震災下の心理相談活動
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- はじめに
避難所となった神戸少年鑑別所
大地震発生 被災地の少年鑑別所 神戸少年鑑別所が避難所に
避難所での生活 その後の避難所心理相談活動の開始
心のケアの必要性 派遣された心理技官の動き心理相談活動の経過
混乱の中で
避難者へのアプローチ 病気のまん延 気力を失った人々
元気すぎる人々 心のケアと生活のケア 集団生活のストレス
自立に向けて
被災体験の受け入れ 高齢者や乳幼児へのケア 残された課題心理相談活動を終えて~活動体験からの提言~
柔軟に動くこと 被災者の集団力動への配慮
援助する側のセルフケア 最後に
はじめに
平成7年1月17日に淡路島及び阪神地区を襲った大地震は、社会全体に大きな衝撃を与え、様々な問いかけをするものとなった。そして、眼前の事態をどう受けとめ、これにどうかかわるか、自分たちに何ができるのかを、それぞれの立場で考え、動いた人々は多かった。
われわれの心理相談活動も、このような社会全体の動きと連動している。地震の直後、被害の最もひどい地域に位置する神戸少年鑑別所に、100人を越える地域住民が避難し、非常にストレスの多い集団生活を送っていることを知った時点から、同所を拠点とした心理相談活動の計画が具体化した。そして、全国の少年鑑別所や拘置所などで、非行や犯罪の心理臨床に携わっている職員の中からベテランが選ばれ、現地に派遣されて活動が始動した。現地では、基本的スタンスを心のケアに置きながら、ともかく「力になる」ことを最優先して考え、動くことをモットーとした。
この記録は、こうした心理相談活動が一段落したことを契機に、被災地での活動の中で体験したことや感じたこと、考えたことをお伝えすることができればという思いから、まとめられたものである。
被災地では今もなおすべてが進行中であり、心のケアも依然として大きな問題である。本活動の体験を通して学んだことや、皆様方からお教えいただいたことをベースに、役に立つ心理相談活動の在り方を模索することが、われわれの今後の課題である。
避難所となった神戸少年鑑別所
大地震発生
1995年1月17日午前5時46分、淡路島を震源とするマグニチュード7.2の「激震」が発生し、阪神間の諸都市を襲った。直下型の大地震にみまわれた神戸市では、一瞬にしてビルや家屋が倒壊し、高架橋が落下し、延焼が相次いで住宅地一帯が焦土と化す中、死者は総計で5000人以上にも及ぶ大惨事となった。
被災地の少年鑑別所
神戸少年鑑別所は、神戸市のほぼ中央に位置する兵庫区に立地している。兵庫区は、大地震の発生源の一つとされる活断層上にあったため、被害も甚大であった。鉄筋二階建ての少年鑑別所自体は倒壊を免れたが、隣接する住宅地ではかなりの家屋が全・半壊するなど、地域住民は深刻な打撃を受けた。

神戸少年鑑別所周辺の倒壊家屋
神戸少年鑑別所が避難所に
電気・水道・ガスといったいわゆるライフラインが止まり、余震が続く中、午前7時過ぎに、毛布をかぶった地域住民数人が少年鑑別所に避難してきた。安全な場所を求める人々はその後も相次ぎ、正午には40人を越え、夜間には130人にも上った。
神戸少年鑑別所には、庁舎とは別棟の「少年相談センター」(以下センターと称する。)がある。外来の一般相談のために用意されたこの施設を避難所として開放し、殺到する人々を受け入れたが立すいの余地もない。着の身着のままで避難してきた人々への毛布の貸与や湯茶の配布に始まり、急病人の発生に伴う救急車出動の要請、避難者を受け入れたことの地方自治体への連絡と食料等の救援物資の搬送依頼など、少年鑑別所の職員は当座の対応に忙殺された。

地震の3日後、神戸少年鑑別所に派遣された神戸拘置所の給水車に並ぶ人々

地震の4日後、避難所となったセンターの玄関先で集い語り合う避難者
避難所での生活
2月に入るころから、当面の生活のめどがついた人は他の場所に移り、避難者は60人前後に落ち着いた。しかし、避難所内は依然過密状態にあり、トイレは仮設トイレ、水は給水車、食事は配給される救援物資に頼る生活が続いた。そして、避難した人々の間に、当面する危機を逃れた安どが広がったあと、次第に疲労やストレスが蓄積される中で、全国の矯正施設の心理技官が神戸少年鑑別所に派遣され、被災下での心理相談活動が始動した。
なお、当初、センターに避難した人々の男女比は男性が4割弱で女性が6割強であった。また、年齢的には40歳代が2割で最も多かったが、60歳代以上の高齢者も30人以上を数え、最高齢者は93歳の男性であった。

センター内で相談に応じる派遣職員
その後の避難所
派遣職員による組織的な心理相談活動は4月上旬に終了した。終了時点で、まだ20人前後の避難者がいたが、その人たちに対するケアは、必要に応じて神戸少年鑑別所の職員が行うことになる。
なお、兵庫県内の避難者数は1月23日の31万7千人(避難所数1153)をピークに次第に減少し、4月16日には5万1千人(避難所数642)になっている。
心理相談活動の開始
心のケアの必要性
未曽有の恐ろしいあるいは嫌な出来事に遭遇した場合、人は強烈なショックを受け、通常では図り得ないほどに心理的、身体的な変化をきたす。今回の震災はだれもが予想しなかったことだけに、ショックは更に大きかったと言えよう。多数の人々が、生命と生活の安全を求めてやむなく避難したが、その人たちの心理状態は、プライバシーが保てない非日常的な集団生活に陥ったことも加わって、不安定にならざるを得なかった。心理学・精神医学に携わる多くの者が神戸や淡路に集まって心のケアを行ったのはこれまた未曽有の事だが、今回の震災では、それだけ大勢の人々が傷つき、その傷ついた心がいやされなければならない状況が出現したわけである。
神戸少年鑑別所にも、避難した人々に対するケアを行うために、全国の矯正施設から心理技官が派遣された。
なお、派遣された心理技官は臨床経験が豊富な者が選ばれたとはいえ、被災地での心理相談は初めての者がほとんどである。急きょ関連領域の文献を集め、研究会等に参加し、また収集した文献や資料を相互に交換して災害時の心理やケアに関する知識を吸収するなど、限られた期間ではあったが、事前準備に日夜を費やした。
派遣された心理技官の動き
平成7年2月6日から4月3日までの期間、近畿地方をはじめ関東・中部・中国地方の矯正施設から心理技官が2名ずつ(活動の後半は1名ずつ)派遣された。派遣された職員は、1週間、神戸少年鑑別所に泊まり込みで、相談活動を行った。相談活動の実施結果はファイルにつづってその後の相談活動に役立てるほか、派遣職員の交替日にはこのファイルを囲んで綿密な引継ぎを行った。
心理相談活動の経過
混乱の中で
避難者へのアプローチ
センターで心理相談活動を始めるに当たって、私たちはまず避難者一人一人の心や身体に何が起きているのかを調査し、深刻な問題には緊急に援助することにした。
ただし、初対面の段階で、いきなり悩みや心配事を尋ねても、表面的に受け流されたり、かえって反発を招いたりしかねない。事実、私たちも最初は、「何をしに来たのか」というような、けげんな表情をされることが多かった。
したがって、当面は、担当者ができるだけ長時間センター内にとどまり、避難者の雑談に加わったり、荷物運びを手伝ったりしながら、関係を深めると共に、元気のない人、不安や緊張の強い人をチエックすることに重点を置いた。そして深刻な問題をもった人には、機会を見ては短時間でも話を聞き、心情を把握するとともに、カウンセリングを行ったり、精神科医に紹介するなど、必要な援助を与えた。
病気のまん延
人々の生活は大体において自律的で節度が保たれており、表面だってはそれほど問題がないように思われた。しかし、相談活動を始めてすぐ、かなりの人が風邪を引いており、特に高齢者の症状が重いことが分かり、数人が近くの病院に入院することになった。また、入院には至らなくても、高血圧、心臓疾患などの身体疾患をもった人もかなり見られた。強いストレスの中で持病が悪化しても、差し当たっての生活に追われ、医者に通うだけの余裕をもてない人が多かったからであろう。
気力を失った人々
相談活動が軌道に乗り始めると、避難者一人一人の抱える心の問題が、次第に浮かび上がってきた。まず目に付いたのは気力を失い、ぼう然としている人たちであった。特に高齢者にはこうした傾向を示す人が多く、中には人との付き合いを避け、一人でぼんやりしている人もいた。
しかし、そのような人たちも、こちらから声をかけ、あいさつやちょっとした立ち話を繰り返すうちに、次第に「もう二階建ての家には住みたくない」「危なかった。ちょうど倒れた家具の隙間に入ったから助かった」などと今回の恐怖体験について語り始めた。また、それにつれて表情も和らぎ、思い出話をしながら笑顔を見せるようにもなった。
元気すぎる人々
表面上問題なく見える人でも、内面には震災の傷跡が残っていることが多かった。例えば非常に活動的で進んで周囲の世話をしている人、あっけらかんとのんきに構えているような人でも、よく話を聞いてみると、しばしば不眠に悩んでいたり、建物の振動に過敏に反応したりしていた。活発に行動することで不安を忘れようとしている人、ショックや疲れを自覚できずにいる人がかなりいたからであろう。
そのような人たちには、無理をせず、できるだけ休息するよう助言したり、巡回医療の受診を勧めたりすることが多かった。それでも「元気にやってます」「くよくよしても仕方ない」などと頑張り続ける人が見られたが、そんな人ほど、いったん張りつめていた気持ちが緩むと非常に消耗した表情を見せがちであった。
心のケアと生活のケア
人々の抱える心の問題は実生活上の困難と複雑に絡み合っており、心理的なケアだけで解決するものではなかった。例えば仮設住宅の抽選、自宅の取り壊し、親族や友人の来訪、救援物資の到着など、何か状況が変化するたびに、人々の心情は刻々と変化し、昨日まで元気だった人が急に自分の殻に引きこもってしまったり、逆に一転して前向きの姿勢を見せたりした。
したがって、心理相談を行うに当たっては、そのような生活の問題にも対処するため、住宅、福祉、医療などを担当する諸機関とも密接に協力する必要があった。
集団生活のストレス
更に問題を複雑にしたのは、集団生活のもたらす影響である。様々な問題を抱えた人々が、ほとんどプライバシーのない状態で一緒に暮らしているため、そこでは何でもないことが非常に気になったり、小さな行き違いに過敏に反応したりする危険がある。もちろん普段は、避難者同士が協力し合い、いたわり合って生活しており、雰囲気も穏やかなことが多かった。しかし、救援物資の配分や部屋の割り振りなどについて、何かいさかいが起こると、一挙にエスカレートし、センター全体の雰囲気もとげとげしくなってしまうことがあった。その際、すばやく介入し、中立的な立場で調整を図るのも、担当者の重要な役割の一つであった。
期待された多くの役割
このように相談活動で取り扱う問題は多岐にわたっていたため、担当者は苦情処理係、カウンセラー、叱られ役、仲裁者、ケースワーカー、管理人等々、様々な役割を果たさざるを得ない。自分の役割を狭く限定せずに、バランスを失わない範囲で、柔軟に対応してゆくことが必要であった。また対人トラブルを仲裁するために、ケアチームの一人がある程度指導的な役割を果たし、もう一人が聞き役に徹するなどチームプレーが必要となるケースも多かった。
自立に向けて
震災体験の受け入れ
パニックが過ぎ去り、人々がそれぞれの道を歩み始めると、心の問題にも変化が生じる。
面接の場面でも、避難者は震災の体験が生々しく思い出されるのか、倒壊した自宅の前で動けなくなったこと、助け出された女の子が病院に着く前に死んでしまったこと、前日まで一緒にいた友達が亡くなったことなどを深い感情を込めて語り始めた。震災以後張り詰めていた気持ちが緩み、恐怖体験を受け入れる心の準備ができてきたものと見られる。また、そのようにして表現することで、不安や動揺が軽減され、気持ちが整理されいくようでもあった。
そこで担当者は、ひたすら聞き手となり、時間をかけて人々の気持ちを受けとめるよう努めた。体験者しか分からない部分が常に残ることは致し方ないが、できる限り共感しようとしたことで、幾分なりとも援助ができたと考える。しゃべって気持ちが落ち着いた、すっきりしたと話す人も数多く見られた。
高齢者や乳幼児へのケア
生活上の問題も変化し始める。自宅の再建に取り掛かったり、職場に戻ったりして、自立して行く人がいる一方で、一人暮らしの高齢者や乳幼児を抱えた母親など、自立が難しい人もいる。そのような人々を助けることが、相談活動の大きな役割となった。
センターには仮設住宅への入居や施設への入所の情報が各方面からもたらされるが、高齢者は、それを十分に理解したり、これに積極的に応募したりできないことが多い。手続きが複雑なことから、自分でできない人もいた。また、相談がしたくても、遠慮してか、黙っている人も多かった。したがって、担当者から声をかけて、他の避難者やボランティアの協力を得ながら、自立を手伝う必要があった。
親族や自治体と連絡がとれ、老人ホームに入所できた人や、早期に仮設住宅に入居できた人もあった。反対に、転居の見通しは立ったものの、引っ越しの人手がなく、困っていた高齢者にボランティアを紹介したケースもあった。他にも鍼灸師のボランティアを紹介したり、簡単な書類の代筆をしたりすることがあった。
一方、近隣の病院には、被災直後、いったんはセンターに避難し、そこから救急車で運ばれた数名の高齢者が入院していたので、担当者が各病院を訪れ面接した。
また、巡回した家庭では、何人かの乳幼児に「夜なき、落ちつきのなさ」などがみられた。こうした場合、乳幼児の発達に関する心理学的な知識も必要となった。多くの場合、子どもだけではなく、保護者も不安定なので、保護者と乳幼児双方に治療的な働きかけをしなければならなかった。
残された課題
この時期の相談内容は「自立への不安、先行きの不安、将来の生活設計」などが主なものとなってきた。当初、一緒に避難し生活を共にした人たちが生活の方向付けを得て、センターを去った後、残された人たちにはより深刻な将来の不安が残っている。したがって、今後の心理相談の重点は、避難者自身が現実を受け入れ、合理的に問題解決が図れるように、心理的な面で支えること、今後予期されるPTSDに対応することに置かれるであろう。
心理相談活動の実施結果
2月7日から4月3日までの間の相談実施件数は合計484件であった。相談内容は「心身の健康」「生活上の問題」「対人関係の問題」「その他」に大別されるが、その相対的な比率の推移は図のとおりである。
当初は「その他」と分類した相談件数が多いが、これは避難者とのラポール作りやスクリーニングのために実施した面接が多かったためである。全体を通して「心身の健康」に関する相談の占める割合が高く、地震後一ケ月半ころにピークに達した後も一定の水準を示している。「対人関係」に関する相談はやや遅れてピークに達し、その後は減少した。地震後一ケ月半を経過したころに、長引く避難生活で蓄積した心身の疲労や対人ストレスが自覚され、表面化したものと解される。また、「生活」に関する相談は当初から高水準を示し、生活の再建に取り組むにしたがって更に増加している。
今回の活動に対する避難者の受けとめ方を調査するためのアンケートを派遣最終段階の3月末に実施した。その結果によると、相談活動の実施については「あってよかった」「悩みごとや心身のことについて相談できて役に立った」「必要な時に話を聞いてもらえる相談相手としていてほしい」との肯定的な評価が得られた。また、地震のことを冷静に振り返ることができ、心身の状態も普段と同じに戻ったとするものが多かった。しかし、不眠、いらいら、悲しく沈んだ気分、意欲低下などを感じている人も少なからずあった。さらに、心配や悩みごととしては、家の解体と再建、仮設住宅への入居など住居に関係する回答が多かった。
アンケートの結果からは、震災のショックからある程度は立ち直ってはいるものの、長引く避難所生活の疲れや今後の生活の見通しが立たないこと、とりわけ住居の再建という解決が容易でない問題があることなどから、将来的な不安を抱え、心理的に不安定であることがうかがえる。
心理相談活動を終えて~活動体験からの提言~
柔軟に動くこと
心理相談活動の実態についてはすでに記したように、実に多岐にわたり、様々な動きを取らざるを得なかった。要するに、緊急の危機場面では、即応・即断を迫られることが多く、自分の役割は「ここまで」と線を引けるものではない。
人々は生活を立て直すための具体策に忙殺されており、例えばいきなりのカウンセリングなどは自分の現状にはそぐわないと感じ取られがちである。人々がまず必要としているのは、実際的な援助である。援助する側は、人々が受けられる公的な救済策を知った上で情報を提供する必要があり、それゆえ、医療・福祉など関係機関との連携も行った。
ただし、いわゆる「何でも屋」としての動きができる柔軟性を有しつつ、基本的には、災害時の心理状態についての専門的な知識の裏付けが重要である。その知識によって、被災者個人や集団の心理を理解でき、多岐に及んだ心理相談活動が実施できたのであり、この点で心理技官が派遣された意味がある。
被災者の集団力動への配慮
援助する側の目的は、被災者ができるだけ早期に被災前の生活状態に戻れるように、自立を手助けすることにある。したがって、被災者の集団が自立に向けた健全な雰囲気や状態を保てるように調整していくことが役割の一つになる。
また、個人に対する相談活動を行う場合にも、現在その人が集団内で置かれている状況やその人を含めた周囲の人間関係を把握していないと、その心理状態を理解したとはいえない。
注意すべき点は、危機場面への一時的な介入がやむを得ないとしても、長期的には被災者自身の自己管理能力を引き出すことに心掛ける等、側面から援助する動きをとる方がよいということである。
援助する側のセルフケア
破壊された家屋を目の前にしたり、悩み苦しむ人々に接する中で、援助する側が、自分に何ができるのだろうかという無力感や自責の念に襲われることがしばしばある。場合によっては、被災者からやり場のない怒りや不信の目を向けられることも考えておかなければならない。
また、今回の心理相談活動は各派遣チームが交替しながら、宿泊形態の24時間体制で行った。かなりのハードスケジュールの中では、自分自身がストレスを生じているという自覚をもてず、オーバーワークが高じて苛立ってきたり、不適切な介入をして被災者の生活を混乱させてしまうおそれが出てくることさえある。
したがって、援助する側にも自己管理能力を維持するための、様々な配慮が必要不可欠である。特に初期の混乱期には援助チームという複数体制をとることは大切で、この「仲間内」で励ましあったり、互いに今何を感じ考えているかを話し合ったりすることで、セルフケアは多少とも可能になるであろう。
更に付け加えれば、軽視されがちなことではあるが、休息を十分にとることなども、こうした宿泊方式の仕事の形態では重要な配慮の一つである。
最後に
センター並びにその周辺の被災者に対する長期的なケアは、今後は主に神戸少年鑑別所の心理技官が一般相談活動の一環として担うことになろう。
一方、今回のような大災害に対する即応体制づくりが課題として残っており、災害時により迅速かつ大規模に今回のような援助チームを派遣できる準備を整えておく必要がある。
- 少年鑑別所とは
- 昭和24年の少年法及び少年院法の施行により発足した法務省所管の施設で、各県庁所在地など全国53カ所に設置されている。
主として家庭裁判所の決定により送致された少年を最高4週間収容し、非行に走るようになった原因や今後どうすれば健全な少年に立ち戻れるのかを、医学、心理学、社会学、教育学等の専門知識や技術によって明らかにし、その結果を家庭裁判所に送付して審判等に資するのが任務である。
本文へ戻る - 少年相談センターとは
- 少年鑑別所では一般市民からの、非行や教育にかかわる様々な相談にも応じている。こうした相談活動のために備えられた一般相談室を、神戸少年鑑別所では「少年相談センター」と称しており、談話室やプレイルームがある。
本文へ戻る - 心理技官とは
- 法務省所属の心理学の専門家は、通常は心理技官と称しているが、正式には法務技官という立場にある。心理技官の日常業務の中心は、非行や犯罪に至った人々の鑑別・分類である。面接、心理検査、行動観察等を行って個々の資質や環境等の特質及び相互関係をとらえ、どのような原因で非行や犯罪に至ったかを分析した上で、改善のための方針を立て、具体的な手立てを提示することが任務となる。
また、心理技官は一般相談も担当しており、相談内容に応じて、カウンセリングや箱庭療法などを実施している。
本文へ戻る - PTSD・PTSR
- 被災者の心理状態を理解するためには、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)あるいはPTSR(Post Traumatic Stress Reaction)という概念が有効である。それぞれ「心的外傷後ストレス障害」、「心的外傷後ストレス反応」と訳され、天災などの恐怖体験により心理的に深い傷を負った後に生じやすい症状・反応であり、恐怖体験によって著しい不適応状態に陥った場合をPTSDと言い、障害とまで言えない状態をPTSRと言う。
PTSD(PTSR)の心理状態は3段階に変遷していくとされ、まず、第1段階では、心的外傷直後のパニック反応が過ぎて過度に敏感な情動反応が生じやすくなる。普段ならなんでもない刺激でも怒りや落胆の情動が容易に現れる。相談活動を開始した時期には、まさにこの反応が見られた。極めて常識的に振る舞っていた成人が相手のさ細な行動に敏感に反応し、急激な怒りをぶつけたり、その後急に泣き沈むという極端な情動反応を示したことがある。集団力学的には、かたくなな対立状況や利己的行為が見られ、スケープゴートを作るといった社会的に未熟な行為も認められた。
第2段階では、外傷体験のフラッシュバック(flash back)が生じ、このことでストレスが更に強まる。今回の相談活動の対象となった避難者の場合は、比較的早い時期に周りの者との震災体験を話し合い、恐ろしい体験を心の中で整理して心理的安定を図ろうとする行為が認められた。また、多くの人が緊張と過活動を示す中で、うつ状態に陥る人もあり、そのような人たちの中には表に出さずともフラッシュバックなどに悩まされている人がいた可能性もある。
第3段階では、このようなストレスが重なって人格変容をきたす。ただし、本相談活動を実施した期間内では、このような事例は認められなかった。