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昭和を生きた女性法曹たち

―拓く法曹への道―

久米 愛(くめ あい)

久米愛の肖像

 あいは明治44年(1911年)に大阪で生まれ、夕陽丘高等女学校で学び、ハーバード大学に留学した兄の藤原もりたね(後に慶應義塾大学教授)の影響で、英語を学ぼうと考えて津田英学塾に進みました。昭和8年に弁護士法が改正され、女性にも弁護士の道が開けたことから、同年に明治大学専門部女子部に入り、更に同法学部へと進学します。

 昭和13年1月、結婚して久米姓となりました。同年11月、高等試験司法科に合格しましたが、夫が従軍中だったため、新聞では「皇軍勇士の夫人」と紹介されました(なお、彼女自身はまだ明治大学に在学中でした。)。

 修習後は、第一東京弁護士会会長を務め、後に日弁連初代会長となった有馬忠三郎の事務所で勤務しました。昭和16年9月には、女性として初めて法廷で弁論を行っています。子どもを殺して無理心中しようとした女性の弁護で、「胸を打つ弁論」などと書かれた記事が残っています。

 戦時中は岡山県に疎開、戦後に幼い長男を亡くすなどの苦難を乗り越えて、再び有馬の事務所に所属しました。昭和25年、和田嘉子らとともに日本婦人法律家協会を作って初代会長となり、その後生涯に渡り会長として、「女性法曹」を牽引しました。弁護士として活躍するかたわら、長年、明治大学短期大学教授を務め、また国連総会にも政府代表・代表代理として複数回出席するなど、多方面で活躍しました。

 愛の背中を追いかけた「女性法曹」は多く、著名な弁護士であった鍛冶千鶴子もその一人です。千鶴子は13歳の時に「女性初」の弁護士誕生を伝える新聞記事を読み、弁護士の道を志しました。千鶴子は愛の働く事務所で修習し、その当時のことを振り返って「丸ビルの7階に、他の著名な先輩弁護士と共同の事務所を持ちながら自分の足で立つことに自信をもつおとなの姿を私はそこに見た」と述べています。