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質疑応答の記録

(編集)

 以下では、本シンポジウムの5つ基調報告の後に行われたパネラーとフロアの間でのやり取りを再録します。これは当日の録音を元に再構成されたものですが、いくつかの発言・応答に関しては、録音レベル等の技術的問題から再録に際しての聴取(テープ起こし)が著しく困難であったため、これを割愛せざるを得ませんでした。当日発言下さった方を始め読者の方々に対しては、この点あらかじめお詫び申し上げておきます。なお、フロアからの発言の再録に関しては、それぞれの方のご了承を頂いているわけではない点プライヴァシーに配慮し、属性(ご職業・ご専門)のみの表記としました。
【フロア:憲法学者A】
 「法の支配」の現在若しくは将来を考えた場合、法そのものの存在感が空洞化しているのではないかという危機感を持っている。現在に至っては或る種の「裏事情」に通じた専門家が珍重されるといった空気さえ存在し、人々にとって法は胡散臭いものとして映じてさえいるのではないだろうか。私の専門である憲法の領域では、通信傍受法をはじめ、およそ戦後の憲法論議が在庫一掃的に片付けられ、解釈が決定した後で憲法調査会で論じるといったような些か倒錯した状況さえ見られる。そのような意味では、憲法そのものがワケの分からない諸々の利益調整のあとに残ったコンセンサスとも云えないようなものを追認する「影」のようなものになってしまうのではないか、という危惧さえ持っている。以上のような問題意識に基づき、先ず第一点目としては、嶋津氏がその報告の中で提示した「貴族としての法曹(の育成・選抜)」というアイデアが、これからの制度の中でどのような具体像を結びうるのかを敷衍して欲しい。

【パネラー:嶋津格】
 「貴族としての法曹」という言葉は些か刺激的に過ぎるかもしれないが、トクヴィルの議論を非常に簡単に要約したものと考えて貰いたい。法曹は実際、試験に通らなければその仕事が出来ないわけだし、また試験に通りさえすれば或る程度の生活は保障されるのだから、現在においても一種「貴族的」なものであると云えなくもない。法曹のもとにはあらゆる法的主張を持った人々が依頼者として現れるが、彼らの主張は(その)政治的立場の如何を問わず「法曹」というフィルターを通さなければ本当の意味で裁判の土俵に乗っかることはない。このような裁判の「入口」を担当しているのが法曹であるわけだが、そこでは彼ら法曹が―――単なる利益の主張であれ政治的主張であれ―――社会のあらゆる可能的な立場を代理し得ることが前提されている。しかし、他方で法曹は或る点では共通の行動様式を持っているとも云える。これが法律家の法律家たる所以であるとも云えるが、彼らは「殴り合い」で決着を付けるのではなく、あくまで法廷において「弁論」で決着を付けるというマナーを共有しているのである。このようなマナーに基づいて行われた裁判、そしてその結論が社会に何らかの権威をもって受容される。法曹とは、官僚的な秩序を構成する人間が居らずとも、社会において権利を主張することによって秩序を産み出すことの出来るような活動をする人間、そのようなものとして定義付けることが可能だろう。このような点を踏まえるなら、私の描く法曹の「具体像」とは「制度の問題」に関わるものではなく―――例えば法科大学院構想に関わる形で敷衍するなら―――むしろ、その中で行われる「訓練の内容」に関わるものであると云える。アダム・スミス的な発想で「傍観者の立場」、即ち普遍の若しくは中立的な第三者の立場で物事を見るということを、自分が利益を主張する際に意識するということ――――利益を主張する自らを外から見ている他者の立場に立って自らの利益をリフレクトすること―――そのような「訓練」を経ることによって自分の主張を客観化し、同時に他者にも理解させるということが私の提示した法曹像の具体化に際しては非常に重要な意味を帯びてくる。従って、「貴族としての法曹」という私のアイデアは「制度」には解消しにくい性質を持つわけだが、むしろ「制度」には解消され尽くさない点に意義を有するものではないかとも考えられる。

【フロア:憲法学者A】
 次に第二点として、井上氏はその(編)著『体制改革としての司法改革』の中で司法改革審議会(以下、「司法審」)に対しては批判的な立場を採っているが、今日の報告にあった「法の支配」の構想を今回の司法審の報告との関連で接ぎ木するなら、それはどのようなものになるか。

【パネラー:井上達夫】
 先ず司法審そのものに関して云うなら、そこでは、例えば「党と内閣の二重権力構造」に見られるように権力を分散化して責任を曖昧にする、という問題が起こり得ることが指摘される。「司法改革」そのものに焦点を合わせるなら、重要なのは「制度」改革ではなく「機能」改革であると云うべきだろう。前者は後者の手段でしかあり得ず、司法の「機能」をどのような方向で強化しなければならないのか、そしてなぜそれが必要なのかを人々に理解させることが重要であると云える。例えば、違憲審査制についても、「民主的正当性への敬譲を鑑み司法は強くなってはならないのだ」と云った原理的な主張に対しては、所謂「進歩派」であっても無視は出来ない筈であり、「反動的な裁判官が抵抗している」という議論で終わってしまってはいけないだろう。実は日本の司法における「消極主義の呪縛」というのは、単に裁判官の人事がどうこうと云ったものだけではなく、(先にも述べたように)司法を強化することに対する思想的な抵抗もあるのではないか。こういう議論は「理念派的」に聞こえるかもしれないが、人々が法に関する理解を持っていることこそが、長い目で見れば「機能」改革につながるのであり、「制度」だけを変えても肝心な所は変わらないのではないか、と思われる。そういう意味では私の意見は嶋津氏との通底性を持つものであるとも云える。司法の「機能」改革に際して最も重要なのは、理念面での人々のリオリテーションなのだということだ。

【行政法学者B】
 第一に、法科大学院になれば大学生は社会的教養を全く身につけることなく専門の法学教育に入ってゆくことになるのではないかという危惧がある。この点に関して笹倉氏に話を聞きたい。
 また第二に法学教育一般の話になるが、最近では司法試験の中で行政法がカットされている。現在のような行政国家化の中、行政法や行政学の素養のない法曹が好ましいものであるかという点に関しては疑問を感じるが、この点に関してはどうか。

【パネラー:笹倉秀夫】
 先ほどの報告を敷衍する形で話をするなら、学ぶ者に対して「知識を注入する教育(instruction)」が、これから開設される法科大学院の中では支配的になってゆくのではないか、という危惧がある。これは今日話題になっている法科大学院だけではなく、日本における教育一般に当てはまることかもしれないが、或る目的があり、それを如何に短時間かつ低いコストで達成してゆくかという形で教育が展開されてゆくなら、そこでは(報告の中で強調したように)「官僚化」と「合理化」が進展することとなる。このような傾向に対して人間は如何に抵抗してきたかという点については留意が必要だろう。官僚化に対抗する「人間化の学問」ということを考えるなら、自ら設定した問題を自分で解決してゆく、そういう人間を育てる教育、先のinstructionに対抗する形でのeducationが必要だと云えるのではないだろうか。

【司会者:松浦好治】
 行政法が(司法試験の)試験科目に入ってないということについてはどうか?

【パネラー:竹下賢】
 行政法そのものについては特段の意見を持っているわけではないが、教養における「観想性」、そういう精神を教えられるのは或る種の「哲学的なもの」であると思われる。「観想性」と対比される形での「実践性」は所謂「専門性」に繋がるものであるわけだが、このような意味での「実践性」と架橋された「観想性」は、学部段階での教養にとどまらず、専門的教育階梯たる法科大学院においても重要性を有するものであるのではないだろうか。

【パネラー:井上】
 自分自身が学生時代に行政法の講義を聴いた記憶を辿ると、行政法学にも問題があるのではないか、と思われる。今日話したような漸進的な「法の支配」の再構成などと云ったことを考えた場合、行政法学自体がそれに答えられるのかという疑問がある。私の学生時代には田中行政法学の全盛期で、「法律による行政」ではなく包括的に行政に白紙委任された裁量を是認するような形での議論が行われていたような印象を持っている。他方で、現在ではこれを批判する人々もいるが、こちらは一気にポストモダン的な地平へと行ってしまう。ここには、激増する現代の行政的需要に対して、一般的ルールによる行政上の規制なんてそもそもナンセンスだと、むしろ「進歩派」を自認する人々が主張している状況があるのではないだろうか。いずれにしても、行政法学は「通達による行政」という今の日本の行政システムを追認するようなことしかして来なかったのではないかと思われる節があり、その点、現在の「体制改革」の中で「司法改革」を位置づけるということに関しては、行政法学はイレレヴァンスだとさえ云えるのではないか。そういう意味では行政法学自体がその内部から果敢な改革をしなければならないのではないか、という印象も持つ。些か超越的な批判かもしれないが、以上。

【司会者:松浦】
 ここまでで出てきた以下3つの論点について、質疑のある方どうぞ。
1) 仮に司法改革が行われたとして、その後の段階で司法はどのような役割を果たすべきか?
2) その段階でのリーガル・プロフェッションというのがどのような仕事をしなければならないのか?
3) 法学教育の中で基礎法的なものがどのような形でどのような格好で活かされていくのか?


【フロア:英米法学者C】
 司法改革審議会の報告書をどう評価するかという点では、私は今日の報告者とは異なる評価を持っている。田中氏が審議会でのせめぎ合いを伝え、井上氏はそれとは異なる視角からの報告をした。今回の司法審の方向性は―――今日は余り触れられなかったが―――「規制緩和」の観点からも検証されるべきであるように思われる。そういう意味では、今般の司法改革自体も所謂「失われた十年」の延長上に、その総括として考察されるべきではないだろうか。司法は個々の強大な権力を補完するものとして存在しているのが現状のように見え、他方で私の考える「公共性」とは政治部門と対抗する逆のベクトルである。嶋津氏の云う通り、かかる「公共性」の空間とは本来「権利」を中心として下から作りあげられるべきものである筈なのだが、政治の作りあげる秩序を維持するものとして司法が存在しているのが現実であるのではないだろうか。この点について井上氏はどう考えるか。

【司会:松浦】
 さしあたって、田中氏からも応答願います。

【パネラー:田中成明】
 C氏とは当初から司法改革のスタンスが違っており、既に話したことに尽きるかもしれないが、私自身は必ずしも規制緩和に対して反対というわけではない。規制緩和を追いかける中で実際になされたことを見てみると、そこには日本国憲法が本来制度的な理想とするものを実現しようとする流れがその背後にはあるようにも思われる。それが規制緩和的な路線にサポートされて急に政治な動きとなって実現されているのか?という点、或いは一定の政治力学的な中で或る理念を実現しようとする点などについては色々と問題もあるが、C氏が心配している点を自分はもう少し寛容に捉えている。井上氏の云うように一つの理念では済まず複数の理念が出てきて、その中でバランスをとると云うことが必要なのだろう。「意見書が出て全部が終わり」というわけではない。意見書の中で基本的な方向は示されているが、やり方によっては骨抜きにする方法は全てに関してありうるという制度設計になっているので、そのあたりを見極めながら微妙な改革を推進してゆく力があるのではなかろうか。従って、それぞれの理念・理想を実現するためにそちらのほうに持ってゆくというスタンスで関りあわざるを得ない。C氏とは「姿勢」は違うかもしれないが、それは「理念的な面」での違いはなく、状況判断などの「戦略的な面」での違いがあるだけではないか、と認識している。

【司会者:松浦】
 大野氏の報告で対抗的生活圏があったが、人々の様々な要求をどのようにくみ取るのかという話があった。今のC氏に対して何かコメントは?

【パネラー:大野達司】
 意見書については直接触れなかったが、基本的に意見書で書かれていることは、司法制度そのものの問題。…ただ、細かい点は、[…聴取不能。]

【パネラー:井上】
 リバタリアン(libertarian)的な発想とエガリタリアン(egalitarian)的発想は対立するものではなく、正義というより普遍的な理念に呼応するものであり、これは福祉国家と市場という問題にも関連する。C氏からの意見は、結局のところ「弱肉強食」になるのではないか?という批判として認識したが、私が問題だと思うのは、むしろ「弱者の強者化」という問題。主観的に弱者意識を持っているものが合法な政治的権力を持っているのを権力者は無視し得ず、従って公正競争の枠組みが必要となる。それは単に形式的な参入機会の平等だけではなくて、一定の競争資源分配の公正化も含むものである。弱者保護も、単なる競争制限ではなく、市場外における再分配まで拡張して考えられるべきではないだろうか。競争へのインセンティブというのは失敗のリスクが余りにも大きすぎる場合には働かないものである。私が考えるところの「市場」は或る意味で特殊なものかもしれないが、それが魅力を持つとしたら、そこには或る種の通時的平等というものが必要だと思う。そのためには一定の手段が必要で、今日の勝者がいつまでも勝利たりうるのではなく、勝者と敗者の転換が起こり得る、このようなリバーシブルな正当化が出来ることが要請される筈だ。予め勝者・敗者が決まっているようなゲームには誰も参加しようとはしない。通時的平等というのは市場の正当性調達のためにも必要だと思う。

【パネラー:嶋津】
 私自身は八年間、日本弁護士会で弁護士をやっていたが、弁護士会そのものが、田中氏によると「対抗軸」でしかありえなかった経緯があるように思われる。弁護士全体を代表している組織であるのに、それが反体制的な色彩をもってしか組織されていなかった。法曹であるなら、少数者・反体制派の利益であろうと、それを恰も「偏っていない意見である」かのようにして弁論する義務がある。いかにも或る派閥・一部の利益をしか代表していないと他者をして思わせるなら、これは法曹として失敗。「左翼的」にしか見えない形でしか弁護士会が組織されて来なかったことは問題だろう。日本の秩序全体に対する責任をとっていないのではないか?だからこそ法曹が社会の中で重視されないのではないか。このような理由で法曹は現在にいたっても社会の中で力を持ち得ないのではないだろうか。非常に簡単に云うと、明らかな「左翼性」のようなものがこれまでの日本の法曹の欠陥だったのではないかということだ。

【フロア:出版編集者D】
 法曹の人数制限に関して、嶋津氏からは法曹間のコミュニケーションが必要という趣旨の話があったが、これに対して井上氏は異なった主張をしていた。大野氏はこの法曹の人数という点に何か意見はあるか。

【パネラー:大野】
[聴取不能]

【パネラー:井上】
 先述の『体制改革としての司法改革』の序章にも書いておいたが、現在の議論は試験に通ってから法曹資格を取得するまでの 教育課程を重視するものだが、プロセスを重視するのなら、OJT(on the job training)―――つまり私は弁護士になってからの修養の方が重要だと考える。従って、資格さえとれば「職」が保証されるというのはおかしいのではないか、と思われる。弁護士になっても失業し得る、というのでも構わないのではないか。基本的に「資格試験」にすべきだと考える。そもそも日本は潜在的に弁護士サービスの職域・需要となり得る場は非常に広いのではないか。ビジネス・ロー的なものから「地の塩」的な人々の人権保障に役立つものまで幅は広い。そういう意味では数量規制を緩和し、「地の塩」的な弁護士が増えざるを得ないような環境になれば、と思う。

【パネラー:嶋津】
 弁護士としての経験から云うなら、自分がちょっと拙速な失敗をした時にそのままそこにつけこんでくれば相手が得をするような状況で、相手の弁護士に助けて貰ったこともある。逆に法律的には禁止されているわけではないが、仮処分的なものを物凄く使って裁判では完全に負けているくせにこちらの権利の執行を止めて止めて、こちらが頭を下げて向こうに譲ってもらわないとにっちもさっちも行かないような状況に追い込み、本来勝つべき人間を阻止するような、そういうことを平気でする弁護士も居た。私が云いたいのは、明示的なルールで社会を運営する法の運用を任務としている弁護士だからこそ、必ずしも明示的なルールだけには還元出来ないマナーや信頼、ソフトな相互的な関係を持たなければ、法制度は動かないのではないか、と云うこと。そういうことが可能であるためには普通の大衆と同じレベルに弁護士が居て、生活出来るも出来ないも市場で勝つか負けるかでは駄目なのではないかと思う。そういう風だと、自分の依頼者に少しでも利益を与えた弁護士が生き残る、そうでない弁護士は滅びるんだ、と云うことになってしまう。私のいう「貴族的な弁護士」は、―――ちょっと刺激的な言葉ではあるが―――余裕があって、どこのなんていう弁護士ということを知らないでも、お互いが弁護士ということだけで或る程度の信頼を持てるような関係を持ち得るようなものとして考えて貰えればと思う。

【司会者:松浦】
 法曹として一定の倫理というか、少なくとも一種のプロフェッショナルな連帯感があることが期待されている、という話でした。この点について何かパネラーのほうから他に意見はあるだろうか。

【パネラー:竹下】
 プロセス教育について。学部教育で求められているのはある種の教養。[……全般的に極めて聴取困難……]

【フロア:裁判官E】
 プロフェッショナリズムとの架橋について、田中氏への質問。現行の裁判官については、その多様化ということも云われているが、そうすると現在の司法で維持されているレベルが下がるということが懸念されていなくもない。「精密司法」が維持出来ないから反対するというのがプロフェッショナルの側の言い分であると云って、問題を切り捨てたような印象も受けたが、それが「そんなに精密でもなくてもいいよ、たまにも間違ってもいいよ」という話だとすると、嶋津氏の云うように「勝つべきものが勝たない」ということがまま出てくることとなる。そういうことでも良いのか?また、(裁判官の)「均質性」というタームもあって、最高裁はそういうことを前提にしているわけだが、最近の議論ではどうも、「『精密性』も『均質性』もどうでもいいよ」という大合唱になって来ているような気がするし、あまつさえ裁判官一人一人が勝手にやって後は上級審に任せればいいか、という議論も聴かれたりする。この点について意見を伺いたい。

【パネラー:田中】
 今の水準が「精密司法」で、先々に陪審・参審になると「雑になる」という議論がなされている。しかし、そもそものところ、なぜ現在「精密司法」になっているのか?嶋津氏の「不当判決の話」のように、結局当事者も弁護士も皆が裁判官に依存している現状がある。基本的には両当事者が弁論して、どちらの弁論がより説得力があるかということをベースにして、本当に当事者主義的な議論を活性化してゆけば、精密と云われる時の「精密」の中身も、裁判官が全責任を負ってという今までの形とは違ってくると思われる。裁判とは両当事者が争って、どちらの議論がより説得力があったかで決着を付けるのだというように「裁判」の見方が出来れば、かなり変わっていくのではないか。しかし、現在はそうなっていないという前提のもとに精密司法云々という話になっている。これだけのトレーニングをやらないと裁判出来ませんよ、というのだけでは、当事者が裁判所に何を期待しているかということを前提にした上で、それに答えるためには何をやるかという議論には向かわないのではないだろうか。もう少し「当事者主義は当事者主義だ」という風な発想を持ってゆけば、今のようにやらなくても別のトレーニングをやってゆけるところもあるのではないか、と思われる。そういう点で、今の精密という時の「精密」の中身は、「現時点での裁判イメージ」を前提にし過ぎているのではないかという感じもある。もちろん、もっと(裁判を)ほどほどにやったらいいのではないか、ということではない。制度的に裁判官に対して過剰な期待があるため、それに対してきちんと答えようとしている面もあるのかもしれないが、やはり裁判官の判断に対して要求されるのが単なる判定というのではなく、そもそも「諸々の配慮をし調整をして云々」と裁判所だけに多くを要求する現在の裁判イメージそのものを転換してゆかないと裁判員制度もうまくゆかないのではないだろうか。裁判イメージそのものをもっと当事者主義的に変えてゆかなければならない。

【パネラー:笹倉】
 逆に質問したい。法曹人口の希釈価値(日本の法曹人口の稀少性)などに鑑みて、外国の判例・判決は質の低いものであるように、日本の裁判官の目には映じるのか?。

【フロア:裁判官E】
 まず手続や審理の構造も違えば、件数そのものも違う。また、(例えばアメリカ合衆国などにおいては)事実審における裁判官の判決書きなども極めて短い。日本ほど長く一審の判決を書く裁判所というのは世界的には類を見ないのではないだろうか。しかしそれは、日本の裁判官の民主的正当性が低いので、我々(裁判官)は「理由」で結論の正当性を保持しなければならない、という動機を持っているとも云える。従って、審理もそれなりの細かさになる。審理の構造や当事者の訴訟活動への対応の中で今の日本の民事裁判のプロセスがある。諸外国に対する相対的な優越感があるというわけではない。

【フロア:弁護士F】
 「小さな政府を肩代わりする大きな司法」という言葉があるが、この点についての敷衍を願いたい。

【パネラー:嶋津】
 私は「小さな政府」を支持するので、政府が小さくなった分これまで役人が処理をしていたものを事後的なチェックと救済でやるには法曹の人口が必要になる。役人の数が減るだけ、同じ数だけ法曹を増やすという単純な図式ではないが、法曹の人口は増えざるを得ないと考える。

【フロア:弁護士F】
 「訴訟社会アメリカ」のように、全てが訴訟にされてしまうような危惧はないか?

【パネラー:嶋津】
 これまで訴訟にならず問題なく解決したものを、ただ訴訟にすればいいという話にはならない。しかし、他方で訴訟にするしかないような事件も増えるだろう。法律の専門家でもない人にも法律家的な訓練をさせるべきだと私は主張しており、社会の全体が普通の家庭生活からもう少し法的な感じになるような社会を考えている。

【フロア:市民G】
 「裁判員制度」というものについて教えて欲しい。その中では「庶民」と「法曹」との間にどのような形で対等な関係が形作られ得るのか?

【パネラー:嶋津】
 裁判官と裁判員が一つの法廷で「対等に判断する」というわけではなく、裁判員の役割は一種の「聴衆」としての存在性にあるのではないかと思われる。専門家が専門家の中でしか分からない理屈で一方的に「判断」をするのではなく、全く法律を知らない人にも分かるように説明する「相手」として(裁判員が)存在することが現実的でもあり望ましいと考えている。裁判官と同じ態度で「これが正しい」「あれが誤っている」などと判断する裁判員像は法律的には難しい。但し、事実認定についてはこの限りではない。私は事実認定の専門家だが、事実認定に関する裁判家の優位などは些細なもので、アウトローの喧嘩の事実認定だったら、アウトローのほうが事実認定において優位するに決まっている。いずれにしても、裁判員制度が本当に動き始めれば日本の裁判は大きく変わると思う。一番変わるのは法律家の中でしか通じない論理が全く通じなくなるという点だろう。

【パネラー:笹倉】
 ドイツなどでは単に選ばれて法廷に行って裁判員をやるという短絡的なものではなく、日常的に成人学校などで「如何にして立派な陪審員になるか」と云った講座などもあったりして、そのようなベースの上に、頂点として選ばれた時に参審することになっている。「ただ選ばれて、突然行け」というのでは問題だろう。このような形のものがあれば、市民の中に法の世界を根付かせてゆく大きな機会になるのではないかと。裁判官の側では、(「官僚的なもの」に対抗する)「人間的なもの」が法廷に入って来たことによって、市民に分かる言葉で法律を話さなければならないということになり、裁判官の側にも大きな意識変革を起こす契機になるのではないかと思われる。

【フロア:裁判官H】
 このシンポがもっと早ければ良かった。法社会学会以外にこの手のものは無かった。改革には大きなバックボーンというか理想が必要。学者(法哲学者)にもその中にもっと入って欲しい。このような集まりは、今回だけではなく継続して欲しい。

(編集)

 なお、質疑応答の最後には日本法哲学会理事長の笹倉氏からの挨拶が行われ、盛況の御礼と共に「これからの法哲学は日本全体の自由や民主主義といった根本的な問題にも関わる問題である司法改革などに積極的に取り組み、空の星ばかり見ないで地も見ながら、その中からまた星を位置づけるといった姿勢も益々重要になるだろう。」といった趣旨の締め括りが行われました。
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