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法教育研究会第2回会議議事録

日時 平成15年10月15日(水)
午後2時~午後4時

場所 法務省第一会議室


開会


土井座長 所定の時刻になりましたので,若干委員でまだお見えになっていらっしゃらない方もおられるようですが,法教育研究会の第2回会議を開会させていただきます。
 今日は,御多忙の折お集まりいただきましてありがとうございます。
 まず本日の配布資料の確認を事務局からしていただきたいと思います。それでは,事務局の方から御説明願います。

大塲参事官 それでは,配布資料の確認でございます。まず,席上にありますのが,「初等中等教育における司法教育のあり方について」というもの。「初等中等教育における司法書士の取り組み」というレジュメがございます。さらに,司法書士会連合会の封筒の中を御確認いただきたいのですが,「司法書士会による法律教育への取組みについて」というもの。さらに,これは目次のようになっておりますが,その下に「平成13年度中・高校生に対する法律教育への会員派遣について」,「「平成13年度中・高校生に対する法律教育への会員派遣について」の分析」,「平成14年度中・高校生に対する法律教育への会員派遣について」。さらにその次が,「司法書士による高校生のための法律教室」,司法書士による「初等中等教育」実施マニュアル「学校へ行こう」,そして「日本司法書士会連合会」のパンフレットでございます。
 さらにその次に,千葉大学の嶋津教授作成の「社会改革としての司法改革」,「質疑応答の記録」。分厚いのが二つありますが,「人文・社会科学における国民教育と大学教育の連携に関する総合研究プロジェクト(抜粋)」,最後に「小・中学校における法学的マインドの育成に関する理論的・実践的研究(抜粋)」,これらを配布しておりますので御確認ください。

土井座長 よろしゅうございますでしょうか。
 それでは,本日の議事に入らせていただきます。前回の研究会の折に,この研究会で検討すべき課題につきましてお諮りをして,おおむね御了解をいただきました。本日は,それらのテーマのうちから,「法教育における消費者問題,民事的紛争の取扱い」というテーマと,「我が国における法教育の実践例」というテーマの二つについて御検討をお願いしたいと思います。
 まず第1に,前回の研究会でお願いいたしましたように,高橋委員から日本司法書士会連合会における消費者教育の取組みを御紹介いただき,その御紹介を基にして法教育で消費者問題や,あるいは民事的紛争をどのように取り扱っていったらよいかという点につきまして,議論を深めていただきたいと思っております。それに引き続きまして,我が国における法教育の実践例について,千葉大学法経学部の嶋津格教授をお招きいたしております。嶋津教授の方からは,既に平成13年から小・中学校における法教育を取り組んでおられるということでございますので,その実践的内容について御紹介をいただいて,これにつきましても議論を深めていきたいと思っております。

1.日本司法書士会連合会による法教育の取組み

・高橋委員
・竹村秀博(司法書士,日本司法書士会連合会初等中等教育推進委員会副委員長)

土井座長 それでは,まず高橋委員の方からお願いをしたいと思います。なお,本日は高橋委員のほか,日本司法書士会連合会からは竹村秀博先生にもおいでいただいております。竹村先生は,広島司法書士会に所属する司法書士でいらっしゃいまして,日本司法書士会連合会の初等中等教育推進委員会の副委員長をお務めになっておられます。本日はお忙しい中,遠路から本研究会においでいただきましてありがとうございます。大変恐縮でございますが,御報告の後,質疑応答,意見交換につきまして十分な時間をとらせていただきたいと存じますので,高橋委員,竹村先生からの御報告につきましては,30分から40分をメドにお願いしたいと思います。それでは,高橋委員,竹村先生,よろしくお願いいたします。

高橋委員 司法書士の高橋でございます。今日は,日本司法書士会連合会で全国的に今取り組んでおります,特に消費者教育を中心とした実践活動の御報告をさせていただきます。
 今御紹介いただきましたとおり,隣におりますのが竹村先生です。広島から今日お呼びしまして,特に私の報告は全般的な報告になりますけれども,竹村先生の方は正に学校の現場で実践されている生の情報も頂きながら,報告を申し上げたいと思います。
 最初ビデオ等映像も含めて御報告と思ったのですが,時間的な限りもありましたので,機械を前にしながらこれは画面には何も出ませんので,申し訳ございません。御了承ください。
 それでは,今日お手元に配らせていただきましたレジュメに従いまして,御報告をさせていただきます。まず,第1回目の法教育研究会の冒頭に,若干司法書士会の現状をお話しさせていただきました。なかなかまだ司法書士という職業は,弁護士さん始めほかの資格者よりもまだまだ認知度が低く,国民の皆様にもまだまだ分かって頂いていない部分があるのですが,非常に歴史は古い資格でありますけれども,特に国民にとって非常に大切な不動産という財産を守る不動産登記,それから裁判手続書類の作成を通して国民が裁判を受ける権利の保全といったような形で,非常に市民に身近なところで我々は働いてまいりました。そこで,今年の4月1日に司法書士法が改正になりまして,簡易裁判所の事物管轄の範囲内での裁判所での代理権を取得し,それからその範囲内での法律相談というようなことも我々の職務の中に入りまして,より一層責任の重い仕事になってきたというような変容もございます。
 我々司法書士は,特に昔から法務局,登記所というのは全国くまなく本当にどこの市町村でも一つあるような時代から司法書士がおりまして,そういったところから今でもかなり過疎地と言われているところにも事務所があるというような状態で,全国的に我々は存在しております。そんな中で,我々の社会活動というのは,特に様々な法律相談であるとか講演会活動で,専門家としての社会的な活動の役割を果たしてまいりました。
 我々司法書士が特に消費者教育に関わり始めたきっかけといいますのは,このレジュメにありますとおり,昭和54年ごろのことを調べると出てまいりましたが,登記を中心とした我々の仕事の中で,例えば公民館に出向いて遺言であるとか相続であるとか,そういったことの相談を受けながらの講演活動だったりということを始めたのが昭和54年ごろだと聞いております。
 その後,昭和58年ごろになりまして,いわゆるクレ・サラ問題,消費者問題が非常に社会現象化されたときに,我々司法書士は裁判書類の作成業務という中で,多重債務者の救済活動を行ってまいりました。その中で,どうしても事後救済ももちろん大事なのですけれども,予防しようという観点で,もうちょっといろいろなことで法的な知識を国民の皆さんに持っていただきたいという思い,特にそのころは非常に若い人たちを中心とした被害が多かったものですから,できれば少しでも社会に巣立つ前にいろいろ予備的な知識を持っていただいて社会に出ていただきたいという思いから,少しずつそのころから学校へ出向いて消費者教育をするというような動きになってまいりました。
 今日お配りしました「初等中等教育における司法教育のあり方について」ということで,「日本司法書士会連合会の基本的な考え方」,それから2として,「日本司法書士会連合会の対応」という紙1枚をお配りしました。基本的な考え方は,お読みいただいたとおりになります。2の方で,歴史的なものも,昭和58年ごろからスタートした若干の経緯も書いてありますので,これをお読みいただきたいと思います。
 初めのころは,全国各地で任意でまさしくボランティア活動で,若い会員達が手弁当で各学校に出向いて行くというのが自然発生的に全国的に生まれてまいりました。平成の時代になりまして,非常にまた消費者トラブルが増えたという時代背景もありまして,学校側のニーズも非常に増えてまいりました。そして,我々が学校に出向いていろいろな予防手法のお話をしたいというようなことのニーズが合致したということもありまして,徐々にまた学校へ出向く機会,学校へ呼ばれる機会というものが非常に増えてまいりました。
 私どもが今所属しております初等中等教育推進委員会というのは,平成11年に組成されましたけれども,そういう自然発生的に全国各地から活動が始まりました消費者教育をより推進しようということで,全国的な展開をするために委員会を組織しました。
 今日お配りしました「学校へ行こう」というこの実施マニュアルなんですけれども,これは4年前に作りまして,我々の委員会がまだよちよち歩きの段階で作ったものですから,まだ十分な中身ではないのですけれども,今これは改定作業をしておりますので,この研究会の議論の間にはまた新しいものの中身がお披露目できるかと思っております。
 そういったことで,とにかく我々の毎日の職能を通じて何か国民にお役に立てるものはないかということで,消費者教育というものが全国的に広がってまいりました。現状の分析というか,数字的なものですけれども,資料(1)で,平成13年度の全国的な司法書士が行っている法律教育への会員派遣というもの,それから資料(3)で平成14年度,昨年度のものがありました。これをまた後で比較し,じっくり読んでいただきたいのですが,平成13年度を数えますと,全国50単位会のうち37の会で実施いたしております。1年後の平成14年度と昨年度で五つの単位会が増えまして42の会で実施しました。データを作りました平成11年度の数字を見ますと,そのときは26の会ということで,毎年かなりの割合で増えてきているというようなことになっております。
 全国的な取り組みは様々でありまして,例えば資料(3)を見ていただきましても,特に講義内容は主にやはり消費者問題に関する契約であるとか,クレジットの問題であるとかというようなことが主なものになっております。
 それから,行っている先はほとんどが高等学校になっております。中には最近,中学校であるとか大学であるとか,それから養護学校というところも若干散見しているところです。
 それから,最初はボランティア活動で行われてきましたけれども,今では各単位会の会の事業として予算を付けまして,若干ではありますけれども,会の事業として行っているところも増えてきております。
 それから,やり方ですけれども,これはそれぞれの単位会での様々なやり方がありまして,まさしく授業の中に,教科の中に入り込んで,授業中に先生と連携しながらやっていく会もあれば,卒業前に,社会に出る前に1時間半ぐらいの時間をいただいて,例えばロングホームルームのような時間をいただいてお話をする。それからPTA主催でPTAのお父さん,お母さん方と一緒にそういうお話を聞いていただくというような,様々なやり方を行っております。
 それから,消費者教育というのは,我々司法書士が取り組みやすい事業というとらえ方もありますので,新入会員に対しましても研修の中でこの消費者教育の重要性,それから取組みについては研修の中身として今は組み込まれております。そういった形で今全国展開をしているというのが大きな流れになっております。
 続きまして,竹村さんの方から実際の,特に広島司法書士会での実践の報告をいただきながら,御報告を申し上げたいと思います。

竹村司法書士 日本司法書士会連合会初等中等教育推進委員会の副委員長をしております竹村秀博と申します。また,本日は広島司法書士会広島支部長も私はしておりまして,私どもの方では講師派遣活動と申しておりますが,講師派遣活動の直接の現場の責任者としてお話をさせていただければと思っております。
 広島司法書士会では,平成14年度広島県内全域で28の高等学校に対して講師の派遣を行いました。生徒数まではちょっと把握はしていないのですが,推計するところによると約3,000名ぐらいではないか。昨年度年間約3,000名の高校生に対して,講演といいますか,ここに司法書士による法律教室ということですけれども,それをしてまいりました。その28校のうち,私ども広島支部では昨年度22校の高校に講師を派遣いたしました。
 私の本日の役割は,現実に司法書士会においてどのように取り組んでいるかということを委員の皆様にイメージしていただければということが,最大の眼目ではないかと思っております。私の方の資料といたしまして,資料(4)「司法書士による高校生のための法律教室」というのがございますが,見ていただけますでしょうか。向かって右下の方に1と書いてあります。これは私どもが広島司法書士会として使用しているテキストです。全部で実際のものは26ページあります。そのうち一部抜粋して載せております。6ページまでがそのようになります。そして,7ページが司法書士による高校生のための法律教室の開催の案内ということで,各高校に対して案内しているものであります。広島司法書士会における取組みを説明するのに適したものだということで,資料を出させていただいております。それからもう一つ,ずっと行きまして11ページまでが開催の御案内ということになります。
 12ページ以降が,アンケートということになります。12ページのアンケートの用紙と,そのアンケートの集計表とは直接には関係ないのですけれども,内容は一緒ですが,実施した高校が違うようです。どういうふうにしているかということですが,13ページ以降が私たちが実際に高校で行った生徒が評価を下しているということになろうかと思います。受け持つ私ども司法書士の講師といたしましては,通信簿といいますか通知表と申しますか,そのような成績表でありまして,私どもにとってはちょっと恐怖もあるというようなアンケート結果なのですけれども,またそれを見ていただきますと,16ページ以降につきましては,個々の実際の生徒の感想ということになりますので,またこれを読んで私どもの活動の糧にもなっているというのが現状であります。怖いと同時に喜びもあるというような形だと思います。
 それではちょっと戻りまして,9ページに実施計画書というのがあります。それを御覧いただければと思います。私ども広島司法書士会の方では,一番ポイントにしていますのが派遣講師であります。実施計画書で言いますと6番ということになります。6番で,派遣講師として「当会所属の司法書士を1クラスにつき1名派遣」する。例で言えば,10クラスで同時に行う場合は10名の講師を派遣しますという形にしております。これは,よくあるのは体育館とか広い場所に1学年を集めてやる場合がございます。司法書士会によってはそういう形をとるところもありますし,またその大勢とるところもあります。ただ私どもとしては,やはり聞く側にしても大勢であれば集中力を欠くこともあるだろう,あるいは話す側でも,逆に言いますとそれだけ大勢の人に話すということになれば力量も要るだろうし,そうなると講師となる人も限られてくるであろう。講師の方も増やしたいということもありまして,また聞く側としてもリラックスしていただきたい,よく聞いていただきたいという思いで,1クラス1名の講師を付けるということを基本としております。高校の中では1学年を1人の講師でお願いしますということもあります。その場合は,そういうふうにする場合もあります。また,他の司法書士会においては,そういう形で体育館でやる場合でも,寸劇とコント等を交えながら分かりやすく説明していくということの工夫をしているところもあります。
 3の対象なのですけれども,対象については高校生,学年は問いませんというふうに一応書いております。ただ,これは現実的にはどうかといいますと,多くが進学するにしろ親元を離れるということも多いということで,生活環境が変わるという意識,あるいは社会に出るという意識からでしょうか,3年生に対するもの,いわゆる進路指導的なものを求められることが多いと思われます。ですから,高校3年生のロングホームルームの時間に行うことが多いということになります。また,そのほかには高校1年生の家庭科,あるいは現代社会,公民などで行う場合もあります。
 高校の先生の方,教師の方からは,そういう進路指導ということもあるのでしょうか,社会に出て引っかからないようにしてくれとか,あるいは怖がらせて欲しいとか,そういう要望を受けることが多々あります。私ども司法書士としては,少なくとも契約についての理解ということを意図しているわけでありまして,そういう面でちょっと相違する部分があるのかなということを感じることもありますが,ただ,どこにニーズがあるのかということを考えると,やはり現場ということを考えれば,正にそこにニーズがあるのかなという思いもあります。ですから,そこら辺りをどのように組み合わせていくのかということも一つの課題になっているのかなという感じがいたします。
 内容の方は後にしまして,5番の講義時間ですが,授業1時限を基本としますということにしておりますが,これは学校側に基本的に任せるということになっています。ただ,多くの場合先ほど申し上げましたようにロングホームルームの時間を使いたいということがございまして,45分から50分ということになります。私どもとしては,45分から50分ということになると,かなり限られた内容でしか話ができないということになります。それで先ほどのテキストですけれども,この26ページ,実際は26ページあるわけですが,こういうものをある程度分量のあるものを配るようにしています。それは,45分や50分ぐらいではなかなかすべてを話すことはできないということの補足的な意味もあります。また別の意味としては,1枚や2枚のレジュメであれば簡単に捨てられてしまうかなと。私たちとしては,これを持っていてもらって,何かあったときに見てもらいたいなという気持ちは多少なりともあるわけであります。また現実に,実はこの右下のページでいきまして6ページなのですが,ちょっと見えにくいと思いますが,最終ページに無料相談窓口ということで,消費生活センターとともに司法書士の相談センターも書いておりますが,生徒がこれを持って帰りましたところ,母親がこれを見て,これは相談しようということで私どもの相談センターに電話がかかってくる,相談に来るということも現実にあるわけであります。
 その内容でありますが,テキストの目次が2ページ目にあります。2ページ目を見ていただければ,大体私どもが意図している内容ということになります。大きな柱としては二つどうしてもある。一つは契約の問題であるとともに,先ほど言いましたニーズということから考えて,悪質商法等の手口の問題,手口について,あるいはクーリング・オフについてということが一つあります。それとともに,クレジット・サラ金問題,いわゆる多重債務問題ということで,二つの柱を大体持っております。1時間ではすべてに触れられないということがあるわけでありますが,講師においてもそれぞれの仕事内容,得意分野というのがあります。その中で,やはり経験などを中心に話してもらえればというのがこちらの意図でありまして,社会人,職業人として教壇に立つわけでありますから,そういうことが私どもが担える役割であろうと思いますし,それがむしろ生徒にとって効果的なのではないかというふうに考えております。
 私たちの思いというのは,1ページ目を見ていただければと思うのですが,扉の言葉に集約されているというふうに思います。特にやはり生徒の皆さんには少しでも法律的な知識を身に付けてトラブルを避けて欲しい。そういうふうな賢い人になっていただきたいと願う。それとともに,不幸にしてトラブルに巻き込まれても,立ち向かっていく強い人間になってもらいたい。そして,それだけではなく周りの人を助けられる,頼れる人になってもらいたい。この3点を思っております。これはある種それが法律の力だろうと思うからでもあります。
 いろいろ見ていただいておりますが,3ページ,右下のナンバーリングの3ページですが,そこに「契約って,何だろう??」という内容を入れております。その中で,クエスチョンを一応するのです。これは大体答を見ないでやるのです。どういうふうにやるかというと,パソコンを購入するときに,いろいろする。つまり,口頭で買うと言った,あるいは署名をしたけれどもハンコを押さなかった。署名も,契約書にハンコを押したと。さて,どの段階で契約成立していますかというふうな,これはほとんどの場合生徒に聞くのです。どう答えるかというと,もうばらばらなのです。口頭で契約が成立するということは,まず知らない。高校生においては,知らないというのが実態であります。そうして口約束でも契約は成立するのだよという話をすると,非常に驚くということが現実であります。意思主義という民法,あるいは契約法の根幹であっても,そういうことがほとんど高校生レベルでは知られてない。一般でも知られていないということが言えるのかもしれません。これは,初等中等教育において教えていないのか,あるいは身に付いていないのか,どちらなのか分かりません。しかし,実際として私たちが現場で行うこれらの法律教室においては,必ずそういう結果が出ております。契約は守らなければいけないということではあるのですが,しかしその契約に関するルールというものを果たして学校で教えているのかということが,私どもの現場においての問題意識ということになります。
 私どもは第1回を平成6年12月8日に行いました。広島司法書士会でありますが,それから10年目に入りました。基本的に司法書士というのは,それぞれが零細なといいますか,余り大きくない個人事業者でありまして,平日の昼間をとられるというのは非常に難しいところなのですけれども,私ども広島司法書士会広島支部では昨年司法書士の実数で63名の会員が教壇に立つということをしてもらいました。やはりこれは教育に対して,自分たちが親だということも多いのかもしれませんが,非常に関心を持ち,あるいは積極的に取り組んでいただいているというふうに思います。
 最後に,アンケート結果を見ていただきたいと思うのですが,12ページがアンケートの文面で,それから13ページからがアンケート集計表です。正直言いまして,選ばずに持ってきたものですから,もう少し成績が良いものを持ってくれば良かったかなというふうには思うわけで,多少後悔してはいるのですが,このような大体満足度とかいうような形です。ただ,特に注目していただきたいのは,今日の話の感想をどのようなことでもいいですから遠慮なく記入してくださいということで,結構多くの高校生がちゃんと書いてくれているのです。中には辛らつなといいますか,そういうこともあるのですけれども,非常に純粋で純真で本当に真剣に答えてくれている,聞いてくれているという姿を私どもは感じるところです。この法教育研究会によって,法教育というものを更に教育の場に取り組んでいただけるように,推進していただくように是非お願いしたいというのが気持ちであります。このようなアンケートの結果,あるいは回答の内容が,私ども司法書士のボランティア精神という部分があるわけでありますが,それを何とか支えているものでもあります。
 最後まとめようと思ったのに余りまとめられませんが,全国の司法書士をある意味代表しまして,このような取組みをしているということを御報告させていただきました。ありがとうございました。

土井座長 どうもありがとうございました。それでは,今の御報告を受けまして質疑応答,意見交換に入りたいと思います。どなたからでも結構ですので御発言ください。

大杉委員 どうもありがとうございました。大変参考になるお話を聞かせていただけたと思います。一つ質問と意見なのですけれども,質問は,学校に出かけてお話をされるといったときに,学校での先生方との授業に関わっての協議といいますか協力といいますか,例えば先生方が今こういう授業をしているので,ここについて特にお話をしていただきたいとか,教室に行ってお話をされた後,学校ではこういうことを後でやるのだよというような,そういった年間の指導についての協議といいますか,協力関係といいますか,そういったことがどこまでなされているのかなというふうにお聞きしたいわけです。それは,今お話にあったように,学校で子供たちが学んでいるときに,教科書に書いてある知識と実体験というのは非常に距離があるのです。先生方はそれを埋めようとして授業をされるのですけれども,実体験をお話ししていただけるということは,先生方にとって非常に授業の大きな助けにもなりますし,消費者教育,消費者問題についても子供たちにとって良いお話が聞けると思うのです。そのときに役割分担といいますか,学校の先生方の役割分担と,司法書士会の方々の役割分担というのですか,それがうまくいくと,45分,50分の少ない授業時間ですけれども,非常に効果的になると思います。見させていただきますと広島県の高校の約2割ちょっとを御訪問されているということで,非常に大きい効果が上がっているのではないかと思うのですけれども,更に効果を上げるために,役割分担における協議といいますか,そういったものがどのくらいなされているのかなということをお聞かせいただきたいのですけれども。

竹村司法書士 これは非常に難しい問題です。高校の先生もいらっしゃるかと思いますが,高校の教師は非常に忙しいように私は思います。それと,時間がなかなか合わないということもあります。ですから,現実的に現場での協議というのはちょっと難しい点があります。ただ,広島県におきましては,広島県消費生活室が消費者教育の担当者会議ということで,高校の先生を集めて8月の夏休みにそのような担当者の研修ということをやっております。そのときに,私どもの司法書士会も一緒に参加をして,その中で交流を図りたいというふうには思うわけでありますが,まだちょっとそこまで目に見えてそれができているというふうには言い難いところがあります。おっしゃるところはよく分かりますし,できる限りのことはしたいところでありますが,まだそこまでいっていないというのが現状ではないかと思います。

大杉委員 これを申しましたのは,広島県の高等学校は特にシラバスを全校作成する形をとっていると思いますので,それがありますので非常に今後やりやすいのかなというふうに思ったものですから,是非これからもお願いしたいと思います。

安藤委員 今のこれを拝見させていただきますと,被害者にならないための防止策みたいなことが多いと思うのですが,今未成年者の犯罪が急増している時点で,加害者にならないためにというような視点での講義はなさっていらっしゃらないのでしょうか。
 もう一つは,中学校で行っているのでしたら,どういう内容で,どういう成果が上がっているかということもお聞きしたいと思います。

高橋委員 中学校の実績はまだまだ少ないところがあるのですけれども,やっているところは本当の基本的な契約の基礎です。毎日例えばお店屋さんに行けば,そこでも契約がなされていますよ。契約をなさった以上は責任が当然生じますよというようなところから始まって,あとは金銭感覚,金銭教育のレベルの話をしているところもあります。例えば金利です。お金を借りれば金利がつきます。その金利の小さい,大きいというのはどういうものかというのを数字で見せて,中学校でどれだけ分かるか分かりませんけれども,そういったことはお話ししているところが多いと思います。
 それから,あと今,総合的な学習の時間というのがあるのですが,その中で積極的に先生が関わっているところでは,教科書と黒板だけではなかなか分からないところがあるので,教師が話した上で,事前にある程度話した上で実務家が話して,最終的に討論して,できるだけ生のものを感じさせたいという思いから,そういったテーマで話をしていただいているところはあります。
 前段の加害者にならない教育というところまでは,まだまだ我々は踏み込んでいない。実績が無いというところが正直なところでございます。

安藤委員 少年犯罪が急増している世の中ですから,どちらかというとそういうところからも,特に中学生ぐらいから御指導をしていただいた方が良いと思います。今,法の目をくぐるような状況になっていますよね。ですから,そういうものに対しての取組みをやっていただけたら良いなと思っています。

唐津委員 質問と感想なのですけれども,まず質問は,費用は学校側,あるいは受講する生徒の負担は全くないということでよろしいのでしょうか。

高橋委員 すべてが同じ考え方ではないのですけれども,ほとんど学校側の負担というか,資料は学校側に印刷してもらう程度で,あと学校側から司法書士会の方に金銭が払われるということはほとんどありません。

唐津委員 あと感想なのですけれども,このテキストを見ますと,私ども企業の中でも法務教育ということでやっているのですが,正に口頭で約束をして後でトラブったというケースというのは,まだ企業の中でも頻発していまして,正に社会人相手に企業の法務教育でやっているような内容と全く同じような内容なのですね。こういう法律知識を教えるというのは当然必要だし,ただ法律知識を教えるということになると,ある程度やはり年限を経てないと,聞いている方も分からないと思うのです。そういう意味では,高校生ぐらいであれば,ある程度こういうのを教えても理解すると思うのですけれども,小学生,中学生の教育ということになると,やはりこのテキストではなかなか教育をする効果というのは上がらないのではないか。だから,こういう法律知識もさることながら,本来必要なのは知識の背後にある法そのものに対する考え方といいますか,そういったところをどううまく若い時期に植え付けていくかということを考えていかなければいけないのかというのが一つの感想です。

土井座長 非常に大事な点を提起していただいたのだと思います。消費者法,あるいは関連して民法なのですが,民法や消費者法の知識そのものを教えるのか,そういうものを題材にしながら,それを通じて法というものの考え方を教えるのかという二つ,それは御報告の中にも契約という基本的なことを教えるところと,消費者問題に関する要望という部分が両方あるのだと。それを二者択一というわけではなくて,教育課程全体から発達段階を踏まえながらどう位置付けていくのかということの御指摘だと思います。これは非常に大事な点で,今後検討していかないといけない点だろうと思います。先ほどおっしゃられたように,確かに契約が口頭で成立するというのはなかなか分からないというのはあるのですけれども,多分私の感じなんかだと分かっている部分はあると思うのです。というのは,コンビニエンスストアで物を買うときに契約書にサインしているわけではないのです。「これ買います。」と言ってお金を出して成立しているわけです。だから,実際やっていることなのだけれども,それが法だとか契約だとかという実感を彼らは持っていない。契約だと言われると何かものすごく難しい事柄で,家を買うとか大層なことしか頭に浮かばないというようなところがある。その辺が一つの問題なのかなというようなことも感じました。
 そのほかの委員で,どうぞ。

沖野委員 少し補足的に,私は消費者契約法を専門としておりまして,また民法を専門にしておりますものですから,ちょうど今おっしゃったようなところが非常に関心を持っているところでございまして,実践でやってくださっているこういう形のものというのは,正に社会に出ていくための知恵,それから高校生にとってどうかという点もございますけれども,悪徳商法と言われるもののターゲット層の一つが未成年者及び若年層ということですから,正にターゲットとなる,先ほどおっしゃった被害者にならないために,正に被害者としてターゲットになっている人たちに,その人たちが正に社会に出ていくその段階でこういうことをやっていただくというのは,非常に有意義なことだと思います。
 ただ,逆に言いますと,正に社会へ出ていく人が身を守るための段階で非常に意味がありますけれども,しかしより一般的な法教育という点からすると,もう少し消費者問題のとらえ方については別の観点もあろうかというふうに思われます。既に唐津委員もおっしゃった点ですし,座長からも御指摘ありましたけれども,この消費者問題というのは既に司法書士会でやっておられる観点に既に入っておりますように,契約法あるいは更には民事法,あるいは紛争解決の在り方ということに非常に関わってまいりますので,消費者問題ということで議題との関連で申しますと,身を守る知恵的なものとは別に,二つぐらい話があるのではないかと思っております。
 一つは,座長から既にあったように,契約というのは,日常的にやっている日々の生活自体契約無くして成り立たない。コンビニでペットボトル1本買うのも契約だと。ただ,それを契約だとは意識されていないわけですね。しかし法的には契約であって,契約の網の目の中で生活している。それは言い換えますと,社会がそういう仕組みの中で作られていて,それが正に意識しない形で実は経済生活などがそういう法の網の目で支えられているのだ。ですから,法というのは別に遠くにあるものではなくて,実際身近な私たちの生活自体がそれに基礎を置いているようなものなのだと,そういう社会の仕組み的な,しかもそれを自分の身近な存在として感じてもらうような,そういう意味での理解。それがこれから社会に出ていく人というよりは,広く本当の意味での若年層からいろいろな形で伝えることができる項目ではないかと思っております。
 もう一つは,もう少しルールの考え方でして,先ほど諾成主義の問題が挙がりましたが,口約束でも契約は成立する。そういうことを言うと,そもそも普通の口約束で取引をするということ自体は分かっていても,契約というものが何かという問題がありまして,国家法の強制力のもとに嫌だと言っても実現していくというのが契約か。いろいろな社会における約束の中で,契約というのをどう見るか,それがどういう意味を持つかということがあるわけですが,そういういざとなったら裁判所がやってきて強制的に取ってしまうというようなものでさえも口頭で成立するんだというのが,果たして適切なルールかという問題がありまして,何でそんなルールになるのだろうかという幾つもの観点があるわけですし,諾成主義自体についても例外がいろいろあるわけです。消費者法などになってきますと,口約束で成立しても書面が無いといつまでもクーリング・オフができるとか,そういう仕組みがいろいろありますので,そういったルールの作り方の背後にある考え方,こういう点を考慮してこういう仕組みになっているのだという点を考えるに当たっても,消費者問題というのは一つの題材として非常に有意義かと思われます。ですから,実践的な被害者とならないためにどういうことをやったらいいのかということのほかにも,もう既に指摘された点ですけれども,民事法あるいは紛争解決となりますと司法の仕組みへも至るわけですので,社会の仕組みと自分達の関わり,さらには個別のルールについての幾つかの考え方のための題材という点からも検討していただければと思います。

土井座長 民法,消費者法の御専門家の観点から問題を提起いただいたと思います。

荻原委員 今いろいろな方の御意見伺っていて,消費者教育というのは,私はテレビなんかで特に司法書士会とは協力してやったことで,敷金が戻らない問題というのを放送したことがあるのです。きれいに使って何も壊していないのに,出るときに壁も床も畳も全部張り変えて,50万円,敷金以上にお金を請求されたなんていうケースがすごく多くて,それを放送して,これはそういう払う必要は無いのだと言って,そう言われたらこういうところに行きなさいとか放送したのですけれども,大反響だったのです。こういう問題というのは実は大人も知らなかったりして,先ほど教科書と実体験の,大杉さんがおっしゃっていたように法律と実体験の乖離が激しいというのは本当にそこに現れていまして,法律では消費者を守る法律があっても,それをどう利用したらいいのか分からないし,そのためにどういう道具があるかも分からないというところが現実には多くありまして,司法書士の方が皆さん頑張って学校訪問されても,副次的なお仕事ですから,そんなに全地域の小学校や中学校や高校を回れませんので,本当は今現在起きている,例えば敷金が戻らない問題だとか,時期時期に多いテーマを何か例にとって,実体験からこのときにあなたはどうしたらいいと思うか。例えば契約書に実はよく読まないでサインをしてしまった,畳も張り変えますに○をしてしまった。そのときには,畳は張り変えなければいけないのか。そういう現実的なものから,だんだん法の精神だとかルールの理念だとか,消費者契約というのはどの程度まで守られるのかというふうに身近な問題からだんだん法律の理念みたいなものに高めていくようなやり方をやっていただけると良いなと思うのです。
 今の教科書って,割と上の方から来るものが多いのです。だから,うちの子供の教科書見ても,悪徳商法は教えているのです。クーリング・オフのことも書いてあるのですけれども,現実に自分の生活に起きるとは思っていなかったりとか,そういうものがあるという,やはりこれも知識でしかなかったりしますので,具体的に実体験で語っていただける方が多ければいいのですけれども,それがなかなか,前回の弁護士さんの会もそうですけれども,そういう方たちはやはり少ないですから,身近に起こっている現実の問題を例にして,そして持っていくやり方を何か副読本ではないですけれどもあると,先生でもできるかなと思います。
 それともう一つは,先ほど紛争解決のやり方まで導いていく,そういうはっきりしたものが,例えば敷金が戻らないなんていうのは割と解決策があったりするのですけれども,ないような問題,隣にビルが建ってしまって家が日影になってしまった。建築紛争があちこちで起きていますけれども,そういったときにはどうやったらいいのか。自分たちでルールを作っておかなかったのがいけないのだというところまで考えがいくような,回答のない紛争解決を子供たちに考えさせて,そのためにはどういうルールをあらかじめ作っておけばよいのかみたいなところまで考えさせるような授業になると,理想的だと思うのです。

安藤委員 今の話で思うのですが,講師によって本当に違うんです。いろいろな現場,ほかの分野ですけれども,見ていても,講師によって指導の仕方も違うし反応も違うので,もしできるならば例えばビデオを制作して,先生に対するマニュアルみたいなものをある程度作っていただいて,きちんと広めていくという方法もあるのではないかと思います。

土井座長 荻原委員あるいは安藤委員の方から非常に重要な御指摘がありました。荻原委員の方からおっしゃられた内容というのは,理論は理論として教える。でもそれが実際の感覚に結び付いていない問題というのがやはりあって,具体的な事例の中から子供たちが自分たちに関わっているんだ,あるいは大人になったときに関わるんだという形に入りながら,そのルールというのを学んでいくべきだという御指摘もそのとおりだろうと思いますし,それやる際に,これは一番最初に大杉委員の方からも御指摘がありましたように,法曹三者が入るといってもそれはやはり限定的な入り方しかできないだろう。そうすると,学校の先生方の方で広く受けとめていただくという必要があるだろう。その場合に,学校の先生方にしてみても,十分な法的な知識が今現在あるかどうかというのは問題があるところで,そのためには必要な教材というのを作っていくというのを考えたらどうだろうという御指摘で,非常に大事だろうと私も思います。
 今そういう御意見が出ましたので,どうでしょう,学校の先生方の方で,今のような御意見があるのですが,それを受けて何か御感想というか,そういうものがあれば,最後に一言お願いしたいのですが,今日お見えになっている永野委員,いかがですか。

永野委員 公立中学校で,私の今いるところが高度成長期に作られた集合住宅のところですから,この資料(4)のおしまいの方の,感想の「ありがとうございました。とても勉強になりました」とか,「とてもためになった」とか,「勉強になった」とか,「金を借りることをしなければいい」とか,こういう感想しかほとんど書けない子を送り出していく側の中学校なんですけれども,先ほどどちらがおっしゃったか忘れましたけれども,副読本があって先生でもできる,その「でも」というところが非常に大切でして,先生でもできるというところが,とても今現場では非常に重要なところなのです。というのは,例えば今やっている法教育のたくさんの事例をお聞きして,では実際に自分でどうやろうかと考えたときに,使える時間というのが,一番現実的なのは総合の時間なのですね。総合の時間は,例えば環境,情報,国際,福祉というふうに文部科学省の方の学習指導要領の方から,「例えば」というふうにして順番がちゃんと意味があって順番で出てきているのですが,そこに例えば環境ですとか福祉とか出てきているから,我々のような免許と関係ないところで点字の学習を一生懸命やるとか,それから福祉とか環境というのにいろいろな方のお力を借りて生徒とほとんど同じレベルで始めていくというのがあります。例えば社会人だって,企業の法務教育と同じで,これで痛い目に遭う社員がたくさんいるというのと一緒で,学校の先生も実は法教育というか,法律については教科外であれば,例えば数学の先生や理科の先生といったらほとんど王子様か王女様のようにして人生を送ってきた方が多いので,ほとんど,ど素人に近いというのがあります。
 そうすると,そういう先生でもできるということが非常に重要になってきますので,マニュアルとか副読本があって,そういう先生でもできて,しかも時間の保障がないとだめですよね。そうすると,例えば文部科学省が学習指導要領に今後の総合的な学習の時間の中に,環境教育だって法教育が絡んできますので,ゴミ問題一つとってもそうですけれども,そこに例えば法教育であるとか,消費者とは言いませんけれども,身近な問題を法律でとらえてみるとか,法の網の目によって支えられているのだということをきちんと分からせていこうというような趣旨の文言が,二文字でいいですよね,入ると,現場の動き方は全く違ってくるなと思います。

土井座長 時間の関係もあるのですけれども,先ほどお手が挙がったようですので,山根委員の方から一言最後に。

山根委員 今も出ていましたけれども,副読本というか,教材という意味では,いろいろな地方の消費者センターで消費者啓発のビデオをたくさん工夫されて作られていると思いますので,そういうのも利用して消費者教育の場で使えたらいいのではないかなと思ったことと,あとやはり学校側の受入態勢とか先生方の協力というのが絶対この取り組みでは重要だと思いますので,来ていただいた学校は是非来年度も来ていただきたいという声が挙がると思うのですけれども,全くまだ行ってない学校に新しく行くときにはいろいろな御苦労が多いと思うのですけれども,これからの展望としましては,まだまだ行く学校の数を増やすことは可能なのでしょうか。まだ学校はたくさんありますけれども,どの程度数的には,量的には今の取組みは増やせるようなところなのでしょうか。

高橋委員 それぞれの地域によって違いますけれども,かなり今でも実は厳しい。先ほど竹村さんがおっしゃったように,日常業務を休みながら行くということはかなり厳しいところがあるのは正直なところです。ですから,余計に学校の先生との連携とか,できれば学校の授業の中で先生を通して教育ができる態勢は,最終的な目標として我々は考えております。

竹村司法書士 今の件ですけれども,私たち司法書士というのは教育の専門家ではありません。だから,消費者教育をするということが私たちの使命ではないと言えばないのかもしれないです。ですから,ただ私たちができることをやりたいという思いで,今こういう法律教室に取り組んでいるということです。ですから,私たちがすべてでは当然ないわけで,ある一定の枠の中にあって役割を担う方が,私どもとしては望むところではないかと思います。

土井座長 いろいろと御意見もおありかと思いますけれども,時間の関係もございますので第1のテーマはこの辺で終わらせていただきたいと思います。高橋委員,竹村先生,どうもありがとうございました。

2.初等・中等教育への法教育の導入について

嶋津 格 千葉大学法経学部教授

土井座長 それでは,引き続きまして2番目のテーマでございますが,本日は我が国で既に法教育に取り組んでおられる先生ということで,千葉大学法経学部の嶋津格教授に今日お見えいただきました。本日はお忙しいところ,本研究会にお越しいただきありがとうございます。
 最初に,嶋津先生の御紹介を私の方からさせていただきます。嶋津教授は法哲学が御専攻で,東京大学大学院法学政治学研究科の博士課程を修了された後,亜細亜大学法学部の助教授,スタンフォード大学の客員研究員等を経られた後,千葉大学の法経学部の教授をお務めになっておられます。法哲学に関する優れた業績を上げられるとともに,司法試験に合格して司法修習を修了され,千葉県弁護士会に所属して弁護士として活躍された御経歴があると伺っております。こうした学問的あるいは実務的な実績を踏まえて,嶋津教授は平成13年から千葉大学附属小学校,中学校の方で法的な紛争を取り扱った授業に取り組まれており,学校現場における法教育実践の先駆者として申し上げてよろしいのではないかと思います。それでは,嶋津先生よろしくお願いいたします。

嶋津教授 千葉大学の嶋津でございます。こういう場で報告させていただけて感謝しております。話は今からやるのはちょっと大きな話なのですが,やっていることはすごく小さなことで,その間にちょっとまだギャップがあるような話なのですが,余りたくさんの経験がないことだということなので,話す意義があるかと思って用意してまいりました。
 最初は,「初等・中等教育への法学の導入について」ということで,「3年間の経験から」という副題を付けております。今皆様方のお手元にあるものが映るはずなのですが,ちょっと手間がかかっております。

(パワーポイント映写)
 3年間といいますのは,2001年の最初に始めたのは,その後に出てきますけれども日本学術会議というところの第2部というのが法律関係の部で,その会員になってやらされていた関係で,2001年3月に日本学術会議の主催で司法改革についてのシンポジウムがありまして,それの講師をさせられました。その後幾つかのことがあってこの種の議論に巻き込まれることになって,司法改革というのはもちろん弁護士養成の制度を,弁護士というか法曹三者の養成の仕方を変えるというところがポイントなのですが,私のように考える人間にとっては,これはやはり大きな意味の日本の社会の変化,変革の一部であると考えるわけです。そうだとすると,もうグロウンアップというか大人になってしまった,それも法律に向かおうとする専門家だけを変えたところで,多分大きなところでは変わらない。もうちょっと日本の社会全体の良い意味の法化といいますか,そういうものを実現するためには国民教育のところまで広げなければだめだろうということで,こういう議論になってきたわけです。
 パワーポイントの画面でいきますと,2枚目の「法哲学研究より」というのは,この話は大体私の法哲学の授業にも関わっていて,これだけ話をするのに多分半年以上授業では大学でかかっておりますので,全部をするのは不可能なのですが,ごくめちゃめちゃに短縮して何が言いたいかを言いますと,法学概論というのは,大学に入ってすぐの学生相手に教える法律の入門です。これは私は今やっていませんが,何度かやったことがあって,教科書にその種のものを書かされたこともあります。それから法哲学の授業というのは毎年やっている授業でありまして,それの授業の3分の1ぐらいの最初の間は,「法とは何か」ということをやります。「法とは何か」という議論は,やり方によっては非常につまらなくて,何のためにこんな議論しているか分からないという議論が延々と続くという場合が多いのですが,私は実は「この法とは何か」という議論はものすごく実践的なものであると考えておりまして,ここでどういう結論をとるかによって法の内容,法の運営の仕方,その他社会の在り方全体が非常に変わってくるのではないかというふうに考えて授業をやっているわけです。
 その中身ですが,法の概念論というのは普通の説明では,法実証主義対何とかとなっていまして,「Etwas」というのはサムシングなのですけれども,普通はそこに「自然法論」というような言葉を入れるのが教科書的な書き方なのですが,私はそれはちょっとおかしいと思っていて,法実証主義の対抗馬というのは別に自然法論だけではないと思っておりまして,何かそこに入るものに自分も属するだろうと思っています。それが社会のイメージと連動しているのだというのが,私の言いたい出発点なのです。
 それをごく簡単にこのディコトミーでやりますと,「法=統治vs.法=権利」というのは,後で出てきますがドイツ語でレヒトという言葉は,御承知のように法という意味にもなるし権利という意味にもなるのですね。だから法と言おうと思ったらオブジェクティフェレヒトというふうに,客観的法,そのレヒトと言わなければならないし,権利と言おうと思ったらズブレクティフェレヒトと言わなければならない。だからレヒトそのものは,権利とも法とも言えない中間的なものなのですね。ドイツ人に,ではあなた,レヒトという言葉を聞いたらどっちのことを思うんだと聞いたら,私は二人の人に試みましたが,しばらく考えてから,いや,どっちとも自分は決めてないと言うのです。だからドイツ人にレヒトと聞くと,法とも感じられるし権利とも感じられる,何かその両方のものをまとめて一つの概念でレヒトととらえているのですよね。ところが我々は,どう見ても法と権利とは違うものだから,おまえどっちのこと言っているのだと言わないとどうもおかしい,こういう感じなのですね。
 御承知のように,権利という言葉は明治時代に造語された言葉であって,長い中国の古典と日本の和語の蓄積の中には権利を表現する言葉はなかったわけです。だから新しい言葉を作らなければならなかった。それだけ日本にとって疎遠な概念だったと普通は考えられています。一方,法という言葉は,全然そんなものではなくて,中国にだって法家というのが春秋戦国時代以来あるわけだし,法という概念は中国の中には特徴的に非常に強い概念としてありますね。日本の中にも,法度その他云々という法概念というのはたくさん強くあるわけです。ということは,日本や中国にある強い法概念と今私が説明した権利といつもくっついているはずのドイツなんかの概念とは,どうも違うものを指していると考えた方が分かりやすい。ただそれを指すために,暫定的ですが法=統治という意味の法と,法=権利という意味の法があって,これは実は大分違うものなのだけれども,日本で普通法と言うと左側の法=統治の方を言っているのではないか。こういう感じの話を私は1年の最初のころにやって始めることにしているわけです。これは言い方を変えると,官僚の法対法曹の法ということもそんなに違わないことになって,もちろん前半部分を悪いという意味ではないですよ。官僚の法がなければ官僚組織というのは動きませんから,これは絶対必要なものなのですが,しかしこれは西洋では典型的な意味の法ではないのですよね。だけど日本においては,どうもこれが法の中心になっているようなところがあって,法曹の法というものはちょっとこれとは違うものだということをもうちょっとはっきりさせなければだめなのではないか,こういうこともある。
 あと,これから不信アプローチと信頼アプローチと,これはもっと話がややこしくなって,つい最近英語の論文で言い始めたことなのですけれども,つまり社会の秩序を生み出すについて,各個人が持っている正義感覚というものにどれだけ依存するかということがポイントだ。法実証主義と言われる立場は,法の内容に対する評価と,あるものが法であるかどうかの認識とは別だ,切り離せるのだということをその大前提にしておりますので,非常に縮めて言うと法実証主義的なアプローチというのは不信アプローチというものであって,各個人が何を正義と感じるかに対しては依拠しない。そんなものに依拠してしまうと,各個人の持っている正義感覚がばらばらな分だけ,人々の法についての意識もばらばらになって社会は乱れるだけであるから,できるだけ各個人が感じている正義の感覚のようなものと独立に法の内容を確定する必要がある,こういうふうに考えるわけです。それに対して反対の信頼アプローチというのは,基本的には社会というのは人々が住んでいるわけだから,その中で暮らしている人々はその社会の基本的なルールを体に身に付けているわけであるから,そういう人々が実際持っている正義の感覚というのは社会の秩序の基礎であって,法というのはどこかでそれに依存する形で社会の秩序を実現し,維持しなければならない。こういうふうに考えるタイプのものである。だから,この二つは対立するものですね。
 ただ,ちょっとだけコメントしておくと,日本のように明治時代に突然西洋法を導入したような社会においては,信頼アプローチみたいなものをとるのは非常に難しくて,当時の社会の日本人というのはまだちょんまげ結っていたときから時代がたってないわけですから,直ちに西洋法をそのまま正義感覚の中に取り入れるということは不可能に決まっていますから,ある一定期間は上から法が与えられて云々というのは仕方がない。ただ,まあそろそろ100何十年たっているわけですから,もう少し日本人の実際持っている一般的な正義の感覚と法の内容とが整合することを可能にする,そういう時代になっているのではないか。それで,現在の司法改革というものも,そういう機会としてとらえると良いのではないかと,こういうことが言いたいということです。
 それから民主主義と……これはちょっと話が難しいので省略します。これは私は論文があるのですけれども,次に行きます。
 「既存の関連報告・執筆など」,これも単なるリストですので,簡単にお聞き流しいただきたいのですが,今言いましたように2001年4月に学術会議のシンポジウムで法科大学院関係のシンポジウムがありました。それから同じく2001年7月1日に,これは私の原稿で,「ジュリスト」に,「正しさを語る教育について」という原稿を書きまして,ここの方々がちょっとそれを読み私に興味を持っていただいて,今日報告させていただいている。こういうことです。中身は今と似たような話がちょっと書いてあって,例えばうちの娘が,私は娘が小学校1年のときにアメリカに我が家は暮らしていたのですが,スタンフォードにおりましたけれども,そこでシェアリングという授業をやっているのです。これは小学生1年生向けの授業なのです。シェアって何かというと,だれでも順番に子供が担当になりまして,担当になった子は小学校のクラスに自分が大事にしている物を持ってくるのです。クラスの前で,それがどういう大事なものでどういう価値のあるものかということを説明した後で,これを今日私から借りて持っていたい人がいたら貸してあげますよと言うわけです。シェアというのはそういう意味ですね。それ自体は何ということないのですが,しかしよく考えてみますと,それはその子が家から持ってきたものだから,どんな価値があるか,どういうものかということを知っているのはその子だけなのですよね。先生でも知らないわけです。その子だけしか知らないものを家から持ってきて,これはこういう由緒がある,こういう価値のあるものなので,自分は大事にしているのだけれども,持っていたい人がいたら少し持たせてあげますよと,こういうことを言う。これは一種の表現の訓練なのですが,もちろん大事なものを人と一緒にシェアしましょうという道徳的な教訓も入っているのですが,むしろ私の目から見ると,その人しか分かってない価値をみんなの前で,なるほどそれは価値があるものだというふうに思わせるための表現の訓練,大体そういう感じのものだと私は理解したわけで,そういうことなども書いた原稿を出したわけです。
 それから,7月22日に法哲学会という私の所属している学会のシンポジウムがありまして,これは東大でやったのですが,この中で一つ報告をさせていただきました。今日お配りいただいたのは,そのときの原稿を配っていただいているようです。「社会改革としての司法改革」というタイトルのものを配っていただきました。
 それからその次に書いてあるのは,これは千葉大学の総合研究プロジェクトというのが,学長の指導の下にありまして,それでたまたまお金をもらって2001年度にこういうプロジェクトをやりました。これは教育学部の先生方が一緒にやってくださいまして,千葉大学は附属の小学校,中学校がありますので,そこの先生方も事実上一緒にやっていただいて,それで今から報告するような授業をやったわけです。そのうちお見せします。それでその報告書が出まして,それも一部今日コピーして配っていただいております。
 それから2002年度は,実はお金が無かったのですが,事実上継続しまして,また同じくその小学校,中学校で実験的な授業をやりました。それについても,後で御報告します。
 今年の8月には,これはLundという,スウェーデンでIVRという国際法哲学者会哲学会というところがありまして,そこで何か英語で報告しなければならないので,この間私が考えてきたこととやってきたことをいい加減に英語で報告しましたが,それはもうすぐProceedingsという形で報告が印刷になるはずですが,まだなっておりません。それから2003年度と2004年度2年間だけなのですが,科研費を申請したら,幸いなことに通していただきまして,それが「法学的能力の発達と教育の可能性についての研究」というタイトルのもので,この間やってきたものを科研費でもうちょっと大きくやろうというのが現在で,実はそれでもらったお金でスウェーデンにも行けたということです。来月の初めにはアメリカに行くことになっておりまして,それは別の目的でも行くのですが,そこでバージニア州の高等裁判所の裁判官とインタビューをする用意もしていただいておりまして,陪審員に対する裁判所の教育というのがどういうふうになっているかということを聞いてくるということになっています。そのほかちょこちょこ原稿ありますが,そういう感じのことがこの間やってきたことです。
 それでは次に,実際のやってきたことについて少しお話ししたいと思います。「初等・中等教育における法学的マインドの育成(千葉大学での経験)」というものなのですが,最初に何を考えてやったのかをもうちょっとだけまとめてからと思いますが,司法改革の意義,これは今言いましたようなことで,できれば非常に深いところで日本社会がもう少し変わる必要がある。どう変わるかは後で原稿などをお読みいただければ分かりますが,例えば日本人というのはすごく人間関係が上手で,たくさんの人間がうまく分業しながらまとめて仕事をする。だから外国人,特に西洋人なんかは個人としては優れた人は非常に多いのですが,個人レベルでなかなか西洋人と対抗できる日本人というのはそんなに多くないのですけれども,しかし集団になって対抗する場合には,会社の取引であれ,いろいろな研究であれ,何か産業的な活動であれ,対等若しくはそれ以上に日本人がうまくいったりするのは,日本人のそういう才能に依存していると思いますが,しかしそれは逆の面がありまして,つまり身内の狭い関係では非常に上手なのですが,全く見ず知らずの人間相手であるとか,名も知らないだれか他人がどこか遠いところで何か被害を受けそうなことについて,いかにそれをやらないで済ますかとか,それから全然知らない人間と自分の意見を言い合って,どちらが正しいかを議論するとか,そういうことはどうも弱いわけです。ただ,そういうのをだんだん他人間の関係なのだけれども敵ではなくて,しかもある程度のお互いにルールはちゃんと守るのだという信頼を持っていて,そういう人間相手に自分の主張をちゃんと言って,なるほどお前の言うことは分かったと言わせて,しかし向こうにも言い分があるからそれをちゃんと聞いて理解して,そうやって他人間なのだけれどもある程度の秩序をそこで作っていくような,そういう能力をもっと豊かに持った,何かそういう人間たちが暮らしているようなところになって欲しいと,そういう感じのイメージですね。
 それから行政から司法への重点シフトというのは,これはもういろんなところで行われていることですが,日本の行政は非常に優秀で,これまで日本の社会を支えてきたわけですが,現在それがいろんなところで軋みが出てきておりまして,もう少し行政に何でも依存するのではない,例えば私は松戸に住んでおりますけれども,市庁舎でも法律相談なんかやっておりまして,法律相談といっても喧嘩の仲裁みたいなことまで役所に持ってくるという,そういう人が結構,日本にはいるのですよね。だから,それだけ行政が信頼されているということでもあるのですけれども,しかしそこまで行政がやるというのはそれだけ行政が過大にもなりますし,ある種のゆがみもそこから生じますし,行政はやはり何といっても権力や財源を持っているわけですから,そういう主体と仲裁の主体みたいなのが一緒になるのはどう考えてもふさわしいことではないから,もう少しそういうのに依存しない。しかし行政に依存しなかったら何に依存するのだろうというところが問題で,法曹とか司法とか裁判所とか,そういうふうに依存すると言えれば良いのですが,そんなものは非常にコストもかかりますから,最後はそうなるでしょうが,むしろ各個人がもう少し秩序化を行う能力を持っている。自分の中にそういうふうに何か第三者の上にいる人間の仲裁を得なくても,自分たちで秩序を作り出していけるような,そういう能力をもう少し日本人が持てばというのが一応の答えです。
 そのためには私の議論の中では正義感覚というのを育成する必要があって,これは非常にごまかしではありますが,分かりやすく言えば,言葉をしゃべる文法みたいなもので,日本語というのは非常に難しくて,「てにをは」というものを使い分けるためのルールだけでも,これはうまくは言語化できないのです。これがちゃんと言語化できれば多分何か賞がとれるぐらいすごいことになるわけですけれども,できない。できないにもかかわらず,「てにをは」をちゃんと使い分けられているわけで,何も支障は起こってないわけです。つまり我々の能力の中には,「てにをは」をちゃんと使い分ける能力があるのですが,それがどういうふうに使われているかを言語化することは非常に難しい。それぐらい難しいものなのです。だから正義感覚というのは私にとってはそれに近いようなものであって,どういうときに何をしてよいのか,何がして悪いのか,どういうことは許されることで,どういうことは許されないことかということについての判断であって,道徳とはちょっと違うのです。道徳というのは平均値よりももっとずっと超えたすばらしい人間がどう行動するべきかというようなことも道徳ですし,例えば私の例で言うと,友達が金に困っていれば,自分に余裕があったら貸してあげる。これは道徳的には優れたことですが,法的にそれは要求されているわけではない。正義がそれを要求しているわけではないですから,正義と道徳とは若干違ったものであって,もう少しさっきから言っているように他人間の一般的な平等な匿名的な関係において,ルールの下で平等にそれを解決する場合のそれに関わっている,そういうものなのですが,そういう感覚というものがもうちょっと育成されていけば,今言ったような目的に資するのではないかということです。
 そうするとどういうことになるかというと,ここから先は若干アダム・スミスのモラルセンチメントというのに影響されている気がしますが,彼はこういうふうに言うのです。人間というのは,人の気持ちになって考えることができる。人の気持ちにシンパサイズすることができる。例えば自分が喧嘩したとき,相手の気持ちになることもできるのだけれども,しかしもっと重要なのは,喧嘩している当事者よりも外でそれを見ていて,その喧嘩の結果に何ら利害を持ってない人間がそれをどう見るか,そういう人間にどう見えるかに共感することだというわけです。これはインパーシャル・スペクテーターという偏ってない第三者の観察者というふうに言われるものですが,そういう場面を設定しよう。といっても,これは実は裁判そのものですよね。原告と被告がいて,裁判官がいると,これだけのことですから,裁判官というのは原告にも被告側にもどちらにも利害を持ってないわけであって,その人がその事件についてどう解決するのが正しいと感じるかという,これをやってみようというそれだけのことなのですが,その一歩として授業をやってみましたということです。
 次に「実施の記録」というものになりますが,今申しましたように2001年3月にはアメリカの刑事事件をやりました。ちょっと変なのですが,「アイスホッケー場外乱闘事件」といって,これはちょうどそのころまだ進行中,1月末か2月ごろに決着がついたのですが,ちょっとだけどんな事件か説明させていただきますと,アメリカのマサチューセッツ州なのですが,子供のアイスホッケーの練習があって,その練習に子供が参加しているすごく筋肉の塊みたいなおじさんがいまして,それが子供の練習を見に行ったのですね。自分のトラックの運転の仕事が終わってから見に行ったのですが,そうしたらその子供がすごく,その子供だけではないのですが,相手のチームから激しいチェックを受けていたわけです。御承知の方もいらっしゃると思いますが,アイスホッケーというのは,プロのアイスホッケーはいつもスティックを使って喧嘩になるのがむしろ売り物でして,あれで叩いたり突いたりするのはむしろゲームの一部みたいな感じになっているのですが,しかし子供はそれでは危ないので,ノー何とかといって,接触なしという一応のルールでやっている。ところが自分の子供がそんなふうに厳しくされているので,そんなのしてはだめじゃないかと言ったら,向こうのそのゲームを監督……監督といっても子供のですからただ指導をしているのですが,その指導していた人が,いや,アイスホッケーというのはこんなもんだよというふうに言い返したというわけです。それで喧嘩になりまして,素手で殴ったのですが,何しろ今言ったようにすごい人で,写真が本当はあるのですが,それで相手が死んでしまったという,日本で言えばそういう傷害致死事件ですね。
 何でこれを取り上げたかというと,これがウィンフリー・ショーというアメリカのショーで取り上げられて,全米でかなり注目されたこともあって,かなり詳細な情報がインターネットで出てきていたのです。これがその当事者なのですけれども,それを日本語に翻訳しまして使うと,かなり細かい情報もとれたし,あといろいろな証人たちの感想であるとか何かそういうのもとれたので,割とやりやすかったということなのです。判決だけではちょっと中身が出てきませんので。それで事実認定なので限界はあったのですが,やりました。
 ただ,アメリカと日本では全然法律が違いますので,例えばアメリカの場合だと故意で人を殺したってマーダーとマンスローターという別のカテゴリーの罪になって,マーダーの方が重いのですよね。この事件だと,計画殺人とか保険金殺人みたいなものはマーダーですが,喧嘩になってその場でかっとなって相手を殺した,我を忘れてといいますか,そういう奴はマーダーにならないのです。だからそこら辺の説明をしないとアメリカの法律では裁けないのですが,私はそういうことは多分重要なことではないと考えて,日本の子供たちにアメリカの法律の説明をしました。今言ったようなマーダーとマンスローター,故殺と謀殺と,そのあと正当防衛なんていうようないろんな幾つかのカテゴリーがあって,それぞれによってどれぐらい罪の重さが違うのかというようなことを説明して,じゃ君たちこの事件がどれに当たると思うと,こういうタイプの授業をやったわけです。それについては後であれだったら。それはそれで報告書が出ましたので,随分たくさんコピーしていただきましたので,それを御覧になると大体のことは分かっていただけると思います。
 昨年は,今度は民事事件をやろうということになりまして,「犬の鳴き声隣人訴訟事件」というのをやりました。最初の刑事事件のときはせいぜいこの写真ぐらいを学生たちに見せてやったのですが,犬の鳴き声は幾つかビデオみたいなものも使いましたので,ちょっと御覧になっていただければと思います。中身は,隣人訴訟で犬の鳴き声の訴訟なのですが,これは判例集に載っている事件で,たまたま場所が東京だったので現場に行っていろんなビデオを撮ったり,弁護士さんにアポイントをもらってインタビューをして,それを編集して学生,子供たちに見てもらったりしました。今ちょっと出します。
 隣の犬がうるさいというのですが,これはピレニアン・マウンテンドッグという非常に巨大な犬でして,それの写真だとか,それから途中でこの裁判になってからなのですけれども,大きな犬小屋を作りまして,音が外に出ないような労力を被告側がとったり,しかし弁護士さんはそれぞれ,じゃそれによって事件を解決しましたかというと,原告から言うと全然解決していませんと言うし,被告はそれで解決しましたと言うし,全然結論から何からインタビューの中身が必ずしも一致しないのです。子供たちにはもうそのまま見てもらいまして,言うことが違うよねみたいな,そういう形で見てもらいました。
 実際の事件はちょっと複雑で,それによってすごく高級な1か月100万を超えるような賃料の貸マンションというか貸部屋がありまして,その隣で犬が鳴いているものだから,そこを借りている人が犬がうるさいからといって賃貸借を解除しまして出ていったのです。それが家主の損害になるかということで,損害賠償の請求があって,それで主に着目されている判例なのですが,ここの部分は「得べかりし利益」というちょっと難しい話になるので省略しまして,もともと裁判の中でも争われていた慰謝料のところだけに限りまして,「どれぐらいの慰謝料を払ったらいいと思うか。原告は100万円要求しているのだけれども。」と,こういう感じの授業にしてやりました。
 今出たのは,今現場がどうなっているかというと,結局ものすごくお金持ちのところなので,多分この裁判の結果,嫌になってもう家を売り払ったのか,何しろもう出ていってしまったのです。だから,どちらの当事者ももう現在はそこには住んでいなくて,今のような工事が行われているという,そういう現状なので,これは裁判はしたけれどもそうなってしまったというところを見てもらおうということです。
 あと今後の予定としましては,小学校・中学校もやろうと思っていますが,高等学校でもちょっとやってもいいとおっしゃってくださっている学校が千葉にありますので,できればそこでやりたい。1年目はアメリカの刑事事件,2年目は日本の民事事件ですので,3年目は行政訴訟をやってみようかなということで,考えているのは「かいわれ訴訟」であります。かいわれ大根が原因でO-157に感染したのかどうかということで,厚生労働省の方は少しでも事件を未然に防ぐために公表しましたよね。しかし根拠が薄弱で,本当は自分たちが原因でもないのにすごく大きな被害を受けたといって,かいわれの農家たちが裁判をして,これは一応原告が勝ったのです。だから,こういう程度のことであるなら,子供たちも自分の常識で考えられるかなと思って,それを教材にするべく,来週その担当の弁護士さんのところにインタビューに行くことになっています。ただ,相手側が国ですので,国の方のインタビューがどうやってできるのか,ちょっと今模索中で,ひょっとしたらできないかもしれません。そういうことです。
 あとついていますのは,これは細々と説明する必要はないのですが,Bの事件ですね,「犬の鳴き声隣人訴訟」のときに使った小学校の授業のマニュアルを御参考のために付けておきました。事件の説明を私がしまして,代理人のビデオ,原告側と被告側の代理人の説明,どんな事件だったのですかと私が質問をして,それに答えているところを見てもらって,それから裁判までの経緯,例えば犬が余りうるさいので保健所に相談に行ったとか,近所で何か署名をもらって集めたとか,そういうことを説明して,それから何について議論してもらいたいかを説明する。双方の言い分がどれぐらい妥当で,補償額,賠償額はどれぐらいにするべきかと,こういう感じのもので考えてもらいました。
 マニュアルの2,これは続いているのですが,一応単純化するしかしようがないので,賠償額を原告が請求した満額である100万円,70万,30万,ゼロというふうに分けました。つまり50万というのをすると,みんな50万にしそうな気がしたので,それを避けたということもあります。それでどういうふうにやるかといいますと,説明した後でクラスを6人一組に分けまして,そこに大学院生が一人ずつ付きまして,チューターをやる。議論が活発に進んでいるなら特に出番はないのですが,余り簡単にまとまりそうであるならちょっとまぜ返すようなことを言ってみたり,君どう思うのといってだれかに当ててみたり,それからあと議論の観察の結果を後で報告してもらう。そういう役割の院生を6人に一人の割合で付けまして,それで議論をします。ただ大事なことは,さっきから言っているような正義感覚の話なので,まず議論する前に自分で考えて答えを出す。それから,自分が出した答えが人とどれぐらい違うかをみんなで出し合ってみる。Aの事件は陪審制なので余計そうなのですが,陪審制というのは12人のうち一人でも反対すると結論が出ないのですよね。結論が出ないと何十時間もそこへ拘束されるわけで,実際の事件には審理が全部終わった後で20時間ぐらいの時間をかけて結論を出していくのです。だから,結論が出ないと帰れないというプレッシャーの下で,しかしだからといって無罪の人を有罪にしていいのかと,こういうところで議論が進行するわけです。この授業ではそんな時間は当然無理なので,45分授業を二コマいただきまして,大体最初の一コマで説明を全部終わって,あとの一コマで考えてもらって,結論が出るか出ないかやってもらうという,こういう形でAもBもやっております。それで,自分たちが話をして結論が出たか,一つの答えにまとまったか,まとまらなかったかという,こういう結果の発表を最後の10分でやってもらうという,こういう感じの授業で,少し私が最後にコメントしてという,そういう感じのものです。
 今言いましたように,民事裁判の場合は,本当に裁判をすること自体が適切かどうかということも考える必要があるし,特にこの事件では裁判をしたことが必ずしも成功していないものなので,ちょっと子供たちには難しかったと思いますが,そのことについても少し考えてもらいました。
 「暫定的評価」ということなのですが,評価というか意義しか書けないのですが,何を求めてやって,どういうことがあれば良かったかということになりますと,子供たちというのは,大体裁かれることはあっても裁く側に立つことは余りないのですね。それを裁く側に立ってもらって,ではあなたが裁きなさい。あなたの考え方で裁いたらどういう結論を出すのが正しいと思うのですかということを答える立場に立ってもらった。これはさっきのアダム・スミス的な考え方からすると非常に重要な経験でありまして,これが本当に身に付いてきますと,自分の問題についても自分の目からでなくて,自分を外から見て自分を裁く,若しくは裁かなくてもいいのですが,世間でも何でもいいのですが,ほかの目から見たら自分がどう見えるか,自分の主張がどう見えるかとか,自分の求めている利益が不当なものに見えるのか,真っ当なものに見えるのかと,こういうことを常に考えながら行動するということになります。利益主張する場合でも,そういう人を相手に主張するわけですから,できるだけほかの人に分かりやすく,なるほどと思わせるように,これで自分が正しいのだということが言えるようになる,こういうことを求めているということです。
 それから,他人の意見が自分と異なることの体験,こういう感想はたくさんありました。自分は当然こうだと思ったのに,ほかの人としゃべってみたら違う結論だったので驚いたという,こういうタイプの結論ですね。それから,陪審の場合は意見をまとめる必要がありますから,何とかまとめようとやってみるわけです。もちろん40分ぐらいでは無理な場合が多いので,結論でまとまりませんでしたというふうになったところが多かったのですが,それはそれで仕方がない。実際にはなかなかまとまらないものだということも経験してもらえればいいけれども,どういうふうに議論すればまとまるのか。しかも大事なことは,自分の意見を相手に,周りの人に認めてもらって,それにみんなに従ってもらうということもまとめ方の一つの可能性なのですが,逆の可能性もあるのです。自分が人に説得されて自分の意見を変えれば,その場はまとまるのです。これは一つの負けたとか勝ったとかという話ではないわけで,まとまるという観点からすると,人に説得されるされ方を覚えるというのは非常に重要なことなのです。だからそれも含めて,そういう経験をしてもらいたかった。
 それを含めて,自分の主張をそのうちやってみたいと思っていますが,今の段階では裁判官若しくは陪審員の立場に立って事件の結論を出してくださいということしかやってなくて,そういう人が聞いていると思ってあなたの主張をしてくださいということもそのうちやりたいと思うのですが,まだそこまで踏み込んでいません。
 結論としては,社会の秩序そのものを自分のものとして運営する経験というものを積んでもらいたい。これが一番の目的なのです。効果については不確定というのは,いろんなまだ,多分長期的な観点が必要だと思います。いろんな感想文とかその他集まっているし,もうちょっと分析する資料はある程度はあるのですが,まだ十分なものだとは言えません。
 一応これで終わりなのですが,最後にちょっとだけ蛇足的に補遺を付けました。つまり,お前は,では何で権利教育をしないのか。権利というのは大事であって,自分たちの権利がこういうものだということを教えれば良いではないかという多分御意見の方は多いと思うのですね。ですが,私は権利はもちろん大事だと思っているのですが,非常に簡単に結論を言うと,私は権利よりも裁判というか司法の方が先だと思っています。つまり,権利という概念が世の中に登場するためには,裁判みたいなものが必要であって,大体権利とか請求とかそれから正義とか,その種の言葉そのものがもともと裁判用語ですから,裁判という制度の中から生まれてきているわけです。そして,今私が言ったように,あなたがでは裁きなさいと言われると,人は否応なしに,では公平にはどう裁けばいいかとか,自分はでは何が正しいと思っているのかということを言わなければならなくなるわけですから,それを言って,しかもそれがある種の普遍,我々専門家では「普遍化可能性」と言いますが,同じ判決が次の事件にも妥当するのだ,同じ考え方はずっと一貫して適用しなければならないのだということを条件にしていろんな事件を裁いているうちに,なるほどこの事件は一般にはこう裁かれるものなのだということが決まってきて,そうすると実際裁判所に行かなくてもこの事件なのだから当然これはこう裁かれるべきであって,自分の方が利益を受けるはずのそういう関係なのだということが成立してくるわけです。
 だから,裁判とかそういうものと全く独立に権利というのがどこか空から降ってきたものではなくて,むしろ権利というのを地に着いたものにするためには,何かそういう営みと一貫してなければならないというのが,私の基本的な考えだということもあって,権利教育というのではなくて司法教育をやろう,こういうふうになっているわけです。逆に言うと現在の状況というのは,例えば法なき権利とか権利なき法,一般ルールと無関係に権利だけ主張するとか,それから個人の利益ということと全く無関係に法はこうなのだということを言うとか,こういうのがある程度目につきますが,これは非常にまずいわけでありまして,一般的なルールと,そのルールの結果個人が享受する利益というのがあって,個人がその利益を主張するとき,これは例の「権利のための闘争」というイエリングの有名な本に書かれていることなのですが,ちなみにちょっと申し上げると,イエリングも実はこれをお説教として言っているのです。イギリス人は偉いけれどもドイツ人はちょっと足りないというふうに自分の国民に対するお説教として言っているので,必ずしも現実のものではないのですが,何を言っているかというと,イギリス人というのは馬の御者にぼられたときには,コストを考えずに争う。だから高いじゃないかということを3日も4日もその町にとどまって例えば裁判をする。これは利害関係からすると非常にばかげたことですね。しかしイギリス人たちは,そうやって自分の権利を自分の利害を離れて主張するから,ほら見なさい,ロンドンに行けば,ふらちな代金を請求するような馬の御者はドイツなんかよりずっと少ないじゃないか,こういう話をするわけです。だから,本当の権利主張というのは利害抜きなわけです。そういう,場合によっては自分の不利益になるにもかかわらず権利を主張する,こういうものが一番理想的な権利と法の在り方であって,もちろんこれをすべての人に要求するのは無理なのですが,でもそういう側面がどこかにないと正義とか法とか権利というものは意味をなさないというか,力を持たないわけです。だから,そういうことを考えましょう。最後,「<権利よりも根底にあるものとしての司法的なもの>を体験することの意義」を考えて,権利は扱わなかった。そういうことです。
 たくさん資料を刷っていただきまして,駆け足で,余り用意した画像が動きませんでしたが,以上で報告を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

土井座長 少し急がせて大変申し訳ございませんでした。前半部分は,なぜ我々がここで法教育というものを議論しなければいけないのか。それが日本社会全体にとってどういう意味があるのかという大きなお話で,後半部分は具体的に嶋津先生の方で実践されている法教育の方法,あるいは具体的な問題点というものをお話ししていただきました。私も憲法学者でして,こういう話を聞くと血が騒ぐのですが,座長という役割もございますので,できるだけ各委員の御意見を伺うという立場でございますので,御自由に御発言ください。

山根委員 子供たちには難しい内容だったとおっしゃったのですけれども,私にもとても難しかったのです。子供たちがこういう授業を受けるわけですが,ちょっと欲張りかもしれませんけれども,その子供たちの後ろにいる親たちの教育にもつながると,とても良いと思ってしまうので,そういった授業に親も参観できるような,そういう取組みにはなっていかないのでしょうか。

嶋津教授 余り考えたことはありませんでしたが,すごく刺激的な御指摘だと思いますので,考えてみたいと思います。

山根委員 中学,高校になると家に帰って学校であった授業の話をしたりですとか,そういうことはなかなか少なくなると思うのですけれども,小学生ぐらいでしたら親ともいろいろ話が弾むと思いますので,ちょっとそういったことも考えました。

嶋津教授 是非とも考えてみたいと思います。ありがとうございました。

土井座長 ほか,いかがでしょうか。

荻原委員 よく分からないのですけれども,先ほど喧嘩の仲裁まで行政へ持ってくる世の中って,本当にそうでして,隣の家の枝が我が家の家にかかっているというのが,行政にかかってくるのですね。隣の家の犬の鳴き声がうるさいもそうですけれども,そういったものが全部行政にかかるのを第三者に頼らずにできる人間にするのが理想だということなのですけれども,ここのところが難しくて,直接言うと喧嘩になってしまうしというところで,これはどっちに,第三者を作るべきなのかなんて私は思っていたものですから,ものによってなのでしょうけれども,絶対に条例違反をしているようなものは行政に言ってちゃんと指導してくださいよというものなのでしょうけれども,こういう本当に隣同士の紛争って,殺人にまでいってしまったりとかすることがありますし,でも当事者が解決できるかというと,反対に感情的になってしまって,隣同士だけにできなかったりしますので,先生が第三者に頼らずにできる人間にというのは,どういう……。

嶋津教授 私の方が少し舌足らずだったかもしれません。行政というのは代替性がないのですよね。独占しているでしょう。ここの地区の役所といったら1個しかありませんよね。だけど私が言っているのは,自分たちでもちろん話し合って解決できれば一番良いのですが,だめなときでも,普通の人が,ではあなただったらどう判断すると言われたら,ある程度ちゃんと根拠も示しながら自分の意見が言えるような力を持っていて,だから訴える人も訴えられる人も相談された人も,ある程度の法律家とは言えないかもしれないけれども,そういう能力をある程度持っているような社会という趣旨なのです。実際具体的な事件は,では二人で話していても喧嘩になるからあの人にちょっと意見聞いてみようというのは,全然それで良いのだと思います。ただ,それですぐにお役所というのは,もともと多分,これは分からないのだけれども,江戸時代から日本はそうやって動いてきたのでしょうけれども,いつまでもそれではどうかなということなのですよね。というのは,役所というのはそれだけで終わりませんから。ちゃんと給料もらって仕事をしている公務員がそこにいるわけですから,役所の独自の利害だってあるわけだし,今言ったように独占的なものですから,代替性がないわけで,そういうところにみんなそういう仲裁みたいなものを持っていけば,いや応なしにそこの権力が大きくなっていくに決まっているわけですから,それは非常によろしくないということですよね。

土井座長 荻原委員の御指摘,大変もっともなところがありまして,私も感じることなのですけれども,日本人というのはずっと黙って我慢しているか,もう我慢が切れたらカーッとなってしまって,前後が見えなくなってしまう。恐らく嶋津先生が今日お話になられたのは,その中間というのがあるだろう。冷静に話す,あるいはその中に今おっしゃられたように第三者が,まあまあ待てよという話が普通にできる,その訓練をしたらどうだろうという御指摘で,それでももめたら裁判所に行く,行政に行くというのは最終的にあると思うのですけれども,多分そういうものを子供のころから徐々にというお話ではないかなと私は承ったのですけれども。非常に大事な点で,その意味では教育の方法に関わる,どういう形の教育を目指してどういう方法を使うのかということで議論していった方が良いのだと思います。ほか,いかがでしょうか。

大杉委員 アメリカの裁判事例を学校の授業でやるというのは,非常に面白い取組みだと思うのですけれども,ただ日本の子供たちは多分テレビなどの影響で,裁判というともう遠山の金さんじゃないですけれども,そういうイメージ,もう偉い人が決めてしまうというイメージを持っていると思うので,アメリカの場合だと当事者を前に先生が言われたように中立的な裁定をどう下すかということをするとなると日本とのギャップというのでしょうか,子供たちが持っている裁判イメージのギャップをどうクリアしていくと,法とは何かとか正義とは何かということを学習する上でうまく授業が進展するのか。子供たちが持っている日本の裁判イメージとアメリカの裁判との違い,授業をするときに子供たちが持っているイメージをどう崩しつつ,いや,実はこうなのだよという話をされたのかなというのを少しお話しいただけますか。

嶋津教授 実はおっしゃっている面はあるのですが,逆の面もあるのです。逆の面というのは,日本では出された判決というのは尊重されないのです。僕は当事者が裁判官からもらった判決を床にバーンと投げつけるのを見たこともあるし,裁判所の前でですよ,まだ法廷にいる間でですよ,それでも裁判所はそれを拘束したりしないのですよね。だけどアメリカでそんなことをやったら絶対拘束されるわけだし,裁判所侮辱になるわけだし,裁判官というのは大統領ですらミスター・プレジデントとかミスターだれそれと言われているのに,裁判官はYour Honorと言われるのですよ。だから裁判官というのは最も敬称で呼ばれる職業なのですね。だから,裁判官が出した判決は,本当はこのやろうとかこいつ間違っているとか思っても,表面的には分かりましたと言わないと,真っ当な市民とはみなされないわけです。僕もスタンフォードにいるとき,スタンフォードは土地争いをやっていて,隣の地主と裁判をしていて,結局スタンフォードが勝ったのですけれども,負けた地主が新聞でインタビューをするのですよね。そうすると,その判決には不満だけれども従いますみたいなことを言うわけです。いろんなところでそれは繰り返されるわけであって,裁判所が持っている権威というものは,むしろ日本の社会の方が低くて,アメリカの方が高いというのが僕の印象です。
 今日もお配りした東大でのシンポジウムの質疑応答の中にも出てきますが,現役の裁判官で,これは多分高名な方なのですが,裁判官が質問されている中にこういうのがありました。日本の判決がすごく長くなって,細々としていわゆる精密司法になるのは,むしろ裁判官が権威を持ってないからじゃないかというような感じのことをおっしゃっていますね。裁判官が権威を持っているのだったら,もっと短い判決でパンと出せばいいわけで,文句あるかということなわけでしょう。だからむしろアメリカの方がそれに近いわけで,日本のように細々細々と論点を全部整理して細々とはやらないわけです。もちろん日本の方が精密でいいではないかという結論はあるのですが,権威の点だけで見れば逆なのです。これは,裁判官が偉いから権威を持つというのはそうじゃないわけであって,裁判官という役割というのはそういうものだということなのです。だから人が変わって別の人が裁判官になったって,裁判官になった人の結論は尊重しないと解決できないわけですから,そういうことを学んで欲しいと思ったわけです。
 御質問の中で,生徒たちが持っている殻をどうやって破るかということなのですが,これはちょっとだけ話は別になりますけれども,私は医学部で生命倫理について話をさせられる機会があるのですが,そのときいろんな細々したことも言いますが,一番言いたい結論は一つで,要するに倫理問題というのは答えが外にあるのではなくて,まず自分で考えなさいということなのです。ところが医学部の学生って,千葉大学の医学部というのはかなりエリートたちが集まる場ですが,そういう場でもそう言われるとみんな最初はきょとんとしているのですよ。どこの本を読めば答えが書いてありますかと,こういうことをすぐ聞いてきて,連中はすごく優秀だから,それを教えてやるとすぐ調べに行って書いたのを言うのですが,そんなことはしてもだめだ。そうではなくて,あなたはこの問題を正しいと思うのか,間違っていると思うのか。では,どうすれば正しくなると思うのかを,まず自分で感じなさい。感じたことを表明した後で,その自分の感じたことが本に書いてあることと一致するかしないかとか,自分の隣にいる人と一致するかしないかを考える必要があって,本を読んだり判決を見たりするのは,自分のその感じ方に直すところがあるかどうかをチェックするために読むわけであって,ポイントは自分の方にあるのですよということを言うのですが,そんなこと自体が僕の目から見ると西洋人にとっては当たり前のことだと思うのですけれども,倫理学なんていうのはそれを交換するためにやっているような学問なのですけれども,どうもそうなってないのですよね。日本では倫理学というのは,一生懸命西洋の本を読んでいる場合が多いわけで,アリストテレスがこうなんだと言っているわけで,僕もやっているのはやっているのですけれども。だから,子供たちの殻を破る一番良い方法は,あなたの気持ちで答えなさい。あなたの中にある答えは間違っているかもしれないけれども,まずそれを出してみましょう。自分が考えられる中で一番良いと思う答えをまず出してください。それから,では違ったら話しましょうという,こういうタイプのアプローチというのはごく素朴なものなのですが,僕の考えでは日本の今の文脈というか環境のもとではかなり大きなインパクトを持つのではないかと思っています。
 もちろん最後の狙いは,その本音の部分自体をある程度修正していくということですよね。生のままではなくて,いろんな人と話をしたり本を読んだりなんかしながら,ある程度それが人前に出してもおかしくない,ちゃんと人が聞いてもなるほどと言えるようなものへとみんながそれを直していく。だからといって,1個になるわけではないですね。いろんな立場があり得るわけですが,いろんな立場はいろんな立場なりに,なるほどあなたが言うのはもっともだと言えるような形になっていくという,そういうことをある程度実現する力を法というものは持っているのではないかというのがもともとの狙いなのです。

土井座長 時間もございますが,あとお一人かお二人ぐらい御発言をいただきたいと思います。

鈴木委員 非常に楽しかったのですけれども,小学校と中学校と基本的には同じ題材で同じように授業をされていると理解したのですが,逆に小学校と中学校の生徒さんたちの反応として,あるいはこちら側のやり方として,何か差異を設けるとか違いがあるとかというようなことは,先生お感じになっておられますか。

嶋津教授 ちゃんとまだ反映してないのですが,実は子供の道徳発達というジャンルの業績がありますね。コールバーグなんていうのがやっているやつです。実際典型的な例で言いますと,小学校の子供たちに例のアイスホッケーの話をしたとき,では被告人があなたのお父さんだったらどうするというのを聞いてみたのです。子供たちは,冗談半分でもありますが,当然無罪とか言ってやっているのですよね。そのうち,だってお父さんはそんなことしないものみたいな,そういうことしかずっと言わない。ところが中学生になりますと,そういうことはさすがになくなって,お父さんだって同じだという,そういうタイプのことを言ったり,題材は時期的にちょっとずれていることもあって,1回目の結果を見ながら少しマイナーチェンジなんかしながらやっているので,完璧に同じものをやっているわけではありませんが,題材は基本的に同じです。それに対して反応の方は,今言いましたようにはっきりとした差がやはり,これは最初の事件は小学校5年生と中学校2年生でした。実は2回目も同じクラスで1年後にやっていますので,小学校6年生と中学校3年生なのですけれども,そこの3年間の違いは非常に大きい印象を受けました。だから今度,高校でやるとどれぐらい違うか,楽しみにしているのですけれども。

土井座長 あとお一人。

江口委員 筑波大学の江口と申しまして,先生の教え子の磯山さんと「わたしたちと法」という本を作りました。そのため,磯山さんとちょうど一緒にアメリカに行ったとき,私よりも嶋津先生の方がアメリカのことはよく知っていらっしゃるのですけれども,CenterCivicEducationというところへ行くと,やはり憲法教育と関係あるのだと言われました。これは多分アメリカの法体系からくるものだろうと思うのですけれども,日本の場合も社会科の中では憲法感覚を育てるとか人権感覚を育てるとかという目標から憲法教育の領域が結構多いと思います。特に大杉委員が担当する公民分野では。そうすると,本日発表なされた民事事件や刑事事件から学べる抽象的な法的思考というものと憲法教育をつなぐテキストが必要ではないだろうかと思われます。例えばその可能性として先生のこれまでの研究から「わたしたちと法」みたいなものを日本で作れるような感じがおありですか。

嶋津教授 すごく本質的な御質問なのですけれども,僕は余りそこまでは考えていなくて,憲法の話になるとどうしてもイデオロギッシュになるので,ちょっとそこは意図的に避けているだけで,ではどうつなぐのだという御質問は正に本質的なのですが,これといってまだ具体案がありません。

江口委員 是非やって欲しいです。土井先生と二人で議論していただいて。

土井座長 大変重要な指摘だとは思います。
 いろいろと御意見おありかと思いますが,時間の関係もございますので,このテーマについての質疑応答を終わらせていただきたいと思います。嶋津先生,どうもありがとうございました。
 それでは,予定いたしました時間となりましたので,そのほか何かございませんね。それでは,本日はこの程度とさせていただきます。次回は本年10月29日水曜日午後2時から最高検察庁大会議室において開催を予定しておりますので,各委員におかれましては,御多忙とは存じますけれども御出席いただくようにお願いします。
 ちなみに最高検察庁は,この建物ではなくて,この隣の,同じような建物なのですが隣の建物だそうですので,御注意ください。
 それでは,本日の議事はここまでにいたしたいと思います。どうもありがとうございました。

閉会