かかる当事者主義的な諸規定は全て、その後に設けられたGHQ側と日本側との協議会において、GHQ側の提案により盛り込まれるに至った制度でした。   被疑者の取調べと身柄拘束関係について見ますと、当時、憲法の施行が迫っていたことから、急遽、「日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律」が策定されることになり、日本側は、当初は、予審における予審判事の権限を、予審の廃止に伴って新法の検察官がこれを引き継ぐとの理解から改正案を考えていたようですが、これは、憲法第33条の「司法官憲」に検察官が含まれるとの理解が前提となっていたようです。しかし、新法では裁判官の令状主義が採用されたことから、被疑者の勾留については、旧刑事訴訟法が被疑者の勾留を「10日間」としていたことから、その規定をそのまま応急措置法に入れることとしたようです。こうして、この応急措置法の規定が、そのまま「第9次案」に入れられて「10日間」の勾留という現行法の基本ができ、その後、更に「10日間」の延長規定が認められ、合計して原則「20日間」という現行法の身柄拘束の枠組みが成立することになりました。   この点に関して更に注意しておきたいのは、GHQ側は、日本の公訴・公判手続に上述のような当事者主義的な制度を導入することを優先課題としたように思われ、捜査段階における被疑者の身柄拘束制度については、旧法の規定を前提とした被疑者の取調べ制度を考えていた日本側の主張を柔軟に受け入れたように思われることです。つまり、20日間の勾留制度というのは、理論的というよりも、公訴・公判での当事者主義の導入を重視するGHQ側と被疑者取調べを重視する日本側の主張との、言わば政策的な駆け引きから生まれた制度という印象を受けるのです。   ここからは、私の多少独自な切り口ということになりますが、この点につき、団藤先生が残された膨大な立法資料の整理に携わられた、当時の肩書で言いますと、渡辺咲子検事は、日米間の協議記録を分析し、「被疑者の勾留の期間については、さほど討議の重点が置かれなかった」とされ、その結果、「我が国の勾留期間は、起訴の性格を考えれば、比較法的に異例ともいえるほど短いものになっている」と指摘されました。私は、この渡辺検事の指摘は正に問題の核心を衝くものだと思います。ただ、渡辺検事の見解とは少し違って、起訴のために十分な捜査期間が必要であることは、欧米でも日本でも同じだと思いますが、そこでの捜査に、予審判事が行ったような糺問的な取調べが含まれるかどうかという点に、日本法と英米法との大きな違いがあるのではないかと考えます。そして、この点の検討が十分に行われないまま、予審を前提とした旧法の被疑者の10日間の勾留期間を入れた応急措置法の規定が、そのまま「第9次案」となったと思われます。そこで、結論的なことを先に申し上げると、かかる経過から生まれた原則「20日間」という現行制度を言わば所与の前提として、将来の捜査の在り方を構想すべきではないのではないかと考える次第です。後にも述べますが、私の身柄拘束期間に関する問題提起の背景には、このような立法事情もあります。   ところで、身柄を拘束された被疑者の取調べについては、GHQ側の捜査観と日本側のそれには、大きな隔たりがありました。GHQ側は、基本的に身柄拘束中の被疑者に対する糺問的な取調べはできないと考え、日本側は、以上で触れたように、旧法の法改正案の作成という立場から、予審判事のような取調べも許されると考えていたように思われます。そこで、欧米型の捜査観がどのようにして出来上がったのか、その源について触れておきたいと思います。   まず、以下の議論の前提として、欧米型の被疑者の身柄拘束制度を寸見してみますと、アメリカ合衆国(連邦)では、逮捕されてから起訴まで30日以内の身柄拘束が可能とされていますが、事情により、更に30日延長することができるとされています。ドイツでは、勾留期間は6か月が原則とされますが、捜査が困難な場合にはそれ以上の勾留も認められ、上限はないものとされています。イタリアでも、原則は6か月とされていますが、2回まで更新して、最長1年半まで延長できますが、特に重い犯罪については2年まで可能となっています。このように、少なくとも、これらの諸国では、長期の身柄拘束が認められておりますが、なぜこのような長期の身柄拘束が認められるに至ったのかについては、その背景に市民の権利という観念の成立とその確立を目指した長い歴史があります。   そもそも我々が問題とする市民の権利という思想については、16世紀の有名なカロリナ法典における、いわゆる法定証拠主義にまで遡る必要があろうかと思います。刑事裁判を人間の理性に基づく裁判へと転換させたのは、正にこの法定証拠主義だったと思うのです。神の権威ではなく、本人の自白か証人の証言がなければ有罪の認定はできないとされました。これを啓蒙思想から基礎付けたのがルソーであり、これを哲学的に理論化したのがカントということになると思います。ドイツ刑事訴訟法が、被疑者の尋問は、その者の「意思決定と意思活動の自由」を侵害してはならないという定め方をしているのも、いわゆるドイツ観念論哲学の伝統から来ているように思います。   他方で、1776年のアメリカの独立宣言は、「全ての人間は生まれながらにして平等であり、自由の権利を与えられている」としました。この思想は、戦後の世界人権宣言にも引き継がれ、その第1条は、「全ての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」とし、この思想は、現代では広く普遍的な原則となっていると思われます。   この権利思想は、アメリカ法では、より具体的な権利として保障され、連邦憲法は、弁護人依頼権と自己負罪拒否特権を保障し、これを受けて1966年のミランダ判決は、身柄拘束下の取調べへの弁護人立会権と黙秘権を保障しました。こうして身柄拘束下の被疑者の取調べについては、被疑者に黙秘権が保障され、取調べへの弁護人の立会いは、このアメリカ、ドイツだけではなく、イギリス、フランス、イタリアでも当然のこととして認められています。これは、欧米における啓蒙時代以来の長い糺問主義的な取調べ手続との戦いの歴史の所産です。それゆえ、被疑者が、内心の自由から黙秘したり、供述を拒否したりした場合には、国家の捜査機関といえども、それ以上の取調べを継続することが許されないこととなりました。   しかし、被疑者に犯罪の嫌疑があり、また、逃亡のおそれなどがあって、その者を釈放することができない事態は当然あり得ます。しかし、もはや被疑者の取調べを続けることによってその供述を得ることができないことになりますと、犯罪の証拠は、被疑者供述に頼ることなく、全て自力で収集しなければならないことになります。証拠収集には時間が掛かることになります。したがって、その結果として身柄拘束期間が必然的に長期化することになります。   他方で、日本型の捜査については、身柄が拘束され、否認している被疑者について供述を求めることを、法律は明示的に禁止はしませんでした。しかし、そうなると、黙秘権や弁護人依頼権の保障との間に緊張関係が生ずることは避けられず、被疑者の意思決定の自由を侵害するおそれも出てくることになります。   そこで、欧米の歴史を念頭に置きつつ日本の歴史を簡単に振り返ってみますと、確かに、日本も西洋の近代法を継受しました。明治維新からの約10年間に、証拠裁判主義や拷問の廃止などが矢継ぎ早に整備されました。しかし、当時は、新たな国家建設を進めるための法制の整備が優先され、国民の権利に関する法制度はどうしても後回しになりました。例えば、明治13年(1880年)の治罪法は、ホアソナードの推薦にもかかわらず、陪審制を採用しませんでした。近代日本における西洋近代法の継受は、言わば西洋法の日本化を伴うものでした。被疑者の取調べ制度が欧米型と違ったものとなってきたのも、その一つの現象だと思うのです。しかし、我々が今考えなければならないのは、正に「近代法の精神」である「意思決定の自由」の精神は、既に日本国憲法で基本的人権として継受されているのであって、そのことを再確認する必要があるということです。その前提から、これからの制度改革を考えるべきではないかと思います。   ともあれ、明治以来、日本的な近代化が進められてきましたが、その後、日本は戦争の時代に突入することになり、戦後には新たな法制度に取り組むことになりました。そこでは新たな欧米型の制度と伝統的な日本型の制度との融合あるいは統合が試みられてきたと思います。昭和23年(1948年)に新刑事訴訟法案が戦後初めての国会に上程された際、法務当局は、率直に次のような趣旨説明を行いました。「長年慣れ親しんできた大陸法系刑事手続と新憲法に現れた英米法系刑事手続とを渾然調和させることによって、新しい刑事訴訟法の確立を目指したものであります」というわけです。この前向きの構想は、特に訴因制度について現実化したと考えますが、私は、この際、更に一歩を進めて、捜査についても欧米型と日本型のそれぞれのメリットを生かした新たな制度を構想することが、今の時代の要請するところではないかと考えるのです。   そもそも「平成28年改正」は、これまでの過度の取調べを戒めましたが、それでは適度の取調べならよいのかというと、そうではなく、正に取調べに代わる供述証拠の収集の検討の必要性を指摘したと受け取るべきではないかと思うのです。録音・録画制度も導入されました。しかし、これによって否認している被疑者の身柄拘束中の取調べの「適正化」を担保し、従来の取調べ制度を将来にわたって温存させ、これを固定化するのは、その目指すところではなかったのではないかと解するのです。   そして、そのためには二つの大きな課題を克服しなければならないことになります。   一つは、被疑者の取調べにおける黙秘権の保障を、法律の定めるとおり、「自己の意思に反して供述する必要がない」という正に自由権の保障を最大限に尊重することとし、従来の制度と運用を抜本的に見直すことです。黙秘権の告知規定は、昭和28年改正で導入されましたが、これには当時からも強い反対意見がありました。この長年の課題について、この際、正面から検討すべき時期に来ているのではないかと考えるのです。第2は、その反射的効果として、身柄拘束期間のある程度の長期化を検討しなければならないことになります。しかし、どの程度の長期化が適当であるのかは難しい課題です。日本の旧法を参考にすることもできませんし、起訴手続に基本的な違いのある西欧法をそのまま参考にすることもできないと思います。そうなりますと、日本独自の身柄拘束期間を構想するほかないように思います。例えば、2か月を原則として1回の更新を認めるとか、この原則を3か月として1回の更新を認めるなどの案も考え得ると思います。しかしながら、何分刑事手続の全体とも関わってくる問題ですので、ここでは問題を提起し、考え方の方向を提示するにとどめておきたいと思います。   ともあれ、このような被疑者の意思決定の自由を尊重する被疑者取調べの構造改革の問題は、同じ論点を含む公訴手続と連動することとなります。   そこで、「Ⅲ 被疑者・被告人の処分権」に入ります。最初に問題の所在を確認しておきますと、アメリカの公訴制度では、被疑者・被告人の意向を尊重した制度となっております。被告人は、公訴の在り方、したがって刑事裁判の在り方について、一定の自己決定をすることが認められているのです。言い換えれば、これは被告人が刑事手続を自分なりに処分することができることを意味していると言ってよいと思います。アメリカの有罪答弁制度において、この点がどのように考えられているのかを確認したいというのがここでの課題です。   そこで、まず有罪答弁制度の概要について触れておきますと、被告人は、検察官の起訴に対して「有罪(guilty)である」又は「無罪(not guilty)である」などと答えることができます。ただし、最初の段階では、検察官の手元にいかなる証拠があるのかが分からないことが多く、被告人は、取りあえず無罪の答弁をし、その上で、弁護人は、検察官から答弁に関する判断資料の開示を受け、その情報を得て、検察官と被告人の答弁内容について協議、すなわち取引をすることになります。この協議において、検察官と弁護人が当事者として一定の合意に達すると、それに基づいて被告人は有罪答弁をすることになります。被告人の有罪答弁がありますと、裁判所は、公判手続を省略して、直ちに量刑手続に入ることになります。   ところで、この有罪答弁について、まずもって確認しておかなければならないのは、有罪答弁は被告人の自白とは違うということです。有罪答弁は、検察官の訴追に対する「答え」、「答弁(Plea)」ですが、自白は、自己の犯罪事実に関する供述であって、事実認定の証拠となるものです。答弁は供述証拠ではありませんから、これに基づいて犯罪事実が認定されるわけではありません。この点は、後にもう一度触れます。   この有罪答弁制度は、アメリカ法における当事者主義の特色をよく表しております。3点ほど指摘してみますと、第1に、先ほど、検察官と弁護人を当事者と言いましたが、この当事者、すなわち検察官と弁護人が協議を行いますが、この両者は有罪答弁制度において全く対等であるとされています。当事者対等主義です。   特色の第2は、こうした有罪答弁制度は、専ら当事者による協議に基づく制度であって、この協議には裁判所は参加できません。全く当事者主義的な制度です。   さらに、第3の特色として、当事者は協議において、お互いの利益を調整して答弁の取引をすることができることもとても大きな特色です。すなわち、検察官の利益としては、公判における立証の負担を回避することができ、被疑者から捜査に関する有益な情報を得ることができる、取り分け、これにより、より重大な事件の捜査に有限な司法資源を回すことができるなどの訴訟経済的な利益などが考えられ、被告人側の利益としては、量刑における刑の減軽が得られたり、早期の手続の終結を得ることができるなどが考えられます。以上のようにして、被告人は有罪答弁をすることになりますが、有罪答弁による事件処理の割合は起訴事件の約96%になると言われております。   さて、有罪答弁制度は、裁判所に受理されなければ手続が前に進みません。この裁判所の受理手続がアレインメント制度、罪状認否制度ということになります。すなわち、裁判官は公開の法廷において、被告人に起訴された事実を告げ、これに対する被告人の答弁を求める手続です。この裁判所の受理手続において、裁判官は、答弁手続が適正であったことを確かめなければなりません。例えば、被告人が任意に答弁したとはいえないような事情がうかがわれる場合には、取引の適正が疑われることになります。また、検察官が提示した有罪と認めた場合の量刑と否認した場合の量刑に、余りに大きな格差がある場合には、被告人の自由な選択決定が妨げられたとされることもあります。さらに、有罪答弁が真実に照らして疑問がある場合も考えられます。例えば、スピード違反につき駐車違反の有罪答弁をするとか、夜間窃盗につき昼間の窃盗の有罪答弁をするような場合です。そのような場合には、裁判所は、有罪答弁の「事実的基礎(factual basis)」の確認をしなければなりません。既に触れたように、「有罪答弁」は飽くまで「答弁」という被告人の訴訟行為ですから、その行為の事実的基礎の有無の調査は、飽くまで訴訟行為の適正さを確認する程度の事実調べということになると思います。   さて、次に、日本の合意制度について触れておきたいと思います。最初に、日本より7年早い2009年に合意制度を導入したドイツの合意制度と比較しておきたいと思います。ドイツの合意制度は、そもそも裁判所と検察官・弁護人などの訴訟関与者(当事者という言葉は使いません)との間の合意である点、また、合意の対象犯罪には限定がない点、さらに、被告人の自白は合意の必要な構成要素とされている点などで、日本法と大きく異なります。他方で、合意事項は手続問題に限られ、英米法の有罪答弁制度がそのまま取り入れられていないのは日本法と同じです。   ここで、ドイツ法と日本法における合意制度の前提となっている両国の訴訟構造を比較してみますと、ドイツ法は、その合意制度の条文の末尾に、「第244条第2項の規定の効力には影響を及ぼさない」と明記していますが、この第244条第2項というのは裁判所の職権調査義務を規定した条文です。ドイツの合意制度は職権主義を前提としているものです。この点は、日本法は当事者主義の訴訟構造の下での合意制度ですから、前提を異にすることになります。   ただ、当事者主義といっても、日本のそれはアメリカの当事者主義と同じではありません。そこで、改めて、日本の刑事訴訟における当事者主義の位置付け、変遷も少し見ておきたいと思います。   日本の当事者主義について、これまでの変遷を4点だけに集約してみますと、第1に、団藤重光教授は、新刑事訴訟法公布の直後に出版された『新刑事訴訟法綱要5訂版』で「刑事手続における当事者訴訟の構造は、単に被告人の保護を目的とする技術的当事者構成だともいえる」とされ、昭和18年に出版された『刑事訴訟法綱要初版』で示された理論体系を維持されたのです。教授は、後に、新刑事訴訟法の制定当時を振り返って「私は、刑事訴訟に当事者処分権主義を持ち込もうとする考え方には、絶対に承服することができなかった」と述懐されております。この団藤教授の述懐は、新法下においても刑事訴訟法綱要の初版で樹立された団藤理論は妥当すべきであるとの団藤教授の信念が示されていると思います。第2に、これに対して、平野龍一教授は、訴因対象説に基づく当事者主義刑事訴訟法を世に問われました。平野理論の根本的な問題意識は「職権主義か当事者主義か」でありました。しかし、第3として、その後、松尾浩也教授や田宮裕教授などは、刑事訴訟の中核問題を、「実体的真実主義か適正手続か」とされ、当事者主義論は影を潜めることになりました。これに対して、第4として、鈴木茂嗣教授は、適正手続論は訴訟理念の問題であり、当事者主義論は訴訟構造の問題であると議論を整理されました。これにより、被疑者・被告人の主体的地位を尊重する当事者主義論が復活する理論的契機が与えられたように思います。そして、以上のような当事者主義に関する議論の蓄積が、日本的な合意制度を導入することを可能とし、また、有罪答弁制度の導入に関する議論も可能とする理論的な素地となったのではないかと考えています。   もっとも、日本の合意制度といっても、まだその制度の運用は始まったばかりであり、理論的にも実際的にも、まだ幾つかの問題が含まれていると思います。   まず、解釈論的課題として、少し細かい議論になりますけれども、合意制度に追加された刑事訴訟法第350条の2第1項柱書の「関係する犯罪の関連性の程度」という文言の解釈問題があります。ここに言う「関連性」は、捜査協力者自身の犯罪とその標的となる他人の犯罪との両者、例えば、会社犯罪でいえば、捜査協力者が取締役で、標的者がその上役である社長のような場合、の犯罪が含まれる場合に、この関連性が認められるものと考えますと、この場合の捜査協力者の供述には、自己の犯罪に関する自白も含まれることになります。そうなると、実は、現行法の合意制度においても既に自己負罪型の合意も含まれていることになります。   もともと、検察官が不起訴などの被告人に利益な処分を示唆するのは、その訴追裁量権に基づくものであって、純粋に証拠収集のための捜査活動だけという性質のものではないと言わなければなりません。他方で、弁護人は、被告人が自己の犯罪を自白して有力な証拠を提供することを約束する代わりに、法律上可能な利益処分を受けることを確実にするために協議に応じているのであって、これは被告人の主体的判断に基づく交渉にほかならないことになります。加えて、日本の合意制度は、ドイツと違って、純粋に検察官と弁護人という訴訟当事者による協議となっています。これらから考えますと、合意制度に自己負罪型合意が含まれることになるのは当然であって、それは、日本の合意制度が当事者主義の訴訟構造を反映した制度であることの帰結にすぎないと考えます。ただし、この問題は、その後の議論を私が十分にフォローしているわけではありませんが、余り議論されていないようですので、差し当たり私一個の考えにすぎません。   そこで、次に、合意制度の実際的課題にも触れておきますと、現在、合意制度の利用が少ないという実情にありますが、その大きな原因の一つは、当事者にも弁護人にも合意を進めてよいかどうかの判断資料が不足していることにあるように思います。検察官の手持ち証拠などの情報を知らせる仕組みを考えないと、弁護人としても協議のしようがないのではないでしょうか。この点、ドイツ法では「合意手続の透明性(Transparenz)」が重視され、検察官の手持ち証拠の弁護人への開示や合意手続の書面化が求められております。日本の合意制度は、既に現行制度となっておりますので、かかる合意制度の透明性の問題は、理論的問題とは別にして、現行法の課題としても取り組んでおく必要があるように思います。   さて、合意制度に自己負罪型合意が含まれるかという論点があるとしても、日本の有罪答弁制度を考えるに当たっては、英米法の有罪答弁制度をモデルにしてその導入を検討することになる点では同じだろうと思います。そこで、かかる有罪答弁制度の導入論について考えてみることにします。   有罪答弁制度の導入論は、既に戦後初期の新刑事訴訟法制定時の議論でも唱えられていました。新刑事訴訟法制定過程における司法省の研究会では、有罪答弁制度導入論が主張され、その基本的考え方は、「アメリカ法の有罪答弁制度になお職権主義的要素を加えて採用すれば、必ずしも刑事訴訟を処分主義に堕せしめるものではない」というものでした。これが先にも触れたように「第7次案」では条文化されましたが、最終の「刑事訴訟法を改正する法律案」では削除されたわけです。   しかし、この「日本的有罪答弁制度」は、アメリカ法の有罪答弁制度に似て非なるものでした。そもそも有罪答弁制度が刑事裁判の一態様として認められているのは、有罪答弁に基づく有罪決定が、公判手続に基づく有罪決定と「等価値」と考えられている点にあることは、日本刑法学会の共同研究分科会に参加された宇川春彦検事が指摘されたとおりであると思います。公判手続に基づく有罪決定と有罪答弁に基づく有罪決定のいずれについても、固い、絶対的な実体的真実主義が前提となっているわけではないのです。このような古典的な実体的真実主義は、ドイツでも、今日ではもはや一般的ではなく、むしろ、より柔軟に、刑事訴訟における法的平和あるいは社会的平和(Rechtsfrieden, Sozialer Frieden)を実現するための中間目的(Zwischenziel)という理解が有力になっているように思います。   さて、以上に対して、21世紀を迎えますと、刑事司法制度の抜本的改革論が動き始め、有罪答弁制度の新たな導入論も唱えられることになりました。松尾教授は2002年の論文で、ドイツやイタリアにおける合意制度の採用を指摘されつつ、被告人を裁判官・検察官と対等の地位に置く「同格モデル(coordinate model)」への接近という問題の検討を、「21世紀の営みとして開始しなければならない」と指摘されました。   この動きの中で、特に注目すべきは、実務家であった香城敏麿判事が、2003年の論文で、当事者主義と職権主義に関する近時の判例の展開を踏まえつつ、有罪答弁制度の導入を正面から論じられたことです。香城判事は、検察官の処分権主義だけでなく、訴訟主体である被告人の処分権主義も検討すべきであるという視点から、アレインメント制度の採用に積極的な理解を示されました。   私は、香城判事が指摘されたように、有罪答弁制度を日本に導入する場合には、アメリカ流の有罪答弁制度そのままではなく、新たな職権主義の在り方に関する判例の展開などを踏まえ、正にこれを日本化することが必要ではないかと考えるのです。そのための具体的な課題が重要ですが、その内容は、これまで述べてきたことから、かなり明らかですので、ここでは以下の5点ほどの問題点を列挙するにとどめておきます。   第1は、有罪答弁の適正性の審査制度です。アメリカでも有罪答弁の受理手続では答弁の適正さに関する一定の審査がなされますが、この点は日本では、答弁協議の経過を記録した文書を審査するなどして、アメリカより厳しい審査をすべきだろうと思います。   第2は、裁判官による有罪答弁の審査権限の根拠の問題ですが、これは、これまでの判例が示した当事者の意思確認を基本とする補充的な職権発動という骨組みの考え方を、ほぼそのまま新制度の根拠とすることができるだろうと思っております。   第3は、対象犯罪の限定ですが、ドイツ法のように無限定とするか、あるいは現在の合意制度のように特定犯罪に限定するかは、いずれも考え得るところかと思います。私としては、合意制度における対象犯罪の限定を引き継ぎつつ、したがって死刑と無期の事件は除かれることになりますが、まずは強盗・窃盗あたりから順次拡大していくのが適当ではないかと考えております。   第4として、最も重要な課題になると思いますが、検察官による弁護人に対する捜査段階を含めた証拠開示制度の整備の必要性です。この点は、合意制度の課題として、ドイツ法における手続の透明性に触れましたが、アメリカ連邦刑事訴訟規則の「公判前証拠開示制度(Pretrial Discovery)」なども参考としつつ、かなり抜本的な対応が必要になると考えます。   最後は、当然、有罪答弁制度と刑事司法制度全体との整合性を図る必要があります。有罪答弁制度ですから、公判手続が省略されるのは当然として、その他、幾つかの法律改正が必要になると思います。   さて、最後に、「当事者主義の刑事手続と日本の司法文化」という壮大なテーマを掲げましたが、以下は、文化の問題には素人である私が、刑事法学の角度から考えてみるものにすぎません。この議論のポイントは、司法制度を国民の目線で考えてみるという点にあると思っています。新たな制度に対して、日本の司法文化がどのような態度を示すのかという難しい問題ですが、この機会にあえて触れてみることにしました。   最初に、日本の伝統的な司法文化は、紛争の解決というより、刑事裁判は真実に基づいてなさなければならないという、真実重視の司法文化であったと思います。人々の間では、法律制度以前の「勧善懲悪」的な道徳意識があり、その自然な道徳感覚がそのまま文化の内容となっていたといえるように思います。そこでは、無論、真実に基づく勧善懲悪が前提となっていました。他方、刑事司法の専門家は、大陸刑事法の実体的真実主義の伝統を引き継ぎ、刑事裁判は実体的真実を解明するものでなければならないとする訴訟理論を構築してきました。こうして、法律の専門家も国民も、刑事裁判は真実に基づいてなさなければならないとする日本の伝統的な司法文化が形成されてきたように思います。   さて、日本の司法文化を考えるとき、外国の学者が日本の司法をどのように見ているかも大いに参考になります。日本の刑事司法制度に詳しいアメリカのフット元東京大学教授は、日本には「同調文化(cooperative culture)」があり、日本の当事者主義をこのような文化に基づく「協調的当事者主義(cooperative adversary system)」と呼び、アメリカの攻撃的(aggressive)な当事者主義とは区別され、アメリカの当事者主義は権力に対する不信と権力濫用へのおそれに根差しているとされました。なお、やはり、日本の刑事法制に詳しいドイツのヘルマン教授も、日本人の「協調的性格」は刑事司法にも影響を与えているが、同時に「同調圧力(Konformit?tsdruck)」と隣り合わせであるという指摘をされました。私は、両先生が指摘された、この「協調的」という日本の司法文化の個性的な特色は、制度的には生かしていくべきだと思うのですが、それが主体性の欠如と隣り合わせであるとの点は、あるいは最も重要な問題かもしれません。今後の大きな課題だと思います。   このような伝統的な司法文化も、時代とともにその姿を変えていくことになります。以下、学説の変化、実務の変化、そして事件の変化を簡単に見ておきます。   まず、学説の変化として、平野教授は、昭和33年(1958年)の教科書で、当事者主義の訴訟が予定する社会と現代の、つまり当時の日本の社会との間にギャップがあるのではないかという困難な問題があるとされ、「当事者主義の訴訟は、合理的な精神を前提とする。情緒的な我が国民の心理の上に、このような当事者主義の訴訟を築き上げることは可能なのであろうか」と深刻な問題を指摘されました。これは、司法文化論からは軽視できない問題です。   平野教授は、さらに、その3年後の論文では、その先鋭的な弾劾的捜査観に基づき、「何はともあれ、被疑者を裁判所に連れて行き、ある程度の無罪は我慢する」として、「現在の0.3%の無罪率をせいぜい3%程度に引き上げる覚悟をするならば、日本の捜査はもっと大らかなものになるだろう」と主張されました。この年の無罪者は380人でしたから、この主張によると無罪者は3,800人ということになります。さすがに当時、学界も実務界もこの主張に賛成する者はほとんどいませんでした。日本社会が3,800人の無罪を我慢するとは考えられなかったのだろうと思います。   ところが、それから約40年たって、松尾教授は、教授自身が命名された精密司法を「蒼ざめた美女」という名文句で表現されましたが、1999年の論文で、この綿密な捜査、慎重な起訴に基づく精密司法という日本的司法について、「起訴基準を少しずつ引き下げ、無罪判決の若干の増加を覚悟すれば、事態は動くはずである。その方向に踏み出す決断をするかどうか」がこれからの、つまり21世紀の課題であると、当時としては大胆な主張をされました。事態が動くとは、綿密な捜査と慎重な起訴が変わるということです。   ただ、この起訴基準の引下げ問題は、増加する無罪者を社会がどのようにして受け入れていくのか、あるいは刑事補償の問題など非常に基本的な問題とも関連してきますので、その「引下げの程度」については、正に松尾教授の言われたように、少しずつということにならざるを得ないかと思います。   次に、「実務の変化」として2点ほど指摘しておきたいと思います。   第1に、司法文化に影響を与える時代の変化として、2001年の『司法制度改革審議会意見書』を挙げたいと思います。意見書は、「国民の統治客体意識から統治主体意識への転換」ということを強調し、司法制度における国民の主体性の確立を訴えました。その典型が裁判員制度でした。言わば、「事実」というよりも「理念」からの提言であったと思います。しかし、国民は抵抗感なくこれを受け入れてきたことに注目しなければなりません。裁判員として参加した国民が熱心に刑事裁判に取り組んできたことは、かかる統治主体性が国民の法意識に既に事実として存在していることを示すのではないかと思われます。   なお、第2として、犯罪に対する非刑罰的対応の動きにも触れておきたいと思います。例えば、環境犯罪などが典型ですが、かかる犯罪に対して直ちに刑罰を科すのではなく、一定の行政処分や、あるいは環境保護の社会奉仕命令に代替させるとか、更には被害者との和解などを含むいわゆる修復的司法などが考えられます。これらの一部は我が国でも既に見られるところであって、犯罪に対しては何が何でも刑罰で対応しなければならないという「刑罰至上主義(Criminal idealism)」といった考え方にも変化が生じていると思います。   最後の、「事件の変化」については、伝統的な司法文化は、事件の真相が比較的明らかな古典的犯罪を前提にしたものであったと思います。最近は、真実の発見が困難な事件が増えています。まず、犯行自体が最新の科学技術を利用するなどして手口が巧妙・複雑であったり、大規模な会社犯罪のように多数の人間が関与するなどして、事案の真相を解明するのが難しい犯罪があります。さらに、最近は、被疑者・被告人が犯行を否認する事案も増加傾向にあると言われており、被疑者・被告人本人の供述から真相を解明することを困難にしております。この変化も、全ての事実について真実の解明をという伝統的な考え方に影響を及ぼしていると思います。   無論、文化というものはある程度の長い時間を経て形成され、変容していくものですが、私は、特に21世紀に入ってからの25年、4分の1世紀において、我が国の司法文化も大きく変わったのではないかと思うのです。その文化は、以上述べてきたような新しい当事者主義の刑事手続の制度を十分に理解し、これを支えていく可能性を秘めているのではないか、要するに、当事者主義の刑事手続は、日本の司法文化と調和し得ると考えているわけです。   最後に、結びに代えてとして、残された問題に触れておきますと、以上、捜査手続の問題と公訴手続の問題を取り上げ、当事者主義の手続について述べてきましたが、これに対して、公判手続についてはほとんど触れることができませんでした。日本の自白事件の割合も9割以上だと思いますが、有罪答弁制度の対象犯罪となる被告人の多くは、恐らく有罪答弁をすることになりましょう。問題は、その対象とならなかった事件の公判手続の在り方ですが、自白事件のかなりの部分は略式手続か即決裁判手続で処理されるでしょうから、争いになることは少ないと思われます。無論、自白事件が重大事件で、最初から正式裁判が進められる場合もあると思いますが、この場合も多くの被告人は証拠に同意するでしょうから、やはり争いになるケースは多くはないと思います。結局、主な問題は否認事件や黙秘事件の公判手続になります。   今後の公判手続の課題として、取りあえず3点ほどを挙げておきますと、第1は、被告人の証人適格の問題です。被告人の自白調書等が証拠提出されることはないでしょうから、証人としての被告人の証言は、重要な証拠となるはずです。無論、証言拒否権はあるわけですが、被告人ですから、拒否権行使の効果を考えざるを得ないのではないでしょうか。第2は、一般の証人尋問については、特に組織犯罪などの中心人物に関する証言などの場合には、証人保護の制度的保障の整備が避けられないと思います。そして、第3に、事実認定の在り方ですが、これまでにも議論のありました前科や類似事実などの関接事実からの推認の在り方なども、これまで以上に緻密な議論が必要だろうと思っております。   以上、甚だ雑ぱくな話となってしまいましたが、少しでも御参考になる点がありましたら幸いです。御清聴ありがとうございました。 ○川出座長 田口先生、どうもありがとうございました。   それでは、質疑に入りたいと思います。御質問のある方はいらっしゃいますでしょうか。 ○平出委員 今日はどうもありがとうございます。1点御質問させていただきたいのですが、最後に公判の話をされましたけれども、即決裁判手続に言及がありました。即決裁判手続について先生のお立場からどのように位置付けられておられるのか、御見解を頂ければと思います。実際問題として、即決裁判手続はほとんど使われていない現実がありまして、そのあたりについても、もし何か御示唆がありましたらお願いいたします。 ○田口氏 即決裁判手続は、せっかく作られましたが、ほんの数件しか実施されていないと理解しております。これは、その者が公判で否認に転じた場合には、結局、正式裁判でもう1回やり直さなければいけないこととなり、即決裁判手続を作っても、捜査機関としては証拠収集の手抜きができず、結局は初めから準備しておいた方がよいということになるわけです。有罪答弁をした場合には、そういうことはあり得ず、有罪答弁が有罪決定を自動的に導きますので、それを取り消すことはできません。もっとも、連邦刑事訴訟規則の答弁(Pleas)ルールにもありますが、有罪答弁を取り消してしまったら、検察官としては今までのものを御破算にして正式裁判で本格的にやるということが可能になりますが、そういうことはほとんどありません。先ほど申し上げたように、有罪答弁の場合は、約96パーセントがそれで終わっていることも考えますと、日本の即決裁判手続も結局、有罪答弁制度のように、即決裁判手続に乗ったらもうそれで処理することとし、被告人側が公判で否認に転ずることがないようにしなければいけません。つまり、公判手続がないような制度を考える必要があるのではないかと思います。   ですから、先ほど少し触れましたが、有罪答弁制度を作ったとしても、略式手続は残るのでしょうけれども、即決裁判手続や簡易公判手続といった手続を簡略化した公判手続を残すというのが果たして有罪答弁制度と調和するのかどうか、そこが大きな問題となると思います。立法論的には、もし有罪答弁制度を作る場合には、先ほど法律的な調整が必要だと言いましたが、多分そのあたりも少し考え直さないといけないと思います。即決裁判手続等との調和が可能な有罪答弁制度にするのか、それとも全て有罪答弁制度に乗せてしまうのか、どちらかにやはりならざるを得ないのではないかなと一応理解しております。 ○川出座長 ほかの方はいかがでしょうか。 ○吉田委員 本日は、大変貴重なお話を頂き、ありがとうございました。大きく二つお伺いしたいと思います。法制度論というよりも、先生のお話の最後の方にあった司法文化、あるいは国民の意識といったことになろうかと思います。   まず、一つ目ですが、ドイツでも実体的真実主義が近年重視されなくなってきているというお話があったかと思います。そのように、実体的真実主義、あるいは刑事裁判において真実を明らかにするということが、ドイツにおいて、少なくとも過去と比べて重視されなくなってきた、その背景や要因にどのようなものがあるのかということを、もし御存じでしたら、教えていただければと思います。国民の意識が何か変わってきたのか、あるいは刑事裁判側で何か事情が生じて、司法制度内部でそのような動きが起こってきたのか、いろいろな可能性を頭に浮かべたのですが、その辺りの背景事情のようなものを、もし御存じでしたら、教えていただければ有り難いと思います。   二つ目ですが、お話の最後の方にございました、平野先生がかつておっしゃった大らかな捜査であっさり起訴するというやり方をするのか、それとも綿密な捜査をして慎重な起訴をするのかといった、昔ですとアメリカ型、ドイツ型、日本型というような対比の中で考えられてきた訴追の在り方、どれだけ厳密な判断を経るべきものと考えるのかといったことについての違いに関連することです。日本ですと、例えば、無罪の判決が出ると、誤った起訴であったというようなことが言われたりします。結果的に無罪だったということになりますと、有罪だと見込んだ検察官の判断が違っていたということにはなるのかもしれませんが、一方で、裁判制度というものを考えますと、不可避的に生じることであるとも思います。ただ、それが、日本では、私の感じるところでは、批判の対象になることが多いという感じがいたしますし、それに関連して国家賠償請求訴訟が提起されたりもします。そうした事情もあって、検察当局が起訴・不起訴の判断をする際にはかなり慎重になるという面もあるかと思うのですが、目を海外に転じたときに、アメリカやドイツにおいて、結果的に無罪になったような場合に、国民あるいは刑事司法の中でどのように受け止められるのか、それから、起訴国賠と呼ばれるようなものがあるのかといったようなことを、もし御存じでしたら、教えていただければ有り難いと思います。 ○田口氏 いずれも、もう1回研究会をやらないと無理なような根本的な質問で、非常に大きな問題だと思います。   まず、第1点、司法文化の問題ですが、実は、私が先ほど実体的真実主義がドイツでも変わっていると言いましたが、主にヴァイゲント教授の学説を参考にしています。ドイツの伝統的な学説においては、ヴァイゲント教授にしても、ロクシン教授やシェーネマン教授という代表的な学者にしても、どうしても合意制度を認めないんですね。そこに学説と実務との完全な分裂があって、シェーネマン教授の法曹大会の報告書も非常に詳細な合意制度批判になっています。ところが、御指摘がありましたように、実務の方では、荒っぽい言い方をしますと、アメリカ法の影響が非常に強いわけです。会社犯罪の場合は、アメリカ流の量刑基準のような考え方で、もうどんどんやっていく。学者の理論には関係なく取引的なものを取り入れていく。その結果、立法も憲法裁判所もこれを追認せざるを得ないようなところに追い込まれ、結局出来上がったのがドイツの合意制度と言ってよいかと思います。ですから、実務の感覚と理論の感覚が分かれてしまっているのがドイツの現状ではないかと思います。ドイツの国民はどうかという点は難しいですが、少なくとも、ある統計によると40%ぐらいは既にこの合意で処理されているのではないかとも言われています。それにしても、ドイツの刑事司法では以前から、いわゆる和解も制度化されています。日本と異なり、和解制度という修復的司法も刑事訴訟法の条文に入っています。それに、ドイツは「起訴法定主義」であると言われますが、いわゆる起訴の取下げや主張の変更といった柔軟な仕組みも出来上がっていて、「起訴法定主義」というのは言わば看板みたいになっており、その実態はかなり柔軟になってきています。このように、ドイツ刑事法の理論と実際が調和していないというのが現状ではないかという気がしております。   それから、第2点目ですが、アメリカやドイツの人々が検察官の起訴に対してどう思っているかということについてはそのような実態調査をしたこともないし、そういった資料も余り持ち合わせていません。ただ、これについて思うのは、アメリカは、一方は政府のアターニー(attorney)で、もう一方は被告人のアターニー、つまり、両方とも代理人なのです。一方の検察官が国家の官僚であるというドイツ法と違い、両方ともそれぞれの利益代表者みたいなところがあり、両者の対等性がもともとある国なのです。ですから、取引も非常に自由自在といいましょうか、官僚的という国家的な制約が掛かってこないため、先ほど申し上げたようにとんでもない合意もできてしまうわけです。   それを、例えば、カナダは非常に批判的に見ていまして、確かに適正手続、デュープロセスというのはアメリカで議論しているけれども、それに最も反しているのがアメリカではないかと批判しています。ランダムシステム(random system)と呼び、要するにやってみないと分からないような答弁合意システムになっているという批判をしているのです。ですから、アメリカの制度をとると、国民は司法というのはそんなものだというシニシズム、冷笑主義、つまり司法に対する非常に冷笑的な、軽視するような国民意識がアメリカの文化ではないかという、非常に辛辣な批判もしているわけです。   肝心のアメリカ人がどう思っているかという御質問に答えるのは非常に難しいのですが、アメリカにはどんな意見でもありますから、両方あると思いますが、必ずしも国民の多数が、このアメリカ的な司法取引制度を肯定しているようにも思われません。ともあれ、国民はどう思っているだろうかという質問は非常に難しく、直ちには答えられないというのが率直な感想です。   では、日本における検察の起訴に対する人々の評価をどう考えるかという点ですが、これが一番難しいです。先ほどヨーロッパ諸国の起訴基準と日本は同じではないということを言いましたが、これも松尾先生がおっしゃっていますが、例えば、イギリスには51%基準というものがあり、51%の有罪証拠と49%の無罪証拠があったら起訴するという考え方です。確実な有罪立証の見込みがあったら起訴するという日本の慎重な起訴とは全く違う話なわけです。イギリスで公判請求されるのは否認事件ですが、その無罪率は約62パーセントとされています。真実は公判で明らかになるというシステムですから、多くが無罪になるのは当たり前ですので、検察を批判するという発想がそもそも出てきません。ちなみに、アメリカにおける否認事件の無罪率は約15パーセントとされています。なお、ドイツでは、否認事件に限った統計は不明ですが、無罪率は約4パーセントとされています。日本の否認事件に限らない事件の無罪率は約0.1パーセントとされていますから、やはり日本からすれば格段に多いということになります。ただ、ドイツでそれに対して検察がどのぐらい批判されているかというと、少なくとも私はそのような批判を聞いていません。そういう無罪率が当たり前のようにしていろいろと議論しているような感じを受けています。   アメリカの場合は、無罪の陪審評決が出ると、検察官が弁護人にCongratulationsとか言って挨拶しているという話も聞きます。これは陪審制度の意義にも関わりますが、そもそも陪審裁判であっても陪審は評決の理由を示す必要はありません。法の無視(jury nullification)すらできるわけで、何で無罪にしたか分からないわけです。しかし、市民が無罪と言ったのだから無罪でいいんだと、これが民主主義の基本だと思います。真実主義と言っても大陸法の観念とは違うわけですから、初めから検察官が真実に基づいて起訴しなければならないという発想もないのではないかと私は思っています。ですから、場合により、無罪評決の理由ではなく、誰を陪審員にするかという陪審員選定手続がものすごく重要になってきます。真実解明よりも陪審員選任手続が重大問題となることもあり、無罪率の問題と議論がかみ合ってこないと思います。   そうすると、我々としては、先ほど申し上げたように、どの国も基準になりません。何%の有罪証拠があれば起訴すべきかというモデルがないのですが、日本では、これも先ほども少し申し上げましたけれども、やはり無罪はまずいぞという感覚が残っていると思います。なぜかというと、日本の司法文化は伝統的にやはり真実重視文化だというのが私の理解です。その上で、それが残っているけれども、先ほど申し上げたように、だんだんとそれも変わってきているのではないか、真実だけを基準にするのは無理ではないかという新しい司法文化が育ってきているのではないかということです。今の有罪率というのは恐らく99パーセント以上だと思います。その理由として見落としてはならないのは、有罪立証が難しい事件は、起訴しない実務があることです。起訴猶予が今日6割ぐらいで非常に増えている。そうすると、増えた無罪者をどうするかという問題だけではなく、増えた起訴猶予者をどうするかという問題もあると思います。これは法制度の問題であると同時に、社会の受入れ問題でもあります。前提問題として、それらが整備されていないと、やたら無罪者や起訴猶予者を増やすわけにはいかないという日本の事情も考えなければなりません。   それから、先ほど少し触れましたが、これも松尾先生が指摘されたことですが、刑事補償は憲法問題なのです。日本国憲法第40条は、アメリカ側と最初に作った憲法草案にはなかったものが、国会の衆議院の発意で追加された日本生まれの規定とされています。日本の刑事補償はこのようなことから憲法問題でもありますが、イギリスでは事情が違い、ともかく6割の事件が無罪となりますから、刑事補償も限定的となり、有罪者が刑の執行を受けた後に無罪となった場合が基本となるようです。ただ、いずれにせよ補償問題は事後的な問題ですが、これに対して無罪率の問題は、日本における起訴手続自体に関わる難しい問題です。先にも述べましたように、無罪率を多少引き上げることを考えるとしても、イギリスのように起訴基準を51パーセントとするわけにはいかず、それより高い有罪の見込みを前提とせざるを得ないと思います。無罪者を一挙に増やすことは適当ではないだろうと思うのです。そういうわけで、検察官の起訴の当否という問題には非常に微妙な問題が含まれていると思います。すみません、答えになっていないのですが、そんなところです。 ○鈴木委員 大変貴重なお話をありがとうございました。最後の方に先生がお話をされていて、個人的に非常に関心があるテーマが、公判手続のところの被告人の証人適格のお話と証人保護のお話です。もう少し先生のお考えについてお話しいただけますでしょうか。 ○田口氏 余り詳しく調べているわけではなく、大変歯切れの悪い答弁しかできませんが、いずれにしても証人適格の積極説が妥当だと思っています。証言義務を前提にして証言するのと、被告人質問で黙秘権が保障されている場合とは、やはり質的な違いがありますし、裁判員裁判を考えると、裁判員がいますから、やはりある程度しっかりと証言しないと信用してもらえません。その証人尋問は格段に証明力に影響してくるだろうと理解しております。したがって、ともかく調書が出てこないわけですから、被告人の証人適格を認める方向で考えるしかないのではないかなと思います。ただ、先ほどpretrial discoveryの話をしましたが、あの条文の一つ前に、discoveryの対象物の一覧表というものがあるのですが、それを見ると、被告人の任意の供述は、やはり調書に取ることがあることが分かります。それから、前科調書もあったりします。そういう書類を全部見せることとなっています。ですから、ある程度、調書はあるのでしょうが、それは黙秘権を放棄して、弁護人依頼権を放棄して、その放棄(waiver)の任意性を担保した調書、日本語でいえば証拠能力をクリアしたものが出てくることはあるのですが、否認事件のときに被告人の調書が出てくることはあり得ません。否認している者の取調べというのはないわけですから、被告人の供述が調書化されることはあり得ないのです。もっとも、放棄の任意性を担保するための録音はあります。ですから、録音・録画の概念も違うわけです。そういうわけですから、結局全ては公判での勝負に収れんしていきます。私はそういうリアルな場面を見たことはありませんが、公判において、否認している被告人に対する証人尋問では、おそらく激しい攻撃・防御が行われるだろうと思います。しかも、無罪・有罪には理由が付きませんから、評決の理由は分からないわけです。ですから、もう公判で勝負するしかないというのが証人適格肯定論ではないかと思います。そういうものに切り替えていくというのは、大変なことになりますが、積極説に立たざるを得ないのではないかと思います。   それから、証人保護ですが、これは、やはり身元を明かさないということが必要となる場合はあると思います。日本の暴力団事件のような場合が問題とされますが、将来的には恐らく保護の対象が広がっていくだろうと思います。今般のトクリュウ事件などでも暴力団が絡んでいるという話もありますから、そうなってくると、この証言したのは誰だということが漏れることによって、報復を恐れて証言しませんとなってしまうことは、やはり防がなくてはいけないのではないかと思います。そうなると、身元秘匿の問題、アメリカですと州をまたいで引っ越すなどというすごいものがありますが、そこまで行くかどうか分からないですけれども、ともかく証人を守ってやるという制度が、程度の差はあれ、必要ではないかなと思います。概括的な話ですが、そんなところです。 ○宮木委員 貴重なお話をありがとうございました。先生から頂戴しましたレジュメの2ページ目の4の日本の有罪答弁制度の(2)の4)の証拠開示制度の整備との関係で1点、伺わせていただきたいと思います。先生もお話の中で言及されておられましたが、一つの重要な鍵となるであろう捜査段階での証拠開示の対象や仕組みについて、イメージされているところをもう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか。 ○田口氏 私も資料をたくさん見ているわけではないのですが、一つはドイツであり、一つはアメリカですけれども、ドイツの方は、結局、これもよく分からないところがあります。私が聞いたことによると、州によって違うようですが、結局、弁護人が、これは合意してよいかなというような場合に、検察官の手持ち証拠を見たいわけです。しかし、それは捜査上の秘密ですから見られないわけです。しかし、検察官としても、被疑者は話してくれないし、証拠は集まらないしとなって、どんどん身柄拘束が長引くと、証拠はいろいろと集めたけれども、結局決め手がないとなってくると、もう検察としてもギブアップになるわけです。そうすると、検察官としては、捜査終結決定をすることになります。捜査終結決定をどうやって公示するかは分かりません。もしかすると公示しないのかもしれません。私が聞いた話によると、弁護人は、捜査は終結しましたかと何度も問い合わせをするようです。そうすると、検察官側は、余りにしつこく聞いてくるしもう限度だなと思い、これ以上、身柄拘束を延ばしたってもう証拠は集まらないと考え、これはもう合意に行くしかないかと、追い込まれてしまうわけです。私がインタビューした検察官の場合は、経済犯罪・会社犯罪についてですが、集めたフロッピーディスクをぽんと渡して、全部見てくださいと言ったそうです。そうすると、弁護人はこれを見て、そうか、大分集まっているなと、しかし肝腎なところはまだ集まっていないことがよく分かったとなります。では、この辺で手を打とうかなということで協議が始まっていくといいます。そうでなくては動かないわけです。   アメリカの場合のpretrial discoveryも、先ほど申し上げた連邦刑事訴訟規則を見ますと、とにかく集めたものを見せないことには弁護人がplea bargainingに乗ってこないし、弁護人としても乗れません。見せなければ、答弁がnot guiltyになり、結局公判でもnot guiltyを維持していくことになります。検察官の利益の中に公判での立証を省略できることがありましたが、これはかなり大きな問題で、つまらない事件を陪審裁判に回して、全部証拠を出し、それを被告人側が全部潰してくるとなると、どんどん証拠を集めなくてはいけなくなります。こんな事件で陪審裁判をやるのかということで、検察官の方が音を上げたり、こんなことで有限な司法資源を使うのかということにもなりかねませんし、また陪審員に申し訳ないというのもあります。そうすると、結局もう全部見せましょうとなるわけです。弁護人はこれを見て、これだけの訴因の全部についての有罪答弁はきついから、有罪答弁はその半分だけにしたいと言うと、検察官が、そうか、それでは求刑も半分にしてやろうというネゴシエーションが成立します。アメリカにはセンテンシングガイドライン(sentencing guideline)がありますから、ものすごく捜査に協力してくれれば、検察官はセンテンシングガイドラインから外れて軽くしてもいいという規定がセンテンシングガイドライン自体にあるのです。ですから、そこで約束しても、裁判官から非難されることはないし、日本で議論があるように、裁判官が何でこんな合意をしたんだということで求刑よりも重い刑を言い渡すというようなことはなくなるため、安心してネゴシエーションができます。   この点について一言付け加えますと、ある文献は、アメリカは犯罪の構成要件が細かくなっているからセンテンシングガイドラインが可能なんだということを指摘していますが、日本の刑法典をアメリカのように細かくするのは非現実的です。それに結局、アメリカでも、有益な捜査協力があれば、結局そのガイドラインから離脱する(departure)ことができるわけです。そうだとすれば、日本でもなぜ求刑がこんなに軽くなったかということをきちんと示せるような資料を検察側が求刑で示せば、つまり、量刑が半分になっているのはこういう理由によりますということを答弁記録、ネゴシエーション記録から明らかにして、その合理性を示せば、裁判官は反論できないと思います。裁判官が、ああそうだなと、分かったと、それで2分の1になったのだなということになれば、合理性があるわけですから、事実上、求刑に拘束力を持たせざるを得ません。ですから、この問題は、私は、検察庁と裁判所がある程度事前に話し合って、求刑の在り方を変えるということで乗り越えていくことができるのではないかと展望的には考えています。大ざっぱな意見ですが。 ○小川委員 貴重なお話をありがとうございました。今の宮木委員の御質問とも関連しますが、身柄拘束制度について質問させていただきたいと思います。取調べを制限する代わりに身柄拘束の期間を現在よりも長くすることを検討すべきだとのお話でしたが、その長くなった身柄拘束の中で何をするのかということなのですが。取調べは従来のようにはできなくなるとして、その代わりに何をするのか。もちろん、取調べ以外の捜査をするのでしょうが、ほかに、今の宮木委員とのやり取りからしますと、ネゴシエーション、つまり、合意のための協議を、捜査段階でするということになるのでしょうか。その長くなった身柄拘束を含む捜査段階で、協議・合意もするというイメージでよろしいでしょうか。 ○田口氏 これも難しい質問で、私もまだ確たる考えは持っていないのですが、被疑者にすれば、身柄拘束が6か月、1年続くというのはかなわないわけです。ひょっとすれば法定刑と同じぐらいかそれよりも長くなるおそれがあるのですから。そうすると、弁護人としても、どこかでこれは手を打ちたいなと思うようになってきます。しかし、そのための判断資料がないという話になってくると、検察官に対して、いつまで身柄拘束をするつもりだと、スピーディートライアルはどうなるんだとか、そういう話を持ち出して、ある程度の妥協というか、合意制度に持って行くつもりはないのかと働きかけていくこともあり得ましょう。被告人としては徹底的に争ってもいいけれども、身柄拘束がこれ以上長くなるのはちょっとかなわないなと思うとともに、検察官としても被疑者が協力してくれなければ資料が集まらないわけですから、合意の申出に乗ってくるのではないかということになろうかと思います。無論これは捜査段階の話です。これが一つです。   それから、もう一つは、取調べができないことの一つの効果として、これは非常に重要なことだと思うのですが、逃げてはいけない、証拠隠滅してはいけないというので、身柄を拘束してその自由を奪うわけですね。そうすると、それ以外の自由は被疑者に残っているわけです。このように残った自由を問題とするということになれば、服装の自由はどうなるんだとか、髪型はどうなるんだとか、食事はどうなるんだとか、いろいろな自由が考えられるわけです。そうすると、勾留中の自由というのはどこまで認められるかという問題が長期化の苦痛と結び付くことになります。   これは、新たな拘禁刑制度における自由の制限とも関係してきますが、自由を奪うというときに、いかなる自由を奪っていいかという点から考えると、全部奪ってよいとなると1年の拘禁は非常に苦痛になりますが、ある程度の自由が認められるとなると、かなりの長期化にも耐えられるということになるように思われます。結局、取調べができないという問題は非常に裾野の広い問題であって、たくさんの本質的な論点を含んでいると思います。 ○川出座長 田口先生、本日は、非常に有益なお話を頂戴いたしまして、誠にありがとうございました。お話しいただいた内容につきましては、今後の本研究会における参考とさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。  では、開始から時間も経過いたしましたので、一旦休憩ということにさせていただきたいと思います。              (休    憩) ○川出座長 それでは、ヒアリングを再開いたします。   二人目の方は椎橋隆幸中央大学名誉教授です。本日は、御多用中のところ、ヒアリングに御協力いただきまして、誠にありがとうございます。先ほどと同様、まず、椎橋先生から50分程度お話を伺い、その後、委員の方々からの質問を受けるということにさせていただきたいと思います。   それでは、よろしくお願いいたします。 ○椎橋氏 中央大学名誉教授の椎橋でございます。本日は、このような貴重な機会を与えていただきまして、本当にありがとうございました。私は、田口先生のような高尚な話はなかなかできませんが、私なりに考えていることをお話しさせていただきたいと思います。   それでは早速始めたいと思います。  これからの刑事手続の在り方ということは、要するに、適正な手続と真相の解明をどう調和させて両立させていくかということだと思います。  まず、「1 刑事訴訟法の目的」は、基本的人権を保障しつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正・迅速に適用実現することですので、この目的を達成するためには、当然、適正手続に基づくことは前提にして、事案の真相を解明することが必要であります。   事案の真相の解明のために、世界の主要国は各種の制度を用意しています。おとり捜査、潜入捜査、それから、最近では仮想身分捜査というものが行われております。通信傍受、会話傍受、DNAデータベースの構築、GPSによる位置情報の探索、オンライン捜索、有罪答弁、司法取引制度、それから、刑事免責等々の制度があり、供述で言えば、黙秘した場合におけるその事実を不利益に推認するということが行われている国もあります。我が国では、これらの一部を採用しておりますが、採用していない部分もあります。採用している部分についても、法律自体がかなり厳格で、しかもその厳格な法律に沿った慎重な運用をしているということが現状だろうと思います。   事案の真相の解明のためには、供述証拠と非供述証拠が必要です。後者の関係では、本日のテーマではないのですが、犯罪の高度の嫌疑がある者の大量の情報が瞬時に消されてしまうことを防ぐために、緊急捜索・押収、それから、オンライン捜索等が検討されるべきではないかと考えております。本日のテーマは供述に関わる問題なので、それは単に指摘するにとどめたいと思います。   次に、「2 取調べの重要性と適法性の保障」ですが、取調べは、事案の真相の解明に極めて重要な役割を果たしていると思います。しかし、限度を超えた違法な取調べがあって、それについては厳しい批判が向けられているという現実があります。いかに適正な取調べを実現するかということですが、まず、取調べがいかに重要かということは、これはもう皆さん御承知のことではありますけれども、やはりもう一度繰り返しておきますと、事件の全容を解明するためには非常に重要なことであるということです。それから、事実の確認にとどまらず、事件の背景、あるいは構造的要因を把握する手掛かりになります。その事件だけにとどまらず、これからの事件の発生を防ぐということにも役に立つということです。   それから、被疑者から事情を聴取して弁解・主張を聴きます。その真偽を確認して捜査機関の裏付けを行う必要性があります。そのときに、被疑者の反省や悔悟を促す役割もあります。それから、よく言われておりますように、日本の構成要件には犯罪の主観的要素を証明する必要がある規定がかなりありますが、例えば、目的犯における目的、あるいは故意、過失、それから、それとはまた別に、状況証拠による事実認定が難しい場合、あるいは取調べがなければ、供述がなければ事実認定が不可能な場合もあり、確定的故意なのか、未必の故意なのか、あるいはさらには量刑の判断においても主観的な要素を明らかにする必要があります。   そういうようなことで、取調べ自体は真相の解明に重要な役割を果たしているということです。しかし、それが適法に行われずに違法に行われる、限度を超えて行われるということがあります。そういうことをなくすためにはどういうことが必要かということで、黙秘権、それから弁護権、こういったものを保障した取調べが必要だということが言われているわけです。   では、まず、黙秘権から入ります。黙秘権の内容ですが、黙秘権はどこまでカバーする内容なのか、つまり、最近では取調べを拒否したい、あるいは取調べへの弁護人の立会いを認めるべきだというような主張がなされ、実際に黙秘権を勧めるのは原則だと言われていて、実際の事案でも黙秘をする事例が増えていると聞いております。ですから、黙秘権の内容には、取調べを拒否したり、あるいは弁護人の立会いを認めるようなものまで含まれているのかどうかということを検討する必要があると思います。   かつて、黙秘権の発祥の地と言われるイギリスにおきましては、星座裁判所(Star Chamber)におきまして、正式な告発がないのに被告人に犯罪につき宣誓の上、供述することが求められておりまして、この職権による尋問に答えないと処罰されたり、苛酷な拷問が加えられたりするということがありました。証言拒否自体が犯罪ですから、証言を取るためには拷問まで加えられていたということです。しかし、これに対する国民の反感はかなり強く、17世紀には、告発がないのに個人に尋問に応ずるよう強要すること、つまり個人に答弁を強要することは違法であると考えられたわけです。   これがアメリカ植民地でも確立されまして、現在では合衆国憲法及び各州が自己負罪拒否特権を保障しております。この自己負罪拒否特権、正にプリビレッジ・アゲンスト・セルフインクリミネーション(privilege against self-incrimination)という形で「第5修正」には規定がされているわけです。この自己負罪拒否特権は、被告発者にその者の刑事責任を導くおそれのある証拠の提出を義務付けてはならないとするものです。ですから、自己負罪拒否特権の保障は、被告人に法律上の義務を課して供述をコンパルジョン(compulsion)、法的に強要することを禁じることを内容としておりました。   しかし、その後、告発以前の段階、すなわち、捜査の過程において、法律上の義務を課すのではなく、事実上の強制、コーション(coercion)を用いて被疑者から供述を入手することを規律する必要が生じ、自己負罪拒否特権の保障が拡張されて、その内容は、被告発者が協力義務を負わないというだけではなく、供述するか、否認するか、沈黙するかの選択の自由を保障するものと考えられるようになったのです。   我が国の憲法は、その時代のそういった流れの中の後の方にできたものですから、憲法第38条第1項は当初から、供述か、否認か、沈黙かの自由を保障する黙秘権を被疑者・被告人に保障したものだと理解されたわけです。日本においては、黙秘権の内容が、供述の自由の保障という内容で認められてきたということですが、そこで取調べを拒否することが黙秘権の内容かどうかということが、まず問題になります。取調べ受忍義務論の是非ということにも関わる問題です。これについては、もちろん黙秘権は、供述するか、否認するかの自由が保障されているということですから、取調べに対して黙秘するということは当然に認められるわけですが、その前提となる取調べ自体を拒否するということ自体が黙秘権の内容なのかどうかということが問題であり、これが取調べ受忍義務の是非ということで、しばらく前からずっと議論の対象になっているわけです。   取調べ受忍義務については、これを否定する見解もありますが、肯定する見解もあります。参考になるのは平成11年3月14日の最高裁大法廷判決です。これは弁護権に関わる判例でしたが、身体の拘束を受けている被疑者に取調べの度に出頭し滞留する義務があると解することが、直ちに被疑者からその意思に反して供述することを拒否する自由を奪うことを意味するものでないことは明らかであるとされております。それから、刑事訴訟法第198条に、身柄拘束下の者に対して出頭を求め、取り調べることはできるという規定があるので、そのようなことから、取調べに出頭させるということは認められるけれども、そこで長時間に及んだり、あるいは強制とか脅迫に及ぶようなことは許されないのではないかという考え方が多く、それを基にして捜査実務も動いていると理解しております。しかし、それに対する批判も強くあるということは承知しております。   しかし、そもそも、取調べで黙秘すること自体が果たして被疑者・被告人の利益になるかという観点からも考える必要があるのではないかとも思います。弁護人の役割は、依頼人の最善の利益(ベスト・インタレスト)を実現することにあると思いますけれども、取調べ拒否というのは、黙秘することもそこに含まれる場合もあるのですが、取調べを拒否するということになると、果たして依頼人のベスト・インタレストになるのか、ならない場合もあるのではないかと思います。つまり、取調べは、有罪方向に導くような供述を引き出すという面と、しかし、そうでない、この人は犯人ではないのではないか、あるいは、疑わしいけれども、それに足るような客観的な証拠もないし、これ以上捜査を続行するのは難しいのではないかというようなこともあって、被疑者の弁解を聴くことによって、捜査を引かせるという方向に作用する、そういうことが生ずる場合もありますし、それから、量刑の問題に影響してくることもあるのではないかと思います。このようなことも問題点としては指摘できるのではないかと思います。   さらに、弁護人の立会権でありますが、田口先生のお話にもありましたように、かなり多くの国で立会権が認められています。ただ、立会いにもいろいろあって、アメリカのような形の立会いとイギリスのような立会いはかなり異なっています。イギリスのような場合は、そこに同席するけれども、何も言わないということです。そして、同席する者は、資格のある弁護人に限らず、事務所の職員であってもいいということもあって、いろいろ立会いの在り方もかなり違う面もあります。  この立会いを認めるかどうかについては、立会いの仕方にもよるのではないかと思いますが、現在、立会いの申出があった場合に、捜査実務上どのようなことがされているかというと、弁護人から接見したいという申出があった場合には、申出があった旨を直ちに被疑者に伝え、被疑者が取調べ中でなければ、なるべく早い段階で会わせるという実務がとられていると聞いています。ですから、立会いの在り方にもよると思いますが、日本の解釈としては、憲法第34条の解釈として、日本では判例としてその点については判断されていませんので、憲法上、立会権が憲法第34条の中に含まれると判断される可能性もないわけではないですけれども、刑事訴訟法上は、立会いは権利としては認められていないというのが実情だと思います。   そして、実際のことを言いますと、これも国によって違うと思いますが、アメリカのように非常に積極的に立会いをすることになると、事実上、取調べができないことになってしまいます。ですから、もう取調べ自体は諦めるという体制になっていると聞きます。そうすると、刑事訴訟法上、捜査官の権限として取調べが認められているのに、それ自体を否定することになるというのは、果たしてそれが当事者対立構造に反しないと言えるのかという疑問もあります。ですから、立会いの在り方によっては事実上取調べができないという状況をも覚悟しておかなければならなくなりますが、それが果たして現行の刑事訴訟法の在り方として正しいのかどうかという問題があると思います。   次に、取調べの録音・録画ですが、平成28年の刑事訴訟法改正のときにも、取調べや供述書に偏重した刑事手続の在り方を見直すべきだという意見がありましたが、このとき、取調べ自体は否定されてはいないという前提があります。ですから、取調べとその適正性をいかに両立させるかということが非常に重要なことなのではないかと思います。そのような意味で両立を図るということで、平成28年の刑事訴訟法改正法では、裁判員裁判対象事件と検察官独自捜査事件を対象としまして、公判で検察官が証拠請求した逮捕・勾留中の被疑者取調べの際に作成された供述調書の任意性が争われた場合には、当該取調べを録音・録画した記録媒体の証拠調べをしなければならないという規定が設けられました。ということは、つまり、請求をしない場合には供述調書の請求は却下されることになります。それから、一定の例外事由を除いて被疑者取調べの全過程を録音・録画しておくべきということが規定されたわけです。このような形で、取調べの録音・録画というものが認められました。   そして、それに従って、その前から試行がされ、法律ができて施行を運用するということになって、かなり長い時間の経験がありますが、その試行と施行の実績によりますと、取調べの適正性の確保ということにつきましては、裁判例で問題にされることがありました、大川原化工機事件とかプレサンス事件等がありましたが、事案によっては、正にこの録音・録画があったからこそ、そういった違法あるいは不適切な取調べというものが批判され、それを確実に認定できるということになりました。もしこれがないと、正に今までも取調べで自白した場合に、それが任意性があるかどうかについては、取調官と被疑者・被告人の間の水掛け論になっていたわけですが、そういう事態を解消することができているということで、さらに、そういう経験が重なることによって、違法・不適切な取調べを抑止する、適正性の確保ということにもつながっているということです。ですから、私は、この取調べの録音・録画制度というものは、その両者を実現する、二つの目的を達成することができる、良い制度だと思っておりますので、推奨されるべきであると考えます。実際、その運用の状況も見てみますと、だんだん、そもそも裁判員裁判対象事件で任意性が争われる事件自体が少ないのですが、そのうちでも任意性に疑いがあるとして自白調書の証拠調べ請求が却下された事件は少なく、この時点の統計ですと7.2%でした。その後は、任意性が争われる件数も、調書の証拠調べ請求が却下される事件も減少しているということですから、今後、対象を更に広げて、一般の身柄拘束事件にも拡大して、原則、全過程、全件の録音・録画をするということにしても、その実現の可能性は、ある検察官によれば、心理的抵抗感は少ないのではないかとも言われているわけです。   ただ、警察の場合は、捜査の初期の段階で事実関係が流動的だということがあって、事件そのものに関わる事実が出てくる可能性も非常に高く、取調べの対象になる人の心理的な負担が大きいということもあります。それから、特にこれはこの場合だけではないと思いますが、被疑者が暴力団員の場合や暴力組織犯罪に関わるような人の場合には、仲間からの報復や組織内での信用を失墜する懸念を考えて、なかなか供述ができないといいますか、録音・録画にはなじまないということがあるので、方向性としては徐々に対象犯罪を広げていく、大丈夫なところから少しずつ広げていくということが必要なのではないかと私は考えております。   それから、次の「3 協議・合意制度と有罪答弁制度」ですが、これは、今までも申し上げたように、原則黙秘、取調べ拒否、立会権の保障が弁護人によって推進されているということで、その結果、取調べが事実上困難になっている場合があり、その傾向はますます強くなってきていると思われます。取調べができないで供述を獲得する手法として、アメリカの有罪答弁、司法取引制度があります。これは田口先生のお話にもありましたように、ほかの国々でも取り入れられていますが、アメリカとの関係のみについて私はお話しさせていただきたいと思います。   アメリカの有罪答弁制度と日本の協議・合意制度は、共通するところもありますが、決定的に違うところは、これはアメリカで有罪答弁をすると、それで有罪は確定して、あとは量刑手続に入るということです。これは非常に効率的な事件処理という要請にはかなっているわけです。ですから、90%以上の事件が有罪答弁、その前提として司法取引がそこにあって、それによって処理されているということになっています。これはかなりの部分では、司法関係者にとってはそれでいいと考えている部分が相当多いわけです。そうでないと制度は成り立っていかないと思います。裁判官としても、非常に多い事件を処理していく上で効率的な事件処理ができ、検察官にしてみれば、確実に有罪判決が受けられ、弁護人にとっても、検察、裁判に協力して評価され、自分自身の事件数も多くこなせるということがあり、それから、被告人にとっても、軽い刑で、あるいは量刑を下げてもらえるということなので、全て万歳というところもあります。   ところが、問題なのは、本当に無辜の人が有罪、重い刑罰を免れるために、それを減少した犯罪事実で有罪答弁をして刑に服するということです。それから、争えば無罪になる可能性があるという場合にも、これはもし負けた場合には重い刑罰が待っているということで有罪答弁をしてしまうと、公判を受ける権利、争う権利というものは侵害されるのではないかと思います。実際に、ボーデンカーチャー対ヘイズ(Bordenkircher v. Hayes, 434 U.S. 357 (1978))という事件では、検察官は、被告人に5年の収監刑でどうだという申出を行いました。ところが、被告人は、これを拒否して陪審裁判に進みました。陪審裁判では有罪になり、その州の法律によって量刑が無期懲役になりました。有罪答弁をすれば5年、しなかったために有罪判決を受けて無期懲役と、これは相当大きな差があるということで、大きな問題になりました。   それだけではなく、誤判事件もかなりあるということで、イノセント・プロジェクト(Innocent project)というものがあって、それによって最初の何年間かの事例を、特に、DNA鑑定を中心にして調査して、その結果、無罪になったというケースが、2008年5月の時点で二百数十人、その中には16人の死刑囚が含まれていたということがありました。そして、現在では、もう3,000人以上、有罪答弁をした人で無罪判決になったという人がいるということで、やはり誤判の関係、えん罪の関係で、アメリカ型の有罪答弁制度、司法取引制度をとるというのは問題ではないかということはあると思います。   ですから、そういう意味で、我が国では、アメリカ型の有罪答弁制度はとらず、捜査公判協力型の協議・合意制度が採用されて運用されております。検察は、この手続に入ることに慎重であります。裁判所では更に慎重な手続運用がなされているということが言えると思います。これは合意制度自体が、まず罪種が特定の財政経済犯罪、薬物銃器犯罪、犯人蔵匿等、証拠隠滅犯罪といった特定犯罪に限定されているということで、そのときに検察官と被疑者、弁護人の同意があるという場合に、本人が他人の刑事事件について証拠収集等への協力をして、検察官がその協力行為を考慮して、本人の刑事事件について不起訴処分や特定の求刑をすることを内容とするということが刑事訴訟法第350条の2に規定されています。これについても相当慎重な運用がされていて、例えば、検察官は弁護人と協議をするということで、本人から申出があっても、それは受け付けず、弁護人を通してくれと言うことになっています。それから、「協議」と「取調べ」との区別をしなければいけないので、この両者を区別するために、「協議」と「取調べ」とは違うということをはっきりさせる形で運用がされているということです。   前の法制審議会で問題にされたのは、「引き込みのおそれがあるのではないか」ということであり、この点についても、検察官も裁判所も非常に慎重に対応していますから、6件ほど裁判例が出ておりますが、その中でもその信用性についての判断は、一つ一つは申し上げませんけれども、非常に慎重にされています。ですから、そういった意味で、6件しかないということは、適正な供述の確保という意味では良いのでしょうが、効率的な運用という意味では、そのくらいのことで果たしてその目的が達成したといえるのかどうかという問題はあると思います。慎重に運用しているのは非常に良いことだと思うのですが、6件というのは少ないかなという印象を持っております。   そこで、この効率的な事件処理の要請も含めて、自己負罪型合意制度を創設すべきということが有力に主張されているわけです。自己負罪型合意制度はどうかということが問題になりますが、これは自己負罪型ですから、他人を引き込むという捜査公判協力型で懸念されたものはありません。それから、もう一つは、自分で自分の刑を軽くするために有罪を認める、協力するわけですから、これは取調べにおける説得という要素がなく供述が得られるという利点があるということになります。ただ、だからといって、先ほど質疑応答の中で問題にされていましたが、どの程度効率的な事件処理ができるかということになると、非常にこれは難しい問題かなと思います。ただ、少なくとも否認事件から自白事件へ変わる事件が相当多くなることによって、全体の事件処理は多くこなせるようになるという利点はあるのではないかと思います。   ただ、国民感情、被害者感情というものを考えると、果たしてそこまで国民の皆さんや被害者の方々が納得されるかどうかということを考えます。捜査公判協力型における他人の犯罪の場合は、組織犯罪も念頭に置いて、一番上位にある者、要するに巨悪を許さないということで、その上位の者に対して不利益な供述をするということですから、これは国民感情、それから被害者感情からしても納得されるところもあるし、それから、そのことによってコーポレートガバナンスの考え方にも寄与するところがあると思うのです。他方、自己負罪型については、そういう取調べによる説得、場合によってはそれが行き過ぎだという点の心配はないのですが、それを果たしてどの程度、国民感情が許すか、被害者感情が許すかという問題は残っているかなという感じはします。   このあたりで私の話は終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。 ○川出座長 椎橋先生、ありがとうございました。   それでは、御質問のある方は、どなたからでもお願いいたします。 ○鈴木委員 レジュメの冒頭の、事案の真相解明のためには供述証拠と非供述証拠の両輪が必要という点に関しまして質問させていただきます。先生のレジュメには、「緊急捜索・押収とかオンライン捜索等が検討されるべきではなかろうか」と記載されているのですが、これは具体的にどのような問題意識でこういったお考えになられているのか、少し教えていただければと思います。   それと、あともう1点なんですが、黙秘権の関係です。不勉強で詳細は存じ上げないのですが、例えば、イギリスなどでは、黙秘権について不利益推認が認められていると聞いたことがあります。また、国によっては黙秘権を行使するのに対して時間的な制約を設けている国もあると伺っております。そういった黙秘権の様々な有り様があるかと思うのですが、そのあたりについて他国との比較で、先生のお考えをお伺いできればと思います。 ○椎橋氏 最初の点ですが、緊急捜索・押収とかオンライン捜索が必要だと申し上げたのは、例えば、トクリュウの犯罪について、見張りや受け子、出し子などはよく検挙されます。けれども、実行役の検挙は少し難しく、更に、指示役の検挙はもっと難しい。指示役は、非常に巧妙に、なかなか探知されにくいようなSNSを使って指示を出しており、その指示は、ある実行犯を捕まえたときに、そのスマホを押収すれば分かるかもしれないというときに、時間がたってしまうと、それはもう瞬時に消されてしまうということがあることを考えると、こういった緊急捜索・押収とか、それから、オンライン捜索となると、かなり広く情報を収集するということなので、刑事手続でどのくらいやれるかというのは、かなり慎重に考えるべきところがあるとは思うのですが、逮捕について緊急逮捕があるわけですから、捜索・押収の場合に、前は家の中にあるものとか、そういうものを捜索して持ってくればよかったのかもしれませんけれども、今の時代は情報が中心ですから、それを消されないうちに取得するためには、やはりどうしてもそういう規定、手段が必要なのではないかなと思いました。   それから、イギリスの不利益推認制度につきましては、黙秘権が発祥の地のイギリスで、こういう不利益推認が認められているのも、何かおかしな話みたいな感じがするんですけれども、ただこれは、余り詳しいところは今日の時点では調べてきませんでしたが、前に読んだいろいろなものによると、かなり慎重に運用されていると聞いております。不利益推認は、公判になって被告人が弁解する内容について、取調べのときは何も言わなかったということになると、何であのときに言わなかったんだと、弁解することがあったら最初の時点で言うべきだったのではないかと、言わなかったことについては、それは不利益な要素として考慮していいのではないかということですが、ただ、すごくたくさん、しかも事実認定をする上でかなり重きを置いたような運用はされていないというのが、私の理解です。 ○川出座長 ほかはいかがでしょうか。 ○小川委員 貴重なお話をありがとうございました。レジュメの最後の部分で、有罪答弁に関して、「国民感情、被害者感情を納得させるものになるのかなど慎重に検討すべきことがあろう」とされていますが、被害者の納得を得るための方策について、何かお考えはありますでしょうか。 ○椎橋氏 なかなか方策と言われましても難しいです。ただ、私は、確かに有罪答弁をすれば刑が軽くなるということで、そんなことで刑を軽くしていいのかという批判は当然出てくるとは思います。他方で、被害者のうちかなりの方は、例えば、真実を知りたいという要求が一番強いのです。ですから、真実を話してほしいというのがあって、それで黙秘権との関係で衝突が起こるということがあります。実際の処分をどうするかについては、多くの被害者は、今の裁判所のやり方について、そんなに大きな、場面によってなんですけれども、つまり犯罪をやったことを認め、それで、刑に服することを考えているので、たとえ刑が軽くなったとしても、反省した上で刑に服しますということであれば、そのことについて、余りにも極端になると反感が出てくると思いますが、協力したのでそのぐらいのことは軽くしてやってもいいのではないかというような感覚はお持ちなのではないかと思います。ですので、極端にならない限りは、ここはどのぐらい軽減するかというのは慎重に考えないといけないと思いますが、それ自体は自己負罪型合意制度を認めない決定的な理由にはならないのかなと思います。程度次第だと思います。 ○小川委員 つまり、刑を軽くはするけれども、被告人には事件についてきちんと話してもらうということでしょうか。 ○椎橋氏 はい。 ○吉田委員 本日は、大変貴重なお話を頂き、ありがとうございました。今の御質問、御回答とも関連するのですが、答弁取引が多用されているアメリカなどにおいて、被害者やその御遺族の方がそうした実情をどう受け止めていらっしゃるのかということを、もし分かれば教えていただきたいと思います。有罪答弁が成立しますと、先ほどお話にありましたように、陪審には行かないということになりますので、被害者や御遺族が法廷でのやり取りを見て真実を知るということができない、その機会がなくなるという面があるような気がしますし、また、有罪答弁がなされた場合の量刑が陪審によって有罪になった場合よりも大幅に軽くなるということになりますと、受けた被害との落差のようなものが被害者からすると感じられることもあるのではないかという気がするのですが、そうしたことを被害者や御遺族の方はどのように受け止めていらっしゃるのだろうかというのは、昔から気になっていることでありまして、アメリカに日本の被害者学会のようなものがあるかどうかは存じ上げないのですけれども、そうした学会における議論のようなものも含めて、何か受け止めに関して御存じのことがあれば、教えていただければと思います。 ○椎橋氏 大変重要な御指摘を頂き、ありがとうございました。その点については、更に勉強させていただきます。 ○川出座長 ほかはいかがですか。   では、ほかに御質問はないようですので、これで終了させていただきます。   椎橋先生、本日は、非常に有益なお話を頂きまして、どうもありがとうございました。お話しいただいた内容につきましては、今後の本研究会の参考とさせていただきます。  これで、本日のヒアリングは終了とさせていただきます。   次回以降の会議の議事等につきましては、前回会議において、幅広くヒアリングを行うべきとの御意見が複数述べられ、ヒアリング対象者についても具体的な御意見がありました。それを踏まえまして、私の方で次回以降については決定しまして、期日間に皆様にお知らせするということにしたいと思いますが、よろしいですか。              (一同異議なし)   では、本日予定していた議事につきましては、これで終了いたしました。   次回の日程については、調整の上なるべく早く確定させ、事務当局を通じて皆様にお知らせしたいと思います。   本日の会議の議事につきまして、特に公表に適さない内容にわたるものはなかったと思われますので、発言者名を明らかにした議事録を公表するということとさせていただきたいと思います。また、配布資料についても公開するということとしたいと思いますが、そのような取扱いでよろしいでしょうか。              (一同異議なし)   それでは、そのようにさせていただきます。   本日はこれにて閉会といたします。どうもありがとうございました。 -了-