
第2節 社会復帰を果たした当事者及び社会復帰を支えた支援者の語り
30代男性
1 私にとっての犯罪とは
初めて非行に走ったのは中学3年生の時でした。中学2年生までいじめを受けていて友達もいませんでしたが、中学3年生の時に友達ができて、その友達と次第に夜遊びをするようになっていきました。当時の私は、退屈な日々に対して、ただ楽しい刺激を求めていました。そのような刺激を感じられるものとして、その頃からシンナーを使い始めました。高校に進学したものの、学校が楽しいと思えず、1週間で中退してしまいました。周りの友達はシンナーを卒業して、覚醒剤を使い始めている中、私は20歳までシンナーを使い続けました。その当時は、何もない日々が退屈で、シンナーを使うことが楽しみでした。当時の私にはシンナーをやめる理由がありませんでした。また、シンナーがないと不安になり、嫌なことを忘れることができない状態でした。今振り返ると、当時の私にとってシンナーは、いわば「お守り」のようなものだったと思います。
その後、好きな女性ができたことをきっかけにシンナーをやめました。しかし、その女性と結婚し子供が生まれてしばらく経った頃、地元の先輩から「覚醒剤がいいよ。」と勧められ、「そんなにいいものなのか。」と興味を持つとともに、「一回ぐらいなら大丈夫だろう。」と思い、覚醒剤を使い始めました。初めて覚醒剤を使ったときは、38度の熱があったのですが、体が軽くなり元気がみなぎる感じがしました。初めて覚醒剤を使って1週間もしないうちに、再び覚醒剤を使い、その後はあっという間に回数を重ねていきました。
覚醒剤が私に与えた影響は大きいものでした。いら立って家で暴れるなど、感情のコントロールが難しくなっていきました。その結果、22歳のときに離婚しました。前妻や子供と離れて一人での生活が始まりました。離婚後は、一人でいることの悲しさやむなしさから、余計に覚醒剤を使う回数が増えていきました。
気付いたときには、自分の意志で覚醒剤をやめられなくなっていました。覚醒剤がやめられないことを母親に相談し、病院に連れて行ってもらったこともありました。しかし、病院に行った当日に覚醒剤を買い求め、それを使っていました。どうにもならない状況になっていました。前妻との間の子供や自分の両親に申し訳ない気持ちがあり、「覚醒剤をやめたい。やめないといけない。」と思いながらも、それができない現実から目を背けるために、覚醒剤の使用を重ねていきました。母親が危篤のときですら覚醒剤を使って看病をしていました。25歳のときに母親が亡くなりました。葬儀の当日に地元の先輩に「覚醒剤を売ってほしい。」と頼んでいる私がいました。先輩からは「さすがに今日はやめておけ。」と言われました。そんな自分の姿を見て、「もう自分は覚醒剤をやめられないだろう。」と思うようになりました。
2 処分を受けて
29歳のときに初めて覚醒剤取締法違反で逮捕されました。逮捕されたときは、まさに絶望でした。ほぼ毎日覚醒剤を使うという生活を送っていたので、急に覚醒剤を使うことができなくなったことへの不安や焦りのために、留置所で泣いたことを覚えています。また、じっとしていると落ち着かず、留置所でずっと歩き回っている自分を惨めに感じていました。
裁判では懲役1年6月、執行猶予3年の判決を受けました。私は、裁判所を出たその足で覚醒剤を買いに行きました。裁判では、「覚醒剤を二度と使わない。」と宣言しました。それは紛れもない当時の本音でした。しかし、裁判所を出た瞬間、その考えは一切なくなっていました。
3 犯罪を繰り返した要因について
執行猶予中も、当時交際していた女性と一緒に覚醒剤を使う日々を送っていました。自分自身だけではなく、交際相手も覚醒剤を使っていたので、覚醒剤をやめる理由を見いだせなくなっていました。執行猶予の判決から半年も経たないうちに、交際相手と共に覚醒剤取締法違反で再び逮捕されました。このときは起訴猶予の処分となり、社会に戻ったタイミングで、まだ身柄拘束中であった交際相手と結婚しました。このときに結婚したのが、現在の妻です。結婚後は、半年ほど覚醒剤をやめていた期間がありましたが、地元の先輩とのつながりで再び覚醒剤を使うようになりました。そして、覚醒剤取締法違反で3回目の逮捕となり、私も妻も実刑判決を受け、刑務所に収容されました。当時犯罪から離脱できなかった要因は、自分自身の意志の弱さと、薬物をやめなくてかまわないと思えてしまうような環境で生活していたことだと考えています。
4 離脱の過程における転換点
刑務所では、比較的真面目な受刑生活を送っていたものの、頭の中では、「出所したら、どうやって楽をするか。」と考えていました。刑務所を出所するとき、親元に帰ることができなかったため、自立準備ホーム(【施策番号21】参照)を帰住先(【施策番号17】参照)とし、自立準備ホームの職員の方の紹介で、現在の勤務先である野口石油に就職しました。
採用面接のとき、野口石油の社長に「つらかったね。」と声を掛けてもらい、ハグをされて泣きそうになりました。こんなに自分のことを気に掛けてくれる人がいるのだと思いました。就職した当初は、来店した客に理不尽なクレームを言われたり、覚醒剤の売人からの電話があったりするなど、心が折れかけた出来事もありました。また、同じ頃、難病で苦しんでいた父親に対し、何もしてあげられない自分を恨めしく思っていました。これらの困難に直面しながらも、野口石油の店長に助言をもらったことで、理不尽なクレームに対応できるようになるとともに、覚醒剤の売人に対して「これ以上関わりたくないです。」と伝えて関係を絶つことができ、少しずつ働き続けられる環境が整っていきました。
このように、野口石油の人たちが、覚醒剤を使わずとも生活していける環境を整えてくれたことが、私にとっての転換点であったと思っています。自分一人では、立ち直りに向かうことは絶対に無理だと考えています。
5 離脱を果たして考えること
私も妻も、立ち直ったとは思っていません。目の前に覚醒剤があれば、間違いなく使いたくなるでしょう。かつて一緒に覚醒剤を使っていた妻は、フラッシュバックの症状が起こることはないと言っていますが、私は、いわゆる「虫が湧いてくる」感覚が今もあります。その意味では、一生涯立ち直ることはないのだと思います。例えるならば、常に塀の上を歩いているようなもので、本当に日々自分との戦いだと考えています。
私に目を掛けてくれている野口石油の社長や店長、一緒に立ち直りに向けて苦労している妻、これらの自分に関わる大切な人々を裏切りたくない。そんな思いで、少しずつ更生の道を歩んでいます。

有限会社野口石油 取締役会長 野口 義弘
統括所長 野口 純
当社は1995年(平成7年)に創業し、同年9月には協力雇用主(【施策番号9】参照)に登録して、これまで百数十人の刑務所出所者や非行少年を雇用してきました。今から5年前、事例1の彼が出所後に採用面接に来た際、丸坊主でひげを生やし、目をぎゅっとさせて険しい顔をしていたことを覚えています。当社は客商売になるので、ひげをそるよう伝えました。初対面の際には、内心では、彼は仕事が長続きしないだろうと感じました。
しかし、いざ雇用してみると、地味で大変な作業であっても不平や不満を言うことなく、地道に仕事を続けてくれました。働き始めた頃は、接客に苦労することがあり、「「類は友を呼ぶ」のだから、自分が変わっていくしかない。」と助言したこともありました。そのような環境の中、決して楽ではない仕事を投げ出さず、真面目に働き続けることを通じ、家族の支えを自覚するとともに、他人の痛みが分かるようになったのだと思っています。
彼は今では、新入社員の良き相談相手となっています。また、新たな事業に積極的に取り組み、当社の利益にも大きく貢献してくれていることもあり、これまで雇い入れた刑務所出所者等の中で初めて「主任」という役職に就かせました。彼は今では、当社になくてはならない存在となっています。彼自身の地道な努力と日々の積み重ね、そして周囲の継続的な支えが、今の彼を作ったと考えています。今後は、更に上の役職に就いて、もっと当社に貢献してくれることを望んでいます。
罪を犯した人は、ある日急にそうした行動を取るようになった訳ではありません。大体は時間をかけて犯罪や非行が深刻化していくのです。そのため、すぐに立ち直ることもないと思っています。犯罪や非行が深刻化した分だけ、社会復帰のための時間も長くなります。当社は雇用した人が再び罪を犯すことがあっても解雇はしませんし、当社に居づらくなった場合は、別の会社に就職する手助けをします。立ち直りを支援するに当たっては、「愛は与えっぱなし」であると思っています。