
第2節 社会復帰を果たした当事者の語り
事例1
50代男性
(1)私にとっての非行とは
私は、幼い頃から野球が好きで中学校でも野球部に所属しました。ところが、中学1年生の時に、部活動で嫌な思いをして野球を辞めました。それまでは野球中心の生活をしていたので、急に打ち込むことがなくなって何もかもどうでもよくなりました。その後、地元の祭りで雰囲気に流され軽い気持ちで、たばこや酒を始めるようになり、普通の中学生にできないことをしているという優越感に浸っていました。
そのうち、年上や他校の不良仲間と遊ぶことが増えていき、警察に補導されたこともありました。学校も怠け気味になり授業についていけず、「できの悪い生徒」という烙印を押された気がし、教室にいるのが苦痛でした。中学校卒業後、定時制高校に入学したものの1か月で通わなくなり、停学や退学で学校に行かなくなった不良仲間と朝から遊ぶようになる中で、当時流行していたトルエンという有機溶剤を吸うようになり、後になって大麻や覚醒剤にも手を出しました。さらに、家を出て暴走族に加わって副会長になり、暴走行為が原因で警察から逮捕すると言われたので出頭して、保護観察処分を受けました。
(2)処分を受けて考えたこと
非行に走って普通の世界に戻れないと思いながらも、頭の片隅には常に「このままではまずい。」、「いつまでも非行はやっていられない。」といった将来への不安があり、心の中では「平凡に暮らしたい。」、「普通の人生を送りたい。」という思いを抱いていました。
しかし、中学校と定時制高校での学業不振、保護観察処分を受けたことや違法薬物を使用したことなどについて、父親から、「お前の人生は終わった。」と言われたことがあり、そのような思いに蓋をしながら生きていました。当時は人生経験が乏しかったこともあり、身近な大人にそう言われ、「自分の人生はもう駄目だ。」と思い込んでしまいました。
やり直したいという思いは確かにありましたが、過去に囚われて、明るい将来は描けませんでした。立ち直りの過程においても、「他人はできても、自分には無理だろう。」と諦めてしまう癖を断ち切るまでに時間がかかりました。
(3)非行からの離脱過程における転換点
保護観察処分を受けて暫くして、父親の仕事の見習いをすることになりました。すると、新たな仕事上の人間関係が生じて、関わる人が大きく変化しました。しかし、当時の私は、仕事で使われる言葉が分からず、また、業務に必要な知識を持っていなかったことから、業務の内容を全く理解できませんでした。それまでは一人で生きてきたという自負があり、自分は仕事ができると思っていたので、がく然とすると同時に、今まで自分が生きてきた世界の狭さを痛感しました。そして、もっと広い世界を知りたい、職場の人たちと一緒に仕事ができるようになりたいと考え、4度目の高校1年生として定時制高校に入学しました。
それまでは定時制高校に入学しても、勉強の仕方が分からなくて学習習慣が身に付かず、入学初期につまずいたまま留年して退学し、別の高校へ入学し直すも、また退学するということを繰り返し、この入学が4校目の高校でした。けれども、この時は一緒に辞書を引いたり、分からないことを理解できるまで教えてくれたりするなど、先生方の熱心な個別指導のおかげもあって、やっとの思いで高校2年生に進級し、「やればできる。」という喜びをかみしめました。
また、父親の勧めで簿記の勉強も始めました。人生で初めて自ら参考書を買い、真剣に勉強しました。しかし、受験した簿記の試験は難しく、「自分には無理だろう。」と感じました。非行ばかりしていた頃の私だったら、そこで問題を解くのを諦めていたと思います。しかし、この時は「応援してくれる人がいるから、たとえ不合格でも最後まで頑張ろう。」と考え、最後まで問題に向き合いました。その結果、合格することができました。試験で初めての成功体験だっただけに、とても嬉しかったことを覚えています。
簿記の試験で諦めなかったことは、私の立ち直りにおける転換点です。高校の先生方を始め周囲の人から励まされ、「自分には無理だろう。」という思い込み、囚われから解放されたのだと思います。小さな成功体験を積み重ね、「自分も普通の世界で生きていけるかもしれない。」と考えが変化するようになり、「もっと上を目指してみよう。」と考えて行動を起こせるまでになりました。とはいえ、常に自信を持って生活できたわけではありませんでした。不安になったり、失敗して自信を失ったりを繰り返す中で、少しずつ普通の生活のペースをつかんでいきました。
高校卒業後は、大学に進学しました。非行に走っていた時には夢のまた夢であった大学だったので一生懸命勉強をし、卒業後は上場会社に就職しました。また、就職後に大学院で学ぶ機会を得て、専門性を生かした仕事に就くこともできました。
(4)離脱を果たして考えること
今、自分の経験を振り返ると、周囲の人の支えのありがたさを実感します。約束や時間を守るといった基本的なマナーを教えてくれた職場の先輩、一緒に考え、学ぶ習慣を身に付けさせてくれた高校の先生方が、私をサポートしてくれました。彼ら・彼女らのように良識ある大人たちの伴走的な関わりのおかげで、仕事や学校を続けることができ、価値観や考え方が変容し立ち直ることができました。
価値観やものの見方・考え方は、非行や犯罪からの離脱にとって重要です。健全な価値観の中で生活していると、同様の価値観を持つ友人・知人と親しくなり、犯罪等を助長する人たちと距離を置くことができます。規則正しい生活習慣が身に付き、有意義な時間の使い方を覚え、非行や犯罪の道に戻ろうと思うことがなくなります。
私は現在、保護司をしています。かつての自分の経験や保護司活動を通じて、非行や犯罪から離脱するためには、まず、仕事(学業)と衣食住の安定が不可欠だと考えています。また、うそをつかないことも大切です。失敗したとき、言い訳をしないで正直に自分の非を認められる人は、離脱に近づいていると思います。
(5)犯罪・非行からの離脱途上にある人や、再犯防止を支える人へのメッセージ
私は、立ち直りとは、非行や犯罪に関わることなく、自分なりの生き方を見つけて人生を歩むことだと考えています。
非行や犯罪から離脱する道のりには、思いどおりにならず苦しいことやつらいことがたくさんあります。楽な方に流れるのは簡単ですが、その前に一度、長期的な視点で人生を考えてみてください。今、嫌なことを避けると短期的には苦労しなくて済むかもしれませんが、いつまでも避けていては自分なりの生き方が見つけられません。反対に、今、自分の目指す方向に向けて困難なことに取り組めば、当面はつらくても長期的には必ず自分の糧となります。
離脱までの道はまっすぐではなく、行きつ戻りつを繰り返すかもしれません。それでも、勇気をもって一歩踏み出し、人の助けも借りながら、諦めずに歩み続け、少しずつ成功を積み重ね、自分なりの幸せを見つけてほしいと思います。
事例2
20代男性
(1)私にとっての非行とは
私は、非行に走る前から、「自分は社会になじめない。」という思いを常に抱えて生活していました。そうした思いから、社会の枠にはまった人生を歩むのではなく、自立して自分の人生を選びたいと考えるようになりました。しかし、自立するためにはお金が必要で、お金を得るための手段として非行を選んでしまいました。
私は、犯罪や非行は2種類に分けられると考えています。1つ目は、例えば、気に入らないことがあって友人を殴ってしまうなど、衝動的・短絡的に犯罪や非行に至るケースです。2つ目は、衝動的・短絡的というよりは、例えば、将来事業を始めるといった人生の目標のようなものを達成するための手段として、犯罪や非行を選択するケースです。私の非行をこの分類に当てはめると、後者となります。非行をしていた当時、自立という目的にはお金が必要で、そのために非行という手段を選ぶことはやむを得ないと考えていました。今、その考え方を振り返ると、自分の非行を正当化したかったのだということが分かります。
(2)処分を受けて考えたこと
非行により逮捕され、留置場と少年鑑別所に入りました。
非行をしている間、お金を手に入れることはできましたが、心はどこか空虚で満たされず、逮捕される前から、「この生き方は自分が望んでいたものじゃない。」という違和感を抱いていました。また、非行は自立のための手段だったはずなのに、お金を得たら、どのように自立をして、何をしたいのかをしっかりと考えておらず、非行をした後の生活について具体的にイメージできていなかったと気付きました。
留置場や少年鑑別所で、これまでの生活について振り返ると同時に、これからの自分の人生についても考えているうちに、「審判で少年院送致となったら、1年間社会には戻れない。その期間に何もせず、時間を無駄にして過ごすのはもったいない。」と思うようになりました。こう思うようになったことが、私が勉強を始めたきっかけの1つです。
もう1つのきっかけは、自分が社会に通用するのかどうかを確かめたいと考えたことです。逮捕されるまで、学校にきちんと通ったり、仕事を長く続けたりしたことがなく、自分が社会に通用する人間なのかが分かりませんでした。例えるなら、社会生活という試合があって、非行というズルをしなくても、試合に勝てるのか、つまり社会の中で生活していけるのかを試してみたかったのです。ズルは格好が悪いので、これからは非行から離れて、真正面から生きようと決めました。
その後、審判で少年院送致の処分を受け、少年院に入院しました。少年院では、勉強に励み、少年院の中で高等学校卒業程度認定試験を受験※1し、合格することができました。
少年院出院後は、学習支援※2を受けました。この学習支援は、希望者が少年院に在院している間に、進路の希望に沿って学習の計画を立て、出院後にその計画に沿って指導が受けられるというものです。出院後は学習支援の拠点に通って、学力や進路に合わせた内容を学んだ結果、目標としていた大学に合格することができました。現在は、その大学で将来のために更に勉強に励んでいます。
(3)非行からの離脱過程における転換点
私は、自分自身が非行から離脱したとは考えておらず、今も離脱の過程にあると捉えています。離脱に向けて進み始めるためのターニングポイントは、勉強することを決め、その決意を行動に移したことだったと考えています。
立ち直るために勉強するという意欲があっても、気持ちが続かず、犯罪や非行に逆戻りする可能性もありました。そのようなつらいときに、家族を始めとする周囲の支えがあったからこそ、現在まで犯罪や非行をせずに生活することができています。
例えば、学習支援では、勉強だけでなく、精神的にもサポートをしてもらいました。少年院や保護観察所が連携して実施している事業なので、学習支援で出会った大人は、私が少年院に入院していた事実を当然に知っていて、その上で寄り添って支援をしてくれました。自分の過去を隠す必要がなく、私を受け入れてくれる存在は、大きな心の支えとなりました。
(4)離脱に向けて考えること
私は、自分の意志で非行をしました。私は、良くも悪くも、考えたことを実行できる行動力を持っています。その行動力を悪い方向に使ったため、非行という結果になってしまいました。反対に、行動力を使う向きを180度変えて、良い方向に使えば、社会で活躍できるのではないかと考えています。
現在は、再犯が多い状況が問題になっていると聞いています。自分が非行をしていたので、一度犯罪や非行をした人が、再び犯罪や非行をしてしまう過程を容易に想像できます。一度罪を犯すと、社会からは冷たい目で見られ、立ち直りに向けて生活しようとしても、スムーズに進まないことがあります。再犯や再非行をしてしまう人は、そのようなつらい状況に陥ると、困難を乗り越えるための努力をせずに諦めてしまうのかもしれません。私は、最初から何もせずに諦めてしまうのは、もったいないことだと思っています。
(5)犯罪・非行からの離脱途上にある人や、再犯防止を支える人へのメッセージ
皆さんは、「懲」という漢字をどのように訓読みしますか。私は「懲りる」と読みましたが、私が知っている人は「懲らしめる」と読みました。その人は、犯罪や非行をしたことがない人であり、私はその読み方を聞いて、犯罪や非行をしたことがある人と、そうでない人の間にある溝の存在を感じました。立場の差によって溝は存在しますが、再犯防止を支えてくれる人がいることも事実です。私は、そのような再犯防止を支えてくれる人がいるからこそ、非行からの離脱に向けて進んでいます。
私は、人間は根本的には変わらないと考えています。犯罪や非行からの離脱とは、犯罪や非行をしない人間に生まれ変わるのではなく、犯罪や非行の色に染まった自分を、一般社会で真面目な生活を送ることを通して水を注ぐように薄め、普通の社会の色に近付けることだと思います。犯罪や非行の色に染まった自分を薄める過程では、過去の犯罪や非行と向き合うことも必要です。そして、周囲の人に、「あの人は立ち直った。」と認めてもらって初めて、離脱したと言えるはずです。私も、周囲の人から「立ち直った。」と認めてもらえるように、良い方向に行動を起こしていきます。
支える人の視点から
公文教育研究会 ライセンス事業推進部
この事例に登場する男性は、ソーシャル・インパクト・ボンドを活用した非行少年への学習支援を受けています。当社は、この学習支援の事業者として社会復帰に向けた大学受験をサポートしました。
この事業では就学を希望する少年院を出院した少年に対して学習の支援を行っていますが、実際に多くの少年と接して感じるのは「一人ひとりの状況が極めて多様で複雑な背景が絡み合っている」ということでした。学習目標も、義務教育相当の学力の習得、高等学校卒業程度認定試験受験合格、大学受験合格など多様であり、また少年の出院後の環境も良好な場合だけでなく、更生に向けて保護者の意識が低く、少年の心理面が不安定なケースもありました。このような少年を支えるために、少年院出院前後で少年を支える立場の協力体制が重要であると考えました。少年院の担当法務教官、保護観察官、保護者、学習拠点で少年に接する事業関係者(キズキ・もふもふネット・心理専門家)と共に、少年が非行に至った要因を理解し、出院後の生活環境の把握に努めました。少年の過去を受け止めた立場として、少年との信頼関係構築を心掛け、寄り添いながら学習の支援を行いました。

事例3
女性
(1)犯罪という居場所
少年院を仮退院して半年後、私の居場所は犯罪の中に戻っていた。社会での生活は想定外なことばかり。どう生きたらいいのか分からなかった。
留置場で、「こんなはずじゃなかった」と、何度も自分の人生を振り返ってみたが、正しい答えは見つからない。社会に自分の居場所はなく、私に残ったのは孤独と絶望だけだった。手錠をかけられたとき、この先の未来や明日のことさえも、もうどうでもいいと思った。自分の生きている意味も分からなかった。
(2)幼少期~非行へ
私は四人姉妹の末っ子として生まれ、父と母の6人家族。幼い頃いつもこう思っていた。「どうして、うちは普通じゃないんだろう。」働かない父の代わりに、母は夜の仕事を始め、私は一人で過ごす夜が多くなった。
風の音、雨の音が怖くて、布団を頭からかぶり寝た日もあった。深夜に帰ってきた母が布団に入ってくると安心するぬくもりを感じた。どんなに寂しくても、母に寂しいって言ったらいけないと思っていた。
中学生になり、夜の街に出ると自分と同じような環境にいる友達がたくさんいた。友達が一人増える度に悪いことも増えていった。その中でも特攻服を着ている先輩たちがカッコよくて憧れた。自分もそうなりたいと思うようになり、暴走族に入ることを決めた。家にも学校にも居場所を感じることができなかったけど、そこに初めて自分の居場所を感じた。仲間たちと過ごす時間はそれまでの自分にはなかった時間だった。総長になってからは、自分にとって大切な居場所である暴走族を守りたい、強くしたいという思いで、抗争を繰り返し、相手に大きなけがを負わせ傷害事件で逮捕された。少年鑑別所に収容され、その後の審判で、私は少年院送致となった。全く反省なんかしていなかったけど、審判の時に見た母の涙がいつまでも胸を締め付けた。
(3)少年院~再犯へ
少年院生活は想像とは違い、心が綺麗になれた。一生懸命に打ち込めること、達成感や充実感、これらは社会生活で久しく忘れていた感覚だった。
一方、自分がした非行への考えは深まらないままで、当たり前のように、出院したら暴走族に戻ることを考えていた。私がいつも考えていたのは、「反省した人の言葉」だ。なんという言葉を言えば反省しているって思われるだろう。そればかり考えていた。少年院生活はたくさんの気づきと学びがあったが、社会にいる仲間たちと暴走族をやるという思いは変わることなく私は仮退院を迎えた。しかし、そこには想像とは違う現実があった。呼び出され、かつての仲間に連れて行かれたのはヤキを入れる公園だった。かつての仲間が1人ずつ順番に私にヤキを入れていく。ひとり、またひとり・・・。4人目、5人目くらいからもう痛みは感じなくなった。暴力って身体が痛いより心が痛いってことを、自分がやられる側になって初めて知った。それから、振り上げた拳があたる瞬間が怖くなった。恐怖はいつまでも残った。仲間と居場所を失い、私は一人になった。自分が消えてなくなりそうだった。「これからは普通に生きよう。」でも、私には、普通が分からなかった。同世代の女の子がどのような生活を送っているのか分からない。ただ普通に生きたいだけなのに、普通がわからない。これから自分はどう生きればいいのかが分からなかった。そして、私は社会生活から逃げ出し、誘われるがままに覚醒剤に手を出していった。覚醒剤を使用すると孤独や寂しさを忘れられた。
仮退院から半年、私は薬物所持、使用で逮捕された。逮捕されたとき、もうどうでもいい。明日のことさえもどうでもいいと思っていた。
ただ、思い出すのは審判のときの母の涙だった。あの涙をもう一度流させてしまうと思うとつらい気持ちになった。
(4)私のセカンドチャンス
留置場に入れられた私は体調不良がしばらく続き、検査の結果、妊娠していることがわかった。初めての妊娠である上、薬、逮捕と一度にたくさんのことが重なり、不安と心配で押しつぶされそうだった。
母が少年鑑別所まで面会に来てくれ厳しい顔で私にこう言った。「赤ちゃんの命を守れるのは、お母さんになるあなただけなんだ。」
母の言葉は私の中で命の大切さを気づかせてくれた言葉だった。「授かった大切な命を軽く受け流す人間にはなりたくない。」、「いま覚醒剤をやめることができなかったら今後やめるきっかけはない。」と考えるようになり、心から「私、変わりたい。」と思った。
その後、再び審判を受け、試験観察になった。少年院を仮退院した後の保護観察中の再非行であったにもかかわらず、試験観察という判断が下された理由は、裁判官や家庭裁判所調査官が、私の可能性を信じてくれたからだ。「信じてくれる人を裏切ることはもうしたくない。」これが私のセカンドチャンスになった。
大人になってから、「勉強がしたい。」、「知らないことを知りたい。」という思いが強くなり、高等学校卒業程度認定試験に合格し大学進学を決めた。大学では教員免許を取得して、現在は高等学校の教師をしている。私が学校の先生をしているなんて、一番驚いているのは自分自身だ。
今の自分があるのは、これまでの人生、多くの人に助けてもらえたからだ。そして、再び犯罪することなくこられたのは、4人のこどもの存在が大きく影響している。心のブレーキとなった。
私が、犯罪のない生活を送れているのは離脱というほど劇的なものではなく、人生の方向性が変わったことだと思っている。暴走族の総長だった頃は、真剣に真面目に総長をやっていた。今はこどもの成長の楽しみや自分の夢を叶えるためにまっすぐに生きている。それは昔と変わらないことだ。
十代のときは、困ったこと、つらいことがあると、犯罪や非行という逃げ道しか知らなかったが、今は違う。私には、夢や希望があり、多くの理解者や仲間ができた。
(5)人は変われる、社会は変えられると伝えていきたい。
私は、自分の経験を生かして、全国の少年院で講演等をしている。その活動で出会った少女たちとの交流を通じて、少年院に入院する少女たちの多くが、加害者であるだけでなく、虐待や貧困の被害者という側面を持ち合わせていることを知った。少年院での活動を始めてから、彼女たちが被害者にも加害者にもなることのない社会には何が必要なのかを考え続け、「社会はありのままの事実を知る必要がある」という答えを見付けた。その思いから、少年院の少女たちの姿を記録したドキュメンタリー映画を製作して、彼女たちの非行の背景を探り、社会への問題提起をした。
私は、犯罪や非行とは縁のない社会の方々にも、犯罪や非行の背景にある事実を知ってほしいと考えている。そして、多くの人がその事実を知ることで、一度は犯罪や非行をしてしまったとしても、そうした人を受け入れられる社会が実現することを願っている。
事例4
40代男性
(1)私にとっての犯罪とは
30歳を過ぎた頃、周囲の知人が覚醒剤を使用していたことをきっかけに、自分も興味を持って覚醒剤に手を出しました。職場と家を往復する生活が単調だと感じ、刺激を求めていたことに加え、将来に対する漠然とした不安を感じていたこともあり、覚醒剤で気分を晴らしたいと思いました。覚醒剤を使用すると、不安を感じることがなくなり、何度か使用しているうちに、警察に逮捕され、執行猶予付きの判決を受けました。
その後、「また覚醒剤を使って捕まったら、次は実刑になって自由な生活を失う。」と考え、覚醒剤から距離を置いていました。その間に、協力雇用主※3である建設会社で働き始めました。
しかし、逮捕から1年ほど経つと、「捕まらなければ大丈夫だろう。」と考えるようになりました。また、当時は独身だったことから、「自分一人の人生だし、誰にも迷惑をかけないから覚醒剤を使ってもいいだろう。」と軽く考えて、再び覚醒剤を使用しました。この時は、仕事は安定しており、生活に不満を抱いていたわけでもなかったため、覚醒剤に手を出す大きな理由は思い当たらず、「魔が差した。」のだろうと感じています。
覚醒剤の使用を再開すると、常に警察に捕まる不安がありました。そして、交通違反を摘発されたことで覚醒剤の使用も明らかとなり、警察に逮捕され、実刑判決を受けました。
(2)処分を受けて考えたこと
刑務所では、建設機械科の職業訓練を受講しました。職業訓練の内容は、建設機械の運転免許の取得に向けた訓練、測量や土木施工技術の習得というもので大変充実していました。その分、職業訓練の内容の予習・復習や資格取得のための勉強は、とても大変でした。私は、学生時代、勉強を怠けがちだったため、集中して勉強するという経験は初めてでした。また、私と共に6名の訓練生が建設機械科を受講しており、7名で互いに励まし合い、協力し合って職業訓練を受けたことは、学生時代に経験できなかった部活動のようだと思いました。職業訓練の結果、7種類の建設機械の運転免許を取得することができ、それらの資格は、出所後の仕事に大いに役立ちました。職業訓練を受講していた半年間は、私の人生において、目標に向かって努力した貴重な時間であったと感じています。
また、刑務所に入所後、前述の建設会社の社長が面会に来て、「出所したら会社に戻って来い。」と言ってくれました。出所後の仕事のめどが立って安心したことに加え、社会で待っていてくれる人がいると思うと、職業訓練に一層身が入りました。
職業訓練修了後の刑務作業では、真面目に取り組んでいると、やがて刑務官から信頼されるようになり、重要な立場を任されることが増え、責任感が養われました。
刑務所には二度と入りたくないですが、刑務所に入ったことで、仕事に役立つ資格を取得できたことはもちろん、内面的に成長するとともに、自分を変えることができ、再犯しない決意が固まったと感じています。
(3)非行からの離脱過程における転換点
出所後は前述の建設会社で再び働くことに決め、同社の社長に身元引受人となることを快諾してもらいました。出所後の生活環境が整ったこともあり、仮釈放が決まりました。
仮釈放によって刑務所を出所した後、予定どおり仕事を始めました。しかし、仕事に対する気合が入りすぎて、自分が正しいと考える方法を周囲に押し付け、反発を招くなど、仕事仲間との関係を上手に築くことができませんでした。社長に状況を相談すると、私の仕事の方法を受け入れつつも、それぞれの方法があり、周囲の仲間の仕事の方法も認めるように助言をもらいました。私も、社長の助言に納得していましたが、どうしても行動に移すことができず、独り善がりな振る舞いを続けていました。
私には、困難な事態に直面すると、全てを投げ出してしまう癖があり、このときはお酒に逃げてしまいました。仕事が終わるとお酒を飲んで泥酔し、翌日の仕事に穴を空けてしまうこともありました。
葛藤を繰り返す中で、自分の考えに固執することをやめ、肩の力を抜いてみることにしました。このように行動に移せたことは、私にとって一つの転換点であったと思います。その結果、周囲との関係が改善し、現在は、建設工事に加えて、新入社員の教育を担当しています。後輩社員から相談を持ち掛けられることもあり、会社に必要とされ、自分の存在意義を見いだすことができています。
また、同じ頃、職場で知り合った女性と結婚し、私生活においても転換点がありました。妻も過去に犯罪をして処分を受けており、結婚が、夫婦二人で社会復帰に向けて協力するための絆となりました。
(4)離脱を果たして考えること
当たり前のことを当たり前に実行する姿勢は、立ち直りのために大切なことだと思います。「当たり前のことを当たり前に」は、刑務所で刑務官から度々言われた言葉です。例えば、出所後の私の仕事であれば、ヘルメットをかぶる、火気厳禁の場所でたばこを吸わないといったことが挙げられます。それぞれの行動は小さなことですが、継続して行うことで大きな成果となりますし、一つ一つを地道に行うことができれば、社会復帰は難しいものではないと今は思います。
また、刑務所在所中から出所後の就職先が決まっていたことも立ち直りの重要なポイントでした。生活資金のめどが立っていたことや、社員寮への入居により衣食住が保障されていたことで、出所後の生活に関する不安が軽減され、落ち着いて新しい生活を送ることができました。
さらに、保護観察中に受講した薬物再乱用防止プログラムは薬物依存からの離脱に有効でした。当初は、プログラムの受講のために仕事を休むことに抵抗感があり、加えて、普段は忘れて生活している薬物について、受講の度に考えなければならず、逆効果だと思っていました。しかし、長く続けていると、しっかりとプログラムの内容が身に付いており、日常生活の中で薬物のことを思い出したときに、自然とプログラムで学んだ対処法を実践している自分に気付き、効果を実感しました。
(5)犯罪・非行からの離脱途上にある人や、再犯防止を支える人へのメッセージ
刑務所から出所すると、時間を逆行して刑務所に入所する前に戻りたいと考える人が多くいますが、私は、出所した時点がスタートで、その時点から人生をやり直すことで社会復帰ができると考えています。出所した時点では、立ち直る決意が固まっていない人でも、立ち直ろうと思い立った時点から、人生をやり直すことができます。
人生をやり直したいと思ったら、周囲の人に相談してみてください。相談することを恥ずかしいと感じたり、相談しても取り合ってもらえないかもしれないという不安を抱いたりする気持ちもよく分かりますが、実際には、相談を邪険に扱う人はほとんどいませんし、多くの人が快く相談に乗ってくれます。
多くの人に助けられ、私は、今でも出所後から変わらず同じ会社で建設工事の仕事をしています。大きな建物の工事に携わることも多く、自分が関わった建物が地図に載ると達成感を得られるので、自分の仕事に誇りを持っています。どんな人も、変わりたいと思って変わろうとしている自分は、もう変わっていると信じ、社会復帰に向けて歩んでほしいと願っています。
支える人の視点から
株式会社SHIROコーポレーション 代表取締役社長 高橋 政志
当社は、協力雇用主として登録したり、職親プロジェクト※4に参加したりするなど、刑務所出所者等を積極的に雇用しています。同プロジェクトはもとより、更生と社会復帰を目指す応募者を採用した場合は、その全てのケースで私が身元引受人となり、社員寮等を用意し、刑務所出所後の当面の生活を安心して送ることができるように衣食住を整えて、立ち直りをサポートしています。
立ち直りを支える際に、私が大切にしているのは、彼ら・彼女らに家族同然に寄り添い、無償の愛を注ぐことです。会社として刑務所出所者等の雇用を始めた当初、彼ら・彼女らと話すと、愛情を求めている人が多いことに気付き、社長である私が親代わりになって見守ろうと考えるようになりました。犯罪や非行から離脱する過程には、悩みやつらいことがありますが、家族である彼ら・彼女らがどのような状況にあっても、決して見捨てず、温かく受け入れています。
事例4の社員は、刑務所からの出所直後、やる気が空回りしていました。刑務所で考えていたことを、社会で行動に移そうとしても、刑務所の中と社会の落差が大きく、思いどおりにならなかったことが原因です。
この出来事から、出所した人が出所直後に抱く戸惑いを軽減させるためには、刑務所が釈放前の指導をより充実させることが必要だと感じました。社会に近い環境で、出所後の生活に向けた準備が十分にできれば、出所する人も、出迎える人も安心することができます。
例えば、一部の少年院では、少年が少年院在院中に出院後の就職内定を得た場合、少年院の職員に付き添ってもらいながら、職場体験や社員寮の見学を実施しています。実際に、自分が働く現場や住む場所を見て体験することで、出院後の生活のイメージが湧きやすくなるようです。このように、矯正施設に在所しながらも、社会に近い環境で過ごすことで、スムーズな社会復帰が可能となり、結果的に、非行や犯罪からの離脱が進むはずだと私は考えています。