各事件の概要

オウム真理教は、様々な化学兵器(サリン、VX、青酸ガス)や生物兵器(ボツリヌス菌、炭疽菌)を使用するなどして、数々の凶悪事件を引き起こした。以下では、このうち、麻原が有罪判決を受けた13の事件について、その概要を説明する。

  • 構成員殺人事件

    1988年9月下旬、修行していた在家の構成員が、奇声を発するなど異常な行動に及んだことから、大師の岡﨑一明らは、麻原の指示に基づき、同構成員に水を掛けるなどしていたところ、同構成員を死亡させた。麻原は、この件が公になると団体による救済活動がストップしてしまうなどと言いながら、警察等に連絡しないことを決め、岡﨑らに命じて、ドラム缶に同構成員の遺体を入れ護摩壇で焼却した。同事件には、岡﨑のほか、村井秀夫、新實智光及び早川紀代秀らが関わり、構成員Aも遺体の焼却に関与した。
    麻原は、同年12月中旬頃、オウム出版の責任者である岡﨑に指示し、構成員Aにオウム出版の営業に従事させた。しかし、構成員Aは「このような営業をやっても功徳にならない。家に帰って自分なりに修行したい」などと不満を述べるようになったことから、岡﨑は、1989年1月上旬頃、麻原の指示により、構成員Aを麻原の元に連れて行った。麻原は、構成員Aと二人で話をした後、岡﨑らに指示して、構成員Aを独房修行用に改造したコンテナ内に入れ、その両手や両足をロープで縛り、麻原の説法テープを聞かせるなどして翻意させようとした。しかし、構成員Aが麻原を殺すとまで言うようになったことから、麻原は、遺体の焼却に関与した構成員Aをこのまま団体から脱会させると、同人から上記焼却事件が公表されるおそれがあり、そうなれば団体が多大な痛手を受けるなどと考え、構成員Aが翻意しない以上、殺害するしかないと決意した。
    麻原は、1989年2月上旬頃の深夜、岡﨑、村井、新實、早川らを集め、構成員Aが脱会することを考え、麻原を殺すとも言っている旨説明した上、「まずいと思わないか。焼却事件のことを知っているからな。もう一度、おまえたちが見に行って、わしを殺すという意思が変わらなかったり、団体から逃げようという考えが変わらないならばポアするしかないな」、「ロープで一気に絞めろ。その後は護摩壇で燃やせ」などと命じた。岡﨑らは、直ちに構成員Aの元に向かい、その意思を確認したが、翻意する旨の回答を得ることができなかったことから、麻原の指示に従い、構成員Aを殺害した。

  • 坂本弁護士一家殺人事件

    坂本堤弁護士は、1989年5月頃から、団体に出家した構成員の親たちの依頼を受け、その子供の帰宅や子供との面会等について団体と交渉するようになった。出家した未成年者が行方不明になっていることや団体の布施と称する寄付制度の不当性などを指摘するなど、「オウム真理教被害対策弁護団」の中心となって熱心に活動していた。
    また、東京都に対して出家した構成員を巡るトラブルの実情や団体の法令違反の有無等について情報提供したい旨伝えていた。 麻原は、同年10月28日から同月30日までの間に開かれた大師会議において、「オウム真理教被害者の会」の活動状況に関する情報を基に、同会を組織したのは坂本弁護士であり、坂本弁護士が警察に事情を話して団体を捜査させるという考えを持っていることなどを話し、会議に参加した構成員に対し、坂本弁護士に抗議するよう指示した。同構成員らは、同月31日に坂本弁護士の事務所を訪れ、団体の活動を説明し理解を求めたが、平行線に終わり、その状況を麻原に報告した。 麻原は、坂本弁護士が公開質問状を送ってきた被害者の会の実質的なリーダーであり、団体に批判的な特集記事を掲載している雑誌の編集部に団体や麻原に関する情報を提供したと考え、また、団体との話し合いの中で法的措置をとる旨明言していたことから、坂本弁護士の活動をこのまま放っておくならば、勢力を伸張させようとしている団体や最終解脱者を自称する麻原自身が打撃を受け、団体からの出馬を決めている次回総選挙にも悪影響を及ぼすと考え、11月2日深夜、村井秀夫、早川紀代秀、岡﨑一明、新實智光及び中川智正に対し、被害者の会の実質的リーダーであり、将来団体にとって非常に障害になるから、坂本弁護士をポアしなければならない旨述べて、殺害を指示した。その後、麻原の警護を担当し、団体の武道大会で優勝した端本悟も犯行に加わった。 実行犯6名は、11月3日に坂本弁護士方付近を下見したり、最寄り駅で坂本弁護士が現れるのを待っていたりした。坂本弁護士がなかなか現れないことから、岡﨑が弁護士方の様子を探ったところ、居室内に明かりがついていること、玄関ドアの鍵が掛けられていないことを早川に伝えた。そして、早川が、同月3日午後11時頃、坂本弁護士方の様子を麻原に報告し、指示を仰いだところ、麻原は、「じゃ、入ればいいじゃないか。家族も一緒にやるしかないだろう」などと、夜遅く待っても最寄り駅に坂本弁護士が現れない場合、弁護士方に侵入し、家族もろとも殺害するよう命じた。実行犯6名は、最終電車まで坂本弁護士が現れなかったことから、同月4日午前3時過ぎ頃、弁護士方に侵入し、坂本弁護士(当時33歳)、その妻(当時29歳)及び子(当時1歳2か月)を殺害し、上九一色村に運んだ。麻原は、遺体をドラム缶に詰めて遠くの山に埋めるよう指示し、岡﨑らは、それぞれ別の山中に遺体を埋めた。

    坂本弁護士(左)一家(提供:「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」)
    坂本弁護士一家事件発生2年後に作成された「市民の暮らしと弁護士」(提供:「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」)
    1989年10月31日の坂本弁護士と団体幹部の面談メモ(提供:「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」)
  • サリンプラント建設事件
    (殺人予備)

    麻原は、サリンを製造し、これを散布して不特定多数の者を殺害する目的で、1993年11月頃から1994年12月下旬頃までの間、山梨県西八代郡上九一色村内の第7サティアン及びその周辺の団体施設において、サリンプラントをほぼ完成させた。さらに、サリン製造に要する原料を調達し、これらをサリンプラントに投入し、これを作動させて、サリン70トンの製造を企て、もって殺人の予備をした。

    第7サティアン内部のサリンプラント(提供:竹内精一氏)
  • 構成員殺人事件

    麻原は、1993年12月末頃、「オウム真理教附属医院」で薬剤師を務めていた構成員Bが、難病にかかって同医院で入院・治療を受けていた構成員Cと親密な関係になり、性欲の破戒(出家した構成員が守るべきとする戒律の一つ「不邪淫」(異性との性的関係)に反する行為)をしたとして、二人を引き離すために構成員Cを上九一色村の第6サティアン3階の医務室に移動させた。以後、構成員Cは、同所で投薬治療のほか、PSIの修行(構成員の頭に被らせるヘッドギアの電極を通じて麻原の脳波を電流化したとされるものを構成員の頭部に流す修行)を受けることになった。
    構成員Bは、団体に不信感を抱いていた上、好意を寄せていた構成員CにPSIの修行をさせていることを含め、適切な治療が行われているか疑問を持っていたことから、同人を施設から連れ出して自分の手で病気を治そうと考え、1994年1月20日頃、同医院から逃げ出した。そして、構成員Cの子に、施設から構成員Cを連れ出すことの協力を求め、了承を得た。
    構成員Bと構成員Cの子は、同月30日午前3時頃、第6サティアンに侵入し、構成員Cを部屋から連れ出そうとしたところ、構成員に発見され取り押さえられ、いずれも両手に手錠を掛けられた。報告を受けた麻原は、構成員Bが破戒をして脱走したにとどまらず、構成員Cを無断で連れ出そうとし、そのために麻原が居住する第6サティアンという神聖な場所に侵入して暴れるなどの団体ないし麻原に対する敵対行為に及んだものであり、このまま構成員Bと構成員Cの子を放置するわけにはいかず、殺害するしかないと決意し、新實智光に二人を第2サティアン3階に連れて行くよう指示した。その後、麻原は、専用車両に乗り込み、運転手に「第2サティアンに行ってくれ」、「今から処刑を行う」と述べた。
    麻原は、第2サティアン3階の「尊師の部屋」に構成員Cの子を呼び入れ、同人に対し、「おまえは、構成員Bにだまされて、ここに来て真理に反逆するという、ものすごい悪業を犯した。間違いなく地獄に落ちるぞ。おまえは帰してやるが、条件がある。それはおまえが構成員Bを殺すことだ。それができなければおまえもここで殺す」などと行って、構成員Bを殺害することを指示した。構成員Cの子は悩んだ末、構成員Bを殺害することを承諾し、「尊師の部屋」に連れてこられた構成員Bを殺害した。
    麻原の指示を受け、村井秀夫らは、同日、第2サティアン地下室において、構成員Bの遺体をマイクロ波加熱装置とドラム缶等を組み合わせた焼却装置の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し、もって同人の遺体を損壊した。

  • 弁護士殺人未遂事件

    弁護士Aは、坂本弁護士一家が行方不明となった1989年11月に「オウム真理教被害対策弁護団」に入り、1990年以降、団体の出家した構成員等の把握に努め、上九一色村での団体をめぐるトラブルの担当者となり、団体を相手方とする民事訴訟等の代理人として活動するなどした。1993年7月頃から、構成員の親族から依頼を受け、構成員に対するカウンセリング活動を行い、1994年5月頃までの間に10数人を脱会させた。
    麻原は、オウム国家の建設に向け大量の出家した構成員の獲得に精力的に努めている時期に、出家阻止、脱会のための活動を活発化させている弁護士Aをこのまま放置することはできないとして、団体の活動の妨げとなる弁護士Aの殺害を決意した。
    麻原は、1994年5月7日頃、第6サティアン1階の麻原の部屋に遠藤誠一及び中川智正らを呼び、サリンの隠語である「魔法」という言葉を用いて、「弁護士Aの車に魔法を使う」と言い、さらに、弁護士Aの自動車の外部、ボンネットなどにサリンを滴下して外気の導入口を通じて車内に気化したサリンを流入させ、これを同人に吸入させるなどして殺害することを命じた。
    中川智正らは、同月9日午後1時15分頃、甲府地方裁判所駐車場に停車した同人所有の普通乗用自動車の運転席側のフロントウインドーアンダーパネルの溝及びその付近にサリンを含有する溶液30ないし40ccを滴下し、同車両を運転した弁護士Aにサリンガスを吸入させるなどして、サリン中毒症の傷害を負わせた。

  • 松本サリン事件

    松本サリン事件で被害が集中した北深志の住宅街(提供 朝日新聞社)
    松本サリン事件で使用されたサリン噴霧車(提供:竹内精一氏)

    団体は、1991年6月、松本市内に松本支部及び食品工場を建設することを計画し、地主と賃貸借契約及び各売買契約を締結した。これに対し、地元住民は団体の進出に対する反対運動を起こした。加えて同地主も、団体が道場として使用することを秘匿し、あたかも株式会社オウムが工場兼事務所として使用するかのように装って地主を欺罔したとして、詐欺を理由とする賃貸借契約の取消しを主張し、建物の建築工事差止め等を求める仮処分命令の申立てを行い、長野地裁松本支部及び東京高裁は同申立てを認容する旨の決定をした。
    団体は、賃貸借部分を使用して松本支部及び食品工場を建設することをあきらめ、当初の計画を縮小し、売買部分に松本支部を建設することとした。同地主は売買部分についても、詐欺を理由とする売買契約の取消しを主張し、建物の建築禁止等を求める訴えを提起した。麻原は、団体を非難する地主を含む反対派住民やその申立てを認めて松本支部を縮小させた長野地裁松本支部裁判官に反感を抱き、1992年12月18日の松本支部の開設式において、「この松本支部道場は、始めはこの道場の3倍ぐらいの大きさの道場ができる予定であった。しかし、地主、それから絡んだ不動産会社、そして裁判所、これらが一蓮托生となり、平気でうそをつき、そしてそれによって今の道場の大きさとなった」などと説法した。

    麻原は、サリンの効果を最大限に引き出すための加熱式噴霧装置の性能ないしこれにより噴霧するサリンの殺傷力を実験的に確かめておこうと考えるとともに、その使用する対象として、反対派住民である地主の主張を認めて松本支部を縮小させる原因を作り、1994年7月19日に予定されていた売買部分についての判決においても、団体に不利な判決をする可能性のある長野地裁松本支部を選び、新たに造る噴霧装置を搭載したサリン噴霧車により、同支部を目標にしてサリンを噴霧し、同支部裁判官のみならず同支部周辺の住民を殺害することを決意した。麻原は、同年6月20日頃、第6サティアン1階の麻原の部屋に村井秀夫、新實智光、遠藤誠一及び中川智正を呼び、「オウムの裁判をしている松本の裁判所にサリンをまいて、サリンが実際に効くかどうかやってみろ」と指示した。最後に、麻原が「後はおまえたちに任せる」と述べ、具体的な準備や実行は村井や新實に任せた。
    実行犯7名は、同月27日、当初の予定より遅れて午後3時半ないし午後4時頃、第7サティアン前に集合し、松本市に向かった。午後8時頃に長野県塩尻市内のドライブインに到着したが、既に裁判所の閉庁時刻を過ぎていたことから、裁判官を狙うために裁判所宿舎に変更することとし、麻原の了承を得た。午後10時30分過ぎ頃、松本市内の駐車場に駐車させたサリン噴霧車に設置した加熱式噴霧装置を作動させてサリンを加熱し気化させた上、同噴霧装置の大型送風扇を用いてこれを周辺に散布し、8人を殺害、約140人を中毒に陥らせた。

    ※オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律に基づく給付金支給に当たり、2010年3月までに認定された数

  • 武器製造及び同未遂事件

    麻原は、横山真人、廣瀬健一らと共謀の上、通商産業大臣の認可を受けず、かつ、法定の除外事由がないのに、ロシア製自動小銃「AK-74」を模倣した自動小銃1,000丁を製造しようと企て、1994年6月下旬頃から1995年3月21日頃までの間、山梨県西八代郡上九一色村所在の第11サティアンなどにおいて、自動小銃を製造しようとしたが、同月22日、各施設が警察官による捜索を受けるなどしたため、その目的を遂げなかった(武器製造未遂事件)。また、麻原らは、1994年12月下旬頃から1995年1月1日までの間、山梨県南巨摩郡富沢町所在の団体施設において、自動小銃1丁を完成させた(武器製造事件)。

    オウム真理教によって密造された自動小銃(提供 朝日新聞社)
  • 構成員殺人事件

    麻原は、1993年10月以降、説法等において、団体施設が敵対組織からサリンやVXなどの神経ガスによる毒ガス攻撃を受けているなどと説明し、団体の武装化に向けて団体構成員らの危機感や国家権力等に対する敵がい心をあおるとともに、団体による化学兵器や生物兵器の研究、製造等を隠ぺいすることに努めていた。
    麻原は、びらん性の毒ガスであるイペリットの製造についても指示していたところ、1994年7月8日、第6サティアンの浴室で女性構成員が熱傷を負い意識を失うという事件があった。そのため、同浴室内の水を分析させたところ、イペリット関連物質が検出された。麻原は、団体施設に対する毒ガス攻撃の一環として、スパイが構成員の生活用の水にイペリットを混入させたということにして、井戸水や水道水の使用を禁じるとともに、団体幹部にスパイ捜しを指示した。
    麻原は、タンクローリーで団体施設に生活水を運搬していた構成員Dがスパイとして挙がってきたことから、幹部に構成員Dに対するスパイチェックをするよう指示した。麻原は、無理強いをしてでも構成員Dにイペリットを混入したスパイであると自白させ、スパイに仕立て上げれば、団体が毒ガス攻撃を受けているといううその話をもっともらしくすることができるなどと考え、1994年7月10日頃、新實智光に対して、構成員Dに自白させるよう指示した。
    構成員Dは、様々な拷問を受けても毒を混入したスパイであることを自白しようとせず、意識を失った。新實は、麻原に今後の対処を仰いだところ、麻原は、自白させるために構成員Dに拷問を加えてしまった以上このまま生かしておくと後々団体の発展にとって障害となるおそれがあるとして、口封じのため殺害することを決意し、新實に対して、マイクロ波加熱装置とドラム缶等を組み合わせた焼却装置を使って焼却するよう指示した。新實らは、第2サティアン地下室において、構成員Dを殺害した後、同装置の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し、もって同人の遺体を損壊した。

  • 脱会支援者VX殺人未遂事件

    麻原は、松本サリン事件後、現場からサリンが検出されたとの報道をされたことから、同事件が団体の犯行によるものであることが発覚することを避けるため、しばらくサリンの使用を控えることとした。そして、それに代わるものとして、最強の神経剤と言われるVXを製造することとし、1994年8月頃、土谷正実に1kgを目標としてVXを製造するよう指示した。土谷は、クシティガルバ棟で実験の末、同年9月上旬頃、VX約20gを製造した。
    構成員Fは、家族で入信し、数千万円の金品を団体に拠出するなどして出家していたが、1994年8月中旬頃、家族と共に団体施設を出て、親しい関係にあったE宅に逃げ込んだ。構成員が連れ戻しに来たが、Eはこれを追い返した。その後、構成員Fは、同年11月4日、団体から財産を取り戻すため、東京地方裁判所に対し、団体を被告として、数千万円の金品の返還請求訴訟を提起した。
    麻原は、Eが構成員Fを背後から操っているのではないかと疑い、Eがいなくなれば構成員F親子は団体に戻ってくると考え、VXでEを殺害しようと企て、同月下旬頃、土谷にVX100gを至急製造するよう指示した。
    麻原は、1994年11月26日頃の朝、第6サティアン1階の麻原の部屋で、新實智光、井上嘉浩及び遠藤誠一に対し、「Eは悪業を積んでいる。構成員Fの布施の返還請求は、全てEが陰で入れ知恵をしている。EにVXを掛けてポアしろ。そうすれば構成員F親子は目覚めて団体に戻ってくるだろう。これはVXの実験でもある。EにVXを掛けて確かめろ」などと述べ、具体的な殺害方法、役割分担なども指示した。
    井上らは、11月26日の夕方、E方付近に赴き、用意されていたVX入りの注射器を持って、出てきたEに近づいたが、これを掛けるタイミングを失い、失敗した。同月28日朝、Eがゴミを出しに自宅を出てきたことから、新實らはEの後頭部付近に注射器でVXを掛けた。しかし、Eは普段と変わらない生活を続け、その後、Eに掛けたのがVXではなく、毒性のないVX塩酸塩であったことが分かったことから、麻原は、同月30日頃、土谷にVX50gを至急製造するよう指示した。
    麻原は、土谷が新たにVXを製造したことを聞き、12月1日頃、第6サティアン1階の麻原の部屋で、新實に対し、「新しいVXができた。これでEをポアしろ。今度は大丈夫だろう」などと指示した。同月2日午前8時30分頃、Eがゴミを出すために自宅から出てきたのを見て、新實らがEの後頭部付近に注射器でVXを掛け、VX中毒症の傷害を負わせた。

  • 会社員VX殺人事件

    麻原は、1994年11月ないし12月頃、団体大阪支部の在家の構成員Hが他の構成員を「下向」(脱会)させて自分の一派を作ろうとしているという情報を得たことから、その調査をさせたところ、構成員Hと関係のある不審人物としてGの名前が挙がってきたため、Gが構成員Hを操るスパイと決めつけ、VXでGを殺害することを決意した。
    麻原は、1994年12月8日から9日にかけての深夜、第6サティアン1階の麻原の部屋で、井上嘉浩及び新實智光に対し、「Hは悪業を積んでいる。Hを操っているのはGという者だ。法皇官房で調査したが、Gが公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴Gにたらしてポアしろ」と指示した。
    井上ら実行メンバー6名は、12月12日午前6時頃、G方付近に到着し、Gが自宅から出てくるのを待っていたところ、午前7時過ぎ頃、Gが出勤するため自宅から出てきたことから、新實らがGの後頸部付近に注射器でVXを掛け、GをVX中毒により死亡させて殺害した。

  • 被害者の会会長VX殺人未遂事件

    Jは、息子が1989年8月頃、家出同然に出家したことから、同じ立場にある親同士で連絡を取り合い、同年10月頃には、坂本弁護士の提案により、「被害者の会」を結成し、その会長に就任した。Jは、1990年1月頃、息子を説得して団体との関係を断ち切らせ、その後は団体施設のある自治体や住民に啓蒙活動をしたり、息子と共に脱会の説得に当たったり、1993年7月頃からは弁護士Aらと協力し、脱会するよう説得するカウンセリングを行ったりして、1994年12月頃までの間、カウンセリングを行った約30名の在家の構成員のうち25名程度を脱会させた。
    麻原は、このような事情から、かねてよりJ親子を敵対視していたが、1994年12月24日頃、出家しようとしていた構成員が親族により実家に連れ戻され、構成員を動員したものの、その構成員の取戻しをあきらめざるを得なかったことがあった際、その場にはJもいた旨の報告を受けたことから、もはやJ親子を放っておくことはできないと考え、VXで殺害する決意をした。
    麻原は、12月30日昼頃、第6サティアン1階の麻原の部屋で、新實智光に対し、「どんな方法でもいいからJにVXを掛けろ。幾らお金を使ってもいい。息子の方が行動力があるから、Jができなければ息子でもいい。井上(嘉浩)としっかり打ち合わせをするように」などと指示した。
    1995年1月3日夕方頃、J方を監視させていた構成員から、J一家が帰宅したとの報告を受け、井上ら実行メンバー5名は、同月4日朝、冷蔵庫に保管中のVX入り注射器、酸素ボンベ等を用意して、J方付近においてJが出てくるのを待った。同日午前10時30分頃、Jが年賀状を投函するため外に出てきたことから、Jの後頸部付近に注射器でVXを掛け、VX中毒症の傷害を負わせた。

  • 公証役場事務長逮捕監禁致死・死体損壊事件公証役場事務長逮捕監禁致死など

    Lは、1993年10月頃、健康のためにヨーガ修行しようと在家の構成員になり、団体東京総本部道場に通うようになった。そして、団体への布施を勧められ、1995年1月20日頃までに合計6,000万円の布施をし、そのうち4,000万円を麻原に現金で手渡しした際、早く出家するように言われた。麻原の意を受けた構成員らは、Lを出家させてL方土地建物を含む資産全てを布施として団体に拠出させるため、執ように出家を勧め、薬物を使用した「イニシエーション」(秘儀)を施すなどして、出家することを同年2月中旬頃承諾させ、その後は東京総本部道場に寝泊まりさせていた。
    Lは、兄であるKやその家族らに譲るつもりであったL方土地建物を含む全ての財産を団体に取り上げられてしまうことを危惧し、2月24日、友人を入信させると言って東京総本部道場を出て団体との連絡を絶ち、同月25日及び26日は兄K方に、27日は別の知人方に泊まり、同月28日に東京総本部道場に電話を掛け、団体に出家することを止める旨伝えた。
    2月26日、Lが東京総本部道場に戻らず連絡もないことから、構成員らはL方の様子を見に行くなどしたがLの所在を突き止めることができず、Kの動向を見張っても確認できなかった。これらの状況の報告を受けた麻原は、Kを拉致し、団体内で「ナルコ」と呼称する、麻酔薬を投与して半覚醒状態にし潜在意識に働き掛けて会話をする手段をKに実施してLの居場所を聞き出すよう、井上嘉浩らに指示した。
    井上ら実行メンバー8名は、2月28日午後4時30分頃、Kが職場の公証役場から一人で出てきたのを発見し、Kを普通乗用自動車の後部座席に押し込み、同車内で全身麻酔薬を投与して意識喪失状態に陥らせた。その後、Lから出家を取りやめるとの連絡が入った旨知らされたものの、Lの居場所が分からないままであり、また、麻原から指示がない限りKを解放することもできなかったことから、井上らは、このまま上九一色村の団体施設に連れて行き、Lの居場所を聞き出すことにした。Kを別車両に移し替えた際、改めて全身麻酔薬を投与して意識喪失状態を継続させながら、同日午後10時頃、上九一色村の第2サティアン1階の瞑想室に連れ込んだ。その後も全身麻酔薬を投与して意識喪失状態を継続させるなどして、同所から脱出不能な状態に置き、「ナルコ」を実施したが、KからLの居場所を聞き出すことができなかったことから、麻原は、口封じのためにKを殺害して従前と同様に証拠隠滅のためにその遺体をマイクロ波焼却装置で焼却するよう指示した。
    そして、3月1日午前11時頃、同所において、大量投与した全身麻酔薬の副作用である呼吸抑制、循環抑制等による心不全により同人を死亡させた。その後、Kの遺体を第2サティアン地下室に移動させて、マイクロ波焼却装置の中に入れ、これにマイクロ波を照射して加熱焼却し、もって同人の遺体を損壊した。

  • 地下鉄サリン事件

    救助活動の様子(提供:東京消防庁)
    除染を行う自衛隊員(提供:陸上自衛隊)
    築地駅周辺の様子(提供:東京地下鉄株式会社)

    1995年1月1日、読売新聞朝刊に、「上九一色村から採取された土壌からサリンの残留物が検出されたことから、松本サリン事件との関連などの解明に当たることになり、サリン生成に使う薬品の購入ルートを中心に捜査を急いでいる」旨の記事が掲載された。麻原は、団体施設に対する捜索が近々行われるのではないかと考え、これに備えるため、村井秀夫らに対し、サリンプラントを停止して神殿化などの偽装工作をし、保管中のサリンやその中間生成物等を処分又は隠匿するよう指示した。
    麻原は、間近と思われた強制捜査が1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災の影響により立ち消えになったと考えていたが、3月16日には読売新聞に「公証役場事務長事件に使われたワゴン車が押収され、車体から事件関係者のものとみられる指紋も検出された」との記事が掲載され、警視庁による強制捜査の可能性がにわかに現実味を帯びてきたことから、自動小銃の部品等を隠したり、公証役場事務長事件に関わった構成員に対し、その記憶を消去するために、団体内で「ニューナルコ」と呼称する、これまで以上の麻酔薬を投与して半覚醒状態にし潜在意識に働き掛けて会話をする手段を実施したりした。
    麻原は、3月18日午前2時頃、食事会から上九一色村の団体施設への帰途で強制捜査への対応について検討しようと考え、村井、井上嘉浩、遠藤誠一らに麻原専用のリムジンに乗るよう指示した。麻原が、村井らに強制捜査にどのように対応すればいいか意見を求めると、村井が阪神大震災に相当するほどの事件を引き起こす必要があることを示唆するとともに、地下鉄電車内にサリンを散布することを提案した。麻原は、「それはパニックになるかもしれないなあ」とその提案を受け容れ、村井に総指揮を執るように命じた。また、遠藤にはサリンの製造を、井上には現場指揮をそれぞれ指示した。
    村井は、3月18日午前8時か9時頃、第6サティアン3階の村井の部屋に呼び集めた廣瀬健一及び横山真人らに対して、麻原からの指示であることを示した上で、「近く強制捜査がある。騒ぎを起こして強制捜査の矛先をそらすために地下鉄にサリンをまく」と述べ、実行役となることを承諾させた。村井は、引き続き、「3月20日月曜日の通勤時間帯に合わせてやる。対象は、公安警察、検察、裁判所に勤務する者であり、これらの者は霞ケ関駅で降りる。実行役のそれぞれが霞ケ関駅に集まっている違う路線に乗って、霞ケ関駅の少し手前の駅でサリンを発散させて逃げれば、密閉空間である電車の中にサリンが充満して霞ケ関駅で降りるべき人はそれで死ぬだろう」などと説明した。3月18日夕方頃、村井の部屋に集まった廣瀬らは、営団地下鉄千代田線、同丸ノ内線、同日比谷線の各霞ケ関駅の略図などを見ながら、サリンを散布する地下鉄の路線や散布する時間等について検討した結果、3路線5方面の電車内で、3月20日の乗客の多い時間帯である午前8時に一斉にサリンを散布することなどを決めた。
    村井は、3月20日午前3時頃、第7サティアン1階で実行犯5名に対し、先をとがらせた傘の先端でサリン入りビニール袋を突き刺してサリンを流出させ、気化させる方法でサリンを散布することを説明した上、サリン入りビニール袋はビニール袋が二重になっているので、実行前に外側のビニール袋を取り外すこと、傘の先端に付いたサリンは水で洗い流し、傘は持ち帰ることなどを注意した。そして、実行犯5名は、村井の指示で遠藤が作った水入りビニール袋を使い、これをビニール傘の先端で突き刺す練習を行った。その結果、乗客に不審を抱かれないようサリン入りビニール袋は新聞紙で包み、それを傘の先端で突き刺すことになった。
    そして、3月20日午前8時頃、霞ケ関駅に向かう地下鉄3路線5方面の電車内にサリンを発散し、13人を殺害、5,800人以上を中毒に陥らせた。なお、2020年3月、25年にわたる闘病生活の末、サリン後遺症により更に1人が逝去した。

    ※オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律に基づく給付金支給に当たり、2010年3月までに認定された数

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