
第2節 社会復帰を果たした当事者及び社会復帰を支えた支援者の語り
70代男性
1 私にとっての犯罪とは
私は、現在70代後半になります。今振り返ると、人生の約半分は、窃盗を繰り返して社会と刑務所を行き来し、この後お話しするとおり、NPO法人抱樸につながるまでは、警察から逃げ隠れする生活を送ってきました。牧師だった父親は私が幼い頃に亡くなり、母親が私と姉を育ててくれました。子供の頃は、いわゆる「やんちゃ」をしていた訳ではありませんでしたが、周りの遊び仲間に流されて非行をするようになり、10代後半に窃盗(空き巣)で少年鑑別所に3回入所しました。
その後、親元を離れて寿司屋の出前の仕事に就きました。21歳の頃、出前を届けに行った先の人が玄関に財布をぽんと置いたままにしたのを見て、「これなら盗める。」と思い、手を出してしまいました。このときの「盗んでもばれないだろう。」という考えが、その後、60代後半まで50年近く窃盗を繰り返すことにつながったと思っています。
2 処分を受けて
出前の仕事で窃盗をしたことはすぐに発覚し、逮捕・起訴されました。懲役9月の実刑判決となり、初めて刑務所に入所しました。
刑務所では、職員から自分のためになる指導をいただくこともありましたが、周りの受刑者から出所後の遊び先を教えてもらうなど、悪い方向に向かうこともありました。刑務所を出所して数か月後には、空き巣をして再び刑務所に入所しました。その後、23歳で3回目、26歳で4回目、30歳で5回目の刑務所入所となるなど、受刑を繰り返しても空き巣をやめることはなく、70代半ばで12回目の刑務所を出所するまで、人生の約半分を刑務所で過ごしてきました。
3 犯罪を繰り返した要因について
私が繰り返してきた犯罪のほとんどは、空き巣による窃盗でした。何度も繰り返した理由は、「盗んでもばれないだろう。」という考えに加え、仲間と遊び歩きたい気持ちが強かったことだと思います。20代の頃はダンスが流行っていて、「おしゃれな格好をしてダンスホールに行きたい。」、「遊ぶ金がほしい。」という身勝手な理由でしたが、その当時は、遊ぶ金が足りなければ、空き巣をすればいいと思っていました。自分が遊ぶ金を得るために単独で空き巣をすることもあれば、仲間から「金がなくて困っている。」と言われて集団で空き巣をすることもありました。一人で遊んでも楽しくないので、単独で空き巣をして得た金を仲間に配ることもありました。実は刑務所に入所するたびに「これで悪い仲間と離れられる。」とほっとしていました。「今度こそはやめよう。」と思うのですが、いざ出所となると、迎えてくれる人もなく、行き場がなくて不安でいっぱいでした。悪い仲間から「来いよ。」と誘われると、深く考えずに行ってしまう自分が悪いのです。盗みをやめようという気持ちは薄れ、金欲しさから空き巣を繰り返していました。
若い頃には、夜の酒場で演歌の「流し」で稼いでいたこともありましたが、刑務所での生活が長くなるにつれて、履歴書が書けなくなりました。入所していた期間が空欄になっていく。そんな履歴書で仕事探しはできません。考えることも面倒になっていき、仕事に就くことが難しくなりました。また、刑務作業で得た作業報奨金は、出所後に細々と生活用品を買ったり、交通費に使ったりしてしまい、すぐになくなっていました。自力で家を借りることもできませんでした。生活に困って公的な機関に助けを求めようと思っても、当時の刑務所や更生保護施設では、「困ったら役所に行くように。」と教えられるものの、役所のどの窓口に行けばいいのか、窓口で何をどう申請するかといった具体的な手続は教えてくれませんでした。結局、自分から助けを求めることはせず、空き巣という楽な方法で問題を解決することが当たり前になっていきました。「捕まったら捕まったでいいや。」と安易に思う一方で、「いつ逮捕されるか分からない。」という不安をずっと抱えて安心して眠ることができませんでした。そうした嫌な現実から目を背け、空き巣で得た金で仲間と飲み歩くことが、私にとっての楽しみでした。
4 離脱の過程における転換点
私の長年にわたる刑務所生活の転機は、地域生活定着支援センター(【施策番号28】参照)の職員の方が、12回目の受刑中に面接に来てくれたことでした。最初の面接では、出所者等を受け入れている施設で自由のない生活を送るくらいなら、住み慣れた都会で生活したいと思い、施設に入ることを断りました。刑務所では、工場担当の職員からも施設に入ることを勧められましたが、余り乗り気になれませんでした。しばらくすると、再び地域定着支援センターの職員の方が面接に来てくれました。施設に入りたくないと思いながらも、刑務所内で自分より高齢の受刑者が介護を受けている姿を見て、「いずれ自分もこうなってしまうかもしれない。」と思ったことや、引き続き工場担当の職員から施設に入るよう促されたこともあり、出所前には抱樸の支援を受け、抱樸が運営する施設に入ることに決めました。ただ、「実際に行ってみないと分からない。」、「嫌だったら元いた都会へ戻ればいい。」とも思っていました。
抱樸が運営する支援住宅には、私のような元受刑者だけでなく、かつてホームレスだった方等も生活していました。支援住宅では、私の過去を聞く人は誰もいませんでした。元受刑者であるという過去を言わなくてもいいこと、職員の方を始め周りの方が親身になって向き合ってくれることなどは、私にとってありがたい経験でした。一度、外出先からの帰宅が遅くなったことがありました。職員の方へ事情を説明した後、その方が電話する様子が見えました。私が本当にその場所へ行ったのかを問い合わせたと思い込んで、「てめぇこのやろう。」と叫んでしまいました。「元犯罪者と思って裏を取っているんだ。もういいや。」と感情的になってしまいました。すると、いつも穏やかな職員の方が「てめぇじゃないでしょう。」と真剣に諭してくれ、我に返りました。これほど心配してくれているのだと感じると同時に、「ここは「社会」なんだ。「てめぇ」とすごんで嫌なことから逃げるんじゃだめなんだ。」と思いました。結局、電話の件は私の誤解でした。半年間、支援住宅で職員の方や他の入居者と共に過ごす中で、「素直に話せばちゃんと受け止めてもらえる。」、「ここでは迷惑を掛けられない。」、「元いた世界に帰っちゃいけない。」と思いました。
自分のせいで肩身の狭い思いをさせてきたと思い、長年連絡を取らなかった姉には、ボランティアの方と一緒に電話を掛け、その後に再会することができました。姉は私の手を取り、泣いて喜んでくれました。顔向けできなかった姉の夫にも、これまで迷惑を掛けてきたことを謝りました。姉の夫はただ「元気だったか。」と声を掛けてくれました。私はずっと家族はいないものと思って生きてきましたが、抱樸の支援を受けて立ち直っている自分を認めてもらうことができて、長年の心のつかえが一気に下りた感じがしました。
現在は支援住宅を出て市営住宅で一人暮らしをしながら、抱樸が開催している互助会に参加し、世話人を務めています。誰かに助けてもらいながら、誰かに必要とされる輪の中に入れたことで生きがいを感じています。抱樸で出会った人たちや姉夫婦を裏切ることはできない、もう再犯しないと自分を信じることができました。
5 離脱を果たして考えること
社会と刑務所を行き来していたときは、一時的な楽しさを追い求め、狭い世界で生きていました。警察に見付からないように隠れて生きる日々は苦しみばかりで、決して「憩い」はありませんでした。現在は、「なんでもっと早く、生き直せなかったのか。」、「もう、うそをつく必要なく正直に生きられる。」と思っています。花が咲いているのを見て、「あぁきれいだな。」と感じられ、それだけで楽しいです。多くの人と関わって生きている今、ようやく本当の意味での「憩い」を感じながら、自分の人生を歩んでいると実感しています。互助会の活動の中で、見回りに行った人が倒れているところを発見して救急車を呼んだり、支援住宅で出会った仲間の臨終に立ち会ったりするなどの経験を経て、誰かのために生きていきたいと思うようになりました。この「誰かのために」という思いが、犯罪から遠ざかるための力になると考えています。
認定NPO法人抱樸
私は、認定NPO法人抱樸が運営する自立支援住宅を担当しています。帰る場所のない方々を、当法人が用意した住居に迎え、市民ボランティアが半年間、伴走支援する取組です。そこに地域生活定着支援センターから刑務所出所者の入居の打診があり、事例3の男性と出会いました。
私たちの活動は市民有志によるホームレスへの炊き出しから始まりました。野宿の方たちを支援する中で、彼らが立ち上がり、生き直すためには、家がなかったりお金がなかったりするなどの経済的困窮の問題だけではなく、「助けて」と言える関係性を失った状態、つまり「ホーム」を失った社会的孤立の問題を解決する必要があることに気付かされました。人がもう一度、立ち上がり生き直すには、自分を思ってくれる誰か、そして自分も大切に思える誰かの存在が必要だと考えています。経済的困窮、社会的孤立双方の視点に加え、ありのままを受け止めて「断らない」ことを柱に、生活困窮者や孤立状態にある人々を支援しています。時には、炊き出しで出会う野宿の方に「刑務所を出て、行き場がなかった。」と打ち明けられることがあります。支援の現場で「刑務所の方が生きやすい。」、「自分なんか刑務所に戻ってかまわない。」と言われたこともあります。「私たちが作ってきた「社会」は、戻りたい場所になっていないのか。刑務所に負けているのか。」と痛感し、重く響いた言葉でした。
こうしたこともあり、刑務所の入所歴12回というこの男性の受入れに当たっては、かなり身構えました。入居前、支援住宅のボランティア会議で「生業として空き巣をしてきたなら、それはやめられるのか。」、「反省はしているのか。」、「この人に迷惑は掛けられない、という存在が必要では。」、「支援住宅を希望したことが自立への決意でありチャンスだ。」などの真剣な意見交換がありました。ボランティアの皆さんで、この男性が出所後に身を寄せていた更生保護施設に会いに行き、その半生とともに、これからどう生きたいのかを直接聞きました。元受刑者ということより、たった一人、帰る場所がない人であることが改めて実感されました。
自立支援住宅は、当法人の施設の一角にあります。職員ばかりでなく、他の入居者、ボランティア等のいろいろな方たちと共に過ごします。顔を合わせたら挨拶を交わし、調子が悪そうなら声を掛け、喫煙所でおしゃべりしたり、何気ない日常を重ねたりしながら、つながりが芽生えていきます。その中で、病院受診や必要な手続、住まい探しを担当のボランティアと職員がサポートします。ボランティアの皆さんの存在は大きく、支援者というより友達になろうとして入居者に会いに来られ、職員に言いにくいことも聞いて、何かあれば駆け付けてくれます。この男性が出所時から願っていた実のお姉さんへの初めての電話も、ボランティアの皆さんが横で見守ってくれました。再会が実現した時は、皆さんが我が事のように喜んだものです。
現在、男性は支援住宅を出て、一人暮らしをしています。地域で生活する方々のサポート部門が支援を切れ目なく引き継ぎ、困り事や病院受診等の相談を受け、生活の安定を図っています。男性は当法人の「互助会」にも加わりました。この会は助け合える地域づくりを目指して、会員がお茶飲み会や清掃活動等の交流行事のほか、会員のお見舞いにも行き、身寄りのない会員が亡くなった際には、皆で葬儀もします。男性はその世話人となり、毎月、安否確認を兼ねて行事予定を近所の会員宅へ届けてくれています。以前、訪問先で倒れている方を見つけ、救急要請につながって本当に助けられました。支援住宅で親友と呼ぶ間柄になった方を看取り、葬儀では涙をぬぐいながら弔辞を述べました。
男性は、「出所が近付くと、どこにも行く当てがなく不安でいっぱいだった。」と話していました。出所後、公的な支援を受けようにも、一人ではたどり着くことができなかったそうです。出所前に、自分を迎えてくれる場所、そして必要な支援につないでくれる人と出会えていたら、いくらかでも心強く出所の朝を迎えられたのではないかと思います。
一人ぼっちで私たちの施設に来たこの男性は今、多くの人とのつながりの中にいます。実は入所ほどなくして、窃盗を繰り返した頃の仲間の元へ行こうとしたことがありました。男性の帰宅が遅くなった日、行き先を詮索されたことがきっかけとなって、疑心暗鬼になったためだと思います。疑われているということが、どれほど深い心の傷となっているか、関係性がなければ言葉は届かないということを改めて教えられた出来事でした。同じ人間としてありのままを受け止めて、時には互いの考えや思いをぶつけ合いながらの毎日です。誰かに助けてもらいながら、誰かの助けになっていること、安心できる居場所と自己有用感を感じられる出番があることが重要です。支援部門も、互助会を始めとしたボランティア活動も、“あなたをひとりにしない”というスタンスでつながり続けてきたことが、男性が再び過ちを犯さないことにつながっているとしたら、こんなにうれしいことはありません。



