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アブ・サヤフ・グループ(ASG)
Abu Sayyaf Group

フィリピン南部を拠点に活動するイスラム武装勢力。

別称(正式名称):
「イスラム運動」(アル・ハラカト・アル・イスラーミーヤ,Al Harakat Al Islamiyyah)

(1) 設立時期

1991年(注1)

(2) 活動目的・攻撃対象

ア 活動目的

フィリピン南部・ミンダナオ地方並びに「かつてスールー・スルタン国の支配下にあった」とされる同国中部・ビサヤ地方及び北部・ルソン地方に,「シャリーアとスンナ(預言者ムハンマドの慣行)に基づくイスラム国家」を設立すること(注2)

イ 攻撃対象

「ムスリムの居住していた地域へのキリスト教徒の『入植』を推進」しているフィリピン政府(注3)。個々の標的には,治安部隊のほか,民間人・施設などが含まれる。

(3) 活動地域

フィリピン南部・バシラン州,スールー州,サンボアンガ市など。

(4) 勢力

フィリピン国軍は,2017年3月時点で,ASGの勢力を最大500人程度としていたが,同年1月1日以降12月30日までに殺害,逮捕されるか投降したASGメンバーは352人に上るとしており,相当数の人員を失ったとみられる。

(5) 組織・機構

ア 指導者,幹部等

(ア) ラドゥラン・サヒロン(Radulan Sahiron)
別名:
コマンダー・プトル(Commander Putol)

フィリピン南部・スールー州を拠点とするASG各派の指導者。1955年又は1952年前後の生まれ。フィリピン南部・スールー州ホロ島パティクル出身。「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)には忠誠を誓っていないとされる。

国連安保理「アルカイダ」及び「タリバン」制裁委員会は,2005年12月,同人を制裁対象に指定した。

1999年時点で,ASGの諮問評議会(14人)の一員となっており,2002年中頃にはASG指導者カダフィ・ジャンジャラニ(当時)の顧問を務めた。また,2000年から2003年まで,ASGプトル派の指導者として,ホロ島で約100人を率いた。スールー州を拠点とするASG計18派のトップ又はホロ島におけるASG総合司令官に就いていたともされる。カダフィ死亡後の2008年時点で,ヤシル・イガサン(後述)及びイスニロン・トトニ・ハピロン(後述)と共に指導部の一員となっていた。2002年にホロ島で民間人数十人が死傷した爆弾テロ事件のほか,多数の身代金目的誘拐事件に関与したとされる(注4)。2017年4月頃,加齢を理由に,地元の長老らを通じて国軍への投降を打診したが(注5),ASGへの軍事的圧力を緩めさせるための戦術に過ぎなかったとみられている(注6)

(イ) イスニロン・トトニ・ハピロン(Isnilon Totoni Hapilon)(死亡)

フィリピン南部・バシラン州を拠点とするASG各派の指導者,フィリピンにおけるISIL支持勢力の指導者(注7)。1966年3月18日又は1967年3月10日生まれ。フィリピン南部・バシラン州ランタワン出身。

2015年12月,他の武装組織指導者らと共に,改めて,ISIL最高指導者アブ・バクル・アル・バグダディに忠誠を表明した(注8)。2016年12月,南ラナオ州に移動してISILに忠誠を誓っていた「マウテ・グループ」と合流し,2017年5月,同グループなどと共に,同州マラウィを占拠したが,5か月にわたる立て籠もりの末,同年10月16日,国軍によって殺害された。

(ウ) アブドゥラジャク・アブバカル・ジャンジャラニ(Abdurajak Abubakar Janjalani)(死亡)
別名:
アブ・サヤフ(Abu Sayyaf)

ASG設立者,初代指導者。1981年から1984年にかけて,サウジアラビア及びリビアに留学。1987年にパキスタンへ渡航してオサマ・ビン・ラディンと知り合い,アフガニスタンでソ連との戦闘に従事した(注9)。本人とされる者によると,フィリピン南部における独立国家建設を標榜していた「モロ民族解放戦線」(MNLF)に当初所属していたが,イスラム教徒の女性がキリスト教徒に刺殺されたとされる事件への対応をめぐって脱退し,フィリピン南部における「イスラム国家」の分離独立を掲げて1991年4月,「イスラム運動」(ASGの正式名称)を設立した(注10)(注11)

その後,フィリピン南部などで,爆弾テロや襲撃,誘拐事案を引き起こしたが,1998年12月,治安部隊によって射殺された。

(エ) カダフィ・アブバカル・ジャンジャラニ(Khadafi Abubakar Janjalani)(死亡)

ASGの第2代指導者。1975年3月3日生まれ。フィリピン南部バシラン島・イサベラ出身。初代指導者アブドゥラジャクの弟で,兄の死後,ASG指導者に就いたが,2006年に死亡した(注12)

(オ) フルジ・インダマ(Furuji Indama)
別名:
アブ・ドゥジャナ(Abu Dujanah)

バシラン島を拠点とする武装集団「カティーバ・アブ・ドゥジャナ」指導者。ISILのアラビア語週刊誌「アル・ナバア」によると,同人は2016年4月,ハピロンの傘下に入り,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を表明した。ハピロンが同年12月に南ラナオ州に移動した後も,バシラン島に残り,治安部隊や村人への襲撃を継続している。ハピロンの後継者候補の一人とされている。

(カ) アブ・アナス・アル・ムハージル(Abu Anas al Muhajir)(死亡)

武装集団「アンサール・アル・シャリーア」元指導者。マレーシア人。2015年12月,ハピロンの傘下に入り,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を表明したが,同月,バシラン島における戦闘で死亡した。

(キ) モハメド・アミン・バコ/バチョ(Mohammed Amin Baco/Bacho)

武装集団「ジュンド・アル・タウヒード」指導者,元「ダルル・イスラム」(DI)メンバー。マレーシア人。1983年頃の生まれ,マレーシア・サバ州タワウ出身。インドネシア東部・マルク州アンボンで戦闘に参加したほか,フィリピン南部に逃走したJIメンバーのマルワンから爆弾製造訓練を受けたことがあるとされる(注13)。ホロ島のASG司令官ハティブ・ハジャン・サワジャアン(後述)の娘及びハピロンの娘と結婚したとされる(注14)。2016年3月までにハピロンの傘下に入り,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を表明した。ハピロンと行動を共にし,2017年5月に始まったマラウィ占拠事案にも参加した。国軍によるマラウィ制圧後の消息は不明である。ハピロンの後継者候補の一人との指摘もある。

(ク) ヤシル・イガサン(Yasir Igasan,Yasser Igasan)

スールー州ホロ島を拠点とするASG幹部。1972年頃の生まれ(注15)

タウスグ族出身の宗教学者。マラウィのイスラム系教育機関「ダルル・イマム・シャフィン」(オサマ・ビン・ラディンの義弟ムハンマド・ジャマル・ハリーファが1988年に設立)で,カダフィ・ジャンジャラニと共に学んだ。10代でアフガニスタンに渡航し,ソ連軍との戦闘に参加したほか,同地でASG設立者アブドゥラジャク・アブバカル・ジャンジャラニと出会い,帰国後,ASG設立に際して協力した。1995年にフィリピン南部・南サンボアンガ州で発生したイピル襲撃事件にも加わった(注16)

1998年に指導者アブドゥラジャクが死亡した後,イガサンも後継候補の一人となったが,現場司令官らの推挙によって,カダフィ・ジャンジャラニが指導者に選出された。1990年代後半までに再びフィリピンを出国し,リビア及びシリアで宗教学習に励んだ(注17)。2001年には,外国人労働者としてサウジアラビアに渡航し,同地でASGへの資金調達に関与した。

その後,2006年にフィリピンに帰国し,同年のカダフィ死亡後,ASGの精神的指導者を務めているとの見方もある(注18)。2008年時点で,ラドゥラン・サヒロンらと共にASG指導部の一員となっていたとされる(注19)

(ケ) インダン・ススカン(Indang/Idang Susukan)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官。イタリア人誘拐(2015年10月),マレーシア人誘拐・斬首(同年5月),韓国人船長及びフィリピン人船員誘拐(2016年10月)などに関与したとされる。

(コ) アブ・ラミ(Abu Rami)(死亡)
別名:
ムアンマル・アスカリ(Muammar Askali),アブ・アンマル(Abu Ammar)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官で,報道担当も務めていたが,2017年4月,ボホール州イナバンガで,治安部隊との銃撃戦で死亡した。2015年12月にハピロンの傘下に入り,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を表明したASG内の武装集団「カティーバ・マラカト・アル・アンサール」指導者アブ・アンマルと同一人物とみられている。

(サ) ハティブ・ハジャン・サワジャアン(Hatib Hajan Sawadjaan)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官。カナダ人人質2人の斬首(2016年4月及び6月)に関与したとされる。ISILに忠誠を誓った可能性が指摘されている。

(シ) タウィン・フマイル(Tawing Humair)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官。2016年3月に発生したインドネシア人船員誘拐事件に関与したとされる。

(ス) マジャン・サヒジュアン(Majan Sahidjuan)
別名:
アポ・マイク(Apo/Apoh Mike),マジャル・アドジャ(Majal Adja)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官。2016年6月に発生したインドネシア人誘拐事件に関与したとされる。

(セ) ラズミル・ジャナティル(Rhadzmil/Radzmil Janatil/Jannatul)
別名:
クバイブ(Kubayb)

バシラン州を拠点とするASG司令官。配下のウソプ・サンダラン率いるグループは,2018年1月,元ASGメンバーの夫婦を斬首した。

(ソ) アルディン・バガディ(Aldin/Alden Bagadi)
別名:
アブ・サイニン(Abu Saining/Sayning)

スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官。

イ 組織形態,意思決定機構

第2代指導者カダフィ・アブバカル・ジャンジャラニの死亡後,個々の司令官に自律性が与えられ,指導部は緩やかな「逆ピラミッド構造」(注20)を採用したとの見方がある(注21)。また,組織としての明確な輪郭はなく,複数の小規模グループが同盟関係で結び付いているに過ぎないとも評されている(注22)

2014年から2016年までのASG勢力は,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を誓ったハピロンが率いるバシラン州の勢力と,こうした忠誠を表明していないスールー州の勢力に大別される。ハピロンは,ISIL中枢から指示や支援を受けていたとされるが,ハピロンが南ラナオ州に移動した後もバシラン州に残留したフルジ・インダマ率いる勢力が,いかなる組織形態を取っているかは明らかでない。

また,スールー州では,司令官のアブ・ラミ(2017年4月死亡)を含む一部派閥がISILに忠誠を誓ったとされるが,同人死亡後,新たにISILへの忠誠を誓った派閥の存在は確認されていない。同州のASGは,各司令官が自律的に活動する構造が維持されているとみられる。

(6) 沿革

アブドゥラジャク・アブバカル・ジャンジャラニは,1991年4月,フィリピン南部・ミンダナオ地域を始めとする各地に「イスラム国家」を設立することを目的にASGを設立し(注23),1996年頃にかけて,主にキリスト教会,宣教団及び聖職者を標的としたテロを繰り返した(注24)。また,バシラン島に拠点となる「キャンプ・アル・マディーナ」を設立したが(注25),1993年5月に治安部隊の急襲を受けて同拠点が制圧されたため,ジャンジャラニは,政府との和平交渉に反対するホロ島のMNLF司令官らに接近し,ラドゥラン・サヒロンらをASGに加入させたとされる(注26)

ASGはまた,設立当初から1995年頃までの間,オサマ・ビン・ラディンの義弟を通じて「アルカイダ」の資金援助を受けていたとされるほか(「(7)イ(ア)」に後述),複数のASGメンバーが,1991年から翌年にかけて,後に「アルカイダ」幹部となるハリド・シェイク・モハメドの甥(おい)ラムジ・ユセフから爆弾製造訓練を受けたとされる。ユセフは1993年以降,フィリピンに設けたアジトで,太平洋上で航空機12機を爆破する「ボジンカ作戦」なるテロ計画を進めていたが(注27),この際,ASGが同人に作戦上の支援を行っていたとも指摘されている(注28)

1998年,アブドゥラジャクが治安部隊に射殺された後(注29),後継者としてヤシル・イガサン,カダフィ・ジャンジャラニ及びラドゥラン・サヒロンの3人が候補に上がり,選挙により前二者に絞り込まれた後,現場司令官らの推挙によってカダフィが新指導者に選ばれた(注30)

しかし,ASGは,その後カダフィ率いるバシラン州の派閥とガリブ・アンダン(別名コマンダー・ロボット)率いるスールー州の派閥の二大勢力に事実上分裂する状態となったとされる(注31)

こうした中,2001年9月の米国同時多発テロ事件を受けた「テロとの闘い」の一環で,ASGに対する掃討作戦が強化され,カダフィの派閥内ライバルであったアブ・サバヤが2002年6月に死亡したほか,ガリブ・アンダンも2003年12月に拘束された。そのため,カダフィは,ASGの組織全体を一定程度統制することが可能となったとされる(注32)

他方,治安当局の掃討作戦を避けるため,ASG指導者らは,バシラン島からミンダナオ島中部に逃れ,「モロ・イスラム解放戦線」(MILF)内にいた強硬派司令官の庇(ひ)護を受けた。この頃,ASGは,改宗者らから成る過激組織「ラハ・ソレイマン運動」(RSM)と連携してマニラ首都圏に活動領域を広げ,2004年及び2005年に同地域で大規模爆弾テロを実行した(注33)

2005年後半に入り,ASG指導者らは,ホロ島に逃れたが,掃討作戦も同島へシフトし,2006年には指導者のカダフィが死亡した(注34)

(7) 最近の主な活動状況

ア 概況

ASGは,バシラン州を拠点とする派閥とスールー州を拠点とする派閥に大別される。バシラン州を拠点とする派閥はISILに忠誠を誓っているが,スールー州を拠点とする派閥は,故アブ・ラミら一部の例外を除いてISILには忠誠を誓っておらず,その活動も身代金目的の誘拐が中心となっている。

バシラン州では,2014年にISIL最高指導者バグダディに忠誠を誓ったハピロンのグループが,国軍への攻撃を繰り返した。2015年12月には,他の小規模な武装組織を傘下に収めたとした上で,改めてバグダディへの忠誠を誓い,2016年4月には,国軍との衝突で兵士18人以上を殺害した。これに対し,フィリピン国内の事件としては初めてとなるISIL名の犯行声明が発出されたほか,ISILは同月,同組織のアラビア語週刊誌「アル・ナバア」の中で,「『イスラム国』は,同人(ハピロン)をフィリピンにおけるカリフ国兵士のアミールとして承認した」と言及した。ハピロンとその配下は,同年12月,南ラナオ州に移動し,「マウテ・グループ」と合流した上,2017年5月には,同州マラウィの市街地を占拠したが,5か月間にわたる戦闘の末に国軍に制圧され,ハピロンらは死亡した(「特集」参照)。

バシラン州に残ったグループは,インダマの指揮下で,政治家への攻撃,民間人殺害,恐喝などを実行している。

また,スールー州を拠点とするグループは,主として身代金目的の誘拐(海上での船員誘拐などを含む)を実行し,掃討作戦を行う国軍を襲撃するなどしているほか,国軍に協力するMNLFとも衝突している。

イ 他勢力との連携等

(ア) 国際テロ組織等

a 「アルカイダ」

1990年当時,「国際イスラム救援機構」(IIRO)のフィリピン支部長を務めていたオサマ・ビン・ラディンの義弟ムハンマド・ジャマル・ハリーファは,ASG指導者アブドゥラジャク・アブバカル・ジャンジャラニ(当時)と面会した後,同人に「アルカイダ」の資金を提供するようになったとされる(注35)(注36)。しかし,ハリーファは,「ボジンカ作戦」((6)参照)に関与したとしてフィリピンに入国できなくなったため,ハリーファを通じた「アルカイダ」の資金援助は1995年に途絶えたとされる(注37)

b 「ジェマー・イスラミア」(JI)

JIは,2000年代前半,ミンダナオ島に訓練キャンプを設け,ASGメンバーらを受け入れていたとされる。これらのキャンプが閉鎖された後も,JIの残存メンバーは,現地の過激組織と協力関係を保ち,爆弾製造技術を教えたり,精神的指導者の役割を果たしたりしたとされる。(第Ⅱ部11「ジェマー・イスラミア」〈JI〉の項を参照)

c 「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)

イスニロン・ハピロンのグループは,2014年6月にISILが「カリフ国家」設立を宣言した後,ISIL最高指導者バグダディに忠誠を誓った。ISIL側は2016年1月,週刊誌「アル・ナバア」第12号で,ハピロンらの忠誠表明を確認するとともに,同年4月には,同誌第27号で,ISILがハピロンを「フィリピンにおけるカリフ国兵士のアミールとして承認した」と発表した。さらに,同年6月にインターネット上に掲出されたISILのビデオでは,フィリピンやマレーシアのISIL支持者に向けて,ハピロンの下への合流が呼び掛けられた。

(イ) その他

婚姻関係などを通じて,MNLFを含め,スールー州の社会に一定程度浸透しているともされる(注38)

ウ リクルート

イスニロン・ハピロンのグループについては,南ラナオ州へ移動して「マウテ・グループ」と合流する以前の2016年当時,バシラン島において,新メンバー募集集会の開催などによって,同島に多く居住するヤカン族出身者をリクルートしていることが指摘された。その際には,現金(5,000ペソ:約1万1,000円)やM-16ライフルの供与が約束されたとされる(注39)

年 月 日  主要テロ事件,主要動向等
91. 4. 4  アブドゥラジャク・ジャンジャラニら「アブ・サヤフ・グループ」(ASG)メンバーが,フィリピン南部・サンボアンガ周辺で,米国人宣教師2人を殺害
93. 3. 3  フィリピン国軍が,同国南部・バシラン州イサベラ市近郊に所在するASG本拠地「キャンプ・アル・メディナ」を攻撃し,1週間以上にわたる戦闘の末,制圧
95. 4. 4  フィリピン南部・南サンボアンガ州イピルの市街地を襲撃して,商業ビル多数に放火し,53人が死亡,48人が負傷
98.12.18  フィリピン南部・バシラン州ラミタン近郊での警察当局との戦闘で,最高指導者アブドゥラジャクが死亡
00. 4.23  マレーシア東部・サバ州シパダン島に所在するリゾートホテルを襲撃し,外国人観光客20人を含む21人を誘拐
01. 5.27  フィリピン西部・パラワン州に所在するリゾート地区ドス・パルマスで,米国人観光客3人を含む20人を誘拐,米国人1人を含む3人を斬首
02.10. 2  フィリピン南部・サンボアンガで,爆弾を爆発させ,米軍兵士2人を含む3人が死亡。「ジェマー・イスラミア」(JI)との共同作戦とも指摘
04. 2.27  「ラハ・ソレイマン・イスラム運動」(RSIM)メンバーと共に,フィリピンのマニラ首都圏に停泊していた貨客船「スーパーフェリー14号」を爆破し,100人以上が死亡。ASG報道担当アブ・ソレイマン(本名ジャイナル・アンテル・サリ・ジュニア)が犯行声明を発出
05. 2.14  フィリピンのマニラ首都圏マカティ,同国南部・ジェネラルサントス及びダバオで,RSIMメンバーと共にほぼ同時に爆弾を爆発させ,計11人が死亡,100人以上が負傷。事件後,アブ・ソレイマンが犯行声明を発出
06. 9. 4  フィリピン南部・スールー州でのフィリピン国軍による取締作戦で,最高指導者カダフィが死亡
07. 1.16  フィリピン南部・スールー州でのフィリピン国軍による取締作戦で,アブ・ソレイマンが死亡
07. 7.11  フィリピン南部・バシラン州ティポティポで国軍と衝突し,国軍兵士14人が死亡,9人が負傷。死亡者のうち10人が斬首された状態で発見。フィリピン政府は,斬首事件をASGの犯行と断定し,ASGに対する大規模な掃討作戦を実施
07. 8.15  インターネット上に「フィリピンの獅(し)子(し)来たる」と題する故アブドゥラジャク・ジャンジャラニらの声明が掲出。イスラム国家の建設を訴えるとともに,ASGへの物的支援を呼び掛け
08. 6. 8  フィリピン南部・スールー州ホロ島で,ラドゥラン・サヒロンへの取材を計画していたABS-CBNキャスター・セス・ドリロン女史ら4人を誘拐(6月17日までに全員解放)
09. 1.15  フィリピン南部・スールー州で,スイス人及びイタリア人を含む国際赤十字委員会(ICRC)職員3人を誘拐(7月12日までに全員解放)
15. 9.21  フィリピン南部・ダバオ郊外サマル島のリゾートで,カナダ人2人,ノルウェー人1人及びフィリピン人を誘拐し,ホロ島で拘束。翌年4月及び6月,カナダ人2人が斬首殺害(ほか2人は解放)
16. 1. 4  ASG幹部イスニロン・ハピロンらがISIL最高指導者アブ・バクル・アル・バグダディに忠誠を誓うビデオがインターネット上に掲出(2015年12月撮影)。翌5日,ISIL週刊誌「アル・ナバア」が忠誠表明の事実を確認
16. 4. 9  フィリピン南部・バシラン州で国軍と衝突,国軍兵士少なくとも18人が死亡。「ISIL(フィリピン)」名の犯行声明が初めて発出
16. 4.19  ISIL週刊誌「アル・ナバア」は,ISILがハピロンを「フィリピンにおけるカリフ国兵士の司令官の一人として承認した」と発表
16.12  イスニロン・ハピロンとその配下が,フィリピン南部・南ラナオ州で「マウテ・グループ」と合流
17. 4  フィリピン南部・スールー州ホロ島を拠点とするASG司令官アブ・ラミとその配下が,同国中部・ボホール州イナバンガで,治安部隊と衝突。アブ・ラミらは死亡
17. 5.23  イスニロン・ハピロンとその配下が,「マウテ・グループ」や外国人戦闘員などと共に,南ラナオ州マラウィを占拠
17.10.16  イスニロン・ハピロンが国軍によって殺害
17.10.23  フィリピンのロレンザーナ国防相が,マラウィにおける戦闘作戦の終結を宣言

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