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法教育研究会第4回会議議事録

日時 平成15年11月12日(水)
午後2時~午後4時15分

場所 法務省第一会議室


開会


土井座長 それでは,まだお見えになっておられない委員もおられるようですが,所定の時刻になりましたので法教育研究会の第4回会議を開会させていただきます。
 それでは,まず本日の配布資料の確認を事務局からお願いいたします。

大塲参事官 それでは,本日の配布資料の確認をさせていただきます。
 まず,本日お話をお伺いします筑波大学の磯山準研究員が作成されましたレジュメなどの説明資料一式がございます。
 その次に,法教育研究会の開催要領,これはもう既に皆さん,御案内のとおりでありますが,本日の後半の意見交換の際の参考資料としてお使いいただければと思います。
 次に,法教育研究会の第1回会議の議事録。
 そして,「シンポジウム『子どもが学ぶ法の精神』-新しい法教育への挑戦」と題した緑色の冊子をそれぞれ配布しております。御確認ください。
 この緑色の冊子につきまして鈴木委員から簡単に,1,2分程度で説明いただければ幸いです。お願いします。

鈴木委員 10月3日に名古屋で中部弁護士会連合会の定期大会というのがございまして,これは弁護士のブロックの大会なのですが,そのときのシンポジウムとして,この法教育「子どもが学ぶ法の精神」というタイトルでシンポジウムを行いまして,そのときに配布されました資料であります。当日は,190人ぐらいの中学生,3年生も会場に来まして意見を聞いたりというようなことで行っております。
 名古屋の方では平成11年から私立の中学校,何校かと協議をしまして,弁護士が行って授業を行うという形のものに取り組んでいるということで報告がございました。
 それから福井の方では,いわゆるアメリカ流の法教育を実践する報告がなされております。御参考のためにということで配布させていただきましたので,御活用ください。よろしくお願いします。

土井座長 鈴木委員,どうもありがとうございました。
 それでは,議事に入らせていただきます。
 本日は,まず最初に「諸外国における法教育の現状」というテーマにつきまして,諸外国の法教育について専門に研究しておられる筑波大学教育学系の磯山恭子準研究員からアメリカの法教育を中心に御紹介いただきまして,これを受けて我が国において,法教育の在り方をどのように考えていったらよいかという点について議論をしていただきたいと思います。
 それに続きまして本日は,後半の時間を使いまして,「我が国における法教育の在り方」について意見交換を行いたいと思っております。これまで,研究会でヒアリングや議論をしておりまして,各委員におかれましてもそれぞれ法教育のイメージ等を徐々にお持ちになっていただいていると思いますので,本日はこれを踏まえまして自由な意見交換を行いたいと思っております。

1.「諸外国における法教育の現状」

磯山恭子準研究員(筑波大学教育学系)

土井座長 それでは,まず筑波大学教育学系の磯山恭子準研究員からお話を伺いたいと思います。磯山準研究員,本日はお忙しいところお越し頂きましてありがとうございます。
 まず,最初に私の方から御経歴等を御紹介させていただきます。磯山準研究員は,千葉大学法経学部法学科を卒業された後,東京学芸大学大学院教育学研究科社会科教育専攻,筑波大学大学院博士課程教育学研究科を修了され,現在は筑波大学教育学系で当研究会の江口委員の下で諸外国の法教育について御研究をされておられます。
 本日は,アメリカの法教育のお話を中心にしていただくということでありますが,これに加えてイギリスの法教育についてもお話を伺えると聞いております。
 それでは,磯山準研究員,よろしくお願いいたします。

磯山準研究員 筑波大学の教育学系準研究員の磯山恭子と申します。よろしくお願いいたします。
 今回の発表のテーマですけれども「諸外国における法教育の現状」について,アメリカの法教育の現状と,それから若干になります。イギリスの法教育の現状についてお話をさせていただきたいと思います。レジュメに即して話をさせていただきますので,よろしくお願いいたします。
 まず,初めに,このアメリカの法教育というものを研究するに当たっての前提となるお話になります。これまで既に3回ぐらい研究会をされている中で,恐らく議論になっていることではあるとは思いますので,改めて繰り返しになるかもしれませんが,お話をさせていただきます。
 法的な関係を基盤として成立する現代社会,すなわち「法化社会」と呼ばれるような社会において,市民の法に対する主体的な意識と実践的な能力の育成は重要です。このような社会において,法律家のみならず市民にも法に関する資質を身に付けることが求められています。
 市民に培われるべき法に関する資質とは,次の二つの観点を中核とするものであると考えます。すなわち,まず第一に,法に関する正しい認識を意味しています。市民は,法を人々に対して,単に権力に基づく強制を強いる存在としてのみ認識するのではなく,法とは人々がそれぞれに主張する多様な価値への合意の所産であるということを踏まえ,法を動態的な存在として認識する必要があります。
 そして,第二に,法への主体的な参加ということが考えられます。市民は,実際にこのような法を利用し創造するために自己の権利を行使し,その責任を遂行する必要があります。その育成のための方法論を具体的に提示する一先行モデルとして,私は,市民にとって必要な資質の一つである「法的リテラシー」の育成を目指すアメリカの法教育にこれまでずっと注目してきました。
 1978年に,アメリカ合衆国議会において承認された“Law-RelatedEducationActof1978”によれば,法教育とは「法律家ではない者を対象に,法全般,法形成過程,法制度と,それらが基づいている原理と価値に関する知識と技能を提供する教育」であると定義されています。法教育は,それ以来現在に至るまで,アメリカ合衆国全体として取り組むべき教育的課題の一つとして積極的に位置づけられてきました。
 これまでの法教育に関する研究では,法教育の理念に基づき組織化された個々の法教育カリキュラムを包括的に分析するものや,もしくは法教育カリキュラム開発の過程を政策的に精査するものなどを中心に展開されてきています。そこには,まず第一にアメリカにおいて開発されてきた多様な法教育カリキュラムの全体像をより具体的に把握すること,そして第二にそれらのカリキュラムの構成論を構築するために,法哲学的な文脈に即して分析することという二つの課題が残されてきたと言えると思います。
 本日お話しさせていただくに当たっては,特に前者の方の課題に着目し,アメリカの法教育に関する基礎的な文脈及び代表的なカリキュラムをもとに,市民として必要な法に関する資質を育成することを目指して展開されてきたアメリカの法教育の全体像を提示することを目的としています。
 そこで,具体的に,以下の三つの課題を設定します。
 すなわち,まず第一に,アメリカの法教育の背景を検討します。
 第二に,法教育の目標,内容及び方法を具体的に提示します。
 第三に,多様な法教育カリキュラムの中でも,アメリカにおける国家的プロジェクトとして1990年代に開発されてきている以下の四つの法教育カリキュラムに着目し,それらカリキュラムの特色を整理いたします。
 以下,四つ並んでおりますけれども,後でこの四つのカリキュラムについて,若干説明させていただきたいと思います。
 そして,初めにご説明すればよかったのですけれども,本日配付した資料について確認したいと思います。
 この配付しております資料の7ページに「本発表の資料」とありますが,この本発表のレジュメの後に,1枚,熊の4コマ漫画のプリントがあると思います。これは,後で皆さんとご一緒に取り組んでみようかと思って用意しました。
 その次に,(2)にありますけれども,論文の抜き刷りが三つ付いていると思います。一つ目は「アメリカの法教育におけるカリキュラム構成に関する研究」という論文があるのですけれども,そこに法教育のカリキュラムの全体像を提示してありますので,参照していただければ幸いです。
 二つ目の論文ですが,「『法教育』における紛争処理技能の育成」という論文が載っています。
 三つ目として,「ナショナル・スタンダードとしての法教育カリキュラムの構成」とありますけれども,こちらも後で少し参照する予定です。本日配布いたしました資料は,そのようになっておりますのでよろしくお願いします。
 それでは,発表用のレジュメに戻らせていただきます。ここでは,なぜ法教育を学校で行うことの重要性が認識されるに至ったのかというような話をさせていただきます。
 アメリカでは,1960年代後半から1970年代後半にかけて,学校において広義の法の教育に取り組むことが重要であるとの認識が高まることとなりました。この認識を受けて成立したアメリカの法教育は,以下の2点を目的とするものでありました。
 アメリカの法教育の場合は,まず第一に,市民的資質教育の再生という目的があって成立したという点と,もう一つ,第二に,青少年の非行の防止という目的の下で成立したという二つの文脈があります。
 もう一度,こちらの文章の方に戻らせていただきます。では,市民的資質教育の再生という目的というのはどういう意味なのかということになります。ウォーターゲート事件を契機として,アメリカでは1970年代になって,市民の政治に対する不信が顕在化することとなったのは周知の事実です。そのことを受けて,グローバル教育や多文化教育を初めとする市民的資質教育への多様かつ具体的な方法論が活発に議論されることになりました。その中で法教育は,アメリカ社会が認めている正義という法的な価値を市民が再認識し,そのような正義に関連する法的な問題を解決するための技能を市民が獲得することへのアプローチとして提案されることとなりました。
 そして,二番目の方の青少年の非行の防止という目的の文脈ですが,1960年代後半以降,アメリカ社会における青少年の犯罪は増加し続け,一層深刻な問題となりました。国家における犯罪の総数の減少と青少年の非行という行動の改善が法教育には期待されていました。
 このように,当時の社会状況を踏まえて,法教育が具体的に組織化された教育的な背景の一つには,社会科を中心に「法の学習」というものが,それ以前から試行されてきており,その研究の成果が蓄積されていたということが一つ挙げられると思います。
 この「法の学習」の重要性というものにいち早く着目した「法教育の父」というふうにアメリカの方では呼ばれておりますStarrIsidoreという人は,自身の論稿である‘TheLawStudiesMovement:AMemoir’において,法教育前史としての「法の学習」の展開過程には,次の三つの段階があったとしてまとめています。
 まず初めに,1932年から1962年の第1段階になりますが,個々の教師が学校における学習活動に法をどのように位置づけるかを模索した段階です。
 次に,1963年から1970年の第2段階になりますが,アメリカ合衆国全体の動向として,社会科において「権利の章典」をどのように構成するかという,法に関する具体的なカリキュラムを開発し,構想した段階になります。
 そして,1971年から1978年の第3段階になりますが,1970年以前までに開発された法に関するカリキュラムに基づき,市民的資質の育成に対する一つのアプローチとして法教育を一般化した段階となっております。
 このうち,Starrによるブルックリン実業高等学校において実践された「法の学習」は,「第1段階」に当たる時期の最も早い1932年に,これは本当に相当早い時期なのですけれども,明確な意識に基づき展開されました。
 このような実績を踏まえ,法教育の父と呼ばれるStarrの考えた「法の学習」とは,「我々の社会を理解するための他の方法,法を形作ることへ参加する際に用いる道具を与えるために,法,法形成過程,法制度を教えること」でした。それは,社会科の領域の一部として,「憲法」「刑法」「不法行為」,および「契約」といった広義の法を自覚的に組織化する試みでありました。
 実際に,「法の学習」をより具体的に構想する際の教育内容を選択するに当たって,Starrは,「連邦最高裁判所判決」に着目しました。これは以下,Starrが考えた「法の学習」の具体的な観点になります。これを御覧になっていただけると分かることは,民法上の問題とか刑法上の問題を含んでいるところに特色があることと,それからこの当時のアメリカにおいて一つ,人種差別の問題とそれにまつわる諸判決というものは非常に重要な意味があったものですから,そういう時事問題に着目した学習内容を「法の学習」として取り入れていたということに意味があるというふうに考えられます。
 また,授業として組織する際の教育方法について,次の4点にわたる多様な方法論を提示しています。すなわち第一に,この連邦最高裁判所判決に基づき,実際に模擬裁判を行うという方法です。
 第二に,教師がその事件の事実について説明を行い,それに対して生徒が判決をまとめ,実際の連邦最高裁判所判決との比較を行うという方法になります。
 第三に,この連邦最高裁判所判決に当てはまる現在のアメリカ国民が直面している問題について考察するという方法です。
 第四に,連邦最高裁判所判決について,様々な利益集団の立場に立った上で評価するという方法です。
 このような,アメリカ合衆国憲法及び権利の章典をその教育内容の中核としながらも,法の制度的な側面だけではなく法の機能的な側面にも焦点を当てた活動的な教育実践の蓄積は,アメリカにおいて法教育を具体的に成立させるための大きな基盤となりました。
 それでは,次に1978年に構想されていた法教育というものの実際の内容を考えながら,そこで言われていた法教育の目標とか内容,方法といった理念的な側面について説明したいと思います。
 このアメリカの法教育の理念は,次のようになっております。実際に,初等・中等教育として学校において法教育を組織化する際,その中核となる目標は,市民一人ひとりにとって必要な「法的リテラシー」の育成に当たるとされます。そのことは,さきに述べた法教育の定義の策定に当たって,アメリカ法律家協会による青少年のための市民的資質教育に関する特別委員会が提示した法教育に関する意見書の中にも,「公私の双方において,個人が市民として効果的にその役目を果たすために,『法的リテラシー』は必要不可欠である」と述べられている通りです。この「法的リテラシー」とは,社会の変化とともにその内実が変容することを前提とした上で,基本的には三つの目標を達成することによって育成される能力であると考えられています。
 すなわち,まず第一に,道徳的な判断と倫理的な分析の技能を獲得することです。
 第二に,法形成過程を評価する態度を形成することです。
 そして,第三に,法に関する知識を身に付けることです。
 このような目標観の下で,法教育は,以下に代表される内容を取り扱うとされております。
 これらの内容を見ていただけると分かるのですが,Starrが連邦最高裁判所判決というものに着目して法教育の学習内容を構想していた段階から更に一歩,二歩進んで,非常に多様な法的な内容というものを取り扱っているということがよく分かるというふうに思われます。
 これらに示されるとおりに,この法教育の内容とされる法というものが,単に「制定法」とか「国家法」といった狭義の法にとどまるものではないということは明らかです。むしろ,「民主主義の理念」とか「紛争処理」「法形成過程」「慣例法」「論争問題」「市民法」「法学以外の領域における法」と多岐にわたる広義の法が,法教育の内容として想定されていると判断することができるのです。そして,これらの内容を教育する際の方法は,「探究学習,体験学習をはじめ,様々な教育方法」であると指摘されています。
 いずれにせよ,繰り返しになりますが,このような狭義の法ではなく,広義の法というものを法教育の内容として取り入れて構想されていったものが,アメリカの法教育の原点であったと考えられています。
 その後のことを少し補足いたします。拙稿の3という資料を御覧になってください。「ナショナル・スタンダードとしての法教育カリキュラムの構成―“I'mthePeople”の分析を通じて―」という論文の最後の方になります。今話してきた法教育の原点というものは,1978年の段階で構想されていたものですから,当然そのまま固定化されているわけではないというのは想像がつかれることと思います。実際にその後も,アメリカでは法教育を具体化していくために様々な試みをしております。なかでも,重要な契機となっているのは,大体1990年代になりますが,アメリカにとっての法教育というものは一体何なのだということを再び考え直し,とらえ直すというような時期がありました。そのことが述べられている資料として,「法教育指針」と呼ばれているものがあるのですけれども,その内容について補足説明をしたいと思っています。
 「ナショナル・スタンダードとしての法教育カリキュラムの構成」という資料の2番目「ナショナル・スタンダードとしての『法教育指針』作成の経緯」というところになります。
 ここでは,このような「法教育指針」を,どうして作成するに至ったかということを述べています。これはクリントン大統領によって1994年に制定された「2000年の目標:アメリカ教育法」というものを受けて,各教科で全米共通の教育内容の基準である「ナショナル・スタンダード」が作成されたというのが,教育の世界の中だけかもしれませんが,周知の事実となっています。社会科では,歴史的領域,地理的領域,公民的領域のそれぞれに応じて「ナショナル・スタンダード」が開発されてきました。そのことを背景として作成された「法教育指針」に関する議論については,「法教育指針」の「序文」とアメリカ法律家協会によって刊行されている資料の中で参考となると考えられます。
 それらの資料によりますと,「法教育指導者会議」が行われまして,そこでのいろいろな議論を踏まえて,この「法教育指針」を提案したのだとされています。その提案による成果というものは,三つにまとめられています。
 (1)21世紀において,初等・中等学校の生徒に法教育が必要であることを主張するために,法教育という領域に重要な位置を確立し,効果的に準備するのに役立つ。
 (2)法教育にとって必要なカリキュラムの要素は,「公民・政治」「歴史」「社会科」の「ナショナル・スタンダード」や「ナショナル・アセスメント」などとともに,国家,州,地区の間で教育的に優先されることを保障する。
 (3)「ナショナル・スタンダード」運動に対して,領域として積極的に参加することで,国家的な支援を法教育に与える。
 というように述べられています。
 実際に,どういう使命をもって提案をしたかということが,その下の方に述べられています。ここからは,何よりも第一にアメリカ合衆国の民主主義において,参加する市民の能力と意欲を高めることに目的があることを読み取ることができます。つまり,何か知識だけを得ようとすることではなく,それが法という領域であったとしても,社会に対して活動的に,活発に,自らが何かをなし得るのだという前提のもとで意思決定できる人間になれるようにしたいということ,言い換えますと,知識理解だけの側面ではなく,社会参加できる市民の育成というものを念頭に置いて「法教育指針」を作成したのだというようなことを読み取ることができると思われます。
 では,具体的にどういう教育内容を設定していたのだろうかということが,この論文の中の4ページの(表1)になっております。この(表1)の特色は,どういう内容を観点として具体的に細かく内容を構成していくかということを考えていったとき,その法的な概念というのが法と権力と正義と自由と平等というものにあったところにあらわれています。この指針において教育内容を選定した際に,先ほど述べましたStarr Isidoreがかかわっているということの影響が非常に強いということが一つ考えられますし,それと同時にアメリカの法教育で,ある概念を一つの視点としてカリキュラムを作成していくという発想があるということも一つあります。この2点の影響により,その特色があらわれたと考えられます。
 それで,先ほどお話しした1978年に言われてきた法教育において,確かにいろいろな広義の法を教えているという状況から,更に精選されている様子が見て取れるのではないかと思います。この内容は,説明をしていると非常に時間がかかるので割愛させていただきますが,後で御覧になっていただきたいと思います。
 レジュメの方に戻りまして,「法教育カリキュラムの構成とその特色」について,概略的になりますが,説明していきたいと考えています。そこで,長々とつまらないお話が続いているので,ちょっと見ていただきたいと思います。これは指導教官であります江口委員と一緒に研究を進めていくなかで最初に出会ったものです。こちらにいらっしゃる橋本委員もそうなのですけれども。これは本当に最初にアメリカの法教育ということを考えたときに出会った原点にあたる法教育の教材になります。それが,配布した資料にあります熊の4コマ漫画になるのです。アメリカの法教育というものが実際にどういうものなのかというイメージをつかんでいただきたくて,そういうものを用意させていただきました。それを御覧になっていただきたいのですが,それとはこれです。
 恐らく日本におけるアメリカの法教育研究の中で最も有名な熊なのですけれども,この熊の名前はローランドといいます。よろしくお願いします。ということで,こちら,1番目,2番目,3番目,4番目というふうに教材があります。ここのふき出しの方に何か書いていただければと思います。どういう流れがあって,どういう結末があるのかという場面を想像しながら好きなセリフを入れてみていただけますか。
 時間の方も限られているので,余り余裕がないところなのですが,こういう場面ではないかということを発表したいという方がいたら,是非発表していただきたいのですけれども。では,目が合いましたので沖野委員の方からよろしくお願いします。

沖野委員 登場人物の同一性が確認できているかどうか分からないのですが,第一の場面ですが,私は大人が子供を追い払っているのかなというふうに思いまして,大人たちは非常にいろいろ忙しい,子供たちは遊び場等探しているのだけれども,「だめよ」と言われて「あちらに行きなさい」と言われている。小さい子は「ここじゃだめかな」というふうに探しているけれども,場所がない。(2)の場面で,この(2)の熊さんがローランドなのでしょうか。(3)もローランドかな,(4)にいるのもローランドかなと思ったのですが,(1)であちらに行かなければいけないよというふうに言っているローランドがこの洞を見つけて,「こんなところに洞がある」,これだと子供たちが基地みたいにできて遊べるのではないかというふうに思い,(3)ではどうしようかな,独り占めしようかな,そういうことを考えて,(4)では他の子供たちを呼んであげて受け入れるという話かと思ったのですが。それぞれ違う熊だと完全に誤解しているのですけれども。

磯山準研究員 基地だというふうにとらえられたということですよね。

沖野委員 そうです。(1)は,どうも大人たちがここで出てきていて,しかしこの人たちはこの後登場しないので,何というか,ほかのところに行くようにというふうに言われているのかなというふうに思いまして,そうするとその代替手段を探しているような状況があってという場面設定かと思ったのです。(3)ではローランドが入っていて,(4)では他の子供たちが入ろうとしていますし,この「穴」は場所として意義のあるものかと。ただ,実のところこれが何かというのはよく分かりませんでした。

磯山準研究員 そうですか。今,非常に新しいなと思う発言をしていただいて,ああなるほどと思わされました。(本を開いて)これは実際はこういうふうにカラーになっています。すごく大きいのですけれども。実際に,先生はこの絵を見せながら,お話をします。この絵から,いろいろな想像が膨らむというのが今のご発言でも分かったかと思います。このように何かいろいろなことを考えながら,法について考えるとまでもいかないと思うのですけれども,法について触れ合うというような場を設定している教材があるというのが,アメリカの法教育の一つの特徴であり,魅力です。アメリカには非常にたくさんの教材があります。教材の方は身近なところにあるというふうに聞いておりますから,恐らく後々の機会でもいろいろご覧になれる機会があると思いまして,たくさんは持って来ませんでした。この熊の法教育の教材は,本当に300~400あるうちの一つだと思っていただければいいのですが,一方でアメリカの法教育の中で最も有名で,最も代表的なものの一つでありますので,参考として持ってまいりました。
 こちらの正解としては,熊の親子がピクニックに出かけるのです。そして,この洞の中で見つけるものというのは蜂蜜なのです。白黒だけではちょっとそれは想像するのが全く難しかったと思います。ただ,これは何が正解かということを問う問題ではないものですから,いろいろ考えるというような場を設定することを大切にしています。3番目のコマというのがポイントになっているのですけれども,この蜂蜜を見ながら,熊のローランドは必死に考えているわけです。何を考えているかというと,自分が一番最初に蜂蜜を見つけた。けれども,母さんはいつも皆と一緒に仲良く過ごして,皆と一緒に分け合って蜂蜜を食べなさいと言っている。でも,僕が最初に見つけたのに,これを友達と分けて食べなければいけないのだろうか。どうして,こうして蜂蜜を分けて食べるということが正しい,そしてそれが正義と言えるのだろうかというようなことを考えている状況です。結論としては,でもやはり分け合わなければいけないよねというような場面があって,皆で仲良く蜂蜜を分けて食べているというのが最後の4番目の場面になっています。
 こうしたアメリカの国の礎になっている法的な価値として,アメリカの社会の中では正義とかプライバシーとか責任とか権威というものを考えています。そして同時に個人の内面にも存在している,けれどもそれが法的な価値につながっているというような内容を学習していくカリキュラムの一例というふうになっています。これは,だから正義という法的な価値について学習している教材です。
 ちなみに学年段階は,この場合は幼稚園段階から小学校3年生までの学年段階を設定しているものです。
 そして,レジュメの方に戻らせていただきます。そのほか,今紹介したものが“FoundationofDemocracy”と呼ばれているカリキュラム,そしてもう一つは“StreetLaw”と呼ばれているカリキュラムです。そして,三つ目として“RespectMe,RespectYourself”と呼ばれているカリキュラム。そして,四つ目として“I'mthePeople”と呼ばれているカリキュラムがあります。なぜ,これら四つを取り上げるかと申しますと,これらはアメリカ合衆国としての国家のプロジェクトとにあたり,その団体が作成しているカリキュラムであるので,一応代表的なものであるだろうと判断されるためにこの四つを取り上げています。正確には,五つの団体があるのですけれども。先ほども述べました通り,アメリカは,教育の制度自体の問題というものが,カリキュラム開発に非常に大きく作用しております。本当に多様性を認め合う社会であるがゆえに,そのことは教育にもすごい影響を及ぼしていいます。それでいろいろなものをつくり上げる力というものが,ちょっと我々日本人の想像をはるかに超えたところがあります。法教育のカリキュラムでも実際,300から400ぐらいのカリキュラム,プログラム,教材があるだろうと言われています。
 その四つのカリキュラムの特色を簡単に述べます。詳細については,後々,後ろにあります論文の1の方を読んでいただきたいと思います。簡単に説明いたしますと,繰り返しになりますが,まず“FoundationsofDemocracy”というのは,こうした法的な価値というものを一つの視点として,学年段階を幼稚園段階から高等学校の最終段階までの,すごく長いスパンにわたって,どういう順番のもとで学習していくかというようなことを考えているカリキュラムです。それら四つの法的な概念を通じて,それぞれ「社会の法を創造する」とか,「個人の内面の自由」というものが何なのか,「個人の内面の秩序」というものが何なのか,「社会の法を適用する」ということが何なのかというような認識を促すことを意図しているカリキュラムだと考えられます。
 2番目の“StreetLaw”というカリキュラムになりますが,歴史的に考えても,これは法学部の学生を中心として,どちらかというと法律の専門家になる立場から市民に対してどういうふうに法教育をしたらいいかという発想のもとで,法学部の学生が積極的にかかわって作成されたカリキュラムだというふうに言われています。それらは非常に,例えば「法と法制度に関する概論」とか「刑法を少年司法」「不法行為」「消費者法」「家族法」「住宅法」「個人の権利と自由」といった多岐にわたる広い範囲での実定法を扱ったカリキュラムというふうになっています。
 次に“RespectMe,Respectyourself”になるのですが,この詳細については2番目の論文の方にあります。ここでは特に法システムの流れとして1990年代よりちょっと前ぐらいのときに,裁判外紛争処理というものの有効性についてアメリカの中で議論されることがありまして,そうした中で調停といった方法について学ぶ必要があるという議論がなされたことを背景としています。そこで,「3匹の子豚」など,そういう児童向けの図書を使いながら,紛争処理を行う技能を身につけるための法教育カリキュラムを構成しています。ほかに紛争処理のように法システムを反映しながら法教育を行う例としては,アメリカの場合は模擬裁判とか政策決定というようなものが考えられます。
 次に“I'mthePeople”の方になりますけれども,こちらは一番目の論文の方と先ほどちょっと触れました3番目の論文の方にありますが,その論文に具体的な内容が書かれているので,後でご覧になって下さい。この“I'mthePeople”の何よりも重要な点というのは,先ほど言いました法教育カリキュラムの指針となっている「法教育指針」と呼ばれているものを一つ背景にしながら,それを具体的にカリキュラムにしたらどうなるかというような発想の下で構成されたカリキュラムだということです。そうしたときに,「法の制定」とか「紛争の解決」「コミュニティへの参加」「公共政策の創造」という法形成過程に着目してカリキュラムを具体化しているというところに特徴があります。
 繰り返しになるとは思うのですけれども,このアメリカの法教育のカリキュラムの魅力というものがどこにあるかと考えますと,やはり非常に多様な法教育の教材を作っているということになります。例えば日本の場合でも現在,非常に法教育に注目が集まっていることも事実で,そして,古くからも一応,社会科という領域を中心に学校の中で憲法というものに関する教育が盛んに行われてきていたというのも事実ですし,それから今でも高等学校の中でも民法とか刑法というものを中心に法教育を考えていこうという動きも確かにあることは事実です。しかし,ただ個別に教材があるというだけではなく,やはりアメリカの法教育が非常に魅力的だなと思う点というのは,法というものを順序立てて教えていくことの重要性を深く認識しており,低い学年から徐々に高い学年へ向かって何かを学んでいくといった長いスパンをかけて何かを教えなければいけないのだという発想が非常に根強いことと,そのための視点とか観点というものが非常にはっきりしているということが挙げられると思います。
 もう一つの魅力としては,法教育カリキュラムを作成する際に,やはり法律の専門家と教育の専門家との連携というものがしっかりしているということだと思います。そうした際の法律家が何を意味するかというと,アメリカの場合は,弁護士の方々とか裁判所で働く人々とかも含まれることはもちろんそうなのですけれども,それだけではなくて,結局公的な機関に所属している人というような大変広いニュアンスでとらえている側面もあります。それが警察の人であったり,消防の人であったり,そういう広がりのある多様な法律の専門家の方が携わっているというところに意味があると思います。
 ここまでアメリカの話をしてきましたが,イギリスの話も是非してほしいと言われています。時間の関係がありますので簡単に説明いたします。
 お配りしたレジュメの「イングランドの市民性教育:背景,問題と教員養成への挑戦」という最後についている資料ですが,これは,9月20日に日本社会科教育学会の国際シンポジウムを開催した際にお呼びしたイギリスヨーク大学上級講師であるイアン・デイビス先生の報告に関するレジュメになります。
 まずイギリスの法教育がどういう背景のもとで成り立っているかになります。背景の基盤となっているものとして,2002年の8月から,全国的に中等教育のカリキュラムの一部として,イギリスでは市民性教育として「市民科」と呼ばれているような教科を設定することになったことがあると言われています。これはちょっとおぼろげな記憶なのですが,イギリスの中でも絶えず政治教育にどう取り組むかという議論がなされてきました。そしてアメリカの中で法教育というものが盛んに言われるようになった同じころにやはり,イギリスでも政治不信といった問題というものが非常に強く注目されたというふうに言われています。そう言いきれるかどうかちょっと自信はありませんが,従来,イギリスはどちらかと言えば「エリート民主主義」と呼ばれるような民主主義を想定していました。そのため,1960年代の後半ぐらいには,市民が政治を学ぶということに対する意味が再考されることとなり,いろいろ議論がなされながらもやはり,市民にとっては政治教育というアプローチが大切なのだと結論づけられたのだと思います。ところが,1990年以降になって,ますます犯罪率が上昇したり,あるいは福祉国家が崩壊したり,地方自治体など市民社会の基礎的な骨組みが弱体化するというような社会状況が顕在化してきたときにやはり,市民的な資質というものをもっと考え直さなくてはいけないのだというような流れができました。そこで「市民科」というものがつくられたとこの資料では述べられております。
 そのような中で,市民にとって必要な知識とか理解というものがどういうものにあるのかという文脈のもと,社会を支える法とか人権,司法制度の基本的な原理がどのように若者と関係しているのかというようなことを取り入れようというような動きができました。
 それでは,どういうプログラムが作られたかということになります。ここで代表的なプログラムとして考えられるのは,犯罪防止をするために少年にとって必要な知識,理解,態度がどういうものなのかというような発想のもとで作られるプログラムが一つの方向性としてあります。もう一つは,人権という価値というものは普遍的なものであることを教える方向性です。特にイギリスとヨーロッパ全体,EUとの関係性というものを意識しつつ,そういう中で人権というものがやはり普遍的な価値であるのだということを教えようとしているということがあります。そういう二つの方向から,イギリスの法教育は取り組まれていると一般的に言われていると考えられます。
 以上になります。ありがとうございました。

土井座長 どうもありがとうございました。
 それでは,質疑応答に入りたいと思います。どなたからでも結構ですので,御発言をお願いします。いかがでしょうか。
 この点,橋本委員の方もいろいろと御検討されているということですが,何か補足的に説明されることはありますか。

橋本委員 補足というよりも,今回の御報告の中で是非お聞きしたい点がありまして,アメリカの憲法教育とアメリカの法教育の関係というか,どうしても日本の法教育の改善を考えた場合,憲法教育をどうするのかということがやはり重要な視点になってくる,これは江口先生も御指摘されたと思うのですが,アメリカの法教育における憲法教育の位置をどういうふうにお考えかということの御説明を補足いただければと思います。

磯山準研究員 アメリカの法教育の話をする際には,非常に多様な法について学んでいるのだという議論を,私たちが日本で研究しているからこそ強調したい点ではあります。しかし,そこで忘れてはならないのは,やはり,アメリカの法教育において憲法教育というものは決してないがしろにされていないということを,もう一度確認しておいた方がよいと思っています。それは,これまで紹介してきましたどのカリキュラムにおいてもそうなのですけれども,それぞれ位置付けとか方法とかには差があるのですが,憲法にまつわるもの,特に「権利の章典」と呼ばれているものというのは必ず内容として取り組まれています。具体的には,例えば,先ほどの熊さんの話をしていた“FoundationsofDemocracy”というカリキュラムでは,最初はもちろん熊さんのはちみつの話をしたり,動物園の園長さんの責任は何かなど,いろいろ考えてはいきます。けれども,学年段階を追うごとに,特に高校生段階になると政治のシステムというものがどういうものなのかということを含めつつ,その憲法教育的な意味合いのある内容を取り扱っています。
 それから,2番目の“StreetLaw”では,これは確かにいろいろな実定法を扱った教材で構成されているのですが,最後の「個人の権利と自由」という場面において,憲法教育的な内容を取り扱っています。これは一つのユニットとして組み込まれている例だと思われます。
 この“RespectMe,RespectYourself”では,これは学ぼうとしているのは一貫して確かに調停という方法ではあります。けれども,そこでは,「個人の権利と自由」と言われるような「権利の章典」のいろいろな条項,条文がありますが,それらを一つずつに関連する内容で,かつそれが子供にとって身近である内容というものがどういうものなのかということを吟味して取り扱っています。さらに,その中でも対立があって,それを調停しなければならないというようなシチュエーションを設定しています。そうすることによって,それぞれの一つひとつの条項,条文の言っている個人の権利とか自由というものの意味は何なのかということを考える場を設定しているのがこの“RespectMe,RespectYourself”だというふうに考えられます。
 ですから,強調したいことは,決してアメリカの法教育は憲法教育を無視しているわけではないということです。

土井座長 どうもありがとうございました。私も憲法が専攻なのですが,最後のカリキュラムのタイトル「I'mthePeople」という言い方,これは多分WethepeopleoftheUnitedStatesというアメリカ憲法の冒頭にある「我々アメリカ人民は」というのを受けている,日本国憲法も冒頭は「我々日本国民は」から始まるのですけれども,そういうものを受けてカリキュラムを組んでいらっしゃる。「FoundationsofDemocracy」もそうだと思いますけれども,国民が基本的に守るべき,基本的な理念としての憲法という点を重視してカリキュラムを作っていらっしゃるのだろうなというふうに思います。
 そのほか,御意見等ございますでしょうか。

唐津委員 アメリカの法教育カリキュラム,四つの代表的なものということで御紹介があったのですが,こういうものの提示があって,あとどれを選択するかというのはそれぞれの学校が勝手に決めるのですか。

磯山準研究員 これも,ちょっと先ほどうまく説明できなくて申しわけありませんでしたが,多様なカリキュラムができる背景にあるものは,アメリカの場合は何もそういう規制がないのです。ちょっと日本では考えられないことなのですが,州によってそのフレームワークをもちろん設定していきます。さらに,州の教育の方針というものも州独自にもちろん任されていますし,その後,そのフレームワークをどういうふうにするのかということも任されています。だからこれらのどれを選択するかということはもちろん,各学校にも任されておりますし,そういう意味では,ある意味これを提示している組織としては,「自分たちはこういう考えでいるのだ」ということを主張したいというのがメインの目的の一つになります。そして,それがその後どういうふうに取り組まれているかということではなく,「自分たちがやったことには意味があるのだ」という全面的な自信,何というか信念みたいなものがあります。だからどこの学校がどれを選択しなければならないということはだれも制約していないのです。

唐津委員 それぞれの学校の判断で,どういう法教育をしようかということをそれぞれの学校が自立的に決めている,ということですか。

磯山準研究員 ただ,州のフレームワークというものが全く影響を及ぼさないということはないわけです。学校が判断する際に影響を及ぼすもう一つ要因として考えられるのは,ある程度州ごとに影響を及ぼしている法教育の団体というものが,さらにまたあるのです。その数というものも膨大にあります。法教育に実際に取り組んでいく組織の方針の影響というのがおそらく強いと思います。
 かつ,この提示してきた法教育の団体ですが,先ほどは四つしか提示できなかったのですけれども,実際には六つあります。その六つの団体がある州はやはり,そのものを取り入れようという方向がそれなりに強いですね。これら六つの団体は,それぞれいろいろな州に点在していますので。

土井座長 恐らくアメリカは連邦制度のものですから,教育の基本的な発想は各州がある程度持っているということで,このテキスト等を作っているのは必ずしも政府そのものではなくて,法律家協会とかいろいろな協会があって,それがいろいろな案を出して,それが各州の方針とどうかかわるかということをやって,最終的に学校が決めるというやり方をしているのだろうと思うのですが。それとの関連で少し私の方から伺っておきたいのは,この「Law-RelatedEducationAct」という,これは連邦法ですね。これがどういう内容のもので,どういう目的で作られたものかということと,今,唐津委員からの御質問との関係で,途中おっしゃられた「ナショナル・スタンダード」の開発,あるいは「ナショナル・スタンダード」として提示していくという,この「ナショナル・スタンダード」というのがどういう内容のもので,どういう観点から打ち出されてきたものかというのを少し御説明していただければ有り難いのですけれども。

磯山準研究員 この“Law-RelatedEducationAct”というものなのですが,この段階で同時になされてきたアメリカの教育改革の流れが背景にあります。それこそ先ほど述べました「市民的資質教育の再生」という法教育の目的と深く関連のあるところなのですが,新しくいろいろな教育への取り組みとか発想を変えなければいけないという時代的な流れがありました。“Law-RelatedEducationAct”が策定されるより以前から,具体的にこういう法教育の在り方についていろいろな議論が行われていたと思われます。その経緯のもとで,細かい幾つかの法的な文章が出されています。そうした中でやはり同じように法教育というものがどうあるべきかとか,どういった内容が具体的に法教育としてふさわしいのかということを決定付けるというか,規定するために作られたというのが目的の一つであります。あとは実際的にはアメリカの教育の場合は,こういうものを決めることによって,ある程度金銭的な流れというものを具体的に確保することを目的として考えているのではないかと思います。

土井座長 ということは,これはやはり連邦政府として「Law-RelatedEducation」を推進するという形,あるいはそれを本格的な形にしていくということについて明確な意思表示をするということ,実際に教材の開発等は先ほど言ったような団体がするにしても,それについての財政的な援助等も打ち出すという形で,連邦としてバックアップするということを明示するために作った法律だというふうに理解してよろしいですか。

磯山準研究員 そういうふうに思います。

江口委員 若干補足しますと,中等教育の改善に関する教育法も大規模に変えます。多分,100法以上変わります。そのうちの一つだということです。例えば,環境教育を学校の中へ入れるべきではないかというときに,法律という形をとらないと補助金及び団体を容認できないものですから,そういう形でやります。ですから,多分,私は正確には覚えていないのですけれども,300何ページにその教育法だけが出てくるのです。そのうちの一部だということです。その中に「Law-RelatedEducationAct」も入ってくるということです。

土井座長 どうもありがとうございます。

荻原委員 今のお話を伺っていて,クリントンのときに随分ナショナル・スタンダードができたというのが,先ほど唐津さんがお聞きになったときに私がふと思い出したのですけれども,クリントンさんはどちらかというと日本の教育制度をお手本にされたということを聞いたことがあるのです。日本は,離島であっても東京であっても同じレベルの教育をしているから国民が優秀なのだということがあって,アメリカの場合は各州,各市町村によって全然違うし,各先生の能力によって与える教材もてんでんばらばらで,それによって地域格差だとか,子供のラッキー,アンラッキーが生まれてしまうのはいけないということでナショナル・スタンダードを作ったと聞いているのです。いろいろな規制がないことがいろいろな教材を生むというのがあるのですけれども,それのデメリットの面を考えてナショナル・スタンダードを考えたというのを聞いていまして,そういう大きな国でいろいろな各地区の独立というか自主性をものすごく重んじているところはやはり,法律である程度幾つか「これは教えるのだ」と決めていかないと,きっと突き進んでいかないからこういう法律は,環境教育はこうだというふうに決めていったのだろうなと,私は今日のお話を聞いて思ったのです。いろいろなアメリカのすばらしいこと,教材とかもできているのですけれども,政治不信から生まれたというところに私はすごく興味がありまして,イギリスでもアメリカでも政治不信からこのことをもうちょっとちゃんとやらなければいけないというふうに生まれたのですけれども,まだ始まったばかりですけれども,10年ぐらいたって実際に成果というのはどうなのだろうかという気がしているのです。日本から見てもアメリカの政治不信が払拭されたとは思っていないですし,その辺がやはり今,日本もものすごく政治不信に陥っていますから,「政治家を信頼できるか」と聞かれたら多分,街頭インタビューで何割かは信用していると言うかもしれないけれども,逮捕される人数が政治家が最もいろいろな職業の中で多いというこの現状を見ますとやはり,一番法教育を日本は求められているのだけれども,どこをお手本にしたらいいのかよく分からないというところで,もしアメリカが成功しているのだったらその部分を取ってきてと思うのですけれども,こうやってやってどういう成果が今,上がっているのかというところを知りたいなと。最高裁の判決を例にとってやるなんてすごくいいことだと思うのです。例えば,今回の最高裁判所の選挙のときに×をする者がおりましたけれども,あれもじっくり読んでみて,こういうので反対意見があったり賛成意見があったりするのだというのはすごくいい教材になると思うのですけれども,そういうのを日本では余り,現在行われている最高裁判決についての教育というのは余りないような気もするのですけれども,そういうのが行われると現在生きている私たちが賛否両論出ているものについて考えることが,次の行動につながって,それが世の中を変えることにつながるというふうになるなと思うので,こういうのをすぐに取り入れたいという気はしましたけれども,その辺のアメリカの成果と,それから大杉先生には現在の最高裁判決などを取り入れてやるとか,本当に生きた教材が身の回りにたくさんあるわけですから,もっとそういうのを生かしていくような教育に変わっていくべきなのではないかという気がするのですけれども。

土井座長 どうもありがとうございました。
 後半の部分は次の議論のところでまた取り入れさせていただくということにして,アメリカの教育成果について,磯山さんの方から何かあれば。

磯山準研究員 これも常に問われることなので,また同じように答えると,「なーんだ」と言われるような答えになってしまいます。先ほどちょっとお話した流れの中で,いろいろなものをアメリカ人は作る,それでアメリカ人は常に自分の作ったものに対する自負と信念を持って,「自分のところは最高である」と考えています。したがって,どういう成果がそれでもたらせたのかという質問をすることは一つのタブーみたいなものがあって,何か聞いた瞬間に明らかに顔が曇って「何でそんなことを聞くんだ。うちのが最高なんだ」,「それ以上のことはないんだ」というのです。何かこう,やはり日本人にはちょっと考えられないような,そういう反応に逆にすごく驚かされるし,勇気付けられるところでもあるのですけれども。教育一般にそうなのですが,確かにこういうカリキュラムのみならずレッスンプランと言われるような,実際にその現場の中でどう教えるかという学習の指導案みたいなものはもちろんたくさん情報としては出てくるのです。けれども,「それで生徒がどういうふうに変わったのか」という問いをしても,「そんなことを考えることに何か意味があるのか」といった反応があるので,そういう成果と呼ばれるような,いわゆる効果研究というものはアメリカで行うのはすごく難しいのでなかなかできないものです。これは別に私が一人でそう言っているわけではなく,アメリカの研究者は教育の場合はどの領域にいてもやはりちょっと難しいと考えています。もちろん丹念に個別に当たって実証的な研究をされている方もいらっしゃいます。でも,多くの場合は,何ていうのか,砂を拾ってみてはやはり何もそこにはなかったみたいな状態ですね。

土井座長 ありがとうございます。今の荻原委員の御質問の中に御意見としてあったと思いますが,いろいろな団体がいろいろな教材を積極的に開発して多様なカリキュラムをつくっていくということ自体を促進するということも重要ですし,他方でそれを促進するために,こういう教育が重要であるし,その方向で援助していくという形での全体の意思というか,国としてあるいは都道府県としていろいろあると思いますが,やるという意思をどういうふうに明確にしていくか,示していくかという,両方考えていかなければいけないということではないだろかというふうに思います。
 いろいろと御意見もおありかと思いますが,時間の関係もございますので次の論点の方に移りたいと思います。
 磯山準研究員,どうもありがとうございました。

2.日本の法教育の在り方について

土井座長 本日,後半の部分につきましては,日本の法教育の在り方について意見交換を進めたいと思います。これまでのところ,本日を含めまして4回,既に回を重ねてきたわけで,いずれも関係の方々から有意義なお話を聞くことができたと思っております。それで,各委員の方もそれぞれに法教育のイメージ,あるいはどういうふうに法教育を築き上げていくかという点について,様々なお考えをお持ちになってきつつあるものと思います。
 そこで,この機会に一度,法教育についての考え方につきまして,自由に意見交換をしていただいて,この研究会の方としてどういう点を,どういう形で議論を進めていくのがよいかという点について考えていきたいと思っております。と言いましても,漠然と「意見交換を」ということになりますと議論が散漫になってしまうという可能性もありますので,私の方で簡単な交通整理といいますか,どういう形で議論をしておくべきかという点についての,今のところの考えを提示させていただきたいと思います。
 そこで,お手元にあります法教育研究会の開催要領の方を御覧頂ければと思います。この事項に従いまして,少し整理をさせていただきたいと思います。
 その「3 研究事項」と書かれてあるうちの第1が「我が国における法教育等の現状と問題点」という項目でございます。前回,学校教育課程につきましては大杉委員から現行の学習指導要領を中心に,どの学年で,どういう教材を使って,またどのような教科でどういう内容が教育されているかという点について概括的に御説明をいただきました。恐らく,これを踏まえて,現在の教材,科目あるいは教えている内容,方法等についてどのような問題があるのか,あるいは今後どうすべきかという点について議論をしていく必要があるのではないかと考えております。
 それからもう1点の方は,現在実践されている裁判官,検察官,弁護士,司法書士という,いわゆる実務家が実際に行われている法や司法に関する教育の取組みにつきましても既に御紹介をいただいております。これを受けまして,このような実務家が行っておられる教育の内容,実践方法の意義あるいは問題点について議論をするとともに,今後どういう形で先生方と連携を深めていって,学校の教育課程の中で法教育をどういう形で有機的に展開していくかという点について議論をしていく必要があるのではないかと考えております。この点は,今後,法教育を考えていく上で学校の先生が実際にやっていただく役割と実務家がどういうふうにかかわっていくかという役割分担の問題についても検討していただく必要があるのではないかと思っております。
 それから,(2)の方ですが,「諸外国における法教育等の現状」につきましては,これは本日の磯山先生からの御説明,あるいは第1回の会議の際に江口委員,鈴木委員から御説明をいただいているところであります。また,前回,鈴木委員から,今日も御説明がありましたアメリカにおける法教育というものに次いで,どういうスタンスをとっていくのかという貴重な指摘をいただいておりますように,諸外国で行われている法教育というものと,我が国で今後目指すべき法教育というものをどういう関係でとらえていくかという点について,御議論,検討していただく必要があろうかと思います。
 この(1),(2)の検討を受けまして,(3)の方,「我が国における法教育等の在り方」について議論をしていく必要があろうかと思います。
 教育の問題と,特に法教育関係の問題になりますと,これは我々の社会がどうあるべきか,法の在り方あるいは社会全体の在り方というものについてやはり,一定のイメージがあって,それに向けて法教育をどういう目標を設定して実施していくのか,そして具体的にどういう内容を教えて,またどういう方法でそれを実現していくのが適切かということを総論的にまず考える必要があろうかと思っております。
 その上で,具体的な内容としまして,今までのところ消費者教育の在り方の問題ですとか,いじめ,非行の問題ですとか,幾つかの点,あるいは議論の中では民事法の在り方,民事法の問題等上がっておりますが,どういう具体的な課題について検討するのか教育していくのが必要かということについて検討する必要があろうかと思います。
 方法につきましても,各委員の方から何度かお出しいただいている点ですけれども,発達段階,各年齢というものをどうとらえるか,その適切な年齢にどういう内容を教えていくかという点,それから教材の問題等について,御検討いただく必要があろうかというふうに思っております。
 これが大体,私の方で考えております論点と申しますか,御検討いただきたい点ではないかと思っているところであります。
 これらの点について,今日御議論をいただきたい,今のところの御見解,御意見等を伺いたいということですが,まず最初に,今この順番からいきますと,「我が国における法教育等の現状と問題点」。実際に今行われている法教育について,その意義もあろうと思いますし,問題点も御指摘いただければどうかというふうに思っております。
 前回,大杉委員からの御説明の際に出ていた問題としましては,鈴木委員から「発達段階,そしてどういうふうに教育をすべきなのか」。今日の磯山先生の方からは「スパイラルな教育,ある一つのコンセプトを段階的に教えていくという必要性があるのではないか」という御指摘もございましたし,荻原委員からは,「現在の教育課程というのはどうしても知識中心になっていて,もう少し考えさせるという力を育てるべきではないか」という御指摘もございました。これに関連してでも結構ですし,あるいはそれ以外の点でも結構ですので,現在行われている法教育の現状あるいは問題点について御意見等があれば,各委員の方からおっしゃっていただければと思います。いかがでしょうか。

沖野委員 ちょうど土井座長が二つの点に分けて問題を整理してくださいましたので,その2点について若干感じたところをお伝えできればと思います。
 一つは,学校教育課程についてお示しいただいた点で,これは実は,私自身は相当の問題が既に取り上げられているということに驚いたのでございます。かなりの問題が既に取り上げられているという感想を持ちました。ただ,しかしながら一方で,それが非常に個別に散在しているという印象を持っておりまして,法教育という観点からいたしますと,例えば,消費者はここで触れています,環境にはここで触れていますという,個別の問題はこれこれということなのですが,一体どういう視点でここに消費者を持ってきているのか,あるいは環境を持ってきているのかといった点が必ずしもはっきりしないのではないか。それは,現時点でのカリキュラムが法教育の観点から組まれているわけでは必ずしもないということもあるのではないかと思いますが,現在のカリキュラムについて,全体の体系化といいますか,横の連携というか,そういう点が一つあるのではないかと思います。それから,取り上げる科目として適切かという問題も一つありますけれども,もう一つ,取り上げ方の問題で,これは前回鈴木委員から既に御指摘をいただいたところで,具体的に消費者問題等の取り上げ方について御指摘がありましたし,言及もしていただきましたので,関連して,「例えば」ということでお伝えしたいと思います。
 消費者問題ですと,確か,いただいた教材等では消費者の権利ですとか消費者保護と,あるいは具体的な法律として消費者契約法といったものが挙げられておりまして,かなりの知識が詰め込まれているという感じではあったのですが,ただ,消費者の保護としてこういう制度になっていますという形であるとの印象を持っていまして,むしろ根本にある,正に鈴木委員がおっしゃったような民法の基礎にある社会構造を支えるような仕組みとしての私的自治の考え方,自己決定と自己責任とそれを更に支える能力制度というものが民法の仕組みとして,あるいは社会の根底の仕組みとしてあって,それを踏まえて消費者契約の問題というのが出てくるという構造のとらえ方がもう少し,私の専攻しているような分野から見ますと,そういった記述がもう少しあった方がいいのではないかと感じております。それは,ただ単に私法の分野をもう少し,民法の分野ももう少し取り上げるべきだというのではなくて,こういう考え方自体がかなり基礎的な考え方で,既に現在あり,その下で社会が構成されているということがありますので,その点を取り上げるべきではないかと思います。前回確か,清永先生がプレゼンテーションをしてくださったときに,援助交際の例を挙げられて,「自分で選んで好きにやっているのだからいいじゃないか。」ということに対して「どう答えますか。」という話に関して,それは結局,いわば食い物にされていることが分からない,あなたは実はこれだけの危険なことを負っているのだ,十分な判断ができないところに自己決定で自己責任で,自分はそれでやっているからいいということを言わせないという話ではなかったかと思うのですが,それは正に私的自治の考え方の根底にあるようなものですので,そういったところを付加するといいますか,少し観点として見直すということがあるのではないかというふうに思っております。
 また,それによって,消費者契約問題自体の性質,消費者契約問題は,最終的,根本的には,結局は要らないものは要らないと言えて,要らないものは何かを判断できるということさえ確保されればよいということがときに言われますけれども,そういった問題であるということも明確になるかと思います。これが一例ですけれども,既に取り上げられている問題についてももう少し,取組み方を考え直すことがあるのではないかという気がいたします。
 2点目の法律実務家によって既に行われている取組みにつきましては,これも既にここまでやられているのかというふうに感銘を受けたことが多くあるのですが,他方で,こういったところもどうかと思う点がございます。ここで見せていただいた点からいたしますと,例えば司法書士会で特に取り上げられておりますような一種,身を守る知恵的な知識の伝達という点は,充実した教材も用意されていて,これについてはその普及化が大きな問題ではないかという印象を持っております。それから弁護士会等で取り組まれている,特に正義論的な,異なる価値判断がいろいろあって,その中でどういうような選択をしルール化していくのか,しているのかという点は,まだその方法等十分に根付いてはいないかもしれませんけれども,重要な課題として非常に注目はされているということが分かりました。そして,この問題ないしこれに取り組むこと自体は重要なことであり,これについては,それをどう実践していくかというのが問題としては残っているのではないかという印象を持っております。
 それから,裁判所等での取組みの中で,身近な司法ということで,自分たちが身近な存在なのだということを分かっていただくという話があって,これもそういう取組みがされていることに感銘を受けました。ただ,この点につきましては,「身近な法」というときには,恐らく二つほど問題があって,一つは雲の上にいた裁判官が実は隣の人だったというような意味での権威の身近さというようなところ,それが親しみやすさにつながっていくという面と,よりもっと主体的な側面があって,それ自体が自分の問題だというようなとらえ方,ルールの策定ですとか,適用というのは別に,裁判官という権威のある人がやっているということではなくて,もっと自分たちもそういう場にあるのだというとらえ方をするような部分,一言でいうと「主体性」という問題ですけれども,その部分の身近さというところが少しまだ,全体を見て,すべての取組みにおいて,そこの取組みが少し不足しているのかなと思っております。
 それは,更に言いますと,第1回目に荻原委員がおっしゃった御指摘に正に関連していて,何か問題があったときに,「あなたがやりなさい」と,自分がやろうということではなくて,ほかの人がやる問題で「何とかしろ」という態度にいくというところとも重なっているのだと思うのですが,国家法自体もやはり,自分たちのものである,自らが主体的な立場に立って取り組んでいく,そういう立場にあるのだということが実感されるような「身近さ」が重要なのではないかと思います。それが,個人からいきなり国家法となって余りに段階が離れていると,何かほかのところの話だということになってしまうかと思うのですが,いろいろなレベルがあって,非常に身近な集団から国家あるいは国際社会まで段階があって,それ自体は前回の指導要領でも現れていた視点ですけれども,そこをつなぐことによって自分たち自身が主体的な存在だということが理解されるということがあるのではないか。そこの部分が今までの取組みでは必ずしも実践的な取組みとしてやられていなかったのではないかという印象を持っております。

土井座長 どうもありがとうございました。
 幾つか重要な点を御指摘いただいていて,それぞれに議論する方がいいのではないかと思いますので,ちょっと整理しながらお話しします。
 まず,全体の理念との関係で今,御指摘いただいた点で重要なのは,主体的な側面ということ,知識を教え込まれるというだけではなくて,また法というのは何か規制を受けるというだけのものではなくて,自分たちが生活していく上で,あるいは生きていく上で主体的にかかわる,あるいは積極的に用いていくものなのだという側面,それをどういう形で取り入れていくかという点が重要ではないか。そのやり方としての正義論的方法と,沖野委員はおっしゃいましたし,今日上がっているアメリカ型の法教育一つのメインのテーマになろうかと思いますが,こういう点を充実させていくべきではないかという御指摘をいただいたわけですが,この点について,他の委員,どのようなお考えでしょうか。いかがでしょう。

荻原委員 この法教育委員会に来るときに私は,法律を全然知りませんので幾つか本を読んでみたのです。そして,その本の中で法律を分からない自分が読んでみて,法律というのは弱い者のためのものだというので,「え,そうだったの」なんて思ってしまったのですけれども。それとか,先ほどの援助交際の例でも,判断できない者に「自由」といって全部判断させるということ自体がだめなのだという考え方とか,自己決定させないというのを多分,民法の基本のところには多分,法学部を卒業された方とか勉強されているのでしょうけれども,やはりそういうことを小学校のレベルで分かるように教えてもらいたいと思うのです。だから,法律はだれかが,上の人が勝手に決めて従わせるものではなくて,本来もともと法律ができた成り立ちからして強い者ばかりが勝ってしまう世の中だといけないから,だんだん法律というもので弱い者を守っていこうという基本があってとか,あと知識のない人がだまされたりしないようにとか,そういうことでいろいろなルールができていたりとか,皆,弱い者を守るためにあるのだとか,そういう意味でさまざまな消費者契約法でも環境の法律でも,そちらから出ていった,根本から教えていっていただけると変な判断をしなくていいのではないか。「援助交際は私の勝手よ」みたいな,そんな言葉が出てこない人間が育つのではないかという気がするのです。
 沖野先生もおっしゃったように,本当にどういう教育をしてほしいかというと,こういう法律がありますよという名前を教えるのではなくて,小学校の段階とか中学校の段階でも法律の理念の部分を何とか教える方法を工夫していただけないものだろうか。そうすると,もっと身近で考える力も出てくるのではないかなという気がするのですけれども。

土井座長 どうもありがとうございます。
 法の根底にあるものといいますか,法の基本的な考え方,理念,何を目指しているのかという点についての根本的な教育が必要ではないかという御意見だと思いますが,いかがでしょう。

山根委員 今までこの研究会に参加してきまして感じたことですけれども,政治経済,社会といった教科を法的な知識として教えるということと,「法を守りましょう」という法を守る精神ですとか,生きていく知恵とか,心を育てるというようなもの,そういった教育を同じ,一緒に教える教材とか,そういった場を作るというのはとても難しいなというのをすごく感じています。やはり,私が優先してほしいと思うのは,子供が健全に育つための教育ということでありまして,やはり人の気持ちを思いやれるとか,危険が察知できるというのは想像力ですとか,人に情報を与えられて人からも情報を受け取って人間関係を作っていって自信を持って行動できる力とか,ちょっと漠然としておりますけれども,そういった力を付ける教育を優先してほしいと思います。
 今の子供たちは,前回の非行のお話でも大変心を痛めましたけれども,過激な情報というか,よくない刺激をたくさん浴びて育っていると思うのです。それに対抗するというか,改善するにはやはりいい情報というか,いい刺激をそれよりも多く与えなければ,脳が侵されてしまってだめなのかなというふうに思いますので,そういった改善する方法を学校や親,教育関係者だけでなくてやはり,社会全体の責任だと思いますので,社会一丸となって良い刺激を与える努力をしていかなければいけないというふうに思っています。
 法教育とどういうふうにかかわってくるか難しいのですけれども,やはり具体的には様々な体験学習を重ねたり,地域密着で,地味だけれどもいろいろボランティア活動に参加したりですとか,美しいものを見たりですとか,そういったことから心が育ってくると思いますので,学校に期待するところも大きいですけれども,いろいろなそういった具体的な体験活動の機会を増やして,そういった地域の力も活用するようなカリキュラムもどんどん作っていって欲しいと思っています。

土井座長 どうもありがとうございました。
 今,御指摘がありましたように,人間関係の基本の在り方,あるいは人間として相互に協力していく上での基礎的なスキルとしての法的な側面,それは「社会有るところに法有り」と言われるように,基本的に人間が協力していく上で,協同関係を作っていく上で,その基本的なルールとして法というものがあるという御指摘で,それをどういう形で教育していくかという問題だろうと思います。
 この研究会が開かれるきっかけとなった司法制度改革審議会の意見書の中で,司法というものがどういうものなのか,あるいは法というものがどういうものなのかという点についての一節がございます。ちょっと紹介させていただきたいのですけれども,「ただ一人の声であっても,真摯に語られる正義の言葉には,真剣に耳が傾けられなければならず,そのことは我々国民一人一人にとってかけがえのない人生を懸命に生きる一個の人間としての尊厳と誇りにかかわる問題であるという,憲法の最も基礎的原理である個人の尊重原理に直接つらなるものである。」という表現がございます。これは何を言っているかというと,人間が協同していくと同時に,それはやはり一個の人間として生きているわけであって,一体何が正しいのか,あるいはどうあるべきなのかということについて一人一人が意見を言えるという社会でなければいけないし,かつ,ここで「耳が傾けられなければならない」という表現を用いているわけですけれども,これは他人の異なる意見について耳を傾けるということ自体が異なる在り方をしている人を尊重するという意味で非常に重要な意味を持っている。特に,ここで司法が挙げられている理由は,それはいろいろと我々も意見を持つわけですけれども,直接総理大臣に意見を聞いてくれといっても総理大臣も忙しいわけで,あるいは選挙のときにしてもやはり1票にしかすぎないという側面があります。しかし,司法という過程にのりますと,裁判官はたった一人でも当事者が来ればやはり耳を傾けてくれるわけです。それは,聞かなければいけないし,一当事者として対等な中で自分の意見を言い,また相手方の意見を受けとめなければならないというシステムを作っている。そこのところが非常に重要で,またそれを支えるものが法なのだという考え方を示しているのだというふうに思います。
 それ自体,「司法とは何か」という言い方とすると難しい問題になるかもしれませんけれども,人間関係あるいは人間の基本的なルールということを形成していく上でも自分の意見をきっちり言う,また異なる意見についてもしっかり耳を傾ける,そして議論をした上である決定がなされれば,それに対してきちんと責任を負えるというようなことがやはり,法の基本にある。何か,日本の場合はどうしても雰囲気というものがあって,なかなか意見は言わないところがございます。それで,何となく分かり合えるという,いい側面もあるのですけれども,逆に言いますと,何となく分かり合って決めたものだから,問題があったときに責任の所在ということになると今度はよく分からないというような問題も出てくる。これが現状の問題でもあろうかと思います。その意味では法教育という形で議論をするわけですけれども,その根底にあるものというものは非常に重要な問題で,そこを中心にいろいろと組み立てていくということは重要ではないかと,個人的に考えているところです。
 それとの関係で,次のテーマなのですが,沖野委員も御指摘になられた点で,非常に多くの内容がいろいろと教育課程の中に入っているのだけれども,それが十分体系化されていない,その項目ごとに議論をされているのではないかという御指摘がございます。
 今日の磯山先生の御報告の中で,私が面白いなと思ったのは,アメリカのやり方でキーワードを決めていくというやり方,権利なら権利,あるいは権威なら権威,プライバシーならプライバシーというキーワードを立てていって,それでいろいろと議論をさせていく,その中で全体を体系化させていくというのは非常に面白いのではないか。今,申し上げた形を理念の観点からいくと,その理念にふさわしいキーワードを選んで,それが全体として重要なのだとした上で,それをどういう形で教えていくのがいいのかという問題の立て方をしているというふうに伺ったわけです。そういう形で体系化,あるいは体系的な整理というのも考えられるのではないかという印象を持ったのですが,このあたり,各委員はどういう印象をお持ちになっておられるか,それぞれの課題について,御関心もあろうかと思いますので御意見いただければと思います。いかがでしょうか。
 前回の学習指導要領との関係では,今の学習指導要領のコンセプトとして,身近なものからだんだん遠いところへ行く,あるいは過去・現在・将来という観点でも組み上がっているという御説明を大杉委員からいただいたと思うのですが。

江口委員 若干文科省に注文をつけることになると思いますので,大杉先生には申し訳ないと思います。私と大杉先生は,同じ研究領域ですし,例えば犯罪・紛争や損害・不正は,もう放っておけないという状況の中で,そういうものを予防したり処理したり,あるいは回復したりする手段の学習の機会を与えるべきだというのが多分,アメリカやイギリスのメッセージだったと思うのです。その教え方をどうするかというのは,それぞれの国特有の法体系があるし,国民性があるし,やり方があると思うのですけれども,日本の場合には,今までは間違いなく国を,少なくとも新しい憲法体制の下で作っていく意義を理解させることであり,その場合に中心となるのは明らかに政治の力によって国を変えていくことであり,そういう流れの中で学習指導要領は作られています。それを柱に法や司法やあるいは問題や損害や犯罪というのはくっつけていった形をとっているので,例えば消費者法も契約の基本的なことを教えるわけではなくて,消費者法が契約法へ変わっていって,国家はこういう政策的な意図をやっているのだと教えているわけです。でもそういう方法だけでは状況としては済まないので,どこかにそういうカリキュラムを位置付けられるような工夫ができないか。それは別に数十時間が必要と言っているわけではなくて,まとまりとしてやれるような工夫をして欲しいというのが要望なのです。

土井座長 いかがでしょうか。

大杉委員 学校教育の中でいろいろな必要なものを,限られた時間の中でカリキュラムを作っているわけです。例えば,社会科などでは社会領域,経済領域,政治領域と,この前お話ししたとおりなのですけれども,その中では先ほど沖野委員も言われましたけれども,消費者問題が経済で出てくる。扱いが,法教育から見たらどうだろうかというところがあったと思うのです。これは,例えば経済であれば,最初は市場経済の基本的な考え方をやって,その後,国や地方公共団体の経済に対する役割という,いわゆる系統的な形で経済社会の仕組みを理解する。その中で出てくる諸問題に対して国はどういう働きをしているのかということで消費者保護行政について考えるという立て方なのです。それを民法上どうであるかという問題になると,少し発展的な観点から見ていかないといけない。中学校の場合だと,憲法以外は具体的な法律については非常に細かいことまではやらないのです。子供の,小・中・高の成長というのがありますから,そういう意味で,まずは前回申しましたように,先ほど土井座長もおっしゃられたように,「社会有ればルール有り,法有り」ということで,最初の社会科の中学校のところで,社会集団が形成されたときに何が必要なのかというのをやるわけですけれども,その後,社会,経済,政治の領域の少し体系的な学習を行っていく。そのときに法教育,あるいはほかにも○○教育というのがたくさんあるのですけれども,それはカリキュラム構成でいうと幾つかのある領域,問題単元的に学習内容を見たらどう考えられるだろうかというのと,学校教育は各教科のいろいろな体系的,系統的な内容で組んでいるという二つの側面がありますから,今回,個人的に思うのは,法教育,特にアメリカの方法等,前回鈴木委員からアメリカのものをどう持ち込めるかという御提案をいただいたのですけれども,やはりそれは問題単元的な形で幾つか,ある学習をしたときに少し,いろいろな知識を組み合わせて問題単元的に考えてみようというふうに,そういう組入れ方も可能かなと思うのです。それが系統的なカリキュラム,問題単元的なカリキュラムというもの。今まで,そういうことが繰り返されてきたのですけれども,そこを考えないといけない。
 もう一つ,アメリカの場合は,これは不正確かもしれませんけれども,いろいろな団体がカリキュラムを作って教科書も作って,教材もパッケージで,指導法もちゃんとマニュアルがあるという形になっていますけれども,日本の場合は基本的な,大綱的な指導要領,それに基づいて教科書ができて,更に学校の先生方が子供たちを実際に見て,こういう教材なら興味,関心を持ってくれるだろうという教材開発をしてもらったり,あるいは一番いいと思う指導資料を学校で採用して使われて,それで幾つか学習を展開されると思うのです。
 先ほどの荻原委員がおっしゃられたように判例もやはり,先生方の中で中・高で判例を取り上げながら指導集の中で学習されている方はたくさんいらっしゃるのです。それは,指導要領とかは大綱的ですから表には見えないのですけれども,実際に教室や学習場面では出てきていると思うのです。そういう意味では今,何が足りないかというと,いわゆる教材,先生方が役に立つ教材開発とか指導資料でこんな面白い授業になるのだよという部分がたくさん競い合って出れば,学校教育の中でいろいろな○○教育,環境教育等々いろいろな教育があるのですけれども,それがうまく学校の中で,授業の中で花開いてくれるのではないかなというように思っているのですが。

土井座長 どうもありがとうございました。
 今,大杉委員から御指摘いただいた点も重要な点だと思います。
 第1点は,現在学習指導要領があって,それに基づいて様々な体系化が行われている,あるいは教えるべき内容が定まっている。それを前提にして大杉委員の御説明ですと,問題単元的に,どの問題項目の中で法教育というものを結びつけていって,できるだけ早い段階で法教育を推奨していくか,広げていくかという意味での議論の立て方が一つあろうかと思います。
 もう一つは,江口委員から御指摘がありましたように,確かにその点は重要なのだけれども,学習指導要領での組立て方,あるいは事項の取扱い方というものも長期的に見ればいろいろと検討する必要があるのではないか。
 これは,私個人の教科書を読んだ印象なのですけれども,確かに大杉委員がおっしゃられるように,政治と経済というのが大体基本的に大きく分かれていて,それぞれに体系化がされているということはそのとおりだろうと思うのです。ただ私が読んだ印象からしますと,政治についても経済にしてもやはり,システム先行型なのです。市場というシステム,あるいは国家というシステム,あるいは政治というシステムがどうなっているかということを教える。そのためにどう体系化するかということになっております。そのときに,どうしても欠落しがちなのが,ではその中で君はどういう立場になるのか,君はどうかかわるんだという視点が,逆に言うとごそっと落ちてしまう。システムの側から体系化しているために個々人のコミットメントという視点がごそっと落ちてしまう。結果として,どうしても知識が先行していくという構造もやはり内在的に持っていて,その点で先ほどから出ている法教育の理念というのは,個人がどう関与していくか,どういうふうに人間関係を築き,あるいは社会を築き,自分の役割規定をしていくか,責任を負うべきかという点にあるのだということからいくと,またそこには異なる組み方,ビジョンというものもあり得るわけです。であれば,それは直ちにというのか,あるいは長期的に見てそれを検討していった結果どういうことが出てくるのかという問題のやはり両論があるので,両方をにらみながら議論をしていく必要があるのではないか。それは学習指導要領というものに対してどうかかわっていくかという問題なわけで,これも議論していくべき課題ではないかというふうに思っております。

大杉委員 教科書は,指導要領を基本に出されていますので,座長が言われるようにシステムのところは,当然どんな仕組みの社会で生きているかというために知識としてあるのですけれども,学習指導要領の目標自体は個人と社会とのかかわり合いを中心に理解を深めるというのが目標で,それは指導法において実現していただきたいということでありますので,教科書を教えるという部分ではなくて,教科書を使って個人と社会とのかかわりを中心に理解を深めるという,そこの部分が非常に,おっしゃるとおりなのですけれども,大切な部分なので,ということを少し申し添えておきたいと思います。

鈴木委員 今の点,座長がほとんど尽くしてくださったのでよろしいのですが,最初に申し上げたように,弁護士になって法教育ということを考えたときに,今の憲法だとか訴訟の手続だとか,そういうのをどこでどう教わったかということを考えたと申し上げました。私は,大学受験も政治経済を選択しましたので,そういうのはよく分かっているのですが,その時代に弁護士になってから感じた法と社会との在り方,あるいは法と個人とのかかわりというようなことはほとんど身に付けてこなかったのではないか。むしろ,システム,今言われた制度的なこと,それこそ暗記するように理解していく。そしてまた,実際に日本人を考えてみても,そういった学習,勉強を法学部を出てもしてきていると思います。その後に社会に入る。そうすると,会社の帰属意識だとか,どこかの団体に帰属した,その中の個人という形で自己規定をしている。我々弁護士が最初に非常に戸惑うのは,一個人としての弁護士活動あるいは依頼者とのかかわりというようなことに,私なども公務員の息子ですからあれですけれども,慣れてなかったということで,だんだん今馴染んできていますけれども,そういうものを自己確立していくことがようやく出てきているのかな。ですから,そういう意味でも個人の立場から社会を見る,そういう発想での学習指導要領,教科書があっていいのではないか。
 体系は,教えても基本的には暗記で終わってしまって,その後の実社会にどれだけ役立つのか。それは,索引的に項目として残っていればよろしいのですが,過去に弁護士会の方でアンケートを取りましたけれども,なかなか「三権分立の『三権』とは何ですか」と聞いても答えられないような形のものが多いので,その辺は工夫していただければというふうに思っております。

土井座長 どうもありがとうございます。
 一番最初にも申し上げた点なのですが,具体的に実際教育をやっていただかなければならないわけで,それは基本的に教材ですとか,指導方法という形で収斂させないと,やはり文書をどう変えたからどうというだけですむわけではない。それは,そのとおりだろうと思います。その意味で,教材の開発やどういう教授法をやるかということについて検討するというのは重要な点になろうと思います。
 ただ,一方で法教育が重要なのだ,そういうことを進めていくことが重要なのだというメッセージをどういう形で出していくか。その文書の問題もありますし,それもまた検討しないとやはり,両輪でなければなかなか動かしていけないのではないかというのが個人的に思っている点でございます。
 今の鈴木委員が御指摘のとおりで,個人の側からどういうふうにかかわっていくか。「法」とは言っているわけですけれども,特に憲法教育などですと,法と政治というのはかなり密接にかかわっている部分がございます。それは,分かりやすい言葉で言うと,自分のことは自分で決めるという部分と皆のことを皆で決めるという,この二つの柱があって,一方が人権の問題であり,一方が民主主義の問題であるということなので,法という射程をどこに置くかという,またこれは一つ議論する必要があるのかもしれません。広い意味で言えば,それは法と政治という問題であろうかと思いますので,全体像をどう描くかという点は議論する必要があろうかと思っております。
 この点は,それぐらいにしまして,次の論点なのですが,これは実務家の先生方がいろいろと実際に学校へ行って教育の実践をされておられるということ,それから今言いましたような教育課程の方で学校の先生方がいろいろと努力をされつつある,また実際にされておられるという点との関係で,実務家の役割と学校の先生方の役割というものを法教育の中でどういうふうに位置付けていくか,どういうイメージで進めていくかという点も一つの大きな論点だろうと思うのですが,この辺り,実務の委員の先生方,あるいは学校の先生方から少し御意見をいただければと思うのですが,いかがでしょうか。

絹川委員 裁判所の取組みについての話がありましたので,若干感じたことを話したいと思うのですが,裁判所の取組みとしては,「裁判所と国民との関係で基本的にどういったところに問題があるのだろうか。どこが一番欠けているのだろうか。」という問題意識から入っているのだと思うのです。そういった面からすると,まずは裁判所や裁判官を親しみ深いものにしていくことが非常に重要になってくると思われます。ですので,そういった観点からまず出前講義とか模擬裁判とかで身近に話していくという機会を設けていっているということではないかなと思っております。では,法が自分たちのものとして取り組んでいくべきものであるという視点が全く抜けてしまっているのかというところなのですが,先日御紹介したような形で,例えば法廷見学の折には「実際,あなたならどうするの?」というような問いかけをしてみたり,あるいはビデオの中で身近な問題を取り上げることによって取り組んでいっているというところでございます。
 私,この法教育研究会のスタンスをどういうふうにとらえていっていいのかということをまだ考えあぐねているところなのですが,抽象的な議論になってしまっているのではないかと危惧しているところです。また,いろいろなテーマが出ているような感じになっていて,総花的な感じになっているのではないかと思います。まず,現在,どんな社会的病理病巣を抱えているのかということを検討した上で,取り組むべき社会的病理病巣の順位を付けていくことが必要なのかなという気がしています。そして,それをどんな法教育を施すことによって克服していくのかという順序で検討していくべきではないかと思っております。あと,法と政治の問題については,先ほど座長の方でも触れられましたけれども,政治教育,公民教育と法教育をどうやって区別していくかというところも御検討いただきたいと思います。

土井座長 どうもありがとうございます。
 後半は,先ほどの全体像との関係で,どういう論点を,どういう項目について重点的に取り組んでいくかというふうに議論を,ある意味で収斂させないとなかなか取りまとめが難しいし,実際に実施に移していく段階でもとりとめがなくなってしまうのは問題ではないかという点と,法と政治の関係について,どういうスタンスをとっていくかという点,これは考えないといけない点だと思います。
 それから,実務家との関係では親しみのある裁判所というのをどう国民の側で,生徒さんの側で受け止めていただくかという形でも御活動されておられて,その中で単に裁判所を見てもらうというだけではなくていろいろ御活動されておられるということだろうと思います。特に後者との関係で少し伺いたい点,これは実務の方と,それから今日は磯山先生あるいは江口委員がおられますので伺いたいのですけれども,実際の教育の場で,例えばアメリカの場合,どの程度あるいはどういう形で実務家が関与されておられるのかというのを両先生にちょっとお伺いしたいという点と,それと御発言いただいていましたので絹川委員の方に伺いたい点としましては,こういう形で法教育を進めていくということになると,スポット的に裁判所紹介という側面と,いろいろな形での全国津々浦々とまでいくかどうか,今後の検討課題でしょうけれども,広く教育の場で法教育を取り扱っていく際にどの程度実務家が関与していくべきなのか,あるいはどういうかかわり方をするのが適当だというふうなイメージを持っておられるか。できれば,それぞれ御発言いただけると有り難いと思うのですが。

江口委員 私,今磯山先生が今日しゃべられたCenterforCivicEducationは教育団体ですから,もともとの母体はカリフォルニア州弁護士会からスタートしていくわけですけれども,やはりある司法,あるいはそういう法曹関係者の一翼を担うというのも中立的ではないわけですし,教育にとってインセンティブを与える面とやはりデメリットになる面があるから,NPO法人として動き始めます。そのときに彼らは教育者集団として,あるいは教育集団として持っていきます。ここではほとんど弁護士は入っておりません。例えば,ちょうど磯山さんと私と数人でアメリカに行ったときに,車で私たちはロサンゼルスに戻るのですけれども,帰れなくて,ロドリゲスさんというメキシコ系の人が車に乗せて行ってくれると言うのです。「いいよ,君ら困っているのだから連れて行くよ」と。「車で一人でハイウエイへ行くと環境に悪いし,良くないので,『ほら,あの外国人,一人で運転しているよ』」とか,そういう形で言って,こういうことを伝えながら,実はそういうことを考えることが,例えば法の背景にあるもの,あるいはルールの背景にあるもの,あるいはルールはそういう形で動いていくのだよという形を伝えていくのです。その団体のカリキュラムです。
 もう一つ,鈴木先生たちと行ったABAという団体は完全に弁護士の団体ですから,それぞれの団体が専門的な知識を伝えてくれます。例えば,アメリカの刑法はこうなっている,あるいはその刑法の基本的な概念として,例えば推定無罪というのがあるならば推定無罪という概念がしっかりと分からないと陪審員にはなれないよと,そういう形でカリキュラムを作ってくれます。そのときには多分,法曹の専門家が入っていなければいけないだろうと思うし,逆に言えば推定無罪なんていう考え方の背景には,できるだけ平等に考えてごらん,あるいは事実をもって考えてごらん,あるいは自分の意見をちゃんと言ってごらんという,もっと広い概念が入ってくるだろうと思うのですけれども,そういうものは教育の中で,教育者集団で作れるわけです。それをつないでくれるカリキュラムだということで,それは法曹専門家が作っているし,教育者団体からも作っているというのが法曹のかかわり方の一つの事例だと思っています。

土井座長 ありがとうございます。
 もう1点,補足的にお伺いしたいのですけれども,実際の教育の場,学校ですね,カリキュラムの作成とか,あるいは教材の作成という側面と,学校の方ではどういう感じなのでしょう。

江口委員 本の宣伝になるので申し訳ないと思いますが,『世界の法教育』という本の中でテネシー州とかイリノイ州とか幾つかの例が紹介がされています。例えばテネシー州は,ADR推進の団体が教育に深くかかわっている。コネチカット州だと思いますけれども,コネチカット州のBarAssociationがかかわっている。それから,もう一つ紹介されている,StreetLawでは,先ほど言ったStreetLawを作っているロースクール及び法律センターがかかわっていく。そういう形で,多様な形があり,かつ実際に授業するタイプと,正にロースクールの学生がやるタイプと教員が研修を受けてやるタイプと,ひょっとしたら教員はよく分からないでカリキュラムを作っていたときに,それはこういうカリキュラムだよという形で支援するタイプなどの幾つかに分かれるような感じがしています。

土井座長 どうもありがとうございます。
 それぞれにそれぞれのかかわり方というのがあるだろう,アメリカの場合はそうだということなのですが,日本の場合,どういう形でのかかわり方が可能なのかという点について,何か実務の委員の方で御意見等が,今の段階であれば,いかがでしょうか。

高橋委員 かなり全国的に会員が学校に出向いてやっていますけれども,私もその学校の先生たちと話していて,社会とクラスをつなげる役割がある程度我々にはあるのではないかなという感じはしております。先生たちは,例えば商業高校だと商業法規というテキストがあって,前にお話ししたかもしれませんが,すばらしい内容なのですけれども,それを使いこなしていない,使い切れていないというか,先生自体もやはり実社会で,例えば小切手を見たことがないとか契約書を見たことがないとか,そういった実体験の,社会性の十分ではない先生方もいらっしゃるところがあるのでやはり,我々実務家としてはそういった意味で先生たちの,ある程度教材の補完機能を果たしていったり,本当に生の教材,我々自身が,人間が教材になってクラスとのつなぎ役をやるというようなことが必要なのかなということで思っているところはあります。
 最初に我々がプレゼンテーションした後に山根委員から質問があって,これから司法書士さんはどれだけできますかという質問もあったのですけれども,我々も本業がありながらやっているということもありますので,できれば先生方に学校の現場の方たちに直に生徒たちに話をしていただければ,そういった教材作りであるとか,そういった場であるとかというのを考えていきたいと思いますが,ベースは教育現場の先生たちにやっていただいて,我々はそれを補完する,バックアップするというような形で実務家がかかわっていくのが理想かなという考えを持っています。

館委員 今,高橋委員の方から説明があった内容に関してですけれども,我々,中学校の教員が法に関してどこまで知識を持っているかとか,法の理念に関して正確なものを持っているかというと,お恥ずかしい話,少し危ういところがあるわけです。「社会科の教師は見てきたような嘘をつく」と言われることがあるわけでして,自分で実際に世界を歩いた人だって世界各地のことはなかなか語れないのでして,特に法の問題はよほど専門分野として学習しない限り,なかなか大事なところは教え切れないということから考えますと,専門家が直接学校に行って現場の空気を吸いながらそこで生徒に教えるということと同時に,我々教員にもそのことを学ぶ場を提供していただくことも大切かなと思います。今,非常に教員の研修の機会が広がっておりますので,都合の良い話ですが,そういったところで是非教えていただいた方が,より波及効果があるのかなということを感じています。
 ちょっと話はずれるのですけれども,先ほどいかに生徒たちが主体的に法にかかわっていくかということが言われたと思うのですけれども,我々,現場にいて感じるのは,それは何も法に関することだけではないなと思います。最近の子供たちを見ていても,生活の様子を見ていても,家族においても,それから地域社会においても,最近は学級においても,生徒自らが何かに対して主体的にかかわる力というものが弱くなったなと感じています。
 先ほど土井座長の方から「自分の考えを主張し,耳を傾け話し合って,そしてある結論を出す。またそれと同時にお互いを尊重し合っていく」というような考え方が述べられたわけですが,これは考えてみれば教育の根本ですよね。そういったものを現実的に生徒たちが学ぶ場が非常に減っていると感じています。どういうことかと言いますと,昔ですと「学級自治会」や「学級会」というのがよく行われていました。自分自身の小中学校の思い出としても,そういった議論をする場が多くあった。しかしそれが,今は非常に少なくなっているという現実があります。このことは,社会科という教科の問題というよりも,「特別活動」に深く関わることとは思うのですが,「学級会」のような場が減ってきているということも,学校における生徒の主体性の育成ということを考えるときに,問題の一つにはなるかなということを感じました。
 最後に,判例を授業で活用するという実践についてですが,これはすばらしいなと思いつつも,実際に判例を授業に持ち込もうとすると,法律が難しいという問題に突き当たります。これは中学生でも,高校生でもかなり理解できないのではないでしょうか。法律の表記自体が難しい。ですから,その辺を考えたときに,判例の活用の良さを感じつつもなかなかそれに踏み切れないのです。判例だとか法の条文そのものの難しさということも,判例学習があまり実践されない理由になっているのかなと感じています。

土井座長 どうもありがとうございました。
 実務家の観点から,西山委員。

西山委員 私の立場からして検察官,検事という実務家としての役割はどうかという問いがあり得ると思うので,その点について簡単に触れますと,私がイメージしている,ここで議論すべきであろう法教育というのは,基本的には「法とは何か」とか「ルールとは何か」というところから始まるのではないかと思っております。そういった観点からすると検察官という職種がかかわっている法律の分野というのは,「法とは何か」というふうな基礎的なところからみると,非常に狭い一分野に過ぎないのではなかろうかというふうに私自身は印象を持っています。ただ,これを更に広げると,法教育の本を私も拝見した中でこういった分類があって,「正義」の分類の中に「匡正的正義」あるいは「手続的正義」といった部分がありまして,それはもちろん刑事司法にかかわる部分ですので,それを教えるについて検事あるいは検察官としての役割というのはある程度あるのではないかというふうに思っています。
 それともう一つは,広く法律実務家という立場,つまり検事,検察官ということではなくて法律実務家ということで当然法律的な素養を備えており,実務で人と接して仕事をしている人間ですので,そういう生身の題材として学校に行って話すということ,これは一つのやり方としてあるのではないか,お役に立てる部分があるのではないかというふうに考えています。事務局の方で御紹介した検察の取組みの中でもやはり,生身の検事を見せる,生身の検察官を見せるといったところがポイントというか,そういった点に着眼してやっている部分がかなりあるのではないかと思っています。

土井座長 どうもありがとうございました。
 御指摘のとおり裁判官,検察官,弁護士あるいは司法書士という各職種としてという問題の立て方と,法律家あるいは法律に携わる者としてという,より一般的な議論の仕方とやはり,両方あろうかというふうに思いますし,またそのかかわり方についても教材の段階あるいは教授方法の開発の段階で協力をしていくというやり方と,実際の教室においてという問題の設定の仕方といろいろなやり方があろうかと思います。また実際に実施していく上では,現実に何ができるかという問題と,将来的にどういう方向で検討すべきかという点もあろうかと思いますので,実務家の関与の在り方等についても議論をしていただければと思います。
 個人的に,今後の進め方というふうにしてイメージしておりますのは,先ほども少し申し上げましたけれども,法教育の全体像をどういう形で考えていくか,あるいは理念ですとか,ビジョンですとか,あるいは小中高全体にわたってどういうふうな方向で位置付けていくかという一般的な議論をするという必要もあろうかと思いますし,同時に我々は何を目指しているのかということを打ち出すためには,具体的な教材あるいは具体的な教授方法という実に見える形で,「これがやりたいんだ」,あるいは「これはやるべきなんだ」というものを示していくという,この両輪が必要だろう。それと同時に現実にどこから取りかかるかということと,長期的に見て何を目指すかというような視点も必要かと思いますので,そういう点を踏まえながら今後,各委員で議論をしていただき,お考えいただければというふうに思います。
 それでは,少し時間が過ぎましたけれども,本日はこの程度とさせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。
 次回は,本年11月26日,水曜日,午後2時から最高検察庁大会議室におきまして,研究会の開催を予定しております。
 次回の内容は,現場の先生方をお招きして,法教育についての公聴会を行いまして,率直に現場のお声をお聞きしたいと思っております。事務局の方で,委員の先生方が担当されております法教育のビデオを準備されているということですので,これらの授業の様子をビデオで見ていただいた上で,現場の先生方との意見交換を行いたいと思います。
 なお,次回の会場となっております最高検察庁大会議室は,この隣の建物,10月29日の第3回を行った場所と同じということですので,お間違いのないようにお願いいたします。
 それでは,本日の議事はここまでにしたいと思います。本日はありがとうございました。

閉会