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シリア

シリアでは、2011年3月中旬、「アラブの春」(注13)の影響が波及し、シリア各地で大規模な反政府運動が続発するとともに、多数の反体制派勢力が設立された。反体制派勢力の一部は、同年7月、シリア政府軍からの離反者を指導者とする反体制派勢力の連合体「自由シリア軍」(FSA)を立ち上げ、政権打倒を目指す姿勢を明らかにした。

また、イスラム過激組織である「イラク・イスラム国」(ISI)(現「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL))は、シリアでの勢力拡大を目指し、「ヌスラ戦線」を設立した。「ヌスラ戦線」は、FSAと協同するなどし、2013年までに北西部・イドリブ県、北部・アレッポ県等を事実上の支配下に置いた(注14)

さらに、2013年半ば以降、方針の違いから「ヌスラ戦線」との関係が断絶したISILは、独自にシリアで勢力を拡大させた。

このようなシリア政府軍と反体制派勢力との戦闘、FSA、「ヌスラ戦線」、ISILによる都市の占領やテロ行為は、数多くの死傷者、国内避難民及び難民を生み出し(注15)(注16)、シリアは、今なお不安定な状況が続いている。

(1) 「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)

2013年にシリアでの活動を拡大させた「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)は、北部・ラッカ県、東部・デリゾール県等に支配地域を構築した。2014年には、「自由シリア軍」(FSA)等の反体制派勢力や「ヌスラ戦線」と本格的に衝突し、他勢力から新たに支配地域を奪取したほか、敵対する勢力や地元部族を降伏させ、自組織に統合し、勢力を一層拡大させた。

しかし、2015年8月以降、米国主導の有志連合による空爆が強化されるとともに、シリア政府を支援するロシアによる空爆も開始されたことに加え、米国等の支援を受けた「シリア民主軍」(SDF)(注17)及びトルコの支援を受けた反体制派勢力による攻勢を受け、ISILは、支配地域を相次いで失っていった。

2017年には、ISILの劣勢が顕著となり、2月に北部・アレッポ県アル・バーブを失ったのを皮切りに、10月に、ISILが「首都」と称した北部・ラッカ県ラッカを失い、11月にデリゾール県アブ・カマルを失うなど、多くの支配地を喪失した。2018年に入ってからも、首都ダマスカス南部、南部・スワイダー県、デリゾール県ハジン等から撤退し、2019年3月、最後の支配地であった東部・デリゾール県バグズを喪失したことで、ISILはシリアにおける全ての支配地を喪失した。

しかし、ISILは、その後も、主に、デリゾール県及びラッカ県を流れるユーフラテス川沿いや中部・ホムス県等に広がる砂漠地帯において、治安部隊やこれに協力する市民等を標的とするテロを実行(注18)した。2022年1月には、北東部・ハサカ県ハサカのアル・シナア収容所を約200人の集団で襲撃して一時収容所の一部を占拠し、ISILメンバー100人から300人を脱走させるなど、支配地喪失以降で最大の襲撃事件を引き起こした。

(2) 「タハリール・アル・シャーム機構」(HTS)(元「ヌスラ戦線」)(注19)

後に「タハリール・アル・シャーム機構」(HTS)を名のることになる「ヌスラ戦線」は、シリアにおけるアサド政権に対する反政府運動発生後の2012年1月、「アルカイダ」の関連組織であった「イラク・イスラム国」(ISI)(現「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL))の支援を受けて、アブ・ムハンマド・アル・ゴラニを最高指導者として設立された(注20)。「ヌスラ戦線」は、設立以降、首都ダマスカス等で治安機関施設を標的とした自爆テロ等を実行するとともに、反体制派勢力と連携してシリア政府軍の施設等を襲撃・占拠すること等により、次第に反体制派内で有力組織の一つとして勢力を拡大し、シリア北西部・イドリブ県、北部・アレッポ県、中部・ハマ県、東部・デリゾール県等に事実上の支配地を有するようになった。しかしながら、東部・デリゾール県に有していた支配地の多くは、勢力拡大に伴って、「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)との衝突が本格化した2014年6月以降、ISILに奪われた。

その一方で、「ヌスラ戦線」(HTSを含む)(注21)は、2015年、他の反体制派勢力と共に、北西部・イドリブ県、北部・アレッポ県等でシリア政府軍との戦闘を続け、同年3月には、イドリブ県イドリブを占拠し、2017年7月頃までに、北西部・イドリブ県から「アハラール・アル・シャーム・イスラム運動」(注22)等の反体制派勢力を排除してイドリブ県をほぼ制圧した。 しかし、北部・アレッポ県等にHTSが有した支配地は、2017年まで対ISIL掃討作戦に重きを置いていたシリア政府軍が、ISILの退潮を受け、徐々に対HTS掃討作戦を強めたことにより縮小した。

また、北西部・イドリブ県に隣接するハマ県北西部の支配地についても、2019年5月に、シリア政府軍との激戦の末に喪失し、さらに、イドリブ県南部の支配地も、2019年8月に、ロシア空軍による激しい空爆を受け、喪失した。

このようにHTSの支配地が縮小する中、HTSは、支配地の維持及び喪失した地域の奪還のために、「国民解放戦線」(NLF)(注23)と共闘し、シリア政府軍に対抗した。HTSは、2020年に入ってからも、シリア政府軍の進攻に対抗したが、イドリブ県南部及び東部並びにアレッポ県西部の支配地を失うなど劣勢が続いていた。しかし、同年2月末、シリア政府軍によるイドリブ県のトルコ軍拠点への攻撃を機に両軍による戦闘が発生し、シリア政府軍に大きな被害が発生した(注24)ことから、同年3月、トルコと、シリア政府を支援するロシアが停戦に合意し(注25)、シリア政府軍の進攻は中断された(注26)

それ以降、HTSとシリア政府軍との大規模な戦闘は発生しておらず、イドリブ県南部では小康状態が続いている。

他方、イドリブ県の北側に位置するアレッポ県アフリン一帯では、2022年10月初旬、「シリア国民軍」(SNA)(注27)を構成する「ハムザ師団」(注28)と、同じくSNAを構成する「レバント・フロント」(注29)等との間で衝突が発生した。同衝突を受け、HTSは、良好な関係を築いていた「ハムザ師団」側に加わり、「レバント・フロント」等と交戦し、アフリン一帯を一時占拠したが、同月21日、トルコ軍が介入して停戦合意が成立し、HTSは、アフリン一帯から撤退した。

(3) 「アルカイダ」

「アルカイダ」は、「ヌスラ戦線」と「イラク・レバントのイスラム国」(ISIL)の関係が断絶して以降、アブ・ハイル・アル・マスリ(注30)等の「アルカイダ」の主要メンバーを「ヌスラ戦線」に派遣し、組織運営に関与した。また、これとは別の動きとして、アフガニスタン等からシリアにメンバーを派遣し、「ヌスラ戦線」が支配する地域において、「ヌスラ戦線」メンバーから独立して活動するグループを形成し、シリアに流入した外国人戦闘員(FTF)を対象にした募集活動、欧米諸国を標的としたテロ実行のための爆弾の開発、製造を行っていたと指摘された(注31)

しかし、「ヌスラ戦線」は、ロシアがシリア政府への軍事支援を強化して以降、支配地が縮小するなどし、勢力拡大の観点から反体制派勢力との統合の必要性を強く認識していったと指摘される(注32)。こうした中で、反体制派勢力から「アルカイダ」との関係断絶を迫られ、2016年7月、「アルカイダ」からの離脱を発表した。

これに反発する親「アルカイダ」派は、「ヌスラ戦線」(「ファテフ・アル・シャーム機構」(JFS)や「タハリール・アル・シャーム機構」(HTS)を含む)(注33)を脱退し、複数の親「アルカイダ」組織を設立した。その後、16の親「アルカイダ」組織等が、2018年2月に「フッラース・アル・ディーン」(HAD)が設立されたことを機に、HADに合流した。HAD最高指導者には、「アルカイダ」古参メンバーのアブ・ハマム・アル・シャーミ(注34)が就任し、HADは、事実上の「アルカイダ」関連組織(注35)となった。

HADは、同年11月、「アンサール・アル・イスラム」(AAI)(注36)及び「アンサール・アル・ディーン」(注37)と共に、連合体「信仰者激励作戦室」を設立し、北部・アレッポ県、中部・ハマ県等でシリア政府軍に対する攻撃を実行するようになった。

シリア政府軍に対する攻撃を継続したいHADは、2020年3月のトルコとロシアによる北西部・イドリブ県における停戦合意(注38)後も、親「アルカイダ」組織と共に新たな連合体「固く持せよ作戦室」を設立(注39)し、シリア政府軍に対する攻撃を仕掛けた。しかし、停戦合意を維持したいHTSからの圧力(注40)や米軍による相次ぐ幹部殺害によって「固く持せよ作戦室」の活動は停滞し(注41)、HTSが支配する北西部・イドリブ県での活動はほぼ不可能な状態になったとされる(注42)

このように北西部・イドリブ県での活動が不可能となる中、HADは、2021年1月、北部・ラッカ県において、ロシア軍の拠点に対する自爆テロを実行したほか、同年8月には、首都ダマスカスで発生した軍用バスの爆発事件について犯行声明を発出した(注43)

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