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法教育研究会第3回会議議事録

日時 平成15年10月29日(水)
午後2時~午後4時22分

場所 最高検察庁大会議室


開会


土井座長 それでは,所定の時刻になりましたので,まだ若干の委員がお見えになっておりませんけれども,法教育研究会の第3回会議を開会させていただきたいと思います。
 それでは,まず最初に本日の配布資料の確認を事務局からしていただきます。事務局,お願いいたします。

大塲参事官 お手元に資料がございます。一つが本日,お招きしております日本女子大学の清永賢二先生が提出されました資料でございます。左の上の方に「主要刑法犯少年の人員および人口比」とあるものでございます。次が,「裁判所による司法教育の取組み」と題するもので,資料,パンフレットなども挟まれております。その次は「法務省における法教育への取組み」でございます。最後に,「学習指導要領における法教育の内容」というものでございます。
 以上,ございますでしょうか。

土井座長 よろしゅうございますか。
 それでは,本日の議事について,私の方から簡単に説明をさせていただきます。
 本日は,まず第一に「法教育におけるいじめ,非行等の取扱い」というテーマについて検討したいと思います。このテーマに関連しまして,まず,いじめや非行について専門に取り組んでおられる日本女子大学人間社会学部の清永賢二教授から,いじめや非行に至る原因,そしてその対処方法等について御紹介をいただき,法教育でこれらの問題をどのように取り扱っていったらよいかという点につきまして,皆様方で議論を深めていただきたいと思います。
 続きまして,最高裁判所及び法務省から,それぞれの法教育への取組みについて,プレゼンテーションをしていただいて,その内容について審議,質疑応答や意見交換をしたいと思います。
 最後に,文部科学省から,現在,学校教育で行われている法教育についての説明をお願いし,それについても質疑応答,意見交換を行いたいと思います。
 よろしゅうございますでしょうか。

1.法教育におけるいじめ,非行等の取扱い

・清永賢二教授(日本女子大学人間社会学部教授)

土井座長 それでは,まず清永賢二教授からお話をお伺いしたいと思います。
 清永先生,本日はお忙しいところ,本研究会にお越しいただきましてありがとうございます。
 最初に,清永先生の御経歴について,私の方から御紹介をさせていただきます。
 清永教授は,東京学芸大学大学院修士課程を修了されまして,警察庁科学警察研究所に入所された後,同研究所の環境研究室長,犯罪予防研究室長を経られ,今から約10年ほど前に日本女子大学人間社会学部の教授になられました。非行問題等を専門分野とされまして,多数の著書もおありになることから,本日は貴重な御意見を伺えることと思います。
 それでは,清永教授よろしくお願いいたします。

清永教授 御丁寧な紹介をどうもありがとうございました。大学を出るころがちょうど全共闘世代でございまして,大学を転々としまして,本来ならば私は塀の中から皆さん方を仰いでいることだと思いますけれども,こんなところへ来てしまいました。どういう運命なのかちょっと分かりかねるところがありますけれども,おもしろいことだと思っています。
 今日はともかく30分間ということでお時間を頂戴いたします。先に配られておりました「裁判所による司法教育の取組み」それから法務省,文科省等々のお話を見ていまして,時代がここまで来たのかなという思いがいたしました。それと同時に,はっきり申し上げて軽い失望をある意味では感じております。というのは,この私がお出ししました資料の一番最後をあけていただきたいのですけれども,これは『TIMES』の1999年の,ちょうど私がロンドン大学のLSEに行っていたときに見付けたものですけれども,これはイギリスのナショナルカリキュラムで,ニューカリキュラムというもので,トニー・ブレアが非常に今,カリキュラムを変えていますけれども,その中の柱とその内容を示したものであります。縦軸がENGLISHから始まりましてPERSONAL,SOCIAL AND HEALTHまでの軸がありまして,横が年齢の軸であります。この下の方にCITIZENSHIPというのがあります。それからPERSONAL,SOCIAL AND HEALTHという,これは本当はセットになっているのですけれども,私が特に注目したのはCITIZENSHIPということで,例えば5歳から7歳のところで「良いこと」,「悪いこと」というようなこと,それから「皆で話し合ってみましょう」とか,そういうことから始まりまして,例えば7歳から11歳になりまして「いじめ,それはどうしてなのだろう」ということを考えさせてみる,それはなぜ悪いのだろうということを考えさせる。そして,11から14歳では「法とは何だろう」とか,「人間の権利とは何だろう」とか「責任とは何だろう」ということを考えさせていくという流れになっております。この流れがとても大切なので,発達段階に応じてだんだん市民として教えなければいけないことをきちんと並べてみるという,この作業を私は大変すばらしいことだと思っています。イギリスというのは建前の国でありまして,非常に良いことを言うのですけれども,なかなか中身が伴っていないということがありますけれども,やはりこういうものをきちんと並べてみて,次の世代を作っていくという努力をしているということは私はすばらしいことだと思っています。
 それに比べまして,つまり発達段階を踏まえ,教えなければいけない基礎的なことを並べていくということをきちんとやっていくということ,つまり簡単に,私はLSEに行ったときに,最後にケンブリッジの連中と話をしたときに彼らが何を言ったかというと,「我々は次の世代の大人を作るのだ。そのためにCITIZENSHIP EDUCATIONというのを重視するのだ」ということを言っておりました。果たしてそういう意気込みが私どもの中にあるのかという思いを持ちながら日本に帰ってきまして,今日こうやって三つの資料を見たときに,正直言って「うーん」と思ったということがあります。ということは,やはりそういう流れになっているのか,子供の変化を踏まえながら適切な内容をもって,適切な手法でそれを伝えようとする,それぞれ努力はしているのですけれども,一貫性を持ったものとしてなっているかどうかということに関して,これを見て少し失望したというのが正直な印象であります。間違っていたらお許しください。
 そういう意味で,私は法教育というよりは,この委員会が何を目指しているのかよく分かりませんけれども,やはりきっちりとしたものを始めていただきたい。それも早くやっていただきたいという思いがあります。それは何故かということを,今から少しお話し申し上げて終わりにしたいと思います。これで大体5分間進みました。言いたいことは大体それで終わったということなのですけれども,ちょっと説明させていただきます。
 私の資料の一番上のページを1枚だけ破ってください。しゃべりたいことはこれだけでございます。厚みがないと悪いと思ったものですから,何か下に厚みのあるものをつけ加えてきました。
 こういうふうに考えます。まず,私がさわってきた世界というのは非行の世界でございました。非行の世界というものを,今,大変様々なところで話題になっておりますけれども,例えば非行というものを理解するというのにはいろいろな理解の仕方があると思うのですけれども,今までの理解の仕方というのは縦に切って,例えば今の時点で何が問題かということだけを言いました。
 例えば,こういう話がございます。昔に比べて非行少年の凶悪事件は少ないのだという話が大変騒がれております。戦後すぐに比べて今は凶悪犯罪というのは少ない。ということで,今の少年問題というのは大したことはないではないかという話があります。私は,馬鹿かと思いました。はっきり申し上げて,これはあほかと思いました。何故か,構造が違う。少年の,殺人なら殺人を生み出す構造が違うものを,それを無視して量の多い少ないということで論じることはできないのではないかというふうに思うわけです。例えば,戦後,飢えて死んでいく変わりに人を殺して物を取って逃げた,そういう社会状況と,今のように人を殺さなくても物は手に入るのに殺人が起こっている。それを比べることは,私はできないのではないかと思うわけであります。比べてはいけないものを比べてしまっているというふうな話を私は非常に残念に思って見ておりました。
 何を言いたいのかというと,やはり非行というものを理解するというのは,今の時点の中の子供の様子というものをきちんと見るということも大切だとは思いますけれども,そうではなくて,もう一つ,やはり時間軸の中できっちり見ていかなければいけないのではないかというふうに私は思うわけであります。時間の中で,例えばいじめというものがありますけれども,いじめは突然生まれたのか。そんなことはありはしない。なぜ,今いじめなのかということをきっちり押さえていかないと,そのいじめの持っている本質がわからないし,逆に言えばそのいじめ問題がどこに行くのかということさえも分からないのではないかというふうに私は思うわけであります。そういう意味で,私はこういうふうに考えました。
 まず,図1-1がありますけれども,戦後の流れがずっと来ております。今,第4のピークというものを目指してだんだん駆け上がっております。この第4のピークというのを一番最初に申したのが,私ども,ばかたれでありまして,実は第4のピークはもっと高く上がるだろう,平成12年ぐらいを目指してもっと高く上がるのではないかということを言っております。
 こういうふうに思います。こういう山があります。この山の中を構造化して見てみるということは大切だろうというふうに考えます。そういう意味で,私はずばずば切ってまいります。多くの場合は,谷底から谷底を一つの時代として考えましたけれども,私はそのようには考えません。頂点,谷の頂きというのは,あることがなり終わった頂点であって,そこから先は次の段階に移っていく。つまり山が下がっていくということは,次の時代を作るために山が下がっていくというふうに考えていきます。そういう意味で考えてみますと,私はむしろ時代というものを山の峰から峰でもって時代を切ってみました。そうしますと,その次の表にありますように,とりあえずの話でございますけれども,私は戦後というものは,そこにあるような四つの時代によって分けることができるだろうというふうに考えました。
 一つは,1945年から64年の東京オリンピック前後のときでありますけれども,その時代を一つの生存の論理,時代は少しずれていきますけれども,例えば永山則夫に見ますような,ああいう少年事件というものが中心になった時代であった,少年の非行の世界が中心であったのではないかというふうに思うわけであります。
 それが,高度経済成長に入っていきまして,だんだん豊かさが身にしみてまいりまして,その中で子供たちが,実はこの中で二つに分けられていくわけです。それは何かというと,お勉強という軸を中心としてできる者とできない者,もっと私たちから言いますと,実は勉強ができるかできないというのにはどのくらい先行投資がなされているか。つまり,家庭の経済的なもの,それから家庭の文化的な背景というものがどれくらいあるかによって,随分お勉強には差が出るのだということがあるのですけれども,そういうことは抜きにして,ともかくお勉強ができるかできないかということだけで切っていって,それでお勉強ができないグループからの「反抗の論理」に支配された1964年から1988年の時代があったのではないかというふうに考えるわけであります。
 それから,それは一段落しまして,だんだん,むしろ一人一人の子供の心の中身が問題になってきた1988年以降というふうに,つまりその時代というのは「衝動の論理」というふうに呼んだのですけれども,そういうふうに私どもは考えたわけであります。貧困から豊かさへ,豊かさの中から心の中の空洞を埋めていく,そういう時代にずっと流れが移ってきているというふうに大きく私は考えました。
 ともかく,現在の時点から見て,これから先どうなるのだろうということを考えるには「衝動の論理」というものの時代というものをもう一回見なければいけないだろうし,衝動の論理」というものを見るためには,その背後にある豊かさの中で切り分けられていった子供たちの群れをきちんと見ておかなければいけないだろうということがありまして,「反抗の論理」の時代まで私どもは振り返って,もう一度子供の世界というものを整理してあげる必要があるだろうというふうに考えるわけであります。
 次のページを見ていただきたいと思います。裏のページでございますけれども,ここに三つの丸が書いております。例えば,「反抗の論理」というものが始まりました1964年から現在まで見ていきますと,一番最初に,このときに豊かではあるけれでも,豊かさというものは何かというと,要するにいい学校,いい大学,いい職場に就いた者が手に入れることができて,それの切り分けるものは何かというと,要するにお勉強ができるかできないかということが問題になった時代であります。この時代の中で,できない子供たちは何をしたかというと,要するに世の中に対する復讐心というものを中心にして,子供の非行の世界というものを作っていくわけです。「俺たちは半端はやらないぞ」というのが一番最初に生まれた復讐集団の固まりである暴走族であったわけですけれども,「俺たちは半端はやらないぞ」と言いながら,1967年に京都で事件が起こりまして,そこで暴走族が走るわけです。半端はやらないということを中心にしたわけであります。その暴走族の時代に対しまして,私どもは何をしたかというと,道交法を改正し,同時に学警連を強化し,そして家庭指導ということを強化していって,暴走族を抑え込んでいったわけです。その抑え込まれていった子供たちはどこに行ったかというと,そのエネルギーというのは中に入っていきまして,1976年にピークを迎えるのですけれども,校内暴力とか家庭内暴力,いわゆる内暴力に入っていったわけであります。この内暴力,例えば校内暴力というものを抑え込んで,例えば私たちは卒業式の日が荒れるということが分かれば機動隊を学校の前に配置して,暴れたら許さないぞと抑え込んでいった。そうすると,子供たちはどこに行ったかというと,今度はいろいろな心の問題の中に入っていった。それが85年のいじめの時代であったというふうに考えるわけであります。更にいじめを抑え込んでいったときに何かが生まれていった。何かが生まれていって,今何かが起こりつつあるという,この「何かの時代」に入ってきている。こういうふうに大きく考えるわけであります。ちょっと分かりにくいと思いますので,もう少し簡単に申し上げます。
 この64年のときからの大きな意味での「暴走族の季節」というのを考えます。1967年に暴走族が走ります。この暴走族というのはどういう集団であったかというと,道路という公共空間で暴れたわけであります。公共空間で暴れるだけに,目に付きやすいし追跡しやすかったということがあって,彼らは叩きやすかったわけです。そして,叩いていくわけです。その叩いていったときに何が良く見えたかというと,実はこの中にこの暴走族の時代,1967年の時代というのは,この暴走族を良く見ますと,実はこの真ん中に,男性でいえば3%,100人の男の子が同じ年に生まれたら3%ぐらいのとても悪いのがいました。実は,この3%というのが,その後の日本の非行を解く数値のカギになるわけです。この3%というのはどういうふうに生まれてきたかというと,実はこういう3%であります。先ほどの図1-1に見ますように,山の高い低いはありますけれども,高いところの山の少年が低いところの少年に比べて良いか悪いか,非行しやすいかどうかというのは,実は正確には良く分からないのです。警察関係の方は一番良く分かっていると思いますけれども,捕まえた少年の数をどうカウントするかによって,すごくこの山というのは不確かなものなのです,はっきり言えば。その不確かなものを,やはり正確に見て,この時代の,例えば1960年代の子供は1970年代の子供と比べて良いか悪いかということがきっちり分かるためには何が必要だったかというと,要するに生まれ年次を同じにしまして,1960年に生まれた100人の子供が1970年に生まれた100人の子供に比べて何人警察にたくさん捕まったかということを調べなければいけないのです。それをコーホート調査,同世代調査と言います。そうしてみますと,実は戦後からの,戦後,1945年からの少年非行の100人の少年の中から非行少年が生まれる割合というのは,実は余り変わっていないのです。どのくらいかというと,男の子でいえば100人のうち8人から10人ぐらいなのです。多くて10人です。今は多分11ぐらいまでいっているかもしれませんけれども,8人から11人です。平均して大体8ぐらいが真ん中ぐらいです。つまり,100人男の子が生まれたら8人は警察に,この場合の警察に捕まるというのは,要するに犯罪少年として捕まるということで,14歳から20歳までの間に一度でも警察に捕まる子供ということであります。その子供がどのくらいいるかというと,100人の男の子が生まれたら8人なのです。多くて10から11,そんなものなのです,逆に言えば。この8人ですけれども,私は非行少年というのは,「非行」というのは私は悪いとは思いません。非行はむしろ世の中の仕組みというものを学ぶいい機会だと思います。例えば,生まれながらにいい少年なんて絶対にいません。例えば,生まれた赤ちゃんがおっぱいを飲んでいて,ほかの子供が来ておっぱいが欲しいといったときにその子はどうするかといったら,「俺のところに近寄るな」と,どんなにこの子がお腹が減っていても近寄るなと言います。例えば,その子供が「僕のかわりにどうぞ,お母さんのおっぱいを飲んで」と言ったら,それは急いで病院に連れて行った方がいいのではないかと私は思ったりもいたします。要するに自分が不愉快なことはしたくないというのが動物なのです。何を言いたいのかというと,その動物を人間にしていくという仕組みを考えなければいけない。だから,家庭があり学校があり警察があり法務省があるという話になると思うのです。だんだん人間にしていくというふうな思いがあるのです。
 では,どういうふうに人間にしていくかといったときに,やはり悪いことをしたら叩いていく,悪いことをしたら「悪いことだよ」ときちんと示していかなければ分からないと思うのです。そういうことで,私はやはり悪いことをしたときには,おまえがしたことは悪いことだよということを教えるいい機会だと思うのです。だから,非行だって私は悪いとは思わない。けれども,こういう説もあるのです。
 例えば,1回だけ非行をやった,5回非行をやったという少年がいます。1回だけ非行をやった少年から,例えば20歳から24歳までの間に1回でも犯罪者となって捕まる者がどのくらい出るかというのを考えるわけです。つまり,少年時代の非行というのは,大人の犯罪と同じことをやったとしても,刑罰,法令に触れることをやったとしても許してくれますけれども,大人になるとこれは一生ついていくのです。例えば,私の友人で,今64歳の日本きっての泥棒がいますけれども,今でも警察が何かあったら尋ねてきます。職を一定にできない。泣いています。だから,大人になって犯罪をさせてはいけないと私は思います。逆に言えば,1回だけ非行をやった少年と5回やった非行少年では,例えば5回やった非行少年が100人いたときに,その中から何人犯罪者になってしまうかというのを計算するわけです。そうしますと,20歳から24歳の,この僅か,この期間の間に40%のラインでこういうロジスティックなカーブを描くことができるのです。つまり,急速に上がっていくのです。非行はやってもいいと私は軽く言いましたけれども,非行を重ねる人だって急速に犯罪者になっていって,例えば非行を5回やった少年は40%,約2人に1人近くは犯罪者になっていきます。そうなったらもう人生の敗北者です,はっきり言えば。だから,そういう者にしてはいけないと私は思うのです。
 非行少年は8%出てくるということを言いました。これは男です。女性の場合は2%から3%です。この8%の中から何人が犯罪者になっていくかというと4割です。40%起きます。ということは,4×8=32で,3.2%,3%という数は,100人男の子が生まれたら3人は将来犯罪者になっていく可能性があるぞということの切符を持っているわけです。なるかどうかはまた別です。この3%が実はこの戦後の高度経済成長以降の日本の非行の非常に象徴的な時代というものを作っていったのであります。暴走族のときにはこの3%がいました。しっかりいました。半端はやらないということで,「俺たちは半端じゃないんだ」ということが切り札でした。20歳になったらおれは真っ当になるということを言いますけれども,ほとんど真っ当になれていません。皆さん,やくざになっていきました。これを,だけど私たちは先ほど言ったように叩いていった。
 そうすると,子供たちは道路という公共空間で暴れたらやられるということが分かったのでどういうふうになっていったかというと,中に当然入っていくわけです。それが,1976年の「学校」という聖域空間の中に入っていった。学校という,いってみれば小さなスペースの中に潜り込んでいったわけです。しかし,校内暴力の1976年の校内暴力をじっと見ていくと,やはりこのときにこの3%はきちんといるのです。崩れていません。この前の暴走族の時代の3%が先輩として自分たちのいろいろな生き方とか,そういうものを教えていっているわけです。
 それと同時におもしろいことは何かというと,この周辺に4%のどうしようもならない子供たちが集まったのです。この3%というのは知恵もあるし力もあった。この4%というのは知恵はないけれども力はあった。こういう集団だったのです。それを私たちはぶったたいたわけです。ぶっ叩いていきましたところどうなったかというと,更に彼らは中に中に入っていったのです。それは,どこに入っていったかというと,人の視線の見えないところに入っていったわけです。それは何かというと,この学校という小さな空間の中でも生きづらいという者はどこに逃げていったかというと,人間関係の中に逃げていった。それがいじめだったのです。私,非常に極端ないじめのことを言っています。いじめ非行というのはそういうものなのです。
 例えば,いじめということについての認識というのはしっかりさせておかなければいけないと思うのです。9ページ,(9)とかいたのがあります。いじめにもたくさんいろいろないじめがあります。非常に広がっているというのと深いものがあります。「深い」というのは解決が難しいということです。そういうふうな広がりと深さの中で三角形を描くことができるわけです。「表層・中層・深層」というふうに分けることができます。それぞれの特徴は,そこに書いたとおりであります。
 私たちが本当に問題にしなければいけないのは,自殺したり,非行に走っていくような子供たちの,そのいじめなわけであります。このいじめは深層のいじめでありまして,これははっきり言って数は少ない。その場合,例えば上の方からだんだん下の方にいじめがおりていくわけです。表層から中層には子供は簡単に入ってきます。しかし,中層から深層に入るときに,実は子供の世界が丸っきり変わってきます。まず集団が違う。子供の,それから日ごろの振る舞いが違ってくる。生活が崩壊してくる。そういう中で子供はいじめの世界の中で自殺していくわけです。こういうことが言えます。そのときでもやはり3%はいました。4%はいました。実は,この周辺に黒でもない,真ん中は真っ黒,それから周辺の黒に近いもの,それからその外側に斑入りの,黒がぽんぽんと入った子供たちがいたのです。この子供たちは,生きる知恵がない,若しくは転校生であった,周りがよく分からなかった,そういう子供たち。それから,力のない,そういう子供たちであったわけです。例えば,こういう子供たちというのは多くの場合,結構学業成績は落ちてきます。学業成績が落ちていくと,今の学校生活の中では成績が落ちていくとそれを元に戻すというのは非常に難しい。自分を一見やさしく受けとめてくれる,自分を認めてくれる仲間の中に入っていくわけであります。この輪っかの中に入っていってしまうとなかなか抜け切れない。そのうち,例えば彼が抜けたいと思って抜ける。しかし,外側のこの世界の中ではなかなか生きていけない。例えば,お勉強がついていけない,普通の子供の遊びの中についていけない,周辺の目がそれを拒絶する,そういう中で子供はもとへ戻らざるを得ない。そうすると,この真っ黒の子供はなんて言うか,「おーい,清永というのは変だぞ。ときどき俺たちの仲間から抜けようとする。あんなの許せるか,ちょっとやってこいや」とこいつは言います。この真ん中の真っ黒が言います。これは表に出るとやられるというのが分かっているから,この外側の知恵は無いけれども力があるというお馬鹿に言います。お馬鹿が行きます「わかりました親分」そして叩きにいきます。ここの中で叩かれていたこの子供たちというのはどうなるかというと,この斑入りのマーブルチョコレートの部分の子供はどうするかというと,どちらからも押されてしまって行き所がなくなってしまう。例えば,皆さん方でもビニールの板を毎日毎日押してみてください。そうすると,どういうことが起こるかというと,100回,200回はどうでもないけれども,これが1,000回,2,000回になっていくと真ん中に白い筋が入っていく。知らず知らずのうちに,その筋の中に線が入っていく,そしてある日突然ぼきっと折れるという状況なのです。その外側の子供たちが言うわけです,「彼は笑っていましたよ,きのう笑っていました。何かこの中にいることがすごく生き生きとしていました」と言う。この真っ黒の彼を中心とした集団も言う。何と言うかというと,「そんなにいじめた覚えはありませんよ」と言うわけです。だけど,ここの中,死んでいった子供たちにとっては毎日毎日が地獄だったのです。そういう中でいじめというのは起こってくる。そういう集団を崩せない組織というものが学校の中に作られていたということが問題なのです。そういう人間関係があったということが問題で,そこのところにしっかり目を向けなければいけない。そういう逃げられない人間関係がきっちりあったという,そこのところに目を向けなければいけないということ。ここまではだれでも分かったとは思うのですけれども,ともかくこういう状況があっていじめ,非行の時代というものがあって,いろいろな有名な事件があったわけです。これに対してどうしたかというと,私たちはこれを大きなハンマーでたたき割ったわけです。この集団を,かたくなってしまった集団を叩いて壊してしまえというので叩いた。叩いたらどうなったかというと,この集団が,要するに一つ一つが,この3%は消えなかった,4%は消えなかった,14%は消えなかった,ただ,それがばらばらになっていったという話です。ばらばらになって日本全国にそれが散っていってしまったという状況だった。どんな場所も選ばず時も選ばず,それから少年の特性を選ばず変な事件が日本全国でばらばら起こるようになっていった。例えば,コンクリート殺人事件があった。女の子をバイクでぶつけて,その子を拉致して2階に閉じ込めて1カ月間乱暴して,最終的には殴り殺してしまったという事件があった。それだって1人の変なのがいて,2人の変なのがいて,その外側にちょっぴり変な2人がいてという,そういうグループの中でやられている。そういう事件がいろいろなところで起こっている。それから,いじめの事件もやはり消えなかった。非常に小さいグループの中で,群れとしては小さくなったけれども,小さい群れの中で絶え間なくいじめが起こっていた。それで私たちはどうしたかというと,これをすりこぎにかけてしまった。皆,おまえがやっていることはいじめじゃないか,おまえがやっていることは,それは何とかじゃないかということで,子供にともかく一人一人を,私は分子化,原子化していったと思うのです。すりこぎにかけてしまった。それでいい子になれよとやった。カウンセリング制度をやって,「問題があったら先生に言いなさい,カウンセラーのお姉さんに言いなさい」どんどんすりこぎにかけていった。だけど,子供たちというものがどうなっていったかというと,子供たちの中に芽生えたある種の,これは後でまた時間があれば話をしますけれども,消えなくて,要するに子供はどこの世界に逃げていったかというと,ここは道路という公共区間,ここは学校という聖域,ここは人間関係,更にずっとばらばらに逃げていって1980年代の終わりから「心の時代」に入っていった。それで心の中で一人一人が闇を抱えるようになってしまった。そういう時代が来たというふうに考えるわけであります。ですから,1990年代に入って心の中に闇を抱えた子供たちが誕生する。つまり,一人一人の心の中にいろいろな悪魔が入ってしまったというふうに考えるわけです。この悪魔の中で,ではどういう心ができたかというと,そこの表の図7-1に見るような子供の心ができ上がってしまった。
 そのような心に闇を抱えた子供たちは,被害者も同じ人間であり,同じ痛い思いをする人間なのだという,そういう他者感覚というものがすぱっと落ちていたわけです。彼にまた聞くわけです「おまえ,どうしてそんなことをしたんだ」,「自分が満足するからです」,「自分が満足する,それはどういうことだ」と言うわけです。例えば,「おまえはあんなことをやってお母さんはどうするんだ」,「お母さんのことなんてどうでもいいですよ」と言うわけです。そこには何があるか。お母さんの存在とか友達の存在というのはないわけです。それから「おまえ,そんなことやったらおまえの人生どうなると思う」,「えー」と言うわけです。そこには大切な自分というものがストーンと落ちているわけです。自尊感情がスパーンと落ちている。つまり,自分がないということは他者がないし,他者がないということは自分も,人は他者の目を通して自分を作っていくのです,その他者の目がないということは自分を形成できずに終わってしまっているのです。更に彼の心の中に何がなかったかというと,それが人殺しであるというということをきちんと教え込まれていないのです。だから,被害者を刺した少年が,目撃者から「被害者が死んでしまう。」と言われて,初めて自分のしたことが殺人だということに気付いたなどといった話もありますが,つまり,例えば「殺人」という,人は人を殺してはならないという社会的規範がその子供の中に入っていなかった。つまり,どういうことかというと,そこに書いていますように,自己感覚がないし,他者感覚がないし,社会的規範がない。ということは,何がどうかというと,結論的に言えることは「何にもない」。何もない世代。つまり,1990年代の14歳,15歳の子供は何にもない世代だったというふうに私は考えています。乱暴に言います,「空洞の世代」というふうに私は考えたわけです。スポンと抜けている。だから,おもしろければ何でもやってしまう,自分がそのとき楽しければ何でもやってしまう,そういう世代だったのです。その世代に対して私たちはどういうふうに言ったかというと,何も言えなかった。
 なぜ,何も言えなかったか。例えば,援助交際の子供に対して,私は援助交際の子供を引き上げるのを見に行ったときに,その女の子たちが何と言っているかというと,「おじさんは楽しい」それから「私もお金をもらってうれしい。親もどこに行ったか,私のことを余り気にかけていない。私は私で責任を取る。自分で決めたことだ」と言うわけです。そう言われたときに警察官はどう言ったかというと「うーん」と言わざるを得なかった。
 委員の皆さんだったらどう言いますか,「私が決めたんだ,私が責任を取るんだ。どこが悪いのだ」と。中学校2年です。「自分を大切にしなさい。」と言ったって,「私,大切にしています。家でちゃんと飯食っています。ラーメン屋に行ってラーメン食っています」と答えるのです。大人は,そこで皆,降参してしまったということです。
 私は,確かに大人の論理というのはそういうものだと思うのです。私は彼らは大人だと思うのです,既に。要するに自分で決めて,自分で責任を取る。私は,それはそれで大人の条件だろうと思うけれども,だけど私はもう一つ足りないと思ったのです。つまり,自己決定できればいいのか,自己責任取れればいいのか。そうではない。例えば,その子は知らなかったけれども,その子はカードに名前と住所と年齢を書いてしまったのです。おじさんに「何かあったら連絡取らなきゃいけないからここに書いてよ」と言われて書いた。そのカードが暴力団に流れた。名前と住所と生年月日が分かれば,例えばその女の子がボーイフレンドと一緒に大学に入ったときにおじさんが行きますよ。「ねえねえ,お嬢ちゃん,どうもどうも」って行きます。そのほか,結婚式のときに披露宴の前の席に座っていますよ。今,援助交際をしている女の子たちには,将来自分がそういう目に遭う可能性がないという知恵がないのです。つまり,ある種の価値に基づいて物事を選択する能力というのが身に付いていないのです。恐らくそう思う。つまり,その知恵というのは何かというと,大人の知恵です。大人の知恵が身に付いていないから我々はその子を子供として扱う,子供とみなしているのです。
 そこのところを,この三つが大人の条件であるし,その子とのやりとりを通して思ったことは何かというと,我々は子供たちに選択する能力を教えてこなかった,我々は1足す1は2であるということを,2足す2は4であるということを早く覚えていって,早くいい学校にに行ってという,それだけをランランランで教えてきたのではないかと私は思うのです。そうではなくて,人間というものが生きていく上で,人生の中で学び取らなければいけない大人の知恵というのがあるのだけれども,それを我々は学ばせずに来てしまったのではないかと思うのです。だから,永遠に日本の子供は大人になっても子供だと思うのです。ここのところをやはり,例えば法教育でも何でもいい。私は,早く生きる力という,文部省は「生きる力」といったけれども,私のは文部省が言うような「生きる力」ではなくて,そんなことではなくて選択する能力,ある種の危機の場合があるだろうし,ある種の物事,自分の人生を決めていく上での,何かを決めていく力を付けさせること,判断能力を付けさせることが早急に必要だと思う。こう思います。今,この「空洞の時代」というのは,こういう大人になるということが全くいい加減に扱われている子供たちであります。社会的規範もないし,あれもない,これもない。そういう事件がたくさん,まだ今でも起こっています。
 しかし,この3~4年でかなり抑え込んできました。分かったことは何かというと,子供の世界がもう一つ変化してきているということです。どういうふうに変化してきているかというと,実は,最近私が1987年調査と2001年,時間点を変えまして,同じ年齢の子供で同じ調査表で同じ地点で調査をやりました。つまり,完全に比較ができるような調査をやっています。そこで分かったことは何かというと,子供たちがよく言うのですけれども,「やっていいか悪いか」ということは,つまり「やってよいか悪いか」ということを「規範」という言葉に置き換えることはできないかもしれませんけれども,それの調査をやりますと,意外と2001年の方が「やってはいけない」という反応が強くなった。子供に規範意識がない。というが,そういう意味では,私はそうは思えない。そのデータは,後ろの方の3枚目,4枚目についています。つまり,子供はそういう意味では頭の中での規範は覚え込んだ。だけど,覚え込んではいるけれどもやっている。いじめもやっています。先生を殴ることもやっています。そこで何が出ているかというと,頭と体の分離が今起こってきているのではないかと私は思います。
 この頭の中に薄っぺらな「やってはいけない」ということだけ入ってきている。だから,渋谷のこの前の夏の援助交際の女の子,小学生の女の子が何だかんだと言いながら1万円くれるからお掃除に行って捕まってしまったという事件が起こってしまう。彼女たちに会って,後で話をしてみると,あんなことをしてはいけないと思ったけれども,1万円が良かったからそちらへ行ってしまったというのが出てくる。そういう子供たちに対してきっちり体の芯から,体の中から,何かきちんと教え込むような,やってはいいこと,やってはいけないことを本当に体で体得できたものを押し込まないとだめでしょう。それを早くやらないと,私は日本全体が変になっていくだろうと思います。
 長くなりました。終わります。

土井座長 どうも清永先生,ありがとうございました。
 この資料にはお触れになりませんでしたが,空洞世代の親の成長環境というところに1967年生まれと書いてあるのですが,私は1966年生まれでして,ちょうど正にこの世代に該当するものですから,とりわけ興味深くお話を伺いました。
 それでは,質疑応答,意見交換に入りたいと思います。どなたからでも結構ですので,御自由に御発言ください。いかがでしょうか。
 いじめの問題,非行の問題ということですので,実際にこの年代に触れていらっしゃる学校の先生方,どういう感じでしょう。館委員,永野委員。

館委員 最後におっしゃいました選択,そして責任に基づいた決定能力ということに関して言えば,意外とこういった指導が今,小学校,中学校などでも行われているのではないかなと感じてはいるのです。教師が指導するという面よりも,少しマイナスな言い方をすると,ちょっと教師の腰が引けているかもしれないのですけれども,割と生徒に任せていくというような指導の方向性が少しずつとられつつあると思ってはいるのですが,先生はそれを一体いつごろ教えていくべきであるとお考えになっているのでしょうか。私自身は,こういったものは結構小さいころから本当にやっていかないといけないと思っています。そうでないと,中学校ぐらいになってこのような指導を始めても,問題行動を起こした生徒は,「そのことは自分なりの責任をとる」とか「俺なりの選択なんだよ」とか「自分が決定したんだよ」,「だからこれでいいじゃないか」といった,最終的には無責任な方向に流れていってしまうような危惧を持つわけです。その点について,先生から御意見をいただけたら有り難いと思うのですけれども。

清永教授 大賛成です。一番最初に申し上げましたけれども,イギリスの例を挙げながらのことがあったのですけれども,イギリスの場合は5歳から始まっているのです。やはり,5歳から組み立てていくことが必要だと思います。はっきり申し上げて,もう分かっていることなのですけれども,例えば中学校などで非常に悪さをいたします。まず,だれが頭を下げているかというと,中学校の校長先生と教頭,担任が下げているのですけれども,実はもうそのときには遅いのです。はっきり,それは数字が出ています。実は,小学校時代からあるのです。小学校の4年,5年で子供が大きく曲がるのです。4年,5年で曲がっていくけれども,特にお勉強についていけなくなるのが大きいのです。特に算数と社会なのです。なぜ,社会か分からない。では,算数と社会が悪い者が皆悪くなるのかというとそんなことはなくて,ずーっと戻ってきますと,私が追いかけることができたのは,6歳のときから追いかけることができたのですけれども,6歳のときの親子関係なのです,はっきり言って。親がきちんと向かい合ってあげているか,厳しくてもいいから子供に向かい合ってあげているか。例えば,朝,親が「一緒にご飯を食べようよ」ということが言えるかどうかという話なのです。はっきり言えば,そういう脈絡が分かっているのです。だから,先生方にお願いします,文部科学省にお願いします。是非,子供の早い時期からのそういう,道徳教育なんて言わなくてもいい,生活指導なんて言わなくても,ただ生きる上で必要なことはきちんとこういうことなのだ,これを君は身に付けていかなければ大人とは呼べないのだよという,そういうカリキュラムを立てて,例えば18歳の,高等学校は今はほとんど全入ですから,高等学校を卒業したときに我々は君を大人として認めた,大人とするための勉強を教えたのだから,ここから先は君を大人として認めるというぐらいのカリキュラムを一度作っていただきたいと私は思う。だけど,大変なのは何かというと,そういうことを言っている親自身が,先ほど言った空洞の世代を育ててきた親であり,教師であり,警察官であり―検事でありと言うと怒られるけれども―なんですよ。だから,大変なのです。一度,大きな,気が付いた人たちから組み立ててみていただきたい。そうしないと,私は予言をします,「少年非行の世界」というので書いたのですけれども,2015年ぐらいにもっと怖いことが起こる。だって,空洞なのですもの。力の強い者にがっと引っ張られる。

荻原委員 清永先生の話の,その100人のうちの3人というのがいるという,私も子供が2人いますので,やはり非行の芽というのは小学校のころから見えているのですね,周りの親から見ると。「あの子は悪くなる」というのはそのとおり悪くなるのですよ。その周りに吸い寄せられていく子供たちがどんどん増えていくのを見るのですけれども,どうもこの100人のうちの3という数字が,私は家庭環境もすごくあると思うのですけれども,その子自身のやはり,今回の酒鬼薔薇の件もそうですし,12歳の長崎の子もそうですけれども,脳の障害というのもかなりあるのではないかという気がするのです。それは,他人がどう自分を見るかだとか,人の気持ちが分からないとか,そういう欠陥を持ってしまっている子供というのはやはりある程度のパーセントで出てくるのではないですか,同じ時代,長年。それと同じ3%なのですけれども,それを早く見つけて,その子には親だけでは多分,対応し切れないのだろうと思うのです。神戸のケースにしても,親がそんなに悪かったのだろうか,あと長崎の子の親にしてもそんなに悪かったのだろうかと思うのです。多分,普通の親だと対応できない。そのときには先生も含めて見えるわけですから,小学校のときから。この子はちょっと特別に,普通では「やってはいけないよ」と1回言えば済むことが,人の気持ちが分からないようなタイプの子の場合は10倍ぐらい教え込まなければ曲がっていってしまう。そのかわり別の意味でパワーがあるから,そちらを生かすようにしなければいけないという,特別な特殊教育が多分必要なのだろうと思うのですけれども,今,それがないのではないだろうか。そういう子を野放しにしているから,その子の持っている悪のパワーに引かれて吸い寄せられていくということかなと思うのです。だから,100人の子供,全員を同じように道徳教育をしろということではなくて,かなり限られた,ちょっとよく見えるタイプ,もう症状として出てきていますから,その子に対する特別な社会性を身につけさせる,そのカリキュラムが必要になってきている時代なのではないかなという気がするのです。

清永教授 心の底ではっきりと言えば,「心の底ではっきり言え」というのもまた変な表現ですけれども,本音を言えば賛成です。ただし,ではその子はどういう子供かということを見分けるのは非常に難しい。一度こういうマイナスのレッテルを張られた子供というのは非常に長く張られ続けていく。張られ続けていく中で,その子のパーソナリティ自身も変化していくという,非常に複雑なものがあります。実は,私の家のことを申し上げたら失礼ですけれども,家内は養護学校の先生をしております。家に帰っても養護学校対象のおやじを相手にしております,大変であります。人権的なもので言えば,私は大変失礼だと思いますけれども,悪いと思いますけれども,やはり東京都内に関して言いまして,養護学校が増えているのですね,特に情緒障害の子供が。ほかの,例えば身体的なハンディキャップの子供は減っているのですけれども,これが増えているのですよ。これはなぜだろう。それから,行動障害の子供も増えているのです。1年生ぐらいから見えるのですけれども,だけどどうにもならない。ですから,私はこう思います。ともかく,非常にそういうピンと飛び出した部分に対応するということは必要でしょうけれども,その前に一般理論みたいなもので,この子供たちを大人にする,国際的に通用する大人にするためのカリキュラムというものの,まず柱を立てていただく。それに乗り切れない子供たちに対しては次のカリキュラム,特殊理論みたいなものを組み立てていくという,そういう順番かなとも思ったりもいたします。必要だということは,本当に私もそれは正直言ってあります。

土井座長 そのほか,いかがでしょう。

永野委員 東戸山中学校の永野ですが,今,荻原委員がおっしゃっていた特別支援教育というのは,多分,文科省の大杉先生もよく御存じだと思うのですけれども,現場の方に「特別支援教育」という名前で,いわゆる養護学校レベルではなく,だからといって他者を十分に思いやれるというところではちょっと疑問が残るなという,多分,行政が言い出したのですが,「グレーゾーン」という言い方があって,そういう子供たちが,どういう調査をしたのか分かりませんが,6%はいるということに対して,現場の先生は,養護学校の先生ですと必ず医療とつながっているのと,それから親が障害があるということは認識しているということがあるのですが,よくあるのは「ADHD」と言われている注意欠陥多動というのがあります。そういう生徒はクラスに1人ではないのです,6%ですから。そうすると,注意欠陥多動だけではなくて,後半生の発達障害ではないかなと,私は専門家ではないので,そう思われる生徒は1クラスに3~4人はいるのです,学年によって違いますけれども。そうしますと,ずばり親がもてあまして,うちの子はどうしてこんなに,パニック障害も起こしますし宿泊行事に連れて行くと,先生たちが徹夜でお相手しなくてはいけないという子がクラスに2人いると,それでほかの子はほったらかしな状態になってしまう。親に医療機関のお話をするのは非常に難しくて,スクールカウンセラーを通してそういう手だてをやっととっても,やはり半年,1年というのはかかります。しかも,「うちの子は少しもおかしくない」というふうにおっしゃるのもそうですし,やっとやっとつなげても,なかなか現場,児相ですとか,医療の現場の方で学校現場の様子を御理解いただけなくて,「明るくやっているからいいじゃないですか」みたいな感じで終わってしまうのです。「お母さん,そういう障害を起こしているのですから」みたいなお話をなさって,結局その子は小学校4年生のときに親がもてあまして叩いて,児童虐待ということで児相に通報されて,そこでリスクサードだと思うのですけれども,そういうような検査をしてADHDと診断されたにもかかわらず,やはり児相の職員の方が「明るくていいじゃないですか」みたいな感じで,結局そのまま本校に上がってきましたけれども,6年間,何の医療的な手だてもなくて,授業をやっていると鉛筆が散らばって,ガタガタして,ひらひらしている鉛筆を見て「ねえねえ,きれいなの。うらやましいでしょう」なんていうふうに言いながら,ほかの子はそういう子がチラチラするから授業は全然身にならない。そういうのが非常に顕著にあらわれるのは,やはり数学とか算数の時間ですね。小学校の,いわゆる9歳,10歳の壁というところを乗り越えられないで来るというのは,本当に清永先生がおっしゃったそのとおりで,8歳で臨界期を向かえてしまう前に,是非医療につなげればそうならなかったであろう子供たちが,やはり医療現場の先生に聞きますと,親も似たような遺伝子を持っているので,一生懸命教員が親子を呼んで話しても,管理職と一緒に話しても,その子の障害について,「障害ではないかなと思われるから,今はそういうリタインなどのお薬があって,落ち着いている間にたくさんのことを学習できるのですよ,人の気持ちを思いやるということも含めて」というお話をしても,相手をしていると2人のADHDとお話をしている感じで,これは苦しいなというのがありますね。
 文科省の方が特別支援教育でコーディネーターを選定して研修に行かせて学校に,では常時張りつけるような,そうなのかというと,ちょっと試験的にやってみることだから週1日みたいな感じになるので,5日間のうちスクールカウンセラーがいて,コーディネーターがいて,そういう教室に通って,残りの3日間はやはり普通の教員が分かっていて面倒をみないといけないというのがあります。そうすると,残りのお子さんたちを,「道徳教育ではないのだけれども,生き方の指導を」というところと現場の教員に求められているものが非常に高いというか,要求水準が大変高いなという,それとは別に本業も,授業もちゃんとやらなければいけないのですけれども。
 今,お聞きして,脳の障害ではないかということに対して現場の教員がもっと,本当は医者ではないのですけれども,分かっていないといけないという空気は非常に濃厚になってきています。研修もそれについて非常に盛んに行っています。

土井座長 どうもありがとうございます。実際にいじめの問題,非行の問題を考えると,様々な,それこそ個性の問題,子供たちが抱える様々な問題に対応していかないといけないだろうということはそのとおりだと思います。
 清永先生が御報告の中でおっしゃられていた他者感覚の問題,その前提となる自尊感情,セルフレスクペクトの問題がありまして,実は法というか,ルールの問題を語る上で,これらは基本的な前提なのですね。自分自身の人生が大事なのだとか,自分自身は価値あるんだという感覚がやはり基礎的に育っていないと,その次に他者を考えないし,他者につながらないと全体として社会のルールをどうしましょうというところに進まない。自分自身の人生に価値がないんだとか,自分自身は生きる意味が無いんだという子に幾らルールを教えても,本人が自暴自棄になっているものですから,なかなかルールが身に付かないというのはそのとおりで,その意味では法をどう教えるかという問題と,その前提となるセルフレスクペクト的なものをどう教育してもらうかということをつなげる必要があって,それが発達段階に応じて,それぞれ教育が必要だというふうにおっしゃっているのだと思いますし,我々としてもそれをやはり考えていかないといけないだろうというふうに思います。
 いろいろと御意見もあろうと思いますけれども,時間の関係もありまして,次の方に移りたいと思います。
 今日は,清永先生,どうも御報告ありがとうございました。

2.裁判所における法教育への取組みについて

絹川泰毅委員(最高裁判所事務総局総務局制度調査室長)
法務省,検察庁における法教育への取組みについて
大塲亮太郎参事官(法務省大臣官房司法法制部参事官)

土井座長 それでは,引き続きまして,本研究会の委員でもあります最高裁判所事務総局総務局制度調査室長の絹川泰毅委員から「裁判所における法教育への取組みについて」また,本研究会の事務局を担当しておられます法務省大臣官房司法法制部の大塲亮太郎参事官から「法務省,検察庁における法教育への取組み」について,それぞれプレゼンテーションをしていただきたいと思います。
 それでは,絹川委員,お願いいたします。

絹川委員 絹川でございます。それでは,裁判所による司法教育の取組みについて御説明させていただきたいと思います。
 裁判所では,国民の皆様に対して司法制度,裁判制度,裁判所の仕組みや役割,裁判官の仕事などを理解していただくために数々の取組みを行っているところですが,本日は特に私がこの3月までいました東京高地裁のうちの東京地裁の方で取り組んでいる学生,生徒を対象としている実践例を中心にして,お手元の「裁判所による司法教育の取組み」という2枚紙に基づいて紹介させていただきたいと思います。
 まず,資料1枚目,上段に記載した「裁判官の講師派遣」というものですが,これは数年前から実施されている試みでありまして,裁判官が学校等に出かけていき,裁判や裁判官の仕事がどのようなものであるのか,体験談を踏まえつつ講義を行うものでございます。生徒の皆様からの質問に対しても一つ一つ答えていくものであり,「出前講義」というような形で呼ばれております。
 東京地裁では平成12年7月から実施されておりまして,都内の中高生を対象としています。講義のテーマにつきましては,事前に学校の先生方の要望を聴取した上で決めるようにしておりますが,裁判制度及び裁判所の仕組みとか,民事裁判の仕組み,裁判官の仕事といったテーマが多いようです。また,学校側の要望から社会道徳を守ることの重要性についても触れて欲しいという要望もあるようでございますので,その点については適宜,講師の方で対応しているというふうに聞いております。
 講義に当たっての工夫といたしましては,まずお手元に配布しております「法廷ガイド」資料1というものでございます。あるいは「裁判所ナビ」というパンフレットを事前にお配りしてお読みしていただくようにしております。また,延々と説明が続くようでございますと,生徒さんたちが飽きてしまうようなところもございますので,六法全書を「こんなものなんだよ」と見せてみたり,あるいは裁判官が法廷で着る服,「法服」という黒い服でございますが,それを見せてみたり,あるいは「裁判官のバッヂというのは鏡の形をしているんだよ」というようなお話をして興味を持っていただくようにしています。また,著名事件等を例えとして出したりして興味を持つような工夫もしています。
 更には,「裁判官の使うもののうち,普段使わないものは何でしょうか」,「法服,木槌,六法全書」などというようなクイズを交えたりして参加型の講義になるように工夫をしております。
 中でも中学生の場合は裁判イコール刑事裁判だという認識がどうも強いようでございますので,まずは刑事裁判と民事裁判の違いといった基本的な事項から分かりやすく説明するように心がけております。高校生の場合には,ある程度裁判に関する関心が一般的に高くなってきているところでもございますので,守秘義務に反しない限度で具体的な事例,体験談を踏まえつつお話をさせていただくというように工夫しておるところです。
 また,高校生の場合は進路選択の観点から,法曹関係者はどうなのだろかというふうに思っている生徒方も増えていると思いますので,裁判官の仕事はこんなのだよというようなお話をして実像が知ってもらえるような努力を図っているところです。
 出前講義の後に学校の生徒さんの方からいただいた感想文,よくいただくのですが,これを見ますと,抽象的な感想が多いのですが,裁判官から直接話を聞けて思ったより気さくな感じでびっくりしたとか,裁判に携わる仕事に興味を持つようになったという声を伺っているところです。
 東京地裁では,平成14年4月から15年3月までの1年間の間に21の中学校,7の高校で実施し,本年度は9月までに9の中学校で実施してきたところと聞いております。
 広報のやり方としては,ホームページ上で案内や申し込み方法を記載したり,あるいは都内の教育委員会等を通じて都内の中学,高校に案内文を年度末に配布して,年間計画の中にこういった出張講義というものを組み込んでもらえるよう工夫しております。
 以上の説明が裁判官の講師派遣という部分でございます。
 続いて資料1枚目下段にあります「模擬裁判・模擬調停」という項目でございますが,これは児童,生徒たちに裁判官役になってもらったり弁護士役,あるいは証人役になっていただいて模擬裁判を演じてもらうものですが,場合によっては裁判所職員がそういった役を演じて生徒さんたちに見てもらうということもございます。
 東京地裁では基本的に小学生を対象にして裁判所見学の一部として模擬裁判もやってもらっておりますが,対象が小学生でございますので理解しやすいようにテレビで出てくる銀行強盗のようなテーマを選んでシナリオをこちらの方から準備して演じていただくというような形をとっております。こちらについても先ほど御説明しましたような「裁判所ナビ」とか「法廷ガイド」というものを事前に配らせていただいて,まずは法廷を御覧になっていただいて,この辺には裁判官が座るんですよ,ここは証人席ですよというような話をしながら,「後で皆さんにこういった役割を演じてもらいますので,何がいいかなと,よく考えておいてください」というふうに言ってみたり,あるいは最終的に模擬裁判の後,結論がどちらにも分かれるようなシナリオになるよう工夫しておりますので,当日の裁判官役の子供たちに,結論を考えてもらうというような工夫をやっております。
 模擬裁判に参加した児童の方々の感想としては,証言台に立って緊張したとか,将来,裁判官になりたいといったものが多いようです。
 引率した先生からも,児童の興味に合わせた内容になっていて比較的良かったというような感想をいただいております。
 東京地裁では現在,週3回午前又は午後に実施しておるところですが,年間100校ほど実施してきました。非常に応募が多いため,抽選を現在行っているというような状況です。
 広報のやり方としては,先ほどと同様に東京地裁のホームページ等で掲載しておるという形をとっております。
 これが2番目の模擬裁判・模擬調停の主な内容でございます。
 3番目の「ガイド付き法廷傍聴・裁判所見学」これは資料の2枚目の上段に書いてあるものでございますが,これにつきましても事前に「法廷ガイド」,「裁判所ナビ」を配布して職員が裁判の仕組みについて説明した上で,御参加いただいた方に実際の法廷を傍聴してもらうものです。最近では,傍聴後に裁判官が法壇から降りて,今の事件はこんなふうだったのだよと,こんなやりとりがあったけど,実はこれはこういうことなんだよという説明を加えたりといった取組みも行われているようです。
 東京地裁では中高生10人程度向きの「ジュニアツアー」これは民事裁判を対象にしたものです。刑事裁判を対象にしたものもございますし,あるいは一般人,大学生を対象とした「民事裁判法廷ガイドツアー」というものも合わせて実施しております。
 こういったガイド付き法廷傍聴に当たっては,まず刑事事件を選ぶ場合には,一連の手続が全体的に把握できるように,1回で結審するような事件を選んだり,そういった工夫もしております。
 また,傍聴後も質問に答えたり,説明を補足したり,あるいは庁内いろいろなところを案内してみたりという試みも行われています。
 こちらを行った結果としても,やはり裁判所が身近に感じられる,大分遠い存在みたいですので,身近に感じられるようになったという意見をいただいております。
 「ジュニアツアー」につきましては,修学旅行で東京を訪れた生徒の方,結構多いのですが,こういった方々も合わせて受け入れるようにしています。「ジュニアツアー」につきましては,民事裁判の中高生向きのツアーですが,平成14年3月から実施されており,1年間の間に40校ほど,今年はこの9月までに22校ほどの参加がありました。これについての広報も,東京地裁のホームページ等で案内しているという次第でございます。
 東京地裁ではこういった講師派遣等についてはボランティア制をとっておりまして,裁判官に自主的に参加してもらうという形をとっており,平成15年10月の段階で135人の裁判官がボランティアとして参加している次第です。
 最後に裁判所では,裁判制度を分かりやすく理解してもらうために生徒さんたち,あるいは一般向きもありますが,ビデオを製作して配布などもしておりますので,この点について紹介します。資料2枚目,下段に記載しましたように「私たちの裁判所」これは中高生向けのものですが,あるいは小学生向けの「みんな知ってる?-裁判のしくみ-」とか,あるいは一般向けの「知っていますか?裁判所」というビデオを製作し,学校に配ったり,あるいは学校,高等裁判所,地方裁判所,家庭裁判所に配布してそちらの方から要望に応じて貸し出すというような取組みをしております。
 それでは,ここで以上の取組みを紹介するものとして映像の方を御覧になっていただきたいのですが,2本用意しております。まず,1本目は東京地裁で行われている取組みについて,テレビ局が取材したものですが,東京地裁における取組み全般,あるいはジュニアツアーの概要等が映っておりますのでその辺がお分かりになっていただけます。
 2本目については,最高裁判所で製作した小学生向けのビデオ「みんな知ってる?-裁判のしくみ-」と,2枚目の一番最後のものですが,身近な事例を挙げて,その事例について裁判手続の流れを説明するような内容となっています。
 それでは,ビデオを御覧になっていただきたいと思います。

〔ビデオ上映〕

 この後,今後の手続がどうなるかというあたりの説明がありますが,時間の方もありますので,私からの説明はこのあたりで終わりにさせていただきたいと思います。

土井座長 ありがとうございました。
 それでは,続きまして大塲参事官,お願いいたします。

大塲参事官 法務省が学生を対象として法や司法の在り方を理解していただくために,どういう活動をしているかを御説明したいと思います。資料は,お手元の「法務省における法教育への取組み」というのを御覧になってください。
 まず,法務省の検察庁や刑事局における取組みを御説明いたします。
 検察庁におきましては,正義が実現されていく社会を築くために,国民の方々に刑事司法に対する十分な理解と信頼を持っていただくことが不可欠の基盤であると考えておりまして,そのための活動として,このレジュメにありますように,移動教室プログラム,出前教室プログラム,刑事裁判傍聴プログラムの三つの方法で実施しております。それぞれ,移動教室プログラムといいますのは,レジュメにもありますように,主に小中学生を対象にして,これは検察庁で庁舎見学やいろいろな説明などを行うというものであります。
 出前教室プログラムというのは,検察の職員が小中学校を対象に,そちらに出向いていって説明だとか質疑応答を行うというものです。
 刑事裁判傍聴プログラムについては,高校生,大学生,社会人を対象に,実際の法廷における裁判傍聴を行って,また検察官が検察庁の業務を説明するといったものでございます。
 一番多く実施されておりますのは,このうち移動教室プログラムですので,これについて説明いたしますと,まず移動教室プログラムでは広報ビデオというのを見てもらうことにしています。そして,検察庁の組織,所在地,検察官の仕事,刑事事件手続など,検事だとか検察事務官あるいは被害者支援員が分かりやすく説明したレジュメやパンフレット,パワーポイントを使用しながら説明いたしまして,検察庁の建物の中を見学してもらって質疑応答ということをしている検察庁が多くございます。
 移動教室プログラムで使用するパンフレットにつきましては,これは各検察庁においてそれぞれ工夫を凝らして作成しております。
 この資料にございます配布したパンフレット,これは資料(1)でございますが,これは東京地検において配布しているもので,小学生用と中学高校生用の2種があります。今日お配りしたのは中学高校生用のものであります。これは,中学生や高校生にも分かりやすいものとするために問いに対して答えるという形式で構成された内容となっておりまして,図や漫画,写真を多く盛り込むなどの工夫をしております。
 移動教室プログラムで使用するビデオでありますが,これは「法と正義の守り手 検察庁」という題名のビデオがございます。これは,刑事局で作成したものでありますけれども,ちょっとストーリーを御説明しますと,小学校6年生の少年が電車の中ですりを目撃する。その後の刑事手続にかかわるという内容でございまして,具体的には目撃直後に警察官に事情聴取を受けたり,検察庁に出頭を求められて検察官により事情聴取を受ける。あるいは,裁判所の証人尋問を受ける。そういった手続に関与する展開を追っております。
 この事件では,すりの被告人は捜査段階から公判開始後も自分は犯人ではないというふうに否認をしていたわけでありますけれども,目撃者の少年がすりの犯人の手にほくろがありましたということを記憶しておりまして,そういうふうな内容の証言もしたということから,犯人とされる被告人も嘘をつき通せないと考えて自白するに至ったということ。また,そこには被告人にも目撃者の少年と同年齢の子供がいたということもあって,これ以上うそをつき通せないということで反省をして,公判廷で自白するというシナリオでございます。要するに刑事手続の流れだけではなくて,関与する当事者の心理についても盛り込んだ内容となっております。
 こういったビデオの作成に当たりましては,身近で子供にも分かりやすい事件という観点から,すり事件を題材としたものでありまして,このストーリーの展開につきましても,見ている子供を飽きさせないということから,できるだけスピーディな場面展開としたり,アニメーションを用いたり,全体は全部で24分なのですけれども,各場面ごとに使っているBGMも20曲というふうに多くの曲を使用して,集中してストーリーが追えるようにしているということです。
 シナリオにつきましても,子供たちに十分理解できる言葉を使って刑事手続を理解させることに留意して作られました。例えば,子供に「起訴」と言ってもこれは何のことだか分からないので「裁判にかける」とか,あるいは「有罪」と言っても「罰を与える」といった言葉に言い換えて子供たちが十分に理解できるように工夫をしております。
 また,シナリオについても法務省の職員の子供に目を通してもらって意見を聞くなどして,分かりやすいかどうかの検証をして作成しました。
 このビデオを実際に見た生徒の感想でありますけれども,検察官の仕事がよく分かったという意見のほかに,これからすりを見たらビデオの少年のように行動したいとか,真実を見抜いて,人の平和を守るという仕事はすばらしいと思ったというような感想が述べられております。
 その他,刑事裁判傍聴プログラムで,実際の刑事裁判傍聴をした感想といたしましても,手錠をかけているのを生で見て驚いたとか,被告人の供述を聞いて,自分は絶対悪いことをしないぞと思ったといった感想が寄せられているということでございます。
 次に,法務省の保護局というところがございまして,そこでの取組みについて説明します。資料は,(2),(3)というところでございますが,後ろから5~6枚目ぐらいでしょうか。保護局といいますのは,罪を犯した人の立ち直りを援助するための活動や犯罪予防のための活動を行っている局でございます。その活動の中心は,保護観察といいまして,犯罪や非行を犯した人を社会の中で生活させながらその立ち直りを助けようとするものでございます。この保護観察には,担い手として国家公務員である保護観察官,それと地域社会の民間ボランティアで全国に約5万人いる保護司,それがそれぞれの持ち味を生かして協力し合ってこれに当たっております。この保護司が学校教育への協力についても活躍をしています。
 保護局のもう一つの重要な仕事は犯罪予防活動でありまして,その一つとして教育委員会や中学校と連携して,中学生に焦点を当てた非行防止活動である「中学生サポート・アクションプラン」―これは資料(2)でございますが―を推進しております。この「中学生サポート・アクションプラン」の中心として活動しているのが保護司でございます。
 資料(2)で見ていただいても分かりますように,こういった中学校における現状や問題点を前提といたしまして,学校担当保護司,当該学校を担当する保護司さんにお願いして非行防止教室の実施をしてもらったり,問題を抱えた生徒への指導方法などについての教師との個別協議の実施などを行っている。この目的というのは,次代を担う青少年の健全育成にある,このように考えられております。
 資料(3)のパンフレットも御覧になっていただきたいのですが,一部抜粋してきたものでございますが,18ページから20ページにありますように,中学校3年生を対象にして,学年道徳という場を使って,保護司が薬物乱用防止教室を行って,覚せい剤使用の恐ろしさを描いたビデオの上映や,保護司として体験した具体的な話を通じて,絶対に薬物に手を出してはならないことを伝えた事例,こういった事例が報告されております。
 次に,人権擁護局という部署の取組みについてです。人権擁護局では国民の基本的人権を擁護するために人権尊重思想の普及を図るための啓発活動というのを行っております。地方の実施機関として法務局に人権擁護部,地方法務局に人権擁護課が置かれているほかに全国の市区町村に法務大臣から委嘱された民間のボランティアである人権擁護委員が約1万4,000人いらっしゃいます。そして,人権尊重思想の啓発活動の一環として中学生に人権問題についての作文を書いてもらうことにより,豊かな人権感覚を身につけてもらうことを目的にして,全国中学生人権作文コンテストを実施したり,法務局の職員や人権擁護委員が学校に赴いて人権についての話をするなどの取組みを行っています。
 例えば,青森地方法務局では,小学校3年生を対象にしていじめを題材にしたアニメーションビデオを見せまして,いじめをする子供の気持ちやいじめられる子供の気持ち,それを見ている子供の気持ちをそれぞれ生徒たちに発表させたり,もし自分がそれぞれの立場に立った場合にどのように対応するかについて意見を言わせる授業を行っておりまして,その模様がケーブルテレビで放映されるなどしています。
 最後に,秘書課における取組みです。これは,法務省大臣官房秘書課というところでございますが,ここでは小中学生を対象にいたしまして,修学旅行等の機会や文部科学省が主体となって実施しております「子供と話そう全国キャンペーン」これの一環である「子供霞ヶ関見学デー」というのがございます。ここで法務省見学を積極的に受け入れておりまして,その際に法務省の業務にかかわる概要を説明するとともに,我が国の基本法制等について説明して,法についての理解を増進させる取組みを行っております。例えば,国民の祝日に関する法律を配布して,学校が休みになる休日も実は法律で定められているのですよということを伝えたり,未成年者が煙草を吸ったりお酒を飲んだりしてはいけないということが明治や大正時代に成立した「未成年者喫煙禁止法」,「未成年者飲酒禁止法」という法律で決められているのですよということを伝えて,我々の生活が目に見えないところで法律と密接にかかわっていることを理解させるといった取組みを行っております。
 法務省における取組みは以上でございます。

土井座長 どうもありがとうございました。
 それでは,質疑応答,意見交換に入りたいと思います。どなたからでも結構ですので,御発言ください

高橋委員 裁判所の方の御説明を伺いましたが,やはりどうしても日本だと「裁判沙汰」ということで,非常に裁判を自分の存在から遠く見るという意識が強いようなのですけれども,目的としては,司法と国民との距離を短くしたい,身近に感じてもらいたいという思いがあると思いますけれども,実際教育の中では司法の利用の仕方であるとか,司法の現状であるとかというのはなかなか教えられていないと思うのですけれども,その辺の本当の具体的な目的がどこにあるのか,裁判のシステムを教えるだけでこと足りるのか,その辺まではお考えになってやっていらっしゃるのかというところがあるのですけれども。
 あと,学校側のニーズとして裁判所に行く目的がどんなところにあるか。例えば,社会科の教育の中であるとか,いわゆる生活科というのですか,総合的な学習の時間の中で将来の職業につながるようなカリキュラムの中で考えているのか。その辺の学校側のニーズをどのようにとらえていらっしゃるかというところをお聞かせいただきたいです。

絹川委員 基本的な現段階での取組みのスタンスは,まずは裁判所や裁判に親しんでもらうというところが強いと思います。まず,裁判所の敷居が高いところもあると思っておりますので,そこを崩していくことが第一ではないか。それが深まった段階でもう少し深いものに取り組んでいくということを考えていかないといけないと思っております。
 ニーズとしては,まずは裁判所の中に入ってみたい,裁判官と直接話してみたいというところがあると思いますし,職業選択の一つの選択肢としてそのあたりを説明して欲しいというニーズも強いようです。

土井座長 よろしいでしょうか。そのほかいかがでしょう。

大杉委員 関連しまして,国の政治の仕組みとか司法とかというのは学校の中では非常に抽象度が高くて,子供が本当に実感を持って理解するというのは難しいところがございまして,新教育課程が今実施されていますけれども,その中では文科省においても見学とか調査とか体験というものを実際に通しながら学習を深めてもらいたい。例えば,先ほどの裁判の例ですけれども,今回の指導要領改訂で,その中で解説というものを作っているのですけれども,その中でもやはり裁判について抽象的な理解にならないように裁判官,検察官,弁護士などの具体的な働きを通して理解させていただきたいというのがありますので,学校と,こういう様々な専門機関とのコラボレーションといった方がいいでしょうか,こういう形で子供たちの学習を深めていただきたいということがございまして,そういう意味で非常に学校の先生方も今,見学等盛んに行われているのではないかと思いますので,また今後ともよろしくお願いしたいと思っています。

土井座長 どうもありがとうございます。そのほかには。

江口委員 裁判所というのは,多分明治からずっとあって,裁判所の機能,例えば犯人を裁くとかいろいろな意味があると思いますが,一般的な意味での教育的な機能はこれまでもあったと思うのです。その教育機能を歴史的に,例えば司法教育という形でこれまで議論されてきたのか,あるいは若干の整理があるのですか。というのは,具体的には,例えば最近子供たちが裁判所に行くとか,あるいは裁判官が出前授業をやるといった場合のデータとか感想とかを取っているのかというのをちょっとお聞きしたいのです。もしそのデータとかがあれば,これまで裁判所が学校とどう向き合ってやってきたのだという説明もできるだろうし,多分そこで実施された教育のメリットやデメリットが見えてくるのだろうと思うのですけれども,そういうのはどうなのですか。

絹川委員 データとしては残しているものはないのです。実際にこういった取組み自体が昔から,明治時代からあったというものではやはりなくて,最近の取組みであるというふうに理解してもらった方がいいと思います。
 基本的には事件を通して,特にそういった色彩が強いのは少年審判とかそういう場だと思いますが,それのみならず民事裁判においても,本当に良い解決方法はどんなものなのだろうかというあたりについてとことん話し合うことを通じて法の重要さを学んでもらうというのが私どもの本来的な仕事ではないかなと思っております。これまではそういったところに終始していたのが,最近積極的に出前講義とか,そういったものに取り組んでいるところです。

館委員 今朝の新聞にも裁判員制度の記事が出てまして,生徒たちにとって裁判所が身近に感じられるような,このような様々な取組みというのは非常に良いものだなと思いつつ,それからまた裁判の手続とか,その仕組みの問題が分かるということも非常に重要なことだろうとは思うのですけれども,何かもう一つ物足りないものを感じています。それは,例えばどうして裁判には弁護士と検察官がいるのだろうかとか,そもそも最高裁の前にあるテミス像というのは,どうして剣を持っていて,てんびんを持っていて,目隠しをしているのだろうかなどのことがらについても,扱って欲しいと思いました。そもそも,裁判官のもとで,弁護士と検察官とが事実をどのように確定していき,その事実に基づいてどういう法律を適用していくのかというようなことを,豊富な実践を持つ専門家が話していけば,意外と中学生でも理解できるような内容になるのではないかなという気がするのですけれどもどうでしょうか。裁判ってそもそも何なのだろうとか,何のために行っているのだろうみたいなことにも触れていただければと思います。その点,例えば国民の祝日に関する法律を用いた説明などは,「そうか,我々の祭日までこういう法律で定められ適用されているのか」という実感を持たせることにもなるし,そのことが,「法の支配」の理解にもつながるものなのかなということもあるので,こういう具体的なものから「裁判とは何か」みたいなことが分かるようなものが少し入ってくるといいのかなと思ったのですけれども。

絹川委員 出前講義の中では,各講師によっていろいろ工夫しているところであり,すべての人から話を聞いたわけではないので断定的なことは言えないのですが,御指摘のような点を踏まえて工夫を凝らして「裁判とは何か」とか,そういったあたりに触れる裁判官もいると聞いています。
 また,質問においても,どうして弁護士や検事がいるの,裁判官一人でいいじゃないかというような話も当然出てくるところでございまして,そのあたりは質問の場でざっくばらんにお話ししていくというような形式をとっていることが多いようです。
 裁判員制度につきましては,今後,制度が固まっていくことだと思いますが,そのあたりの円滑な導入を踏まえて,裁判所としては国民の理解と協力を得ていくことが必要だと思いますので,今後,具体的に取り組んでいかなければならないなというふうに考えておるところです。

土井座長 どうもありがとうございました。
 ほかにもいろいろと御意見もおありかと思うのですが,確かに法教育が抱えている問題というのは非常に多くて,先ほど清永先生から伺ったような非常に深い問題といいますか,社会の在り方の根幹にかかわる問題もあれば,今,法務省や裁判所の方で御尽力いただいているように,そういう問題を前提にした上でというか,そこをクリアした人に対して更に裁判というものがどういうものなのかとか,各制度がどうなっているのかということについての教育もしないといけない。その中で問題の度合いによって,各実務家がどうされるのか,あるいは各学校の先生にどういう対応をしていただくのか,あるいは家庭や親や地域がどう対応しなければいけないのかという様々な問題があるわけで,研究会としては,それぞれの段階で始まっている試みに対する対応を,先ほど清永先生からの御指摘もありましたように,全体としてどうとらえてきちんとステップを踏んでいくのかというようなことを考えていかないといけないのではないか,それぞれがそれぞれの役割を果たしていただくためのビジョンを出していく必要があるのではないかというふうに思います。
 それでは,絹川委員,大塲参事官,どうもありがとうございました。

3.現在,行われている法教育について

大杉昭英委員(文部科学省初等中等教育局視学官)
吉冨芳正学校教育官(文部科学省初等中等教育局教育課程課)

土井座長 続きまして,本日最後のテーマであります,「現在,学校教育で行われている法教育について」というテーマに移らせていただきます。
 本研究会で検討を進めるに当たりまして,現在,実際,学校におきまして,いわゆる法教育がどのように行われているのかという点について,制度的な問題を踏まえて理解しておくことが重要だと思われますので,今日は本研究会の委員でもあります文部科学省初等中等教育局視学官の大杉委員からお話をしていただきたいと思います。
 それでは,大杉委員,よろしくお願いいたします。

大杉委員 それでは,学校教育の中での法教育に関する内容をお話ししたいと思うのですけれども,子供たちへの教育というのは,やはり家庭教育,学校教育,社会教育ということで,三つの視点から行われるものなのですけれども,特に学校,すべてのお子さんたちを預かる学校の中でどうかかわっていくか,法教育の内容がかかわっているかということを中心にお話ししていきたいと思います。
 最初に吉冨学校教育官から,学校の教育活動の概観を説明いたしまして,それで具体的に教育内容としてどういうプログラムがあるかということをお話ししていきたいと思います。

吉冨学校教育官 文部科学省の初等中等教育局の教育課程課の学校教育官でカリキュラムを担当しております吉冨と申します。
 まずもって,学校教育に御支援を様々なお立場から賜ろうということで御検討いただいておりますことに御礼申し上げます。
 資料は何枚ものかのものを用意させていただきましたけれども,初めに概略,学校の教育活動の概観だけ,私の方から説明をさせていただきたいと思います。2ページあたりを御覧いただきながらお聞きいただければと思います。
 学校の実際の教育活動や,あるいは教育機能は幾つかの側面があるわけでございます。第1番目には教育課程を編成して,各教科などの学習指導を通じて行うという面がございます。それから,そのほかにも生徒指導と言われる機能がございまして,例えて言えば,校則を決めて皆でルールを守ろうとかいうような集団生活の規律などについての指導もその中で行われるわけであります。それから,もっと広げて言えば,学校の持つ雰囲気とか環境,学校文化と言われたり,隠れたカリキュラムと言われたりしますけれども,これは家庭や地域もそうですが,大人がルールを守ろうという気持ちを皆そろって持って接しているだろうかというところから醸し出されるようなものがあります。
 本日は,このうち特に組織的,計画的,継続的に行われます各教科などにおける学習指導を通じて行う法,あるいは司法に関する教育について御説明申し上げたいと思います。
 2ページ目のところには幾つかの教科を書いておりますけれども,小中学校でいえばそれぞれ少しずつ違いますけれども,九つの教科があります。そのほか,道徳の時間と特別活動と総合的な学習の時間というものがございます。それらでどんな目標を持ってどんな内容を教えるかというのは学習指導要領という国で決める基準の中に書かれておるわけですが,これは大綱的なものでございますので,実際は教科であれば教科書で,教科書を使って指導されております。そのイメージが沸くように今日はたくさん後ろにつけてございます。
 お手元の2ページのところ,法に関する教育の基本的な考え方,文科省に今問われればこんなふうに答えていますということになりますけれども,発達段階や教科等の特質に応じて法や決まりの意義,司法の仕組みなどについて理解をしてもらう。それを自分,個人の生活に生かすということもありますし,社会の一員として法や決まりに基づいてよりよい社会を形成する,そういう態度を育てたい,そういうことを大切にしたいということを申し上げております。
 いろいろな教科にかかわるわけでございますが,主としてやはり人間や社会や生活を取り上げるような教科に大変,法というのは色濃く出てくるわけでございます。中核になりますのは,後ほど詳しく御説明しますが,社会科,高校でいえば公民科という教科,科目でございます。後でまた詳しく申し上げますのでここは飛ばしますけれども。
 あと,小学校の入口のところで生活科というのがありまして,小学校1年生,2年生の教科でございます。例えば,公共物,公共施設,公園や駅などを場に使って遊びや調べたりということをやりますが,その中で決まりやマナーを守るといったことも指導されております。そして,教科ではありませんけれども,道徳の時間というのがあります。これは,道徳的価値の自覚を高めるということを担っているわけですけれども,約束や決まり,法の意義を理解させることといった指導がされております。そして,特別活動,学級活動とか児童会,生徒会活動などありますけれども,そこで集団の中で諸問題の解決を自分たちで諮ろうということで話し合い活動を展開して協力して,よりよい生活を築くこうとする態度を育てるといったことがされております。
 このほか,家庭科などでは,生活を扱うものですから,極めて実際的に様々な個別の法律が教科書中に出てまいります。そして,総合的な学習の時間,ここは学校が自由に内容を設定できるわけですが,ここでも法にかかわることを取り上げることができるようになっております。
 以上,概観だけ申し上げました。以下,大杉から御説明申し上げます。

大杉委員 それでは,私の方から,最初のレジュメの頭にあります学習指導要領において,どのような内容がということになるのですけれども,これを少し区分けして,最初に「ルール」,「決まり」という法に結びついていく最初の子供の感覚,段階の中で,ルールとは,皆の約束事とは,決まりとはというところはどうあらわれるのか。そして,実際に憲法を始めとした具体的な法は学校教育の中でどうあらわれるのか。先ほど御説明のありました司法制度,実際に法を司る司法制度の場面というのはどういう形であらわれるかという観点から見たときに,ちょっとかたい話ですけれども,3ページに小学校の内容として,先ほど説明いたしました社会科,これは3年生から始まりますけれども,生活科,小学校の1年生,2年生で行うもの,道徳,特別活動と示していますけれども,主には小学校段階ではルールについて,約束事について,決まりについてということを具体的な活動場面の中で学習するものとして,やはり生活科,道徳,特別活動というものがあらわれ,その中で社会科は6年生になって初めて子供たちに法という形で登場するという,これは日本国憲法ということになります。これが学校教育の中でどういう形であらわれるかといったものなのです。
 2枚目に,これは中学校になります。中学校,とりわけ社会科が,法についての扱いが中心になってきます。これは,学習対象そのものが社会生活あるいは経済,政治,社会に起こる様々な出来事を学習対象にしますから,そこをとらえている法というものが社会科の主要な学習内容の一つになるわけです。そういう意味ではルール,個別法,司法制度ということがすべてにわたって中学校の中で社会科で取り扱われる。その中で道徳,特別活動はやはり小・中を通じてルールということを,活動的な学習の中で身に付けていく。こういうかたい話になりますけれども,これが具体的なあらわれ方なのですけれども,今日は特に中心的に扱われる中学校の社会科,第3学年の公民的分野という学習領域であります,ここを中心にお話をしていきたいと思います。実際に,中学校3年の社会科の学習として,どのような学習が組み立てられるのかという,社会科の内容構成を少し踏まえながらお話をしていきたいと思います。そういう意味ではレジュメの2のところにあります「公民的分野の内容構成」というところを今からお話していきたいと思います。社会科公民的分野は,こういう構成をとっているので,その中で法教育的な内容がどうかかわるのかということをお話ししていきたいと思います。
〔パワーポイント上映,以下P)と記す〕
P) 画面上(1)のところに当たります。最初に,3年生の社会科,委員の先生方も中学校のころの社会科授業を思い出していただきたいのですけれども,政治や経済の学習になっていたと思うのですけれども,新教育課程,昨年度から行われています中学校3年生の学習は,このような考え方で組み立てられているというのを少しお話しておきたいと思います。
 基本的には,まず中学校3年生の生徒に,「あなたたちは今,どんな特色を持つ社会に住んでいるの」というテーマで学習することになります。これは,参考として5ページ目に指導要領の中身をそのまま書いているのですけれども,「内容(1)現代社会と私たちの生活」とありますけれども,(1)の「ア 現代日本の歩みと私たちの生活」と書いてあります。あれがスクリーン上の近い過去,内容1,アとなっているのですけれども,「私たちは一体どんな特色を持つ社会に住むの」というテーマで学習します。これは,1955年時代と現在の生活の比較です,交通手段とかいろいろなものを比較してみて,「今どんな社会に住んでいるの」ということを学習します。そういう意味では,近い過去をまず設定して,その後,「こういう特色を持つ社会で生きている私たちは,この社会とどうかかわっていくの,今の社会はどんな仕組みを持っているの」というテーマで学習するのが黄色で書いております「現在」という,近い過去を学習した後,「現在どんな仕組み,制度,システムを持つ社会と我々はかかわって生活をしていくの」ということで,ここでは内容の1のイから,内容の3のイというのは5ページ目にあります(1)ア,イ,(2)ア,イ,(3)ア,イ,ウとあります内容を示していますけれども,ここでは最初に「個人と社会生活」,それと経済,政治の仕組みを学習しますけれども,特に法教育の内容と大きく関係しますのは内容1の「イ 個人と社会生活」と書いてあるところなのです。これはまた後でお話しますけれども,その後,「近未来」と書いてありますけれども,3年生の最後の内容項目として,「我々がよりよい社会を築いていくためにどんな課題を解決すればいいのか」というテーマで,例えば地球環境問題とか資源,エネルギー問題を学習する。
 内容構成そのものは,近い過去,1955年を取り上げて,今と比べてどんな社会なのか,それはどういう仕組みで動いているのか,我々がよりよい社会を築いていくためにどんな課題を考えなければならないのかという公民的分野の内容構成が5ページに書いてある,様々な内容を示していますけれども,背景にある考え方になります。
P) それを少し学習的に見ると,これは先ほどの5ページにあります順番に非常に近いものですけれども,最初に子供と家族,地域という身近な社会集団とどうかかわるのか,ここにルール,決まり,約束という学習を行うことになります。それと,その下にあります経済社会,地方公共団体・国というところで経済の仕組み,それとかかわり方,子供は消費者として経済社会とかかわるということで,消費者としてかかわったときにどんな問題が生じるのか,あるいはどういう形になるのか,それは経済がどんな仕組みで動いているからなのかということで学習するようになっています。その下の地方公共団体・国というのは,国に,あるいは地方公共団体にどうかかわっていくのか,主権者としてどうかかわっていくのか,それは選挙を通じてということであれば選挙にかかわる法が媒介することになります。最後に,国際社会の中にどうかかわるのか,主権国家同士の中で約束事はどうなるのかというような形で,学習を中心にしたときに個人が社会とどうかかわるかということで中学校3年の学習を行っていただきたいということになっているのです。
 これで,実際には法教育的な中身でいいますと丸と矢印と家族,地域と書いてあるところの「個人と社会生活」,これは5ページにあります上から二つ目のイと書いてあります「個人と社会生活」というところになりますけれども,ここでは特に「社会生活における取決めの重要性やそれを守ることの意義及び個人の責任などに気付かせる」というふうに書いてあるのですけれども,ここは実際には,我々は集団を,お互い平等な立場である集団を作り上げて集団の中で生活をする。そのときに,よりよい生活をしていくためにはどんなものが必要だろう。そこにルールというものを考えていこうということになるのですけれども。例えば,スポーツのルールはなぜ生まれるのかとか,いろいろなことを想定しながら,ここでルールというものはどう作るのかといったことを学習していく。その後,実際に我々の社会の仕組みを,基本となっている憲法とか,あるいは経済にかかわる法,あるいは政治にかかわる法,国際関係にかかわる法というものが学習されるということになっていきます。
 ここまでは少し,大人向けの指導要領の文言ですから非常にかたい文言なのですけれども,実際にそれはどういう形で学習になっていくかというのが,次のレジュメの3にあります「教科書における取り扱い事例」ということで,「ルール」や「決まり」の事例,「個別法」の事例,「司法制度」の事例という,三つの観点から見ていきたいと思います。
P) これは,お手持ちの資料の6ページにあるものです。ここは,先ほど言いました個人が地域の,あるいは家庭の中でどうかかわるかという問題を考える領域になります。これは,教科書のあるページですけれども,見ていただいて分かるようにマンションという生活空間の中で一つの集団がある。その中で様々な問題が起きていました。これは,教科書の中を見ますと犬が吠えているとか,ピアノを弾いているとか,子供がばたばた騒いでいるというような,今よくあります住宅の中での諸問題が示されていますけれども,ここでマンション住民の快適な暮らしが守られそうにないという状況の中で住民の間でルールが決められる。このルールについて考えてみようということで,一番右下にあります「考えてみよう~ルールをめぐる問題」ということで,ルール,決まり,約束とは一体どうして必要なのかということを具体的な学習をする。これは私の経験でも,私の官舎はできたばかりで皆一斉に入りましたので,まだ自治会とかルール,決まりはなかったのですけれども,夏に花火で子供たちが遊んで住民の人が,これはうるさいじゃないかというので,皆で花火をやってもいいけれども,8時以降はやめようじゃないかと,住民の中で話が出て,そういう集団の中でルールを作り上げていくということを経験しましたけれども,こういったことをもとに,子供たちが実際に自分たちの集団の中にあるルールを考えてみる。それは,小学校で体験的な活動の中でルールや決まりを考えてきた上で,中学校でルールはなぜ必要かということを,形をきちんと与えるということを中学校3年の最初の項目のところで学習する。
 その後,具体的に個別の法ということで,これは大抵教科書の後ろには学習資料として幾つかの法が載っているのです。こういった法をひもときながら学習を進めていくということになります。具体的には,日本国憲法は基本法として少し体系的な学習をしますけれども,そのほかの個別の法は,様々な諸問題があらわれて,その諸問題を考えるときに個別法が出てくるという形をとっているのです。
 資料の8ページ,これは,学習指導要領の順にいきますと,まず勤労者として経済社会とかかわったときに,労働条件の維持,改善を行うということを考えなくてはいけないというのが指導要領の中身にあります。そこで,ここの8ページにはいわゆる労働三法が学習内容として出てきますし,右側には平等な雇用機会の実現ということで,男女雇用機会均等法等,あるいは下の方にあります障害者基本法等,様々な課題,問題について考えるときに幾つかの法があるということを教科書の中で取り上げられてきているわけです。
 その次の9ページになりますと,今度は経済学習になりますけれども,環境についての諸問題をどう解決していくかというときに9ページの右側の方にありますけれども,上から2行目に公害対策基本法,あるいは環境保全法,環境基本法といった環境にかかわる問題,あるいはその次の10ページにあります,これは消費者として経済社会とかかわっていくときに起こる諸問題について考えるときに,例えば右側にあります消費者保護基本法,あるいはその下にあります製造物責任法というのがゴシック体で出ていると思いますけれども,こういった個別法が社会の様々な問題とかかわってあらわれてくる。
 11ページには政治ということで,主権者が地方公共団体・国とどうかかわっていくか,政治とどうかかわっていくかというときに政治参加ということになりますので,11ページの真ん中辺にありますように公職選挙法等の法律が登場してくる。
 そして,12ページは国際社会とどうかかわるかということで,国際社会は主権国家が構成しているわけで,それぞれの主権国家の間での約束事,ルール,これが国際法として登場するというのが,右側にあります国際法を説明した箇所になるわけです。
 こうしたルールから,なぜルールがあるのかという日常生活の学習から徐々に現代社会への複雑な仕組みの中で法律が出てくるということが,教科書自体もそういう構成になっているわけです。
 最後の(3)の「司法制度」の事例,これは先ほど映像で見させていただきましたように,我が国の司法制度についてということになるわけですけれども,学習内容としては,まず「法とは何か」ということで,ここはきちんと社会の中でたくさんの人たちが共同して生活していくためにはルールが必要であり,法はそのルールですというのを13ページの最初のところで記述してありますけれども,これは学習指導要領の精神をそのまま記述していただいているのですけれども,それをもとに,それでは法を司るということで具体的な裁判について,どういう仕組みが我が国でもたれているのかというのをきちんと,基本的な内容について,事項についての理解ができるように,ここで学習が行われるということになります。
P) こうやって学校の中で,特に社会科を中心に学習が行われていますけれども,こうした新教育課程というのが昨年度から実施されていまして,先ほど説明いたしましたように,学校教育の中では様々な形で法的な内容かかわっています。
P) その他の(2)として,「総合的な学習時間の趣旨」をここで述べておきたいと思うのですけれども,非常に新しい時間として総合的な学習の時間が設けられて,ここでは各学校が創意工夫を生かして特色のある教育活動ができる時間を確保できるということで設けられていて,全国でみずから学んでみずから考える力といったものを育むために教科横断的,総合的な学習ができるようにということで,先般,中央教育審議会の答申にも出ましたように,こういったねらいを実現するために,それぞれの工夫を生かして,それぞれの学校で目標,内容を設定しています。そうやって特色ある学習活動を行っていただくということで,法教育の内容にかかわっては,そういう意味では総合的な学習の時間の可能性もこういった形であらわれてくるのかなということがあるわけです。
 こうやって学校教育において,学指導要領は法教育にかかわっている,こういう教育内容を準備しているということで,あと家庭教育,社会教育とのコラボレーションでどう形づくっていくのかなということが検討されるべきことであるのかなというふうに思っていますし,文部科学省としての教育内容ということで,簡単に御説明をいたしました。
 以上です。

土井座長 どうもありがとうございました。それでは,質疑応答,意見交換に入りたいと思います。若干時間が押しているのですが,せっかくの機会ですので御発言いただければと思います。

鈴木委員 今のお話を聞いていて,かなりやっていらっしゃるということで,逆に言えばこの研究会は何なのだろうという気がするのですが,それから中学3年生にこれだけのことを盛り込んで,ここだけでやっていいのかなという,先ほどちょっとありましたけれども,発達段階に応じたものというのはどういうふうに考えていらっしゃるのか。
 それから,道徳教育の中での法については,学習指導要領を見ても「規範を守ろう」,「決まりを守ろう」と,そもそもルールというのはどうやって作っていくのか,そういう中での守ろうという意識が芽生えていくという部分についての配慮とか,そういうのはどうなのだろうというのがちょっと懸念としてあります。ですから,また逆にいうと中学でも段階に応じて,何も社会科だけでなくていいと思うのですけれども,やっていってもいいのではないか。
 それから,帝国書院の教科書も,確かに新しい試みとして出ているのは私もよく分かっているのですが,これを見ても教え方が,実際に先生方はどうやられるのかという部分で,例えばアメリカの『わたしたちと法』という教科書を前に御覧いただいたと思うのですが,ルールをつくっていく過程を楽しむといいますか,そこを議論させる,その結果出てきたものは空欄なのです。だけれども,「ここはこういうルールができました」というのが出てきてしまうのです。そういう部分,だから一つ一つの教科書について,どうこう言うつもりはないのですが,逆にそういった部分。
 それから,日常生活と今度は次のレベルにいく法なのですが,例えばこれは沖野先生にあれしていただいてもいいと思うのですが,私的な生活の社会生活の中で民法が基本のはずなのです。ところが,確かに条文,民法を出すと非常にたくさんになってしまうのであれなのですけれども,条文が第四編,第五編だけというような,それでいて消費者基本法は抜粋だけれども後ろにきちんとあるわけです。すごくアンバランスな感覚を持っています。ですから,私的自治だとか契約というものの基本の在り方みたいなことが何らか,話としてあってもいいのかなと。そういうことを考えると,ますます中学3年だけでというのは,非常に難しいのかなということを考えています。
 もう一つは,これは実は最高裁,法務省にもお聞きしたいし,また我々も考えなければいけないことなのですが,アメリカの取り組んでいる法教育というものを,次回,多分紹介されるのでしょうけれども,確かに特殊な教育かもしれないのですが,そういうものをどう受けとめるのかという部分も,できれば次回の報告を受けてからでもお話しいただければと思います。
 若干,感想めいたことも含めてですけれども,意見を述べさせていただきます。

土井座長 どうもありがとうございました。大杉委員。

大杉委員 子供の発達段階ということで,学校教育は,先ほど申しましたように社会科だけではなくて道徳,特活,様々な体験活動等があります。道徳というのは,やはり「ルールとは何か」というのが前提にあるので,その中で「皆で納得した合意したルールというものは尊重しよう」というのがあるので,あれはその結論を書いているわけですけれども,学習活動でいくとそういうことになって,例えば特活でも児童会,あるいは生徒会活動等で,やはり校内の,規則というのではなくてルールですね,クラブ活動のルールとかいろいろな様々なルールというものが取り上げられると思うのです。そういう中で体験を通して学習して,それに一つの枠組みといいますか,見方をもって今までの体験をどう意味づけていくかというので社会科,3年のところで,ルールって実は何なのだ,社会集団と個人との関係で何なのだということを形づけるということで,小学校,中学校のある意味体験や具体的な学習の中で考えていたことを3年生で形をきちんと与えようという意味での成長に合わせた学習というのが一つありますので,それが基本で,今,社会科だけのお話をしましたので,全体の学校教育活動,体験学習とかいろいろなことを通じて,どうしてこんなことをやってはいけないとか,あるいはいわゆる企業の経験とか,そういった中で実際に,何といいますか,就業体験,そのときにどういうルールで頼んだらいいのか,どういうルールを通してお願いしたらいいのかとか,身近な体験の中で,約束事,ルールというのは非常に大事なのだ,それはお互いの合意があってということで成り立つのだということを学習していくということです。
 あと,「民法が」という言い方があるのですけれども,それは法的には出ていないのですけれども,学習の中,経済学習にしても,最初の個人と社会生活のところですけれども,「民法」という名前はないのですけれども,お互いに個人が対等で平等な立場で家庭生活を送るというところは,家族の機能,あるいは社会集団のところの学習の中で,それぞれ基本的にはお互い対等な個人が尊重されなければならないという,まず民法の基本部分,そこを内容としてやっているのです。それを民法だという形では与えてはいないのですけれども,「それが基本です,それが社会生活の大前提です」というのをやった後,あとは契約とかいろいろな問題については,個別の諸問題が起きたときにそれはどれに該当するかというので,委員がおっしゃるように,まず民法があって,製造物責任法とかいろいろな法が並んでいるけれども,民法は,名前は出ていないのです,隠れている部分なのですね。だから,そういう意味で,学習としては,ベースとしては,基本的な精神は埋め込んであるということなのです。

荻原委員 うちの子供がこういう教科書を使っているのでよく勉強しています,私も。覚え切れないのですよね,この私でも。私,環境問題は詳しいのですけれども,それでもこれを全部は言えないなという,テストで出されたら太字も答えられないなという感じなのですけれども,子供たちはテストのためにこの太字を覚えるので精一杯になってしまいまして,本当の基本の根っこのところの考え方とかそういうのまで行かないで,言葉を覚えるのに精一杯になってしまうので,こんなにたくさん覚えなければいけないのだろうかというのがまずあるのです。
 あと,この教科書も中途半端いっているかなという,教えなければいけないことがこんなにあって,でも考えさせなければいけないのが吹き出しになっていてという,この中途半端さが何とも日本的という感じがするのですけれども。公民で何を教えるのか,歴史のように社会の仕組みを知識として教えるのは多分この形で,ちょっと変化をつけようというのが吹き出しの部分だろうと思うのですけれども,まだどっちつかずになってしまっているのではないかという気がするのです。だから,先ほどより,良い暮らしのためのマンションの決まりができるまでの答えまで出してしまっているとおっしゃっていましたけれども,実際にうちのマンションではペットを飼って良いのか悪いのかでいまだに結論が出ないで,お互いの言い分があるわけです。そういうのを出して,これから高齢化社会のためには犬もパートナーとして認めていかなければ精神的なものが安定として保てないとか,いろいろな考え方があるというのを考えさせて,そして自分たちのルールを,ではどの辺までお互いに妥協しようかとかというのが公民かなと思ったのですけれども。でも,そうするとテストが作れないというところにいってしまいまして,結局,高校入試とか大学入試に向けて何を教えるかというところが,指導要綱などで「ここまで」と決めたとしても,私立とか県立とかで振り分けのためにもっと難しいのを入れてしまうと,やはりそのための知識詰め込みになってしまうので,多分,やりたい法教育の目指すところはテスト勉強と違ってきてしまうので,その辺が難しいところだろうなと思うのです。

大杉委員 今の御質問で,やはり覚えなければいけないのがたくさんあるということに対して,非常に我々は闘ってきているのです。指導要領も知識を覚えることを中心ではなくて,自分で考え,自分で判断して,自分で考えたことをきちんと分かるように表現していくということを求めているのです。
 評価についても,ここはちょっと法教育と話はずれますけれども,新しく何をどうできればいいのかということを見ていくための評価の基準といったものを,今,文部科学省の教育課程研究センターがありますけれども,そこで開発をして,実施状況調査といって新たな,うまく目標が実現したかどうかをはかるぺーパーテストですけれども,新教育課程のペーパーテストを開発しているのです。そういう意味では,教科書で学習したことを教科書とは違う素材をとらえてみて,それをどう考えていくのかとか,そういった新しいペーパーテストの開発を学校でも是非お願いしていただいて,覚えることがたくさんあるのではなくて,本来は指導要領を見ていただくと,基本的には社会をとらえる枠組みを構成するものというものは物すごい膨大な数ではないのです。教科書にある膨大な知識を子供たちが見て,これはこういう意味だとか,それを解釈していける,そういったことを実は狙いとして,今回作っておりまして,そういう授業が展開できるように,実現できるように我々もどんどん言っておりますし,これからも続けていきたいと思っております。
 委員,おっしゃるとおり,こんなに知識を詰め込んでどうするのか,知識は大事だけれども,それをどう使うか,基本になるものはどれかというのを考えた評価法もあわせて開発し続けておりますので,是非この法教育の中でも,そういった覚えるというのではなくて,どう考え,どう表現していくかという部分を生み出していきたいというふうに私は思っておりますので,是非,また御意見をいただきたいと思います。

土井座長 どうもありがとうございました。いろいろと御意見,ほかにもあろうかと思いますが,今日はこの辺にいたします。
 なかなか難しい問題で,今日の御報告を通じて出てくるのは,知識として覚える,あるいは頭の中では分かるのだけれども,それが自分にかかわっているということをいかに実体験させるか,あるいは自分の問題だとしてどうとらえさせるかという非常に難しい問題で,最初の清永教授のお話のように非常に重たい問題を本来は含んでいる部分もありますので,それをどういうふうに受けとめてやっていくのか,全体の制度として法教育をどうするかという問題と,今も出ておりますように,方向としてそちらの方に向かっているのだけれども,実際にどういうふうに教育するのだという問題,教材の問題ですとか,教育方法の問題等もありますので,そういう点も論点にしながら検討していきたいと思います。
 それでは,大杉委員,吉冨教育官,どうもありがとうございました。
 少し,予定の時間をオーバーしましたけれども,本日はこの程度とさせていただきます。
 次回は,本年11月12日,水曜日,午後2時から法務省第一会議室において開催を予定しております。次回の内容は,諸外国における法教育の現状などにつきまして,専門家の先生からお話を伺う予定でおりますので,各委員におかれましては御多忙中とは存じますが,御出席くださいますようお願いいたします。
 それでは,本日の議事はここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。

閉会