法制審議会民法成年年齢部会 第5回会議 議事録 第1 日 時  平成20年7月1日(火) 自 午後1時31分                      至 午後4時42分 第2 場 所  法務省第1会議室 第3 議 題  民法の成年年齢の引下げの当否について 第4 議 事 (次のとおり) 議        事 ○鎌田部会長 それでは,予定した時刻がまいりましたので,法制審議会民法成年年齢部会の第5回会議を開催いたします。     (幹事の異動紹介につき省略) ○鎌田部会長 6月2日に実施されました八千代高校における意見交換会に御参加いただいた委員の方から,意見交換会の結果及び感想等の御報告をお願いいたします。各グループ5分から10分程度で御報告をお願いいたします。  まず,Aグループを代表して木幡委員,お願いいたします。 ○木幡委員 それでは,氷海先生の御協力をいただきまして6月2日に行われました高校生との意見交換会について,御報告をさせていただきます。  私のグループは,男子2名,女子4名の合計6名で,既に18歳になっている方は3名でした。  まず,成年年齢の引下げに関してこういった議論が今あるということを知っていたかについては,全員が知らなかったということでした。それについてどう思うかと聞きましたところ,まだ社会のことを知らないので非常に不安である,無理だ,反対であるという意見が聴かれました。また,同じ高校3年生の中で成人である人とそうでない人が生じるというのはどうかと思うという意見を述べた方もいらっしゃいました。高校生の親たちの反応なのですけれども,これもやはり同様に,まだまだ子どもだし,社会を知らないので反対であると言っていたと高校生たちが言っていました。  では,仮にこの成年年齢を18歳にしたらと問いかけましたところ,まず変えるということについては,急に言われても困る,準備期間が必要だ,準備期間があったとしても,高校卒業後すぐというのはちょっと困る,また,受験の最中に成人式をやるというのも不可能ではないかといった意見が聴かれました。  次に,契約や結婚 など,個別のことについて聞きましたところ,まず契約については,携帯電話など簡単なものはいいかもしれないけれども,土地を買うなど難しいものについてはまだまだ自分たちではできないと思うという意見が聴かれました。また結婚については,18歳で親の同意がなくても結婚できるようになっても,そんなにうれしいとは感じない,やはり親に同意してもらってちゃんと結婚したいという意見があり,まだこの高校生たちにとって結婚というのは随分先のイメージという印象を受けました。  次に,選挙についても,ちょっとぴんとこない感じで,よく分からないので適当に投票してしまうかもしれないですとか,ちょっと集団でふざけて人気投票になってしまうのではないかといった意見もございました。  さらに,日常生活について聞きましたところ,皆さんやはり塾に通っているんですね。塾などで遅くなるので,夕食は外で済ますという人もかなりいまして,その場合の帰宅時間は,大体夜の10時ごろ,遅い人ですと12時ごろになってしまうということでした。アルバイトについては,高校3年生ということで,今もまだやっている人もいましたけれども,まだやったことがない人もいましたし,今はもうやっていないという人もいて,まちまちでした。  お小遣いについては,大体5,000円程度が最も多くて,中には1万円という人もいました。使い道は,食費とか電車賃,あと洋服であり,こういったお小遣いを使って何か物を買うときというのは,その範囲内ならば,親には特に相談せずに使っているという人がほとんどでした。  この6人に大人のイメージを聞きましたところ,やはり身近な大人というのは自分の年上の兄弟というのが多いようで,お兄ちゃんが就職しているけれども,サラリーマンは見ていてとても大変そうだとか,よく仕事の愚痴を言っている,あるいは一人暮らしをしているお兄ちゃんはとても大人な気がするとか,22歳の姉は何でも自分で決めているとか,何となく自分より少し上の兄弟に大人のイメージを照らし合わせているように見受けられました。  では,何歳ぐらいが成人として適当と思うかと尋ねましたところ,ほとんどが大学を卒業したらという答えでした。大体22歳ぐらいでしょうか。理由としましては,まだ学生なのに大人と言われても困るとか,仕事をしだして身の回りのことを自分でできるようになってからが大人ではないか,あるいは自立して親に仕送りをしたら大人だという意見がありました。  そのほかに意見としましては,変えるなら変えるでいいんだけれども,何がどう変わるのか,いろいろな制度を自分たちに分かりやすく説明してほしいといった要望に近いものもございました。また,日本は戦争をしない国で徴兵制もないのだから,そのあかしとして,成人は20歳のままでもいいのではないかといった意見を言っている生徒さんもいらっしゃいました。  以上が八千代高校における意見交換会の報告ですけれども,ちなみに私は芝商業高校にも行かせていただきましたので,少し比較をして感じたことを述べさせていただきたいと思いますが,成年年齢というのは働くことと非常に関連性が強いように思いました。今回協力してくれた八千代高校の生徒さんは皆さん大学の進学を考えておりましたので,働くことというのはまだまだ先というイメージでした。その観点から言いますと,芝商業高校に比べて,働く自分の姿というのがまだまだイメージできていないという印象です。芝商業高校に比べますと,学生という意識が非常に強いように感じました。さらに両方を通して感じたこととしましては,まだまだみんな親元での生活が非常に快適で,特にそれを変えたいとは思っていないのだなという印象を受けました。  トータルで見まして,みんな非常に素直で協力的で,私は内心ちょっと,我々を受け入れてくれなかったらどうしようとか,この問題に関して無関心だったらどうしようと思ったのですけれども,そういった心配は全く必要なくて,こちらの質問に対して本当に一つ一つ丁寧に答えてくれました。その点は非常に感心いたしました。みんな非常に等身大で,余り背伸びをしようといった人はいなくて,今の高校生は,こういう感じなんだなということを改めて知ることができる非常によい機会でした。またあさっても鎌田部会長の御協力で早稲田大学に行かせていただきますので,楽しみにしております。  以上です。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  では続きまして,Bグループを代表して岡田委員,お願いいたします。 ○岡田委員 では,私のほうからBグループの発表をさせていただきます。  私たちが意見を聴いた学生さんはいずれも3年生なのですが,男子学生3人,女子学生3人の計6人で,うち2人が18歳になっていました。  まず,日常の生活から質問したのですが,6人のうち5人は予備校に通っているという話でした。先ほども話にありましたけれども,予備校から帰ってくるのが10時ぐらいになる。それから食事をして勉強して,眠るのは12時から1時ということでした。そのうち男子学生2人はまだ部活をやっているということなので,頑張っているなという感じがしました。  次に,家の仕事をやるかという質問をしたところ,意外なことに,女子学生はほとんど家の手伝いをしない。ところが,男子学生は,親御さんが外出しがちなので自分がやるという人もいました。何か逆転したのかなという感じがちょっとしました。  それからアルバイトなのですが,1人だけ週2日アルバイトをやっているという男子学生がおりました。彼は,報酬は携帯電話の代金,それから食事,残った分を大学の学費に貯金しているという話をしておりました。あとの5人のうち1人だけ,2年生のときに冬休みにアルバイトをしたということを言っていましたけれども,その学生は,時間があったからやったということで,当然得た収入も遊びに使ったということを言っていました。ほかは全くアルバイトの経験はないという話でした。  では契約とかについてどうなのだろうかと,たまたまアルバイトの話が出たので,そこからつなげて尋ねたのですが,特別大きな契約というものは,余りしたこともないし,したいとも思わないような感じで,携帯電話に関してもアルバイトをしている子以外は親が料金を払っているという感じですし,もちろん携帯電話の契約は親がしてくれたといった感じで,大きな買い物といいますか,金額の張るものは親からお金を出してもらっているという状況なのかなという感じでした。  それから,いわゆる契約とか法律などを学校で習ったかということを聞きましたら,全くそういうものを習ったという記憶はないみたいでした。ただいわゆる不当請求,架空請求の話かなと思うのですが,その部分は学校で聞いたといった話をしていまして,今現在,契約をするという意識ないしはその必要性というのは余り感じていないようでした。  また,未成年の契約というものについて知っているかと尋ねましたら,言葉は知っているとのことでした。ただ,実態といいますか,その実情はよく分からないみたいで,1人の男子学生は,自分の友達が,これも不当請求みたいなものだろうと思うのですが,そういう詐欺的なものにひっかかって請求を受けたときに,お父さんが相手に取消しということを言って支払を免れたことがあって,そのときに,ああ,そういうことができるんだなと思ったそうです。  ここまで話を聴いた段階でどうも親がかりの部分が強いものですから,親に保護されているというのを感じることがあるのかと尋ねましたら,それはもう十分感じているとのことでした。それはどういうときかと尋ねましたら,携帯電話の契約や予備校の契約のときには自分一人ではどうしてもできないので,親がいないと困るし,現実に親がやってくれているのだから,保護されているんだという感じで,どちらかというとすべて親に任せているという感じがしました。ただ,アルバイトをやっている高校生は,実は自分のところは両親が離婚したので,すべてのことをお兄さんといろいろなことで相談してやっているし,親に迷惑をかけないようにやっているという部分では,自立していると自負もしていると思いました。  成年年齢の引下げについて聞いたところ,先ほどのアルバイトをしている子は,今からでも18歳が成人だと決まれば,できると思う,ただ全く今までそういう話は聞いていない,生まれたときから成人というのは20歳であると頭の中にしみ込んでいるわけだから,今ごろそういうことを言われても困るということを答えてくれました。だから,もっと前から成年年齢は18歳であると言ってくれれば,15歳ぐらいから心の準備もできるし,いろいろな経験もできたのではないかということで,急に言われても準備しなければいけないことがいっぱいあるとのことでした。では,準備するとはどういうことかと尋ねましたら,世の中には悪い人がいっぱいいるわけで,そういう人にだまされないとか,そういうことは今まで全然勉強もしていないので,そういう勉強もしたい,だから今の20歳を早めるということに関しては,今のところは全く納得できないという意見でした。  あと,大人と言ったときにどういうイメージをするか,また大人とはどうあるべきなのかという質問もしたのですが,大人というのは年齢ではなく,精神的なものではないか,だからそれが18歳とか20歳とかと決めるものではないのではないかということを発言した学生がいました。それと同時に,では結婚についてどうかと尋ねましたら,今,男子が18歳で女子が16歳ということに関して,男子学生のほうから,女子は結婚すれば食べさせてもらうということか,それは男子としては納得できない,同じ年であるべきだろうという意見が出されまして,その上で,でも18歳で結婚をしても食べていけないのだから,そんなことは考えてもみないといった発言がありました。  それから,選挙に関してなのですが,これも自分たちにとってまだ先のことという認識なものですから,20歳になれば多分やると思うが,現在は全然そういう関心がないという話でした。  次に,お酒とかたばこの話もしたのですが,たばこに関しては,全員吸いたいとは思わないが,お酒については,6人のうち5人がちょっと飲んでみたいという話をしていました。その辺が今の若者かなという感じをちょっと受けました。  それから,少年法についても少し質問をしたのですが,それに対しては全く反応がなかったです。  将来のことを考えることがあるのかという質問をしましたら,大方の学生は時々友達と話し合うこともあるという話をしていましたが,アルバイトをやっている男子学生は大変意欲的で,大学を出たら外国に行ってボランティアみたいなこともやりたいし,国内では福祉的なこともやりたいし,会社を起こして社長になりたいといったことも言っておりました。  結論としては,先ほどもありましたけれども,とてもまじめでいい学生,親に大事に育てられた学生かなという感じを受けました。やはり私たちの質問に対して素直に,それで真剣に答えてくれましたが,最後に何か質問がありますかと言ったら,では先生方はどうなのですかと逆に質問されるような場面がありまして,その辺は,今の若い者は発言をするのはするのだなという感じでした。私も,こういう高校生とお話をする機会から随分遠のいてしまっていたものですから,何か気分的にも若返ったような感じで,いい経験をさせていただきました。  以上です。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  それでは最後に,Cグループを代表して宮本委員,お願いいたします。 ○宮本委員 御報告します。私のほうは5人グループで,男子生徒が2名,女子生徒が3名でした。女子生徒は多分家政科のクラスだと思われます。  最初に,今親からどのくらい拘束等があるのか,あるいは自由があるのかといった話を聞きましたところ,例えば門限に関して言うと,Aグループのほうからお話が出ていたと思いますけれども,男子生徒の一人は,11時までは連絡せずにオーケーである,もう一人は12時を過ぎなければオーケーであるということでした。恐らく今までの塾や予備校等の時間からかなり遅くまで家に帰らないということがもう日常になっているように思われます。それから,女子生徒の場合には,遅くても構わないけれども,連絡はしないと親が心配するということで,8時を過ぎるときには連絡を入れる,連絡をすれば11時程度まではオーケーだという話でした。つまり,年齢とともに自由度は増してくるわけですけれども,高校3年生くらいになると,行動面でいうとかなり自由で,親からとやかく言われない段階に来ているという感じがいたします。  二つ目に,卒業後のことにつきまして,親の家を出て進学するつもりかどうかということを聞きました。5人とも一応進学で,女子生徒の3名は2年制の保育専門学校に行きたいというようなことを言っておりましたけれども,5人とも親の家を出る予定はないということでした。なぜそういうことを考えないかと聞きましたところ,女子生徒の1人は,1人で生活する自信がない。親もそういうことはできないだろうと多分思っているということでしたし,男子生徒の2人は,親に経済的な負担をかけさせたくない,親に言えば行かせてくれるとは思うけれども,その場合には交換条件としてアルバイトをせよと言われる,どちらがいいかということで,当面親の家から通うということで,基本的には進学先は近場で探すという雰囲気でした。八千代高校のある場所のこともあって,そういう選択が可能であるということも背景にはあると思いますけれども,大人になるプロセスとして親の家を出るということは重要なイベントだとしますと,まず18歳で親の家を出るということを考えていないという状況があるかと思います。  三つ目ですけれども,お金のことを聞きました。そうしましたら,ごく最近奨学金の説明会があって,5人のうち3人がそれに出たということで,その申込用紙をもらってきて,親とかなりいろいろな話をしたということを1人の女子生徒は言っておりました。結果的には5人のうち2人は奨学金を借りて進学しようとしており,もう1人は銀行ローンを借りるということだそうですけれども,奨学金に関しては,自分の名前で申し込む,そして当然自分で返すということです。それから,銀行ローンを借りる人の場合は,親が親の名前で借りるのだけれども,卒業後の返済は自分がやるということになっているということでした。  四つ目に,アルバイトについて聞きました。5人のうち3人がアルバイトをしておりました。男子生徒の1人は,ファストフード店で週二,三日,ウイークデーは3時間,週末は6時間で,月に3万円くらい。それから女子生徒の2人は,同じレストランで高校1年生のときからずっと働いていて,週2日間,月5万円。あと2人は,親の方針で,アルバイトはすべきではない,それだけの小遣いは親が出すという父親と,もう1人は,女子生徒ですけれども,部活が忙しくてとても時間がないということで親から5,000円の小遣いをもらっているということでした。この5人とも進学をしたらアルバイトをするつもりだということと,自分の小遣いは自分で稼ぐべきだと考えているということで,5人とも同じことを言っておりました。  それから,お金の使い道についても聞いたところ,アルバイトをしている女子生徒2人は,洋服と飲食代にほとんど全部使う,貯金をするように親から言われているけれども,なかなか貯金ができないと言っておりました。それから,アルバイトをしている男子生徒の1人は,携帯電話と飲食等はアルバイトしたお金の中で賄っているということでした。5人とも大体携帯電話に7,000円くらい掛かっていて,その半分くらいは親からもらっているという人と,全部自分で出しているという人がおりました。  それから,いつ親の家を出るかということを更に聞きました。つまり,当面18歳では親の家を出ないけれども,その後どういう展望なり予定を持っているかということだったのですが,親の家を18歳には出ないという人たちもその先で出ることを考えていて,大体22,23歳くらいで親の家を出たいと言っておりました。1人の女子生徒は,就職したら一人暮らしをしたいので,在学中にお金を貯めて独立資金を自分で準備したい。いつまでも親に出してもらいたくない,今でも親からお金をもらうときには非常に嫌な気がすると言っておりまして,自分のために親がお金を使うよりは,親のお金は家族みんなのために使ってほしい,だから,自分の小遣い分は親ではなく自分で賄いたいという言い方をしておりました。それから,男子生徒の1人は,就職をしたら一人暮らしをしたい,年齢というよりも,仕事を持ったら大人だというイメージがあって,学校を卒業して就職した段階で自分は大人になるし,一人暮らしをするという計画を立てているということでした。もう1人の男子学生は,大学の途中で一人暮らしをしたい,なぜかというと,社会へ出る前に慣れたいので,その慣れるための一,二年は親から仕送りをしてもらうということを言っておりました。  それから,親からいろいろと反対されたりすることがあるかどうかということを聞いたところ,友達のように仲のよい女子生徒2人は,口げんかはしょっちゅうしているけれども,そんなに決定的な対立になるようなことはないということでした。男子生徒の1人は,ほとんど用がない限り話さないという状態で,対立が起こりようもない状態にあると言っておりました。その点では何かわけありのような感じがしましたけれども,余り親との間で葛藤があるという感じはしない,つまり全般的には親とうまくいっているという感じを受けました。例えば,アルバイトはするべきではない,やめなさいといった言い方をされたらどうしますかと質問しましたら,その女子生徒は,親がお金を出してくれるのならバイトはやめる,それがなければ,親に迷惑を掛けることになるからアルバイトはやめない,アルバイトの目的はお金だ,お金がない状態になったらやっていかれないと言っておりました。  それから,18歳の投票に関しましては,男子生徒1人が行きたいですと言っていました。この男子生徒は新聞を毎日かなり隅から隅まで読んでいて,その習慣は,高校受験のときに時事問題が出るということで,学校で新聞を読むように指導されて,それが習慣になって現在まで続いているということでした。もう1人の男子生徒も新聞を読む習慣はそのときについたと言っております。しかし,この二人目の男子生徒は,もし18歳で投票するとなっても,放棄するだろう,なぜかというと,何も知らないので,投票したらむしろ無責任になるだろうと思うと言っておりました。それから,女子生徒はいずれも行かない,なぜかというと分からないから,もっと知ってからでなければ行く自信がないということを言っておりました。しかし,いろいろ聞いてみますと,学校でもっと教えてもらえれば,興味がわくのではないかと思う,もし18歳に下がればそれなりの対応はするといったことを言っておりました。  私は,芝商業高校にも行きましたが,私が話を聞いた生徒さんは,いずれの学校もどちらかというとアルバイトなどをかなりやっているタイプでした。その感じから見ますと,アルバイトは非常に広く普及していると思われます。これは今回のヒアリングさせていただいた高校だけではなくて日本全国の状況から申し上げるわけなのですけれども,そういう意味ではもう高校時代に半分労働者かつ半分消費者であるという状況がありまして,かつ奨学金,教育ローンの返済責任を18歳で負っているという状況になっているという意味では,契約という名前がそこにつくかどうかはさておいて,明らかに契約をし,負債も負っているという状況にあるのではないかと思います。そして,進学する場合にはアルバイトは不可欠の条件になっているという意味でいうと,18歳から19歳の段階で既に半労働者になっている。こういう事実を前提にして経済人としての位置づけをすべきではないのかなと思っております。  以上でございます。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  八千代高校での意見交換に参加されました委員・幹事・関係官で,ほかに何か感想等ございましたら御自由に御発言いただきたいと思いますが,いかがでございましょうか。 ○松尾関係官 私はBグループでしたので,そのときの感想は先ほど岡田委員から御報告いただきましたが,一つだけ付け加えさせていただくと,年齢が同じであっても一人一人でかなり個人差はあるなという感じがいたしました。岡田委員自身もある特定の一人の生徒さんについて少し詳しく述べられたと思いますが,この生徒さんは非常に自立した優秀でしっかりした生徒さんだという印象を持ちました。それはやはり,本人の資質もありましょうが,生活体験というものが大きく作用していたと思います。年齢を基準にして切り分けるというのは,一つの方法ではありますけれども,細かい点でそれがぴったりとフィットするわけではないという感想を持ちました。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  ほかにいかがでございましょうか。  それでは,本日予定していた議事に入ります。  まず,事務当局から配布されている資料の説明をしてもらいます。 ○佐藤幹事 それでは,事務当局から配布させていただきました資料について御説明させていただきます。  第5回会議のために配布させていただきました資料の目録は,本日席上に用意させていただきました。部会資料といたしましては,事前に送付させていただきました部会資料19-1と19-2,20がございまして,それに加え,本日席上に配布させていただきました部会資料21と22がございます。参考資料といたしましては,本日席上に配布させていただきました参考資料14と15がございます。  それでは,部会資料につきまして御説明いたします。  部会資料19は,「ヒアリングをさせていただきたい事項」と題するものでございます。部会資料19-1が本日ヒアリングにお招きいたしました菊池武剋教授及び宮本みち子委員に対する質問でございます。部会資料19-2が同じくヒアリングにお招きいたしました斎藤環先生に対する質問でございます。ヒアリングをさせていただく方に応じて質問事項を変えてございます。なお,部会資料19-1と19-2は,部会資料7の「ヒアリングをさせていただきたい事項(共通編)」とともに,ヒアリングをさせていただきます方々にあらかじめお渡ししてございます。  部会資料20は,本日ヒアリングにお招きいたしました菊池教授から頂だいいたしました「成年年齢の引き下げについて」と題する資料でございます。  部会資料21は,宮本委員から頂だいいたしました「現代における「大人になること」の意味とその変容および欧米諸国にみる若者政策の動向」と題する資料でございます。  部会資料22は,本日ヒアリングにお招きしました斎藤先生から頂だいいたしました「ヒアリング事項について」と題する資料でございます。  部会資料20から22までにつきましては,両参考人及び宮本委員の御発表の際に使用されるものでございます。  続きまして,参考資料につきまして御説明いたします。  参考資料14及び15はいずれも,宮本委員からヒアリングの参考資料として頂だいいたしましたものでございます。  参考資料14は,雑誌「思想」の2006年3月号に掲載されました宮本委員の「若者政策の展開―成人期への移行保障の枠組み」と題する論文でございます。  そして,参考資料15は,経済産業省の「シティズンシップ教育宣言」と題するパンフレットの写しでございまして,宮本委員が委員長でありました「シティズンシップ教育と経済社会での人々の活躍についての研究会」の報告書をまとめたものでございます。1枚目の下の欄に,コピーの関係で見づらくなっておりまして恐縮ですが,研究会の委員長として宮本委員のお名前が,また研究会のメンバーとして第2回会議でヒアリングにお招きした国際基督教大学の藤田英典教授のお名前が記載されております。  以上,配布させていただきました資料について御説明させていただきました。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  それでは,本日予定していたヒアリングに入ります。本日は,東北大学大学院教育学研究科菊池武剋教授,爽風会佐々木病院診療部長斎藤環先生,当部会の委員でもあります宮本みち子委員からヒアリングをさせていただきます。これから3名の方に民法の成年年齢の引下げに関する御意見をお述べいただきまして,その後に質疑応答をすることを予定しております。御意見をお述べいただきます順番といたしましては,菊池参考人,宮本委員,斎藤参考人の順で,3名の御発表が終了しました後に一括して質疑応答をすることとしたいと思いますが,よろしいでしょうか。  それでは,菊池参考人,よろしくお願いいたします。 ○菊池参考人 菊池でございます。今御紹介いただきましたように,私は現在の大学で発達心理学という分野を担当しております。特に発達心理学という分野の中でも生涯発達心理学と呼ばれます,生涯の中の成人期あるいは老年期といった時期にまで及ぶ発達ということがテーマであります。本日は,そのような私の専門の領域との関係等からこのようなことについて意見を述べさせていただきたいと思います。   幾つかヒアリング事項というのをお示しいただきましたけれども,基本的にはこの順序に沿って話をさせていただきたいと思います。特に前半,つまり「大人」になることというのは,どのようなことであるとお考えになりますかというあたりまでのところと,それに基づいて,それから後についての意見といった形で述べさせていただきたいと思います。資料がまだ十分完成したものでない段階でお渡ししたものですから,後ろのほうは特に非常に不備なものになっておりますので,それをまた補うような形でお話をしていきたいと思っております。  まず最初の,現在の若者たちについての問題ということであります。このことにつきましては,様々な意見があるだろうと思いますけれども,私のこれまでの経験の中でそれに関連するようなことをここでは申し上げたいと思います。  実は私は,文部科学省が平成14年から設置いたしました「キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議」のメンバーとしてこの問題について2年間にわたり検討をしてきたということがございます。このキャリア教育の推進ということにつきましては,元々これは学校から社会への移行という問題をめぐる内容であります。そういうことに対する一つの教育としてキャリア教育ということがここでは考えられるということなのですが,そのときにやはり今回と同じように現在の若者たちをめぐる様々な問題が取り上げられ協議されたということがございました。そのような内容を見ますと,今お手元の部会資料20の最初のところにございますのはその報告書の一部分を載せたものでございますけれども,様々な現代の青年に対する指摘といったことがなされております。要するにそこでは,精神的・社会的な自立が遅れ,人間関係を築くことができない,進路を選ぼうとしないなどの子どもたちが増えつつあるといったこと,それから高等教育機関への進学割合の上昇等に伴って,いわゆるモラトリアム傾向が強くなり,進学も就職もしようとしなかったり,進路意識や目的意識が希薄なまま,とりあえず進学したりする若者の増加といったことが指摘されております。  このようことは,内容的にはそこに載せましたようなことでございますので,いろいろなことがあるわけですけれども,こういうことを見ていきますと,要するに,若者たちの中で,若者たちの抱える問題として,私は自立ということがあると思っております。そういういろいろな意味での自立ということが,今の若者たちにとって非常に大きな問題になっている。それは,若者たち自身もそうですけれども,周囲もそのようなことについて非常に問題だと思っているということが考えられる。そういう問題に対して,その原因は何であるだろうかということですが,これは大変難しい問題で,この報告書の中では,最初のところにありますように,例えば幼少期からの様々な直接体験の機会や異年齢者との交流の場が乏しくなったとか,豊かで成熟した社会にあって人々の価値観や生き方が多様化したことなどが挙げられておりますけれども,これも,これというふうにその原因ということよりも,そういう問題がいろいろと取り上げられているということであります。  次のところですが,現在の日本人の若者たちが置かれている状況と,諸外国の若者たちが置かれている状況とで差異があると考えるか,そういう問題に対してどのように取り組んできたのかといったことでございますけれども,このことにつきましては私は必ずしも十分なお答えができないわけです。青年期という点では状況は恐らく基本的には同じだろうと思われますけれども,現実にはそれぞれの国によって様々な違いもあるだろうということです。例えば,そのような日本の若者たちと外国の若者たちといったことについて取り上げた調査としては,内閣府が5年ごとに実施している国際比較調査で世界青年意識調査というものがございます。こういう調査を見ることによってある程度そのような状況の違いあるいは若者たちの違いといったことを見ることはできると思いますけれども,私はこのような調査に必ずしも詳しくありません。実は先ほど伺った藤田先生はこの調査に深くかかわっておられて,藤田先生自身がそういうことを分析しておられるということがありますので,あるいは藤田先生からこのようなことについてのお話があったかと思います。ここでは私は,そういう今の日本の若者たちの置かれている状況あるいはそういうことについての考え方といったことについて触れようと思います。  このことにつきましては,部会資料20の3ページ目に「若者たちがおかれている状況」ということで,そこに現代の子どもや青年の生きづらさといったことについての図を載せてございます。これは大阪教育大学の白井利明教授が示している図でありまして,現代の子どもたち・若者が,学校の中にのみ生活が限定されるような状況の中で,次第に生きづらさといった状況を募らせている。それは,若者・子どもたちが学校の中に取り込まれているだけではなくて,大人自身もまた企業や労働に取り込まれているということから生じて,家庭が競争に子どもたちを送り出すといったことを強いているという状況を示した図であります。このように若者たちはいろいろな意味で自立ということについて問題を抱えているにもかかわらず,現実にはそういったことに対する取組といいますか,自立というところになかなか至ることができないといった状況になっているということであります。  このような状況に対して,日本の場合にはいろいろな取組が行われていると考えられるわけですけれども,そのうちの幾つかを見ていきますと,例えば,皆さん御存じのように,「若者自立・挑戦プラン」はその一つでございます。これは,2003年に文部科学省,厚生労働省,経済産業省といった担当大臣,関係閣僚によって若者自立・挑戦戦略会議というものが発足いたしまして,そこで出されてきたものであります。若者層の失業率が高く,フリーターが増加するという現在の就労状況を踏まえて,若者たちの職業的自立を促進して失業者の増加を阻止するといったことが,ここでは取り上げられております。さらに,同じ年に「青少年育成施策大綱」といったものが出されております。ここでも自立ということが取り上げられておりますけれども,ここの場合には必ずしも職業的な自立ということだけにとどまるのではなくて,社会的自立といったことがここでは取り上げられている。さらにそれを受けたような形で「若者の包括的な自立支援方策に関する検討会報告」という報告書が出されております。いずれもこれらは,若者たちの自立ということを取り上げ,それを促進するといった形での取組ということになろうかと思いますけれども,一つには,その自立が専ら経済的な自立というところに中心が置かれ,それ以外の部分というのは必ずしも明確ではないということ,若者は言わば社会に迷惑をかけないように自分で稼いで自分で自立するというところがその中心にあるような気がいたします。  それと並んで,先ほど最初にちょっと申し上げましたけれども,キャリア教育ということが文部科学省を中心として進められているというのが,もう一つの取組と言えば取組だろうかと思います。このキャリア教育は,先ほども言いましたように,学校から社会への移行ということが中心テーマで考えられてきたわけでありますけれども,その基本にも今言いましたような自立ということが考えられております。このキャリア教育については後でまた触れたいと思います。  さて,そのような今の若者たちを見てきた中での自立といったことをめぐる状況と大いにかかわることですけれども,三つ目の「大人」になるということについてであります。大人になるということにつきましては,4ページから先に幾つか資料を載せておりますけれども,実は「おとなになること」というそのままのような本が西平直喜先生によって,かなり以前ですけれども,出されたことがあります。西平先生は御存じのように我が国の青年心理学の泰斗であります。西平先生はいろいろなことを書いておられますけれども,その内容についてはともかくとして,その最初のあたりで「おとな」という言葉が持っている意味といったことについて取り上げられ,それが非常に様々な意味合いで使われているということを示すために,ある小説の中に「おとな」という言葉がどのように出てくるのか,何度も何度も出てくるといったことを挙げておられます。それが4ページに示したようなものです。これを見ますと,そこで出てくる「おとな」という意味合いが,その都度その内容が微妙に違っているように受けとめられる。このように「おとな」ということは様々な内容をそこに含んでいると考えられるだろうということであります。  そこで,それでは一体社会一般では大人あるいは成人ということについてどのようにとらえているだろうかといったことが出てくるわけでありますけれども,これについては,いわゆる成人性の基準といったことでいろいろな調査ないし研究が行われていたりいたします。その一つの例を5ページに示しました。これは私の友人でもある古市教授が出しておられる一つの例でありますけれども,様々な項目について調査いたしまして,それを幾つかに因子分析という方法でもってまとめたものであります。ここに示されるものは,一つは現実順応,それから人格的成熟,価値観確立,主体性確立,自己抑制,国・社会への関与,親からの自立,礼儀作法といった内容であります。その具体的な項目はその表に示すとおりであります。  さらにもう一つは,「下北研究」とここに書きましたが,実は私もこれにかかわっているわけでありますけれども,昭和39年に青森県の下北半島にある中学校を卒業した人たちのその後現在までですから,もう40年以上になりますけれども,その人たちを追跡した調査であります。現在この人たちは間もなく還暦を迎えるというところまで来ているわけでありますけれども,そういう人たちのこれまでの生き方といったことを通して,一人一人がどのようにして大人になっていき,さらにその後の時期を過ごしているのかといったことを我々はずっと見てきているわけであります。そのときに,いわゆる大人ということをめぐってどのようなことがあっただろうかといったことについて幾つか項目を挙げましたのが,ここに示したようなことであります。一つは家族役割の変容。これは,結婚するとか,子どもが生まれるとか,そういうことであります。それから職業的技術や職業的役割の変化といったことがございます。それからもう一つは地域社会への貢献ということであります。私はこの地域社会への貢献というのがなかなか大事なことだなと思っておりますけれども,こういうことがそこでは見られたということであります。  このように見てきますと,大人とはどういうことなのかということよりも,そのような大人という状態というのは,決してある時期になったらそうなるといったことなのではなくて,実は成人期全体を通して達成されていくようなものなのではないかと考えることができるだろうと思います。大人をめぐる,あるいは自立にしてもそうですけれども,論議の多くはこのことを必ずしもはっきりしないままにして大人とは何かということを取り上げているように私には思われます。そのように考えますと,大人という時期を一定の年齢でもって示すというのは非常に難しいということにもなるわけでありますけれども,私はそこでこの問題,つまり大人という問題というのは,言わば「入口としての大人」ということと,それから,「到達点としての大人」といいますか,そういうことを考える必要があるのではないかと考えております。今ここで考えるべきことは何なのかといったことを考えますと,それは恐らく,その「入口としての大人」ということをどう考え,それについてどう思うかということなのではないだろうかと考えるわけであります。  そのように考えていきますと,さてその「入口としての大人」というのは何かということになるわけでありますけれども,これは,先ほどから出ているようないわゆる成人性の基準といったことではなくて,6ページのところにちょっと書きましたけれども,「社会人」ということなのではないかなと思うのです。「社会人」という言葉はいろいろなところで口にすることでありますけれども,例えば高校を卒業して就職したといったときに,よく「これで社会人である」といったことを言ったりいたします。あるいは成人式のときの若者たちの言葉の中にも「社会人」という言葉が使われる。いろいろなところで,実は「大人」というよりもむしろ「社会人」という言葉が比較的よく使われているような気がいたします。そして,その中には非常に大事な内容が恐らく含まれているのだろうと考えられるわけですけれども,しかしその内容は必ずしも明確ではない。ただ,我々は,あるいは若者たちは,その「社会人」という言葉によって,ある種のここで問題にすべき「大人」ということについて,それを表現しているような気がいたします。それは結局,社会参加ということなのだろうと思われます。この社会参加ということが「大人」ということを考えていくときの非常に重要なことになるのではないか。つまり,「大人」ということは,一定の条件を満たすときになるというように考えるのではなくて,社会参加ということ,あるいは社会参加という状況をつくることによって,あるいはそれを与えることによって,「大人になる」あるいは「大人にする」といいますか,そのようなことなのではないかなと考えております。  民法は,正しくそういう意味でのいわゆる社会人としての振る舞いといったことに基本的にかかわるものであろうと私は思っております。その限りにおいて,それは「大人」というよりもむしろ「社会人」といったとらえ方のほうがこの問題には近いのではないのかなと思うのです。民法の言っている成年年齢というのは,今申しましたような意味での「社会人」ということに比較的対応するのではないだろうか。それは決して「到達点としての大人」なのではなくて,言わば「入口としての大人」といったことになるのではないだろうかと考えております。  そこで,民法の成年年齢を18歳に引き下げるといったことについてであります。このことは,先ほどからお話ししていることと十分重なってくることであります。したがって,そのようなことは決して年齢だけに基づいて考えるということにはならないのではないか。もともと人間の発達や成熟というのは,その人に閉じられたものではない,つまり関係の中で考えられるべきものだろう。その人が何ができるか,できないかというのは,その人個人だけの問題なのではなくて,その人の置かれた関係の中でこそ考えることができるだろう。先ほど来出ております契約の問題にしてもそうですけれども,そのようなことだろうと。そうだとすれば,この若者たちをどういう関係の中に置くのか,あるいはどういう関係をそこに与えるのかといったことが重要なのではないのか。少なくとも,時間がたてば人は成熟するというわけではない。そこでいろいろな経験をし,いかなる経験をするかということこそが発達であると考え,成熟を考えるときに重要なのでありまして,正しくその意味では,我々は社会参加をすることによって「社会人」になり,そして「大人」になっていくのだと考えられます。そういう点からすれば,「社会人」あるいは「大人」ということにつきましては,恐らくその内容によって違ってくるだろう。だから,一律に何歳とかとなかなか決められるものではないのかもしれないといったことであります。  したがって,ヒアリング事項の四つ目にある民法の成年年齢を18歳に引き下げるということで,親の同意なく契約ができるようになり,親の監護・教育を受けなくてもよいといったところが出てきますけれども,こういった問題はしばしば否定的に考えられて取り上げられることが多い。つまり,そういうことがあると大変なことになりそうだといったことが何となくある。そうではなくて,そういうことをすることによって初めて人はそのような発達やそのような力がそこに生まれると考えることができるのではないか。つまり,幾つになったらできるのかというよりも,できるような条件をそこにつくることができるのかということが重要なのではないかということであります。  次の結婚の問題も基本的には同じようなことであります。18歳,16歳ということが結婚についてどうかということではなくて,つまり結婚ということをどう考えるかということを先に考えるべきなのであって,少なくとも年齢が先にあるわけではないというような気がいたします。  以上のようなことから,18歳といったことについてどう考えるかということでありますけれども,基本的には私はそういう点からすれば18歳にすることに賛成であります。しかし,それは,18歳にすれば何でもできるから賛成ということなのではなく,むしろ18歳にすることよって若者たちの社会的な経験や社会参加ということをそこに作り出すということが大事なのだろう。今,なかなか大人になれない,自立できないといったことがしきりに言われている。その論調は,そのままそれを考えていきますと,20歳はおろか,25歳になっても,時には30歳になっても,大人ではないといった議論になってしまうことになる。そういうことをここで考えているわけではないのだろうと思います。そうではなくて,子どもたちのそういう自立というのがいろいろ問題であればあるほど,そういうことをより促進していくために何が必要だろうかと考えますと,この問題は,18歳ということにすることによって子どもたちに社会的参加や社会的活動といった経験をさせていくということに大きな意味があるように思います。  しかし,そうは言いましても,それでは18歳にすれば問題がないかと考えますと,それほど事態は簡単なものではないとも思われます。つまり,そのようなことをするということは,先ほど来申し上げておりますように,若者たちを囲むいろいろな条件をそこに作っておくということと無関係ではありません。そういう条件があって初めてこの18歳に引き下げるということが意味を持ってくると考えるわけであります。  その意味で,最後のヒアリング事項でありますけれども,引き下げるためには,法教育など教育の充実が必要であるとの指摘がなされているけれども,このことについてどう考えるかということでありますが,正しくそのとおりであります。しかし,それは公教育だけのことではない。つまり,若者たちの自立ということをめぐる様々な領域にわたる教育,あるいはそういうことに関連することを若者たちに経験させるようなことが必要なのだろうと考えられます。そして,それは決して18歳近くになって突然行われるようなものではなくて,小学校,中学校,高校を通じてずっと行われるべき,そのような教育であろうと考えております。  その一つの可能性として,私はキャリア教育ということを考えたいわけであります。キャリア教育はそもそも,先ほども言いましたように,学校と社会との接続といったことがそこに含まれておりますので,いかにもそれが職業的な自立といったことに限定されるように考えられがちでありますけれども,現在取り組まれているキャリア教育は決してそのようなことに限定されるのではなくて,言わば人の生き方全体にかかわるような教育ということであります。そのために,様々な社会的な経験をし,大人の姿に触れ,そして自分たちが社会の中にどのように入っていくのかといったことを考えさせ,そういう力を子どもたちにつけていこうと考えている教育の取組であります。現在小学校・中学校・高校でその取組が進められておりまして,その成果が少しずつ出てきているという状況であります。しかし,まだそれは決して十分に行われているというわけではありませんけれども,こういうキャリア教育といった取組を見ておりますと,恐らくそのようなことをする中で子どもたちが次第に社会的な自立あるいは大人ということに向けての発達をしていくことが可能になるだろう。そういうことが一方にあるということを考えながら,成年年齢を18歳に引き下げるということに賛成し,これを支えていきたいと考えております。  以上でございます。 ○鎌田部会長 どうもありがとうございました。  それでは次に,宮本委員,よろしくお願いいたします。 ○宮本委員 私は,基本的に18歳に引き下げるべきという立場で,なぜそれが必要なのかという形で整理してみました。私は,社会学の立場から,青年が大人になるということが現代の中でいかなる状況にあるのかということと,その意味やその課題,そのあたりのことを扱っております。資料はたくさんありますけれども,ポイントだけ御説明させていただきたいと思います。詳細につきましては,参考資料14の「思想」に書いてありますので,もし後で必要でありましたらお目通しいただければと思います。  まず,現代における「大人になること」の意味ということで,日本に限定せずに先進諸国の状況を少し見ながら,その中で日本と共通している部分と,それから日本が抱えている特有の課題といったことで少し整理してみたいと思います。  部会資料21の1ページ目ですけれども,若者の実態をどのように認識するかということで,これはスウェーデンのある文献から持ってきたものですけれども,別にスウェーデンにかかわりなく,多くの先進国でほとんど,若者が今どのような特徴を持っているのかということに関する整理は共通していると思います。ここに8点挙げてありますけれども,少子高齢化,経済競争の激化,産業構造の大幅な転換が背景にあって,若者の状況が非常に大きく変わってきていると言われております。  まず,今も菊池参考人からお話のあったこととかなり重なるのですけれども,成人期への移行が長期化している。「成人期への移行」という言葉も独特で,ある時期以降,青年期から成人期への移行の時期というものが関心の対象になってまいりまして,そういう形でよく使われる言葉です。それから二つ目,教育への要求が高まって,高等教育のユニバーサル化の段階に入っているということです。それから,三つ目に学校から仕事への移行が長期化していること。そして四つ目には,雇用・所得の悪化があって,若い人たちの生活基盤というものが弱体化しているという認識があります。五つ目に精神的健康の悪化ということも指摘されております。六つ目に政治参加の減少。七つ目に若者の中の格差が拡大していること。そして八つ目に晩産化・出生率の低下ということでございます。この8点に関しましては,それぞれの国で強弱は違うのですけれども,それにもかかわらずこの8点を前提にして,今日の若者を取り巻く若者関係の政策体系,若者政策と呼んでおりますけれども,この若者政策の特徴は,成人期への移行の問題として全体論的なアプローチをとるようになってきていると指摘されております。  次に,日本の場合にはどういう特徴があるのかということです。80年代には「独身貴族」という言葉が出まして,90年代には「パラサイト・シングル」という言葉が出,2000年代には「若者は社会的弱者である」,これは私がつけた言葉ですけれども,といったこの20年から30年にわたって大きな転換があったと思うのですけれども,欧米の先進諸国と日本の違いは,若年労働市場の悪化が西欧諸国よりも20年くらい遅れて始まったものですから,現代の若者の変容に関する認識が日本の場合にはその分遅れているという感じがいたします。青年期のモラトリアム化というのは,もう既に70年代に日本で特に心理学者が中心となって指摘してきた現象でありますけれども,社会学的なレベルまで含めてこの若者の変容が言われるようになったのは,やはり90年代の後半から2000年代に入ってからではないかと思われます。基本的に青年期から成人期への移行というのが,太いレールを全員が走っていくという時代が終わって,個人化・多様化・不安定化が始まるということが,欧米諸国では80年代くらいから指摘されていたのが,日本の場合には90年代から2000年代の,先ほども御紹介がありましたような若者の雇用問題が始まるあたりまで引き延ばされたという感じがしております。つまり,先進諸国の中において日本では,太いレールがあり,みんなが同じレールを走り,そして若者のウェルフェアというものを家族,つまり親がかり,それから会社の福祉,この二つで大人にしていくという仕組みが非常に遅くまで機能していたがために,若者を自立させるため社会はどうあらねばならないのかという検討の機運が起こらなかったという感じがしております。2000年代に入って雇用問題が発生し,学校を卒業しても安定した職に就いていない人たちが100万人以上の規模で発生し,そして今回の成年年齢を18歳に下げるかどうかといった議論の中で初めて本格的に若者の自立問題というのが社会的な課題として議論されるようになっているのではないかという感じがしております。  日本の実態ですけれども,他の国で指摘されているのと基本的に共通しておりますけれども,程度に関しては,自立意識の点でも,自立に必要な知識やスキルの点でも,著しく弱いという特徴を持っていると思います。しかも,非正規雇用・低所得・精神疾患といった自立の困難を抱えた若者がかなり存在しているにもかかわらず,基本的に社会制度的には親の責任に帰されていて,公的責任が不明確な状態にあると思われます。  三番目として,「大人」になるとはどういうことなのかということです。これに関しては,欧米諸国ではこの種の社会学的研究は20年前ぐらいからかなり議論が始まったのですけれども,そのきっかけになりましたのは,単にモラトリアム化しているというだけでなく,若者の中のある部分が社会から排除される,経済的にも社会的にも非常にリスクのある状態になっているという認識の中で,若者がきちんとフルのシティズンシップを得るためにはどうしたらいいのかという議論になってまいりました。そういう意味で「大人」になるということは,依存する子どもから自立した大人への移行なのですけれども,その際,シティズンシップの義務と権利を持つ自立した市民となること,これが社会学的には大人として議論すべきテーマとして検討されてきたと思われます。  部会資料21の2ページに進んでいただきまして,例えば,この種の若者に関する議論あるいはスタンスをよくあらわしている幾つかのものの一つとして,2001年に欧州委員会から「ヨーロッパの若者のための新しい跳躍」というレポートが出ております。この文言を見ますと,「職業生活に入る時点や,家族形成を行う時点は,年齢的に高くなってきている。また若者は労働と学問の間を頻繁に行き来する。しかも特に生活進路の個人化が進んできている。学校と大学,就労場所と社会的領域は,もはや過去におけるのと同じような統合的役割を果たしていない」というこの前提をもとにして,社会の変化と若者の変化の両面で,その下に書かれている成人期への移行過程の課題である四点を果たすことが長期化し,困難を作り出しているということを述べております。  それで,大人の地位というものがどのようにして達成されるのかなのですけれども,伝統社会は通過儀礼で決まったと言われております。現代に関しては三点あるということで,一つ目は私的な領域で大人として認められること,初めての性体験,初めての飲酒といったタイプ。二つ目は公共的なもので,婚約パーティとか結婚式といったもの。三つ目は公式的に各種の資格証明とか社会保障の受給年齢とかというもので,この三つがそろったところでフルの大人になるということになると思いますけれども,これは年齢的にうまくきちんと組み合わさっているわけではなく,それぞれの状況の中で異なっていると見ていいと思います。  先ほども出てまいりましたが,法律上の成年年齢で大人になるという意味は現代では失われている。これがもう共通する認識であります。特にその理由で大きなもの,これは先進国の中で大きなものと指摘されているのは,成年年齢で経済的自立を達成することが困難であるということでありまして,経済的に自立が達成されないと,フルの責任をとることができない。経済的な自立ということがそれ以外のシティズンシップの権利・義務と連動しているということでありまして,高学歴化し,親からの経済的な自立が長期化する中で,成年年齢というものの実質的な意味合いが非常に弱くなっていくという状況があると考えられます。  大人の地位を得るということはなぜ望ましいのかということに関してですけれども,社会のフルのメンバーシップを得るということだということです。そのフルのメンバーシップというのは,これは経済的な地位が若者の中で危うくなっている中で組み立てられた議論でありますけれども,経済的な地位によって様々な権利へのアクセスというものが構造化されている。これが順次達成されていくわけなのですけれども,社会階層によっても,それからその他の諸属性によっても,それが必ずしもうまく整合的には図られていない。それがうまく一致したときに大人としてフルの社会的な地位を得て,社会の完全なメンバーとして承認されるということで,この状態をどのようにして保障していくのかといった考え方になるだろうということです。  四番目ですけれども,成年年齢を20歳から18歳に下げることに関してどう考えるかという御質問ですけれども,親の同意なしの契約,親の監護・教育を受けなくてもよいことに関してどのように考えるかということを整理したのが3ページ目です。依存する子ども期から自立した成人期への移行のプロセスというのは,かなり長期の時間を要するわけでして,この時期にとりあえず「若者期」という名前をつけてみたいと思います。つまり,子ども期とか,従来ですと思春期とか青年期,そしてその後大人あるいは成人期という段階設定があるのですけれども,今日のように移行期が長くなっている中では,青年期の次が成人期だといった段階設定が現実的にみて妥当でないということで,青年期から成人期の初期にまたがる時期を「若者期」といった表現をするようになってきております。これに関しましては,私は「ポスト青年期」と名づけてこの間使ってまいりましたし,同じような問題意識で他の国でも「ポスト青年期」という言葉を使っている論者もございますし,先ほどの菊池参考人の御紹介の中には「「成人形成期」18~25歳」ということでJ・アーネット氏の用語が紹介されておりまして興味深いのですけれども,多分同じ問題意識で出てきているものだと思います。  それで,若者の場合にどういうことが議論されなければならないかと申しますと,子どもの場合には,保護が中心になりますので,例えば就労その他の活動を保護という立場で規制することがありますけれども,若者の場合にはそういう形で規制すべきではない。しかし,成人と異なるのは,経済的自立,それから社会的自立,職業的自立,それから親・家族からの自立を実現し,公共への参画を確立できるように,社会的支援が必要な年齢層であるということでございまして,これは大阪市立大学の木下秀雄氏がある文献の中でこういう整理をされていますけれども,私もこのように考えてまいりました。つまり,子ども期と違って一方的な保護の年齢では明らかにないけれども,社会的な支援が必要である。その社会的支援というのは,自立を担保することと,社会のフルのメンバーとして,その条件を作るために社会的な支援というものが必要な年齢だということになると思います。  特に,ここは民法部会でありますけれども,経済的な自立の問題というのは雇用の問題に絡まっておりまして,雇用でフルの自立を達成するのに相当長い期間が掛かっているという実態がありまして,それとのセットの中で社会保障法の問題というのが重要な問題として議論されております。社会保障と雇用のうまいセットの中で経済的な自立というものを速やかに保障していく,こういう問題提起もされております。  若者期の年齢設定に関しましては,国連やEUでは,15歳から25歳未満の期間に関しましては,徐々に自立の準備をし,そして25歳くらいまではやはり支援が必要な年齢ということであります。日本の場合で考えてみますと,この10年間の若年者の雇用問題のとらえ方,それから雇用を中核とした若者支援のこの間の様々なプログラムが大体15歳以上35歳未満ということでやってまいりまして,今若者支援の現場では25歳よりも後半から30台前半期くらいが若者支援のターゲットとしてかなり重要な年齢になっているという問題がありますので,このあたりは日本の特殊な状況だと思いますけれども,日本の場合に,親への依存が顕著であり,若者支援が社会制度として未発達,そして労働統計上の区分の問題からして,15歳から35歳未満ぐらいに関しましては,フルの成人とは違う何らかの設定といいますか,環境整備というものが必要ではないかということでございます。  これは第一回部会のときに紹介がありました大村敦志委員の整理ともかなり近いかと思いますけれども,大村委員の場合には,年少者法の構想を提起する中で①・②・③のように年齢で区切って,①は10歳までの幼年期,これは保護中心です。②に関しては,18歳を成年年齢とした場合ですけれども,15歳以上18歳未満,これは準成年。これは,より広い範囲で社会参加を促すという整理をされておりまして,先ほどの菊池参考人が,成年年齢を定めるとしたら,それは社会への参加の出発点だという整理をされておりましたけれども,正しく,妥当ではないかという感じがしております。③は18歳以上25歳未満ということで,初成年ということになるでしょうか,成年にはなったけれども,成年のよちよち歩きということで,自立性を認めつつも,社会的な支援を行う必要のある人々ということになると思います。  五番目に,結婚に関してです。これは,私は極めて現実的な実態からして,婚姻率が著しく低下している日本の状況からすると,親の同意なく婚姻できる年齢を 18歳に下げたからといって,結婚数が増加するとは考えにくい実態があるということは言えるかなと思います。むしろ,大人としての自覚を持って,自分自身の家族形成に向けて歩み出すために,男女とも婚姻適齢を18歳とするほうが望ましいだろうと思われます。しかしながら,結婚というのは経済的基盤を確立するということと連動していて,日本のように超非婚化状態,そしてその背景として生活基盤がなかなか確立できないという問題があることからすると,この5の問題というのはそんなに大きな問題ではない。むしろ,どうやってその条件整備をして結婚を促進するかということのほうが課題なのかなという感じもしております。  それから六番目,先進国における若者の社会参加の取組に関してでございます。成年年齢の出発点は社会参加の出発点だという整理をすると,90年代の先進諸国,日本以外の国に関する若者政策の中核にあるのは若者の社会参加の促進ということでまいりました。日本では,この間若者の政策の中心はほとんど雇用対策で来ておりまして,若者を社会に参画させるという政策は今のところ確立しているとはいえないと思っております。簡単に御紹介しますと,1990年代以降,国連を中心とし,取り分けEU諸国などの若者政策を見てみると,このような整理がされていると思います。雇用の流動化・不安定化という現実が,彼ら若者のシティズンシップの根底を揺るがしている。それから,移行期が長期化するということが,社会の構成員としての役割取得を延期させている。特に不利な若者たちをアウトサイダー化させているということを言っております。社会の公式制度へのアクセスの道を絶たれた状態を社会的排除と表現するようになってきている。  これは欧州連合の政策でありますけれども,このような状況を踏まえた上で,EUの若者政策を構成する要素を見てみますと,三点あると思うのです。一点目は,青少年・若者の地域活動領域で彼らの人間発達を促すということ。したがって,これは子ども期から思春期あたりの重要な政策になっていると思います。大人になるための準備の段階だと言っていいと思います。二点目は,若年者雇用の領域で,仕事に就ける能力の育成と労働市場政策です。これはキャリア教育から積極的な労働市場政策まで含めてのものだと思われます。三点目ですけれども,若者を権利と義務を有するシティズンとして保障することです。この三点を図にすると,4ページにあるトライアングルの構造になっております。この三つに共通するのはノンフォーマル教育を位置づけることでありまして,つまり学校教育のようなフォーマル教育だけでなくて,社会における様々な形の教育学習というものを幼少のころから充実させるということを通して,この①,②,③の三つのトライアングル,この課題を達成することによって,いたずらにモラトリアムを長期化させない,そして若者が不安定な生活基盤の中から脱することができないといったことを防止して,成人としての自分自身の生活の基盤と社会的なポジションを確立することという政策になっていると思います。  なぜノンフォーマル学習が強調されているというと,大人になることが困難な時代,それから十分準備することなく大人になることが若者にリスクを与えているという認識があるからでございまして,その背景としては,高等教育のユニバーサル化という問題もありますし,地域社会というものの機能が縮減しているとか,家族機能の縮減とか,様々なものが絡み合ってのことになると思います。  次のページあたりはもうかなり重なっておりますので,後でお目通しいただければ有り難いと思います。  最後に,こういうことをやるために何が必要なのかということの一つとして,シティズンシップ教育ということを御紹介させていただきます。この市民としての教育というのは,先進国で90年代に本格的に導入されまして,かなり多くの国が何らかの形でカリキュラムの中に導入しております。これは,キャリア教育が導入されたのと同じような形で,市民としての教育というものが導入されて,そのやり方に関しては,それぞれの国で違いがありますけれども,子どものころから社会を教えること,それから自分自身の身を守ること,それから社会の中にきちんとポジションを得ること,そして社会における責任や義務を果たすこと,このようなことをするためには彼らに知識や情報やスキルを与える必要がある,無防備のまま社会に出てはシティズンとはなれないという認識でございます。  配布していただいた参考資料15は,2年前に経済産業省で1年間検討しまして,日本でシティズンシップ教育ということをやるべきであるということで整理したものでございますけれども,まだまだ日本ではこのシティズンシップ教育ということが必要だという論調は決して十分ではありません。幾つか数えるほどの学校現場が何らかの市民教育を試みておりますけれども,まだ広がっておりません。経済産業省はこの報告書も出しましたし,パンフレットも出しましたけれども,社会的な反響は決して大きくありませんでした。むしろ当時の状況としましては,まずはキャリア教育をいかにして広めるのかという段階にありまして,それから2年たっておりますけれども,シティズンシップ教育に関しましては,こういう市民としての権利と義務を教えるということの必要性は言われておりますけれども,大きな流れとなっている段階にはないと思います。しかし,成年年齢を18歳に下げ,そこを社会に出る第一歩にするためには,それよりも前の段階からその準備の教育が必要であるということで,シティズンシップ教育ということを検討する必要があると思っております。  以上でございます。ありがとうございました。 ○鎌田部会長 どうもありがとうございました。  それでは,ここで休憩をとらせていただきます。           (休     憩) ○鎌田部会長 それでは再開させていただきます。  最後になりますけれども,斎藤参考人から御意見をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。 ○斎藤参考人 私は,成熟成年問題につきまして,主に「非社会性」というキーワードに焦点を当ててお話しさせていただきたいと考えております。  今の日本の若者問題というのは,先進諸国に共通する部分と,それから日本に特異な部分との二つの軸で見る必要があると考えております。未成熟化の問題というのはある意味先進諸国共通の問題でありまして,私はこれを社会の成熟度と個人の成熟度は反比例するという見方でとらえておりますけれども,成熟度が高い社会においては未成熟な個人でも十分に機能することができるという状況はどこにも共通してありますので,モラトリアム期間が延びたりとか,就学期間が延長するとか,そういった傾向もあいまって未成熟化が進行するのはある種必然の流れと考えております。ただ,我が国におきましては,未成熟化の表現形態がちょっと特異であるというところに注目する必要があると考えております。この点を一言で言いますと,それは,我が国の若者の未成熟化というのは「非社会化」とイコールであるということです。非社会化というのは,英語でいうとアソーシャルで,反社会化,アンチソーシャルの対義語でありまして,社会にコミットしないという状態を示します。アンチソーシャルというのは,犯罪とか逸脱行為によってある意味社会にコミットしていく若者を指すわけですけれども,社会に背を向けていく若者,これが激増中であるというほうがはるかに問題であるということをまず問題提起として申し上げたいと思います。  ヒアリング事項としていただいたものにも「ニート」,「フリーター」,「パラサイト・シングル」,「晩婚化」,「ひきこもり」と未成熟化のキーワードが挙がっていますけれども,くしくもと申しましょうか,これらのキーワードはすべて非社会化にかかわるものであるということに注目していただきたいと思います。反社会性を示す言葉は一つも含まれておりません。これらのキーワードはそれぞれ発祥の年代とかネーミングの年がばらばらです。例えば,「フリーター」は1987年の命名です。それから「パラサイト・シングル」は1997年の命名です。「ひきこもり」は90年代初頭あたりから存在する言葉で,「ニート」は2004年に輸入された言葉です。全部出自はばらばらなのですけれども,すべて今現在現役の言葉であるという点にも注目していただきたいと思います。要するに,これらの問題提起は,ばらばらの年代においてなされたにもかかわらず,すべて現在まで連綿と引き継がれており,なおかつ増大傾向にある。フリーター人口も多少の増減はあるとしても増大しておりますし,ニート,パラサイト・シングル,晩婚化,すべてこれらの傾向は経年変化として増大傾向にあるというものばかりであります。ですから,これらの言葉はいまだに非常にリアルに若者の現状を反映する言葉として生き延びてきたと言うことができるわけです。  これに付け加えるとすれば,例えば先駆的な問題としては,不登校問題が挙げられます。これはレッテルとしては「登校拒否」というキーワードがありますけれども,この問題は実質的には1950年代から我が国に存在するのですけれども,これが一気に一般的に認識されたのは1980年代以降ということになります。80年代以降2001年まで不登校の人口は増大の一途をたどりまして,ピーク時には13万9,000人,その後やや減少傾向にあるのですけれども,これが減少したのは,文科省の政策がうまくいったからというよりは,少子化の傾向と,それから週5日制の導入,これが一番大きかったと私は考えております。その証拠にと申しますか,昨年度から再び不登校人口は増加傾向に転じております。要するに,それらの少子化や週5日制の効果というのは一過性のものであったということではないかと考えております。  それからもう一点付け加えるとすれば,非社会性の問題としては,「おたく」というキーワードがあります。これは正に 若者の未成熟化を象徴する一つのキーワードであります。「おたく」といいますのは,漫画とか,ゲームとか,アニメとか,そういう本来であれば子どもが愛着するような対象に対して大人になって成人した以降も愛着を持ち続ける,それを生活の基盤にし続けるという問題なのですが,なぜこれが未成熟の問題と結び付けられるかといいますと,彼らはいわゆる性的弱者,つまり現実の異性関係を持とうとしない若者像として未成熟化あるいは倒錯的な存在としてたたかれるといった状況があったわけなのです。ただ,最近の傾向としましては,こういったおたく的な若者たちが自らのコミュニティーを形成して,そのコミュニティー内でたくさん消費活動を行う,あるいはその中でクリエイティブな動きをたくさんして,それが輸出文化として海外で高く評価されるといった動きもありますので,一概に未成熟化イコール問題であるという見方に対しては,多少違う視点から別の評価が加わり始めたという見方も可能かと思います。  先ほど宮本委員のほうからも出ましたキーワード,「弱者化」という言葉があるわけですけれども,これは未成熟化によって社会的なポジショニングが不安定になったということを意味します。最近ではこれは「不安定」というものをキーワードにして「プレカリアート」といった言葉で表現されることもあるようですけれども,いずれにしても若者というのは不安定就労の中でますます未成熟な状態にとどまらざるを得ないという社会構造的な問題も含まれている。要するに,彼らが勝手に未成熟化したわけではなくて,その背景には雇用の問題とか,様々な構造的問題があって,彼らがずっと未成熟な状態にとどまらざるを得ないような状況があってそうなっているということが,まず考えておくべき事柄だと思います。  広く見れば,これはアイデンティティーの拡散問題であります。アイデンティティーの拡散というのは,心理学用語で,50年代にエリクソンの提唱したことですけれども,社会的な自分の位置づけ,ポジショニング,それからもう一つは自分という存在の連続性,つまり昨日の自分は今日の自分と同じものであるといった連続性,この双方において若者のアイデンティティーというのは不安定になっている。まずポジショニングに関しては,端的に申し上げて,学歴のコースから外れる,それから正規就労のコースから外れるといった点で,もはやアイデンティティーを保てないという状況が,横断的な問題としてはあるわけです。それから,連続的な若者の意識として,自我の連続性みたいなものが,最近,これは精神医学用語ですけれども,乖離ディソシエーションという言葉がありますけれども,これによって昨日の自分と今日の自分の連続性が揺らいでいるという部分も一部関与しております。こういった傾向も最近の若者に特徴的な問題と申し上げてよろしいかと思います。それからもう一つは,若い世代に広がりつつあるある種のシニシズムです。幻滅感と言ってもいいし,絶望感と言ってもいいですけれども,これは中高生のアンケート調査などによく出てくるデータですけれども,例えば,努力が報われると思わないという若者が70パーセント前後,あるいは,社会がこれからよくなると思わないという若者が65パーセントとか,そういうデータが大規模なアンケート調査でしばしば紹介されますけれども,このように社会に対して,絶望感というとちょっと強いんですけれども,期待感が非常に希薄な世代が大量に存在するというところも,弱者化を準備した大きな要因の一つと言っていいかもしれません。  こういったものが未成熟化を準備するわけですけれども,それにもう一つ,非社会化の問題がここに加わると考えていただいていいかと思います。非社会化の傾向に関しましては,先ほど御紹介した幾つかのキーワードと,それからフリーター,パラサイト・シングル,非婚化といったものの統計的な増加だけで十分かと思いますし,もう1点付け加えるならば,青少年犯罪の減少傾向です。これは,昭和35年をピークとしまして,現在はピーク時の4分の1程度で例えば殺人なら殺人の件数というのは推移しているわけですけれども,日本の若者というのは非常におとなしい,生物学的に見ても異常なほどおとなしいということがよく言われていますけれども,これも反社会化ではなくて非社会化の帰結として挙げられることなのかもしれません。  こういった未成熟化の問題が非社会性として表現される理由に関しまして,これはお配りした資料にも書いてありますけれども,例えばイギリスとの対比で考えてみたいと思います。イギリスでは,25歳以下の若者のうち,25万人もヤングホームレスの状態にとどまっている,大変大勢のヤングホームレスが存在すると言われています。一方,2007年1月に厚生労働省が実施したホームレスの実態に関する全国調査によれば,我が国のホームレス人口は1万8,564人であり,35歳未満のホームレスは1.5パーセントですから,100分の1程度と非常に少ない。現在の日本においてはヤングホームレス人口はまだ社会問題化と言われるほどの規模には達していないということが,この数字からはうかがえると思います。ただ,最近は御存じのとおりネットカフェ難民という,定義上ホームレスに一致するような若い世代が大体5,000人程度存在すると言われていますので,徐々に若者のホームレス化の傾向がこれから増加していくのかもしれないという兆候としては存在します。ただ,現状としては,まだ日本の若者というのはホームレス化と言われるほどの傾向には至っていない。  一方,我が国のひきこもり人口に関しては,様々な統計がありますけれども,大体50万から100万人の間ぐらいといった推定がなされておりまして,ひきこもりといいますのは,もちろん家から出ない若者であるのですけれども,定義上は,家から出るか出ないかよりも,対人関係が持てない若者とイコールと考えていただいて結構です。つまり,就労・就学という形でも対人関係が持てませんし,ニートのように,たとえ学校に行っていなかったりとか,仕事場がなかったりとか,トレーニングを受けていなかったとしても,友達がいたり仲間がいたりする場合はあるのですけれども,ひきこもりに関しましては,そういった親密圏が全く欠けている,家族しかいないという状況が10年以上にわたって続くという若者が,50万から100万人程度存在すると見ていただければよろしいかと思います。  私の推定としましては,いかなる先進諸国におきましても,先ほど言いましたように,若者の未成熟化というのは共通する傾向でありますし,未成熟化が進むということは,一定の割合で若者がドロップアウトしていく。これは避けられない傾向であって,すべての若者が社会適応を果たすという社会はまだ存在しないわけであります。問題は,その形態が違う。不適応に陥った若者の不適応の形が違うということです。イギリスモデルで言えば,イギリスの若者は,家に居場所がないので,つまり成人すれば,それこそ自立モデルが家出モデルなので,家から出るということが半ば自明の前提になっていますから,そういった意味では家から出されてしまうことで,社会の外にドロップアウトするしかないという状況がまずあります。日本におきましては,そういったイギリス型の自立モデルが存在しないので,家族が面倒を見てしまう。家族がかくまってしまうということです。それが保護的な意味なのか,座敷牢的な意味なのか,それはいろいろな解釈があると思いますけれども,いずれにしても家の中に閉じ込めてしまって,出ることを望まないという部分も一部関与しているということがあります。それゆえ不適応形態の大半がひきこもりという形をとりやすい。ニートとひきこもりというのは相互に連続する問題でありまして,定義上34歳以下のひきこもりはニートに含まれますので,ほぼ重なる現象ではあるのですけれども,今現在ひきこもり問題というのは,平均年齢が30歳を超えましたので,高年齢化という形で進行中ということがあります。これは,若者とされた人々がもはや名付けようがない状態にどんどん移行してきている。パラサイト・シングルに関しても同様の現象が起きておりまして,35歳以下のパラサイトは,ピーク時の1,200万人から今1,100万人程度になっているそうですけれども,かわって問題になっているのは35歳以上のパラサイト状態にある人々,何と呼んでいいか分からない人々です。これらの問題が既に出てきているということです。  日本型のモデルの成立に関してちょっと私の考えるところを触れておきたいと思います。といいますのは,ひきこもり問題というのは,非常に日本に特異的な問題であると誤解されてきましたけれども,実際には日本だけではありません。例えば韓国には大変ひきこもりが多い。人口が日本の約半分程度である韓国において,ひきこもり人口が30万人という推定がなされておりますから,規模としては日本とそれほど変わらないということになります。形態はちょっと違いますけれども,家から出ないという点では一致しているということです。ちなみに,御存じのとおり,韓国は現在も戦時下にある国ですので,徴兵制がありまして,2年間若者は兵役にとられるわけですが,ひきこもりの問題というのは,兵役が済んだ後で顕在化しているということに注目していただきたいと思います。要するに,奉仕活動とか,徴兵制とか,そういったものがひきこもり対策あるいは若者の成熟化に有効であるという幻想が一時期蔓延しましたけれども,それが無効であることは既に韓国社会が実証していると考えていいと思います。  話を戻しますけれども,それではなぜ日本と韓国で突出して多いのかということでちょっと私の考えを述べさせていただきたいと思います。ついでに申し上げるならば,EU諸国の中で唯一ひきこもりに関して問い合わせが一番多い国はイタリアです。しかもイタリア南部でやたら多いという傾向があります。この三か所に共通することは何かということを考えた場合に,それは家族主義あるいは同居主義といったものがまだ健在な地域若しくは国であるということが一つの共通項として挙げられると思います。特に日本と韓国の二つの国の特殊性というものを考えた場合には,近代化の過程にある儒教文化圏というくくりが適切であるように私は思います。儒教文化圏と言ってもその本質的なものは失われているわけでありまして,例えば年功序列とか,親孝行とか,そういったものの断片が形骸化した形で残っている国ととらえていただければ結構ですけれども,そういった点ではまだまだ儒教的なものの名残というのは健在である。そういう文化圏に我々自身も生きていると考えていいと思いますけれども,そこで特異なのは若者の自立モデルの違いということです。  先ほど申し上げたイギリスに関して言えば,パラサイト・シングル自体が大変恥ずかしい現象であるととらえられている。つまり,大人になってからも親と同居し続けることは社会通念から言って考えられないということがまずあるわけでありまして,これが自立ということを考える場合の自明の前提になっている。規範としてよりももっと空気のように自明の前提化しているということがまずあります。ところが,儒教文化圏におきましては,一番基本となるプリンシパルは親孝行。親孝行というものは要するに同居していなければできないということがあります。同居していなければできないし,子どもを大事に育てるというのは将来面倒を見てもらうためみたいなことわざもあるくらいですから,そういったことを考えますと,基本的には同居を続ける。子どもがたくさんいた時代は,長男だけがそういう扱いを受けて,ほかの子どもたちは出されたかもしれませんけれども,戦後少子化と核家族化が進んだ結果として,すべての子どもが長男扱いされるような形に変わってきたわけでありますから,そういった意味ではずっと同居が延長していくのが自然な成り行きでありまして,パラサイトであることが,パラサイトという名前は非常に厳しい価値判断を含んでいますけれども,そういう親と同居して独身であることがさほど社会的・世間的にマイナスの評価を受けないという社会状況があると考えていいと思います。この辺の違いの大きさ,要するに同居文化ということでありまして,同居しながらの自立を認める文化と,同居しながらの自立を認めない文化の違いということは非常に大きい。というわけで,日本において若者の非社会性という形をとった未熟化を保存しているのは,日本の家族文化が非常に大きな要因になっているということを考えてよろしいかと思います。  ただ,ある意味で家族というのは,若者の不適応問題に関しては一つのバッファーとしまして,緩衝帯といいましょうか,不適応状態の若者がその中に隠れてしまうことによって社会から見えない存在になってしまう。例えば街角でたむろしている茶髪の青少年みたいなものは我々の目によく入ってきますけれども,ひきこもったりニートだったりする若者というのは透明な存在でありまして,我々の目にはなかなか入ってこない。潜在しているんですけれども,目に入ってこない。目に入ってこないので,人々の問題意識を喚起しにくいということがあって,なかなかイギリスのように安定した若者政策に結び付きにくいということが現在はあるように思います。この辺の状況は,言い換えますと,日本の家族機能が若者をサポートするという意味ではまだ比較的健全に機能しているという見方もできるのかもしれませんけれども,これはこれから述べますように,そろそろ限界に差しかかっていると見るべきかもしれません。  資料の次のページにいきたいと思いますけれども,一つ質問を飛ばしまして,成熟の問題についての精神医学的なとらえ方というところをまず御紹介しておきたいと思います。成熟をどうとらえるかというのは,非常にばらつきのある見方があると思いますけれども,少なくとも精神医学の領域では,コミュニケーション能力と欲求不満耐性という二つの軸が問題になります。例えば,自分の行動に責任がとれるかどうかとか,社会システムに適応できるかどうかとか,そういったものはこれらの能力の複合的な組合せによって成り立つことでありますから,エレメントに分解しますと,コミュニケーション能力と欲求不満耐性に分解できるとお考えいただければと思います。ただ,コミュニケーション能力といいますのは,単なる情報伝達能力ではなくて,例えば相手の感情を理解するとか,自分の感情を適切に伝えるとか,そういった情緒的コミュニケーションの能力と考えていただければよろしいでしょう。欲求不満耐性というのは,欲求の実現を待つことができるかどうか,あるいは実現しない欲求をあきらめることができるかどうか,そういう問題でありまして,いわゆる若者のキレやすさ,キレやすい若者問題というのは,欲求不満耐性の低さと考えていただいてよろしいかと思います。  この二つの軸で申し上げたいのは,この二つの傾向というのは反比例的な関係にあるということです。つまり,コミュニカティブな若者というのはしばしば欲求不満耐性が低い若者でもあったりするわけです。これはどちらかといえば反社会傾向を持った若者,つまり,友人関係や異性関係は豊富なんだけれども,キレやすくて,割と犯罪に親和性が高い,そういった群と考えていただければよろしいかと思います。それからもう一つのコミュニケーション能力は低いけれども,欲求不満耐性が高い若者,これはどちらかといえばひきこもりとかニートのような若者が含まれると思います。こういった二つの軸で見ていただかないと,若者の未成熟化というのはなかなか見えてこないと私は考えておりますので,一応ここに仮説的に二つの軸というもので分けてみました。もし若者の未成熟さが,今申し上げたように,コミュニカティブであるけれども欲求不満耐性が低いという若者の大量発生という形で問題になるとしたら,この場合は成年年齢の引下げのような政策が有効であり得ると私は考えております。それは要するに自分の行動に対して自分で責任をとらせるという発想が彼らに対しては有効であり得るからということもあります。一方で,日本の若者のように,どちらかといえば非社会傾向が強い,つまりコミュニカティブではないのだけれども欲求不満耐性が低いという若者に対しては,私は,成年年齢の引下げといった方針が場合によってはマイナスに働く可能性があるという立場から,この引下げに関してはどちらかといえば反対という立場をとらせていただいています。これは,状況の認識が,今申し上げましたように,日本の若者の未成熟さの問題が非社会化傾向としてあらわれているということが大前提で,それゆえにこういった方向での法律の変更というのは彼らをますます厳しい状況に追い込む可能性があるのではないかということを考えますので,そのような意見を持っております。  通常は,こういった若者の能力的なアンバランスさ,未成熟さというのは,能力の欠如というよりは能力のアンバランスの問題と私は考えておりますので,成熟を促すということはこれらのバランスをどう回復するかということにつながってくると思うんですけれども,そういった意味では様々なキャリア教育とか,何らかの形で社会参加を促進するような支援策が望ましいとは思うのですけれども,その一方で彼らの自己責任を強調し過ぎるような持っていき方というのは,結果的に彼らの自覚を促すよりは彼らを一層衰弱させてしまうという傾向がはっきりと最近見えてきておりますので,その点を申し上げておきたいわけです。  といいますのは,実際問題,ひきこもりあるいはニートの若者が,例えば家族が病気になるとか,あるいは家族が亡くなってしまうとか,非常に社会的に追い詰められた状態になった場合に,彼らが一念発起して就労するか,働き出すかというと,そうはならないのです。多くの場合,彼らはそのまま例えば,私は在宅ホームレスという言い方をしていますけれども,公的機関との交渉が一切できないので,ライフラインが止まった状態で,家がありながらもホームレス的な生活になってしまうという傾向がまず一つあります。これは最終的には孤独死問題につながっています。それからもう一つは,就労とか福祉のセーフティーネットからこぼれてしまって家族全体で行き詰まった場合には,彼らは時々心中未遂を起こす。こういった事件は,2004年に東大阪市で36歳の男性が両親を殺害するという事件がありましたけれども,これに限らず毎年数件程度起きているのが現実でありまして,余り大きくは報道されませんけれども,結局追い詰められた場合に,彼らは自発性を回復するのではなくて暴発してしまう。ちょうどこの間の秋葉原の事件のような形です。ちなみに,あの秋葉原の事件については,反社会性の発露というよりは非社会的犯罪という特異なものではないかということをある社会学者の方が言っていましたけれども,私も全く同感でありまして,正にひきこもり・ニート的なメンタリティーを持った人が極端に自分自身を追い詰めた場合にどういうことに帰結するかということが大変象徴的に表現されていると私は考えました。  別の質問項目に戻りますけれども,成熟度の違いという御質問です。これにつきましては,精神科医の見方なんですけれども,既に20年前に出版された「アパシー・シンドローム」という本の中で,名古屋大学の精神科医の笠原嘉さんという方が「最近の若者の成人年齢は30歳である」と指摘されております。その当時からさらに20年を経ているわけですから,それよりも若返るというのはちょっと考えにくい。どちらかといえば一層上昇して,35歳から40歳ぐらいとか,そのように高年齢化している可能性が高いと考えております。  もう一つの傍証は,非定形うつ病という新しいタイプのうつ病が増加している。これは,表面的には困難な状態あるいはストレスの多い就労を避けて,職場の場面ではうつ状態になり,プライベートでは元気になるという,大変逃避的な傾向が目立つうつ病が最近のうつ病の圧倒的多数を占めると言われていますけれども,そういったうつ病の増加が30代,40代のサラリーマンを中心に広がっている。かつては,うつ病というのは成熟の病と言われておりまして,ある種責任感とか規範意識の強い人がかかる病気という説がずっと言われていたわけなんですけれども,最近そういった説が通用しないうつ病のほうが圧倒的に増えてきましたので,旧来の精神医学では対応しにくい病像のものが増えたということはもうどの精神科医も言うところだと思います。これは,病気という形態ではありますけれども,ベースとなる人格水準が未熟な状態であるがために,こういった新しいタイプのうつ病が増加するという現象につながっている部分があると考えられておりますので,病気という点から見ても,非社会化若しくは未熟化の問題というのは大変大きく反映されていると言ってよろしいかと思います。  非社会性の問題でもう一つ付け加えるならば,先ほどちょっと触れましたけれども,ニートやひきこもりと呼ばれる若者たちの高年齢化が進行中でありまして,平均年齢が30歳を超えつつあります。それから,第1世代と呼んでいいかと思いますけれども,ある程度のボリュームを持った世代で最初の世代が今40代の半ばでありますから,ひきこもり又はニートの状態で40歳代に到達したかつての若者が,全く変わらない未成熟さの問題を抱えたままで数万単位で存在すると推定されておりますので,ここにも未成熟化の深刻さが一つ反映されているかと思います。  それともう一つ背景としてある,これは私の印象にすぎませんけれども,多くの若者が口々に言うのは,彼ら自身が自分の成長可能性,変化の可能性を信じられなくなっている。つまり,自分がこの先勉強するなり様々の経験を積むなりして成長していく,変化していくという可能性は全く信じられないということを口にし,それを聞く機会が確実に増えてきております。これは,例えば10年,20年前の若者は余り口にしなかったことで,最近の傾向と考えていいと思いますけれども,これは見方を変えると,自分の変化とか自分の成長といったものに対しても希望を託しにくい,やはり社会構造的なものから由来する変化可能性への不信感みたいなものがあるのかなという印象を持っています。もちろん,すべての若者がそうであっては困りますけれども,相当多数の若者の中でこういう自分の変化可能性に対する不信感といったもの,あるいは変化しないであろうことへの確信といったものが大変大きい。そういったことも成熟に対する断念として既に存在するということがあると思います。ですから,これは成熟の機会を生かすことができないという問題につながりますし,もう一つは,様々な実際的な体験をしても,それが成長の機会となりにくい。通常はストレスを受けたりとかトラウマを受けたりすることが人格を成長させるという契機になるはずだったわけですけれども,そういったものとして生かされにくい状況が出てきているということがあると思います。  なぜ非社会性の問題をこれほど強調するかというと,社会自体の若者の自立促進という構造をどう構築するかという場合に,世間的な価値判断とか家族的な価値判断というものへの配慮を抜きにしては若者の自立促進というのは考えられないというのが私の偽らざる感想であるからです。つまり,例えば,御質問いただいた中で,親の同意なく契約ができるようになり,また親の親権に服さないこととなり,親の監護・教育を受けなくてもよいことになるが,どう考えるかということなのですが,今現在,では20歳の若者がそういう監督を受けなくて大丈夫かという問題意識と,それが18歳に下がってどう変わるかということを考えた場合に,ほとんど変わりはないだろうということを私は考えるわけです。それから,もう一つの婚姻の問題に関しましても,先ほど宮本委員からお話がありましたように,そもそも結婚というものからどんどん若者が離れている,非婚化傾向が進んでいる以上は,これも大した影響をもたらさないであろうし,もっと言えば,20歳で結婚するのと18歳で結婚するのとそれほど意識として違いがあるだろうかということを言わざるを得ない。言い換えれば,どちらも今は実質的には思春期の子ども扱いを受けている。少なくとも世間的にそうですし,それからまずほとんどの家族においてそのように見られているという現実がある以上は,家族自身が子どもを自立させるという強い決断と意識を持たない限りは,法律の部分で多少変わったところで,むしろ建前と本音の乖離,つまり法的には18歳だけれども実質的には25歳とか,そういう乖離がますます進むだけではないかというのが私の感想なわけです。ですから,世間の意識改革ということ抜きにはこれは考えられませんし,法律上の成年年齢を引き下げることで,現時点では単純に法律と世間的常識の間のギャップが広がってしまうということにしか帰結しないであろうという印象があるわけです。  例えば,仮に18歳で成人とした場合に,高校を卒業したての若者に対して,すべての親御さんが,「では明日から生活費を入れなさい。国民年金や健康保険は自分でやりなさい」と言い切れるかどうか。これはもうあり得ないです。ほとんど考えられない。まず無理でしょう。そのように,本人ではなくて,家族の意識改革がまず不可能であるということがあります。これは実質的に20歳でそれをやっている家族がほとんどないからということもあるわけです。実際的には,多くの家族は,特にひきこもり的な,あるいはニート的な若者を抱えた家族は,30歳になっても,40歳になっても,あるいは自分が年金を受給する年齢になっても,もらっている年金から彼らの年金を払っているという状況が現実にありますので,どの辺で親自身が子離れをするかという,この辺の意識をどのように変えることができるかにかかっているであろうと思いますので,当事者の教育もなんですけれども,親御さん側の意識改革みたいなものも同時に並行して考えていただく必要があろうかと思います。  それから,もう1点付け加えるならば,先ほど秋葉原の事件は象徴的と申しましたけれども,一つ特異なものとして考えられるのは,家族というものの機能がそろそろ限界に達してきている。つまり,従来はそれこそ家庭内暴力を振るわれようと何年ひきこもられようと,ほとんどの親は子どもを見捨てることなく抱えてきたわけなのですが,親の世代交代が進むにつれて親自身の欲求不満耐性が下がってきている。要するに親自身も未熟化してきていると言い換えてもいいかもしれませんけれども,その結果として,自分の意にそぐわない子どもは,家から出す,出さないまでも家にいづらい雰囲気をつくって,家から出ていってしまっても後を追わない。そういった形でホームレス化が進行している。これは大変まずいと私が思うのは,これは決して親の側の意識が変わって,子どもを自立させようという意識で家から出しているわけではないからで,単純に考えれば,これは親自身のエゴに抵触するから子どもは要らないといった発想で子どもが家から出されてしまっているという現象に近い。そういった意味では,この傾向が進むことによって,自立という意識が全く抜けたままで,ホームレス化が徐々にこれから進行していきそうな気配が漂ってきている。これを言い換えますと,ひきこもりは多分どこかで頭打ちになって,増加がとまると思うのですけれども,その分だけホームレスとしてあふれてくるという現象が今後親の世代交代とともに考えられると思います。  この場合に私が一つ懸念するのは,成年年齢の引下げに伴って,親が子どもを家から追い出すための大義名分を与えてしまう可能性があるのではないかということがちょっとだけあります。そこまであくどく利用するかどうかは,実際にやってみなければ分かりませんけれども,ただ親自身のそういう耐性が下がっている現在,もうあなた大人なんだから出ていきなさいと言われてホームレス化してしまう若者が増えたり,あるいは,もう一つの問題としては,ずっと親がかりの大人がさらに増えたり,そのいずれかの傾向に寄与する可能性として,私はどちらかといえば反対の立場をとらせていただきます。 ○鎌田部会長 どうもありがとうございました。  お招きしました皆様方に御意見をお述べいただきましたけれども,これからの時間は委員・幹事の方々から各先生方への御質問をお伺いしたいと思います。特に順序等は定めませんので,お気付きの点から御発言をいただければと思います。 ○松尾関係官 菊池参考人は「社会人」という観念を提示され,興味深く伺いましたので,幾つかお尋ねしたいと思います。  一つは,「社会人」という言葉にぴったり適合するような外国語,英語なりドイツ語なりはありますでしょうか。それとも,「社会人」というのはかなり日本特有の用語でありましょうか。  もう一つは,私が「社会人」という言葉を目にする機会が一番多いのは,就職した若い人あるいはその親御さんからあいさつ状をもらったり年賀状をいただいたりするときでありますが,就職ということで切り分けるとしますと,日本の大学の進学率はかなり上がってきて,これが50パーセントということになりますと,若い人の大まかに言って半分は18歳で,残りの半分は22歳で社会人という自己認識をすることになるかと思いますが,その点についてはどうお考えでしょうか。 ○菊池参考人 「社会人」という言葉は,例えば英語で「社会人」という言葉があるかどうかというのは,私も分かりません。英語になかなかなりにくいというか,やはり日本独特のような気がいたします。その「社会人」ということについて,私も松尾先生と同じように,就職したときにその感想として「社会人」という言葉が発せられるのをよく聞きますので,就職ということがその「社会人」ということを考えていくときの大変大きな内容になっているということは分かるのですが,ただ,それでは就職するということと「社会人」ということが全く重なるかというと,私は必ずしもそうは思わないのです。そこに就職ということを含めながらも,もっと広がりがあるだろうと。その広がりこそが私は大事なのだろうと思います。就職ということだけをそこの目安にしてしまうと,今おっしゃるように,高校を卒業して就職する場合と大学を卒業して就職する場合と様々になりますので,これではなかなか一緒にはならないんですけれども,恐らくそういう就職の持つ意味とか,その周囲の意味の広がりとか,そのあたりをもっと考えていくことが必要なのだろうと思っております。 ○鎌田部会長 ほかにいかがでございましょうか。 ○木村委員 菊池先生と宮本先生にお話を伺えたらと思うのですが,先ほど菊池先生から,特に民法の成年年齢というのは,社会へのスタートラインという位置付けもできるのではないかといったお話がございました。そして,その前提として,キャリア教育であるとか,宮本先生はシティズンシップ教育が必要であろうとのお話がございました。ただ,正直申しまして,キャリア教育やシティズンシップ教育というものが,現実の小学校,中学校,高校の教育の中で,どのように具体的になされているのか,あまり伺ったことがございません。   そのため,もう既に,具体的に相当程度展開されているのか,もしそうでないのであれば,どういうところに原因があるのか,何かお考えがあればお聞きできればと思います。 ○菊池参考人 私は,キャリア教育ということを申し上げました。キャリア教育というのは,先ほど言いましたように,確かに学校と社会を中心として考えられるということですから,直接的には就職などがそこでは取り上げられることになるのですが,しかし,ただ単なる就職ということではなくて,それを通して社会的な自立を考えるということであります。したがって,就職なら就職,あるいは職業なら職業ということで成り立っている社会というのをきちんと理解するということが必要で,その社会の中で自分はどうするのかということがその中心になろうかと思います。したがって,今行われているキャリア教育は,小学校,中学校,高校,それから大学でも最近はキャリア教育ということが言われておりますけれども,その学校段階によって当然その内容は違ってくるわけでありますけれども,私はその最も基本になっているのは社会を知るということだろうと思います。その社会を知るというのは,実は,今までの学校教育の中では最も苦手とするところでありまして,単なるいろいろ教科的な知識を教えるということに関しては学校は最も中心的に行ってきましたけれども,社会を知るといったことに関しては学校はなかなかできていないということがあり,このことが若者の社会的な自立とか社会への移行ということを考えたときに非常に大きな問題だったんだろうと思うのです。これをどうするのかということで考えられているのが,キャリア教育であります。したがって,このキャリア教育は,学校だけが勝手にやるということではなくて,学校が社会と協力して子どもたちをそういう社会人に育てるという教育と考えていただいて結構だと思います。  今よく行われておりますキャリア教育の一つは,中学校で行う連続5日間の職場体験というものです。5日間といいますのは,要するに通常の職業人が働いている1週間ということになります。その5日間,実際に子どもたちが職場に行って,そしてそこで働く大人たちを直接見る,そしてまた一緒に経験する。このことによって大人というものの持っている姿,大人ってすごいというNHKの番組がありましたけれども,正しくそのようなことを一つ一つ体験させることによって子どもたちの目を開き,そしてそれを今度は自分に向けていくといったことを目指す教育がキャリア教育であります。  この教育は,先ほど言いましたように,平成16年あたりから文科省が取り組んでおりまして,今それを推進しているということでありますけれども,木村先生がおっしゃるように,取り組んではいるのですけれども,まだまだ十分にその理解といいますか,それが広がっているとは言い難い段階ではあります。しかし,実際に取り組んでいるところをずっと見ていきますと,子どもたちはやはりそのような経験をするということによって大きく変わってくるというところが見えてまいります。ですから,そこに私は一つの可能性があるかなと考えております。 ○宮本委員 シティズンシップ教育について申し上げたのですけれども,キャリア教育とシティズンシップ教育というのは,対であるべきだと思います。これを別個に切り離してしまっては意味がなく,かつ,そうでなくても学校の授業科目はいっぱいで時間のない中で,ばらばらに教えても効果がないということが一点あります。その点で,キャリア教育と,シティズンシップ教育と,あと生活教育,この三点が必要だという感じがしております。つまり,生きる力,社会で生活する力,そして仕事について働く力という,これは実は連携した非常に重要なもので,言ってみれば大人になるために必要不可欠な体系だと感じております。  それで,例えば海外で実際にシティズンシップ教育というものがどのように行われているかということですけれども,日本でもよく知られているのは,イギリスのシティズンシップ教育の導入で,1990年代に導入されて,正規の科目になりまして,それ以降,そのシティズンシップ教育の評価に関してたくさんの報告が出ておりますけれども,実際のところは多くの批判があります。つまり,シティズンシップ教育というのは,教室の中で知識習得型の学習だけでは効果が上がらないわけでございまして,そういう点で,学校,それから地域,家庭それぞれのレベルが連携しながら,子どもに対して社会人になるための教育をしていくということだということで,フォーマル教育とインフォーマル教育とを有効に連携できるかどうかにかかっているのです。けれども,なかなかその辺は試行錯誤の連続でありまして,これをやって非常によくいったという段階にはないといったことも言われております。  私の見聞きしたところで,例えばヨーロッパの国の幾つかを回ってみたときに,シティズンシップ教育という名前はついていないですけれども,若者の社会への参画あるいは意思決定への参画ということは,EU加盟国はもうこれをやらねばならないということで合意をしてやっておりますので,各国が様々な営みをやっています。例えば学校の運営に対する生徒の参加,それから地方自治体レベルでまちづくりや自治体レベルの意思決定への青少年・若者の参画といったことをやっております。これも言ってみればシティズンシップ教育になるのだろうと思います。あるいはまた,少なくとも青少年が利用する地域にあるいろいろな機関に対して利用者として発言を必ずさせねばならないという形で彼らに意見を言わせるということで,要するにフォーマルなものからノンフォーマルなものまで,それから学校と地域の様々なレベルがいろいろな形で結集して,若者を社会の中にきちんと入れていく試み,これがシティズンシップ教育ではないかと思います。 ○鎌田部会長 ほかにございますでしょうか。 ○始関委員 今日3人の先生方のお話を承っていますと,若者が今抱えている問題についての認識とか,その分析という面においては,細かいところではいろいろ違うところはあったと思うのですけれども,大きく見ると,3人の先生方にそう違いはないのかなと理解しました。   しかし,そこから導き出される結論は菊池先生,宮本先生と斎藤先生とで正反対といいますか,大きく違うわけですけれども,そこはどうしてそのように違ってくるのかというのが素人にはいま一つよく分からなかったのです。そこで,菊池先生,宮本先生から見た斎藤先生の御意見についてのコメントとか,あるいは斎藤先生から見た菊池先生,宮本先生の御意見に対するコメントみたいなものをいただけると少し分かるのかなと思ったんですけれども,お願いできますでしょうか。 ○鎌田部会長 それでは,まず菊池先生からお願いいたします。 ○菊池参考人 私は,斎藤先生と違っているようにあるいは受け取られたというか,そのようになったかもしれませんけれども,私自身はそんなに違っていないのではないかなと思っています。つまり,斎藤先生は反対というふうなことをおっしゃいますけれども,しかし支援することは大事なことという点では共通しております。支援ということをどのように考えるかということによって随分それが変わってくると思っております。つまり,支援の条件というのをいずれにしてもしっかりしておかないと具合が悪い。それは私もそうで,無条件に18歳ということにすることに賛成しているわけではありません。それをするためには条件整備が当然必要になる。その一つとしてキャリア教育などが行われる必要があるということを申し上げているということです。 ○鎌田部会長 では,宮本先生,お願いします。 ○宮本委員 斎藤先生の御意見は,臨床の中で現に重い症状を抱えている若者を診る中で,そこから御懸念として出てくることだと思っております。つまり,正確な言葉になっているかどうか分かりませんけれども,自我形成が不十分であり,そして対人不安を非常に抱えている,既にもう成年年齢に達している若者に,いきなり日本の社会の仕組みというか,価値原理が変わって自立促進になったといったときの状態というのは,十分に想像できます。   私自身は,将来に望みを託して,この日本の社会全体の子育てにおける価値転換が必要だということを考えているわけですので,そういう点で言うと,もう幼少のころからの自立に向けた教育,そしてそのための社会環境整備,これがなければならないだろうということです。したがって,18歳に下げるか,今のままでいいのかという,これは大変悩ましい話ですけれども,私は,将来にかけてこの社会の在り方そのものを変えるという意味で,とにかく18歳に下げると。そのときに今の日本の状況の中で多くの危うい問題がありますけれども,そこのところを何とか条件整備することによって,18歳スタートという社会のタイプに変えていくという立場に立ってお話ししました。 ○鎌田部会長 では,斎藤先生,お願いします。 ○斎藤参考人 私も,菊池先生,宮本先生と現状認識はほぼ変わらないと思います。キャリア教育やシティズンシップ教育の必要性とか,その他の様々な若者をサポートする法整備の必要性に関しても全く意見は変わらないのですが,問題は順番の問題といいましょうか,部会資料22につけたコラムにも書いたのですけれども,例えばよくEU,ヨーロッパ並みに18歳に下げましょうという議論がありますけれども,この議論をする前提として大事なことは,だったらEU並みに若者支援も,法整備も,システムを整備してから下げるのであればいいかもしれない。ただ現状では,非常に立ち後れた現状がまずある。立ち後れというのは,先ほど申しましたように,非社会的にひきこもってしまう,非社会的に不適応になってしまう若者の姿はなかなか見えにくいことが一点。それからもう一つは,幸か不幸か,日本の家族がまだ機能しているので,すぐに対応しなくても何とかなってしまう,先送りできてしまうというところが一番の問題だと思います。つまり,家族に任せておいてもあと10年か20年もつというところがあって,政策上では多分優先順位はずっと後になると思います。後期高齢者問題とか,いろいろな目の前の何とかしなければならない問題がどうしても先に来てしまって,若者対策というのは後回しにしていい状況が残念ながらまだあって,後回しにしてよければ後回しにされてしまうと思うのです。後回しにされることが確実に予測できると私は思っているので,だったら引下げも後回しでいいのではないかという,どちらを先にするかという認識の違いだけではないかと思います。 ○鎌田部会長 ほかにいかがでございましょうか。 ○岡田委員 宮本先生お話の中に「生活教育」という言葉が出たような気がするのですが,私のように消費生活センターで相談を受けている立場からしますと,消費者教育とか法教育というのが前から言われていまして,消費者庁ができるということで更にそれが強く言われているのですが,今日お話を伺っていて,キャリア教育とかシティズンシップ教育がきちんとなされれば,改めて消費者教育とか法教育は必要ではないのではないかと思ったのですが,その辺をちょっとお聞きできればなと思います。 ○鎌田部会長 宮本委員,お願いできますでしょうか。 ○宮本委員 岡田委員のおっしゃるとおりだと思います。限られた時間の中でいかに有効に必要なものを若者たちに与えるかということですので,言ってみれば,一人前の大人にするために何を与えなければいけないのかというところで精選して与えるということで,そこにどういう名前をつけるかということは余り大きな問題ではないのではないかと思います。  それからもう一つ,教育と同時に,他の国で見られることは,若者に対する情報提供です。これに関しても,例えば消費者情報自体も,若者特有の問題に関する情報提供も極めて脆弱な状態にあると思います。つまり,親が守ってくれているということが前提になって,ストレートに若者に情報提供をする仕組みができていないと思います。過去10年から15年ぐらいの間に先進国では,若者のために必要とされている情報がそこへ行けば全部あるワンストップショップみたいなものが非常に多くできたのです。それは,仕事のこと,お金のこと,契約の問題,それから性の問題とか,エイズの問題その他,とにかくその人たちのニーズとしてあると思われることがそこへ行けば必ずある。それは大人とは違う若者期特有のニーズであるということでできたのですけれども,これはEUとしてもかなり重要な位置づけで,EUとしてお金を出し,各国にそういうものができたといったことがあるんですけれども,教育と情報提供というのは,これはセットだと思います。 ○鎌田部会長 ほかにいかがでしょうか。 ○氷海委員 菊池参考人の話の中で,大人の入口論からあって,関係,社会的な参加,そういう教育が非常に重要だと。それから,関係を与える,経験をさせる,その中で大人になっていくと。私は高校の現場にいるものですから,菊池参考人の話を聞いていると,今現在の日本の状況の中だと,成年年齢は19歳からがいいかなと思うのです。菊池参考人のお話を今現在に当てはめるのであると,高校生は難しいなと思ったのですけれども,いかがでしょうか。 ○菊池参考人 私もそう思います。実際に高校の先生方とかとお話をしますと,氷海委員のおっしゃるようなことを私も随分聞きます。つまり18歳というのは非常にいろいろなものが混じり合っていて,制度的に言うとどうもすっきりしないということが現実にはあるのだろうと思います。ですから,そういう意味で言えば19歳ということになるのかもしれません。けれども,ここで論議すべきは,だから18歳とか19歳とか20歳とかというところではなくて,18歳というのは今の成人のそれをもっと早くするということを象徴的に示していると思っておりますので,そういう言い方をしました。 ○鎌田部会長 ほかにいかがでしょうか。 ○松尾関係官 斎藤参考人からいただいた資料では,日本の若者は国際的に見れば反社会的傾向が極めて低い集団であると書かれておりましたが,私も一般論としては誠にそのとおりであると思うのです。しかし,つい先月秋葉原で無差別殺人事件が起こりました。犯人は若者であり,そしてその後インターネットへの書き込みでは,犯人に同調し共感するような書き込みが著しく多かったと報道されております。この辺はどう理解したらいいでしょうか。 ○斎藤参考人 先ほどの御報告でも少しだけ触れたのですが,あの事件に関しましては,いわゆる逸脱キャリアタイプの,つまり非行少年タイプの起こすような犯罪とは全くタイプが違うのです。要するに,不良とか非行グループの中でキャリア形成をしてきて,そういう中でなされた犯罪というのとはわけが違うものでありまして,言ってみれば,自傷行為とか,ある種の自殺若しくは心中,自爆テロと言った人もいますけれども,そういったものにかなり近いのではないかという解説がなされていて,もちろん本人を診たわけではありませんから断定はできませんけれども,彼が書き残したとされているものとか,それから周りの共感の在り方を見ても,そういったことはある程度言えるのではないかと感じております。ということは,もちろん形態としては犯罪ですから反社会的行為ではあるのですけれども,意識としては非社会的な行動に限りなく近い犯罪であるという見方が成り立つと思います。それから,主に彼に寄せられている共感の大半もそういった部分での共感,つまり非社会的な存在で,コミュニケーションの回路にどうしても入れなかった葛藤に対する共感,もっと言えば,異性にもてなかったとか,仲間がつくれなかったとか,友達がいなかったとか,そういう自意識,そういう自分はコミュニケーション弱者であるという,そういった意味での負け組であるという,そういった意識に対する共感が大変強い。こういった方の攻撃性が例えば「おれもああいうふうにやってみたい」という表現はとるかもしれません。けれども,ただ確率としてそれが実際行動に移される可能性は極めて低いと思いますし,もし高かったら,本当にあれが呼び水になって同種のものが続発していると思いますけれども,幸いそうはなっていないということから考えましても,あの事件をもって若者の反社会的傾向全体を代表させるのはちょっと違うのではないかというのが私の認識です。 ○鎌田部会長 ほかにいかがでございますか。 ○出澤委員 菊池先生にお尋ねいたします。結論としては,18歳にすべきであるとのことでしたが,先ほどのお話の中で,若者を囲むいろいろな条件を作っておいて初めて18歳にする意味がある。そこで,その一つとして社会参加,それから一つの可能性としてキャリア教育とおっしゃっていると思うのですけれども,果たしてこれが本当に可能なのでしょうか。先ほど斎藤先生がおっしゃったように,それが後回しにされる危険性がある。そうすると,こういう条件というものが整備されないまま,成年年齢だけが下がってしまうという危惧をちょっと感じたのです。条件が整備されるということであれば,それは成年年齢を下げても差し支えないということは,一般論としてはそのとおりだと思いますが,現実的に今の社会で,社会構造や政策なども含めて,本当に可能なのでしょうか。それから,可能であるとすれば,どのくらいの猶予期間が必要なのでしょうか。先ほど宮本先生から価値の転換といったお話も出ましたけれども,その転換をするにはやはりそれなりの準備期間が必要だと思うのですが,その準備期間としてはどのくらい置くのが適切なのか,このところをちょっと教えていただきたいと思います。 ○菊池参考人 一つの可能性としてキャリア教育といったことを申しましたけれども,私はやはり可能性としてと言わざるを得なくて,そういう言い方をしたということであります。ただ,キャリア教育の取組を見ておりますと,これは単に子どもたちがずっと変わってくるということだけではなく,実は親も変わってくるというところがあります。つまり,それによって子どもだけではなくて,親もその子どもの将来のこと,子どもの自立のことについての考え方などがちょっと変わってくるというところが実際には見えております。そういうことも含めて可能性といったことを申し上げたわけです。ただ,では何年ぐらいということになりますと,これは正直言って私も,何年ぐらいで大丈夫ですということは今の段階ではなかなか申し上げにくいというところでございます。ただ,確かにそういったことの取組というのが,一定の成果を挙げているということは,私は実感しているところです。 ○鎌田部会長 大村委員,お願いいたします。 ○大村委員 斎藤先生の御説明を大変興味深く伺いましたけれども,本日いただいた部会資料22の最後に書かれている結論部分について一点だけ確認させていただきたいと思います。  最後に,世間全体の自立に関する意識が大幅に変わらない限り,成年年齢の引下げは,利益よりも不利益のほうがはるかに大きいということで,どちらかというと引下げには反対であるという御意見だったかと思います。ここで書かれている不利益の中身について少し確認させていただきたいのです。伺ったお話の中では,18歳でもう成年だということで,子どもに対する援助を放棄する親も現れるかもしれないといったお話がございました。あるいは,年齢だけ下がって,若者支援のための方策が講じられないという危険もあるだろうというお話もございました。それ以外に何か不利益ということでお考えになっているものがありましたらお教えいただければと思います。 ○斎藤参考人 今整理していただいたことと重なるかもしれませんけれども,私は必ずしも成年年齢と成熟度が一致する必要はないと思いますし,これはそういう話ではないということは承知しております。しかし,それはそうだとしても,ある程度の一致は希望したいという気持ちは持っているわけです。ただ,成熟に関しては,先ほど申しましたように,どんどん高年齢化しているという現実がある以上,法的な成年年齢を引き下げた場合の乖離が進むことによって成熟に対するシニシズムがさらに進行する。法的には大人であるけれども,全然子どもだといった意識が一層世間的な部分あるいは家族的な部分で蔓延してしまうのではないかという,これがむしろ退行として成熟意識を遠ざけてしまう,成熟の必要性とか,それを促すような意識みたいなものを遠ざけてしまうのではないかという懸念をちょっと持っておりますので,実質的な成熟と法的な成年年齢の乖離の進行がもたらすシニシズムに関する懸念ということがもう一つ付け加えられると思います。 ○鎌田部会長 それでは,始関委員,お願いいたします。 ○始関委員 斎藤先生にお伺いしたいのですけれども,先ほどの先生の御報告の中で,ひきこもりとかパラサイト・シングルの高年齢化などの問題が起きているということをおっしゃられたんですけれども,ということは,今我々が直接問題にしようとしている17歳,18歳とか,あるいはもう少し下の世代の人たちは,今後そういうひきこもりとかパラサイト・シングルにはなっていかなくなりつつあるということなのでしょうか。 ○斎藤参考人 条件が二つあるということでお話したのですけれども,一つは,若者の未成熟化が非社会傾向として現れてきているということが大前提です。非社会傾向を促し支えていたものは,一応まだ機能している家族であるということです。高年齢化の背景には,家族の支えみたいなものが,なかなかそこから抜けられないということが一つ大きな要因としてありまして,これがニート・ひきこもり状態に40代,50代になってもとどまり続ける,かつての若者を増やしているという部分があろうかと思います。もう一つの懸念としては,家族の機能がこれからだんだん衰弱していくという可能性です。家族の機能が衰弱しますと,その子どもをずっと抱えていく器としての家族形態がなくなってしまって,全く成熟の準備がない状態で家から出されてしまうという形で若者が放り出されていく。そういった意味では,これはある意味で最悪のパターンでありまして,どのように最悪かというと,家族にも本人にも,自立とか,それこそ先ほどから問題になっているキャリア教育とかシティズンシップ教育などいう意識を全く欠いた状態で,単なる成り行きに任せる形で家から出されてしまって,それでホームレス化してしまうという傾向が進行してしまう可能性が高いということ。これは確かにひきこもりの増加に関しては明らかに抑止になると思いますけれども,さらに悪い状態としてのホームレス化というものが進むのではないかという懸念です。ホームレスが非社会化にいくのか,反社会化にいくのか,これはまだ予測がつきませんけれども,どちらの可能性もあると思いますので,それは今起きている非社会化よりもさらに悪い事態として懸念すべきことではないかというのが私の現時点での見解です。 ○鎌田部会長 よろしいですか。 ○始関委員 はい。 ○鎌田部会長 若者の社会性とか,きちんと社会に溶け込ませるような教育が必要だということなんですけれども,最初の松尾関係官のお話とも関連するのですが,では具体的に何をやるんだとイメージしたときに,社会とのかかわりというのは,就職というのは非常にはっきりするのですけれども,それ以外に一体どういうものを具体的にイメージされるんでしょうか。昔私が生まれたような田舎だと,就職している人など少ないので,家業を継ぎながら社会の中で一人前と認められるための儀式というか,何かいろいろなものがあったような気がするのですけれども,現代社会というのは,もう都市であろうと農村であろうと,就職というのが社会とのかかわりの中心になっていると考えるべきなのでしょうか。そうだとしたときに,それ以外の社会のシティズンシップ教育みたいなものの具体的な内容としてどういうものが想定されるのかということをもし簡単にお話しいただければ,教えていただければと思います。 ○宮本委員 これもプロセスなんだと思います。私がいろいろ見聞きしてきた中で,北欧の国では中学生くらいの年齢でユースフォーラムとかオープンフォーラムを各地で開いております。それは,それぞれの自治体に対して若者が参画して意見を言い,影響力を行使するという機会で,これも90年代,若者の意思決定への参画政策の中でEU諸国の中に広がったものですけれども,その中学生が3か月に1回くらいのペースでオープンフォーラムに集まってくる。そして,そこで地方議員や青少年局長を相手にしていろいろな要望を上げる。その準備のために,ユースワーカーとかが指導の責任を持ちながら,彼らの発言をまとめていく指導をして当日に臨み,そこで発言したことは必ずそれが反映されるという仕組みを持っております。そうしますと,もう中学のころから半分地域社会に参画するということになっていくわけで,大人はその延長というようなことになると思うのです。そうしますと,経済的には未熟であるけれども,社会には何らかの影響は与えられるという位置づけになると思います。  それから,就職すると一人前ということなんですけれども,実態としては,今先進国では,仕事と教育制度というのは,教育の次に仕事の世界があるというのではなく,横に並んでいるものではないかと考えます。仕事と学校の間を行き来するという段階に入っているということがよく言われますけれども,そういう点では半分学生,半分労働者ということでありまして,完全に就職して完全に大人というモデルは,日本の工業化時代の終身雇用制のときのモデルだと思うのです。もう,その段階ではないのではないかと。先日の高校生のインタビューで私が強く感じたのは,高校生の中でもある一定の割合の子は,もう高校時代に半分経済的に自立している。けれども,完全に自立するまでにはあと相当期間がかかる。そういう状態なので,その人たちには半分経済的自立を前提にして必要なことをきちんと与える。これが大人になるプロセスなのではないだろうかと思います。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  菊池先生,今の点に関連して何かございますか。 ○菊池参考人 職業がといったことなんですけれども,実はキャリア教育などということが出てきました一つの理由として,要するに就職すればそれでオーケーということではないという状況がそこにあったからです。それは,せっかく就職をしてもすぐにやめてしまったり,あるいは就職すること自体が難しいということもあるのですけれども,たとえ就職しても,それが本当の意味での自立になかなかつながっていかないということがある。だから,単なる就職ではなくて,働くということ自体を取り囲むいろいろな条件というのはやはりあるだろうといったことでこの問題を考えていくということなんだろうと思います。キャリア教育の取組は正にそこにあると思います。 ○鎌田部会長 斎藤先生,何かございますか。 ○斎藤参考人 実際に教育のシステムをつくる上では,菊池先生,宮本先生がおっしゃるようなものに私が付け加えるものはありません。ただ,もちろんそういう意図でおっしゃったのではないとは分かっているつもりなのですが,一つ懸念されるのは,キャリア教育を進めていく場合に,就労という価値観のみが前景化してしまって,それからこぼれてしまった人たちに対する偏見といったものが強化されますと,これは結局一つの構造として,そういった不適応の若者に対するプレッシャーとして作用したりとか,その状態から抜け出せない状態をつくり出してしまう可能性がある。だから,大事なことは,多様性に対する寛容度みたいなものを高めることで,それも教育の一環としてなされるほうが望ましいのではないかと思うのです。これに関連して言えば,「ニート」という言葉を輸入された玄田有史さんが支援者を支援する若者をつくりましょうということをよく言います。つまり,若者をサポートする若者を教育するという方向だと思いますけれども,そういった方向でドロップアウトした,あるいはひきこもった非社会的な状態にとどまり続けているような若者に対する寛容性を高める,あるいはもっとそれをサポートし支援するような立場の人たちが増えることは,間接的な要因ではありますけれども,そういった若者を減らす意味で大変大事だと思います。これは逆に考えられがちなので申し上げておくのですけれども,社会の寛容性が高まるとそういった甘えた状態にとどまる人が増えるのではないかという誤解がまだ多いですけれども,基本的に自立を促す最低限の前提は,周囲の安心感と信頼感なくして自立への動機づけというのは不可能だというのが我々の常識です。そういう点から考えると,社会が不寛容な状況ではますますそういう問題が広がってしまう可能性があるということを申し上げておきたいと思います。そこに関して教育が多少寄与し得るのではないかということをちょっと期待しているところです。 ○鎌田部会長 ありがとうございました。  それでは,菊池参考人,斎藤参考人,宮本委員,長時間にわたりまして大変有益なお話を伺うことができました。どうも本当にありがとうございました。  最後に,事務当局に次回の議事日程等について説明してもらいます。 ○佐藤幹事 次回の議事日程について御連絡します。   次回の日程は,7月22日火曜日,午後1時30分から午後4時30分までで,場所は本日と同じ法務省第1会議室を予定しております。   次回は,京都大学霊長類研究所教授であります正高信男先生,花園大学客員教授であります水谷修先生,当部会の委員であります仲真紀子委員の3名からヒアリングをさせていただきたいと考えております。 ○鎌田部会長 それでは,法制審議会民法成年年齢部会第5回会議を閉会にさせていただきます。  本日は御熱心な御審議を賜りまして,ありがとうございました。 -了-