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社会改革としての司法改革 ──「法の支配する社会」を求めて──

嶋津 格
 今回の司法改革は、日本社会の改革の一環であるとともに、後者と一体になってはじめて成功すると考える。そこで、私の観点からして、現在進行中の改革が実現しようとしているように見える社会変化のイメージを、法の観念に関するいくつかのディコトミーを使って若干図式的に描いた後、その実践的含意を考えてみたい。その際、現実に進行中の改革の射程からは一部外れた部分もあることをお断りしておく。

1.法概念が前提する秩序構想と「正義感覚への依拠」

 何らかの社会秩序を実現することが法の第一の目的だが、その際に人々のもつ正義感覚に依拠しようとするかこれを排そうとするかによって、その法と法理論の基本的性格が決定される。つまり、各人のもつ「正義感覚」(一方の立場からは、それは原理上分裂した危険なものとされる)への不信から出発して、自覚的にこれと切り離された法の観念を社会の基礎におこうとするのは、法実証主義に共通の秩序構想である。これに対して、「法の支配」で問題となる法は、人々の間にある正義感覚を基本的に信頼し、これに依拠して社会秩序を維持しようとするような法の観念を前提している(だから、法実証主義者の「法の支配」に対する説明は常に困難を抱えている、というのが私の印象である)。
 現在視野におかれている日本の社会変革は、標語的には、(「正しさに関する問を排除する社会」から)「正しさを語る社会」へ、また別の観点からは、官僚の法から法曹の法へ、ということもできるだろう。元来日本の大学の内歴史の古いものは、創設期において法学を中心に発展したところが多い。ここでの法学は主に、中央と地方の政府官僚を養成するのに使われるそれ、または民間企業での組織運営に関わるそれであり、問題になる法は直接的には、近代的な行政と官僚組織にとって不可欠な垂直的関係を規律する「官僚の法」または<法=統治>であった。これの知識と訓練が、野心的な若者が官僚制の階梯を駆け上がるのに役立ったのである。これに対して、レヒトとしての法(<法=権利>)は、水平的な関係を規律する「法曹の法(lawyers' law)」であって、人々の権利意識をその基礎とし、それによって支えられているような法である。そして「法の支配」は、(人間の意思でなく)この種の法が支配することを政治的支配の理想または目的として掲げる。しかし、この理念が決定的な場面において政治的な力を現実に発揮するためには、人々の実感する正義の感覚によってその法が内容的に支えられていなければならない。そして裁判官も含めた法曹本来の活動の基盤もまた、ここにあるのである。さもなくば、選挙によって選ばれたのではない裁判官の判断が立法府の決定を覆すという違憲立法審査権は、ほとんど不可能な政治的基盤に立つ危ういものになってしまうだろう(日本における司法消極主義の真の原因もここにある、と私は考えている)。
 ちなみに、実証主義的な法と秩序の構想(法の存在または認識をその内容上の評価と截然と切り離そうとする)は、法と言語のアナロジーからすれば、言語感覚にまったく依拠せずに文法書のみを手引き(排他的権威)として営まれる言語生活のような、奇妙で倒錯した社会像にも接近する。まずここでは、法と権利の乖離が発生しやすい。権利主張は法との関連づけを失って、単純な利益要求と区別がつかなくなり、法は権利との絆をもたないことから、制定者の権限と意思にのみ基礎づけられることになる。そして、それが手続を越えてなぜ正しいのかの問は、イレレバントなものとして黙殺される。

2.「正しさを語る社会」のイメージ

 <法=統治>においては、各階層の法と命令、決定の間に形式的な授権関係が成立していることが重要であり、この場合の権威を「形式的権威」ということにすれば、<法=権利>における権威は、それが人々の権利意識と結びついていることから生じる権威であり、むしろ「内容的権威」ということができるだろう。しかし、法実証主義が常に問題にしてきたように、人々の正義の内容が一致するという予定調和の保証が事前にあるわけではない(同じ社会に住む人々の間には一定の共通部分──抽象的レベルにおける──はあるだろうが)。私の理解に従えば、そのような状況において、正義に関する合意を調達するための議論(それが常に成功するわけではないが)に従事する専門家が、法曹なのである。
 これまで私はいくつかの機会に、「合意達成問題」と「正解発見問題」の区別と、民主主義による決定においてこの区別がもつ含意を論じてきた。確かに、道路を右側通行にするか左側通行にするかとか度量衡とかの決定は前者であって、この場合真正な合意は正解を作り出すと考えてよい。そして数学や物理学の問題(「地球は回っている」など)は後者であって、民主主義であれ何であれ、どんな手続をふんだ決定によっても、それが正解を生み出すことはない(それは「(内容上)誤った決定」でありつづける)。しかし法的決定(解釈)を単純な正解発見問題と同視する(R.ドウォーキンの議論はこれを示唆するが)ことにも疑問がある。ここで詳論はできないが、私は現在この問題を以下のように考えている。
 特定の問題(たとえば、「脳死下における臓器提供を許すべきか」)が上記の二つのうちどちらの問題であるのかの判定は困難な場合が多い。これ(脳死下の臓器摘出)を是認する社会も否定する社会も、いずれも可能であるかもしれないという意味では、これは外的視点からは合意達成問題であるかもしれない。たとえそうであってもわれわれはむしろ、社会的合意にいたるためにも、自分が正しいと思う結論を、理由を挙げて弁証しなければならないのである。反対派がゼロになることはないかもしれないが、そこであげられた理由は、詭弁や口先だけのものでなく真剣なものであれば、その後の決定と行動を拘束する。そして他の規範的問題へも含意が波及する。そして、なにが、なぜ正しいのか、についての弁論が、それに関する社会的決定とともに蓄積されてくると、正義主張に伴う普遍性要求の結果、われわれは「正しきもの」に関する理由づけのネットワークに取り巻かれる世界に住むことになるのである。この世界の内部においては(内的観点からは)、規範問題の「正解」を求めて論じることは無意味ではない。むしろそのようにしてはじめて、正義感覚に関する調整または一致が、結果として人々の間で達成されるのである(ソフィストのリアリティーはまさにここにあるのではないか)。しかし、法律家としてのセンスの中には、自分が展開しようとしている議論が、現在の聴衆に正しいものとして受け入れられるか否かについて予測する能力もまた含まれるはずだから、彼の弁論のあり方は、その内容を含めて聴衆の「聞く耳」(についての予測)によって左右される。その意味ではこの弁論は、純粋な数学や自然科学などのそれとは異なっている(後者を前者になぞらえて理解する科学哲学──T.クーンのそれなど──も十分ありうるが)。だからこそ、弁護士は争訟のいずれの当事者からの依頼でも、受けることができるのである。有能な弁護士ほど、争訟のどちらの側でも勝たすことができる余地が大きくなるのも事実である。これは古代ギリシャにおいてソフィストたちとソクラテスが対立した問題と同型の問題である(ここにおけるソクラテスの勝利は、まったく明らかではない)。
 弁論と議論をつくしても、正義に関する結論の一致は得られないかもしれない。その場合でもわれわれは、自分がかならずしも全面的には賛成していない相手の規範的世界の中で、一定の結論を正当化したり、自分の利益を権利として相手が認めるべきことを主張したりすることができる。法曹に要求される基礎的技能とは、このような世界を自らの議論によって作り出し、その中で自由に論じ続けるためのそれなのである。これはもちろん司法改革審議会の新構想では、「法科大学院」において課される訓練の内容とならねばならない。

3.いくつかの実践的示唆

 上記の描写は、特に紙面の制約のために、概略的な素描にすぎないが、これを要約すれば、法的正しさ(正義)の弁論は、それによって正義感覚の一致を生み出すという力をある範囲でもたねばならないし、法的社会を実現するためには、われわれはこの一致を得るための技術を高めねばならない、ということである。以下にはその含意を明らかにするために、ここから導かれると思われるいくつかの実践的帰結を列挙してみよう。

条文を被説明項として扱うこと

 これまでの裁判実務や行政実務では、「○○の条文があるのだから、□□の結論は正しい」という形で、制定法の条文は説明項(結論の正しさをそれによって説明するもの)として扱われるのが一般である。しかし「正しさを語る社会」では、裁判官や官僚は、決定的な場面で法律条文を引用する場合、その法律が内容上なぜ正しいのかを、自分の才覚で弁証する(社会的・政治的)義務を負うと、人々に考えられることになる。彼らには、法を適用する自分と、それを適用される相手の正義感覚と法との同調を試みる義務がある、と言ってもよいだろう。これが困難な場合、その条文は可能な限り制限的に解釈されるし、場合によっては無視されることになるだろう。

「不当判決」の例外化

 自分が求めていた判決と異なった判決が出された場合に、簡単に「不当判決」の旗を掲げる、というような行動は、厳しい批判に晒されるべきである。個々の判決の内容はもちろん批判することが許されるべきであるが、司法制度と法の全体的権威は、それが社会の最終的靱帯であると理解される以上、それに相応しい権威あるものとして扱われねばならない。権威は最終的に、それに従う者たちが作り出すものだからである。わかりやすい例を挙げるなら、現在天皇に対して払われている程度の注意(つまり「権威への服従」)が、法と裁判に対して払われる(べきだと人々が感じるようになる)ということかもしれない。

国民的教養としての法学教育

 法学の基礎的素養は、法学徒のみに限定されていてはならない。社会生活上の基礎的教養として、初中等教育の中で、広く国民に法学的素養が体得されてゆくような教育制度を作ってゆく必要がある。その際重要なのは、現行法の内容が記憶されることではなく、体育実技のようにして、自分の正義感覚を言語化し、それを弁証し異なる意見との間で論じ、調整してゆくことを体験し、その能力を高めることである。陪審制または参審制が採用される場合には、国民の誰もが裁判における判定能力を持つ必要性があるので、この点はより明らかとなる。いずれにせよ、このような国民的背景の下ではじめて、法曹の存在意義は広く理解され、尊敬を集めることも可能となるのである。

行政改革との関連

 法の重点が官僚の法から法曹の法に転換することに関連して、社会の中で官僚が果たす役割は相対的に縮小される。これは現在進行中の行政改革の基本的ビジョンとも一致する。これまで大きな権限をもって日本社会の秩序を実質的に運営するとともに、各種アクターの間の調整役を果たしながら肥大化してきた行政=官僚組織の役割を、一部は政治(政党・内閣など)に、他の一部は市場(「規制緩和」)に取り戻すことで、本来の仕事にそれを限定しよう、というのがその趣旨だからである。「事前調整から事後救済へ」という改革審答申の標語も、この文脈で理解されねばならない。法曹人口の増大は、それ以上に行政官僚の数が減少することによってはじめて辻褄があうのである。

権利と責任

 行政によるパターナリズムまたはマターナリズムを縮減して、透明なルールが支配する法と権利中心のシステムに置き換える以上、そのシステムの登場人物は、自分の権利行使の結果に責任を負うのでなければならない。「権利は義務を伴う」という標語は、日本的文脈では権利を与えないことの口実になりやすい。しかし、権利に伴う直接的義務とは、権利者の周りの人々がその権利を尊重する義務のことである(これを認めることと、権利を認めることは同じことである)。一方、「権利は責任を伴う」という標語は、権利行使の結果に関わるものであり、法的な社会の登場人物について、一定の行動と態度を採用すべし、とうい要求を行っているのである。

利益団体と法

 行政の一定部門と、その規制に服する業界と、族議員によって構成される「鉄の三角形」が問題にされてきた。正義感覚と関連づけられる法は、公開性・普遍性・公平性などの要求に従うから、特定の利益団体の特殊利益を権力によって温存しようとする圧力には原理上対抗する。この文脈では、今後「行政」と「公共性」を同義語として扱うことは、徐々に少なくなるであろう(そのような判決が出るようになることが期待される)。しかし、法曹も一つの業界であり、それが独占的に法と正義に関わることがもつ矛盾に対する対応は、法曹が社会の中心的役割を担うようになればなるほど、より大きな問題を提起するようになるだろう。これに対して原理論的に対応すべきか(法曹の独占を否定)、システムが存続するためには不純な要素が必要だ(トクヴィルは民主主義の健全な運営のためにこそ貴族が必要だ、と主張し、フランスにおける貴族の役割をアメリカでは法曹が果たしている、と論じた)と考えるべきか。この問題は法曹の人数制限の問題にも直接関係している。
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